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■ 福音メッセージ ■


■ 2017/12/10 (日)
 [題]
「感謝− 異邦人を救いに導くとき 」
 [みことば]
『主イエスを信じなさい。』 (使徒16:31)
 [ショート・メッセージ]
◆使徒16:31にパウロとシラスが牢の看守に言ったことばが記録されている。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」。『主イエスを信じなさい』と言われたとき、幼い時から旧約聖書を学び続けて来たイスラエル人たちならば、<イエス様が旧約聖書で四千年に渡って約束され続けているメシヤである>と信じることだとすぐに理解できるが、<旧約聖書を知らない中で育った異邦人>は全く意味がつかめない。この事実を認識し理解しなければ福音宣教の働きは常に実を結ぶことなく、お祭り騒ぎで終わることとなる◆「主イエスを信じなさい」とは、何を信じることなのかを丁寧に伝えなければならないのだ。イエス様が神様の御子であられ、全人類の罪が神の前に贖われ、赦され、神との和解が成立するために十字架に架かって死なれ、神の約束に基づいて三日目によみがえられたという、歴史的事実を信じ受け入れることである◆しかしそれにはまず、生けるまことの神の存在を知ることから始めなければならない。異邦人は偶像の中で育ってきた者たちだからだ。イエス様に関する知識を認めたことは信じ委ねたことにはならない◆そのため異邦人である看守が「先生方と同じようになるためにはどうしたらよいのですか」と言ったとき、パウロとシラスはその看守の家の者全員に、神のことばを教え導いたのであった。異邦人を救いに導くときは、最善の注意を払わなければならない。

■ 2017/12/03 (日)
 [題]
「感謝− 生まれつき盲人の目のいやし 」
 [みことば]
『あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。』 (ヨハネ9:25)
 [ショート・メッセージ]
◆イエス様と弟子たちは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた(ヨハネ9:1)。あわれみのまなざしを向けられるイエス様と違って、弟子たちはその不幸な盲目人生を生きるようになった原因はどこにあるのかと詮索し始めた。目の前に盲人本人を置いたまま、『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれのせいですか。この人ですか。その両親ですか』。当人にとってみれば失礼なことだ。しかしイエス様はそのことを通して真理を教える場をなさった。『この人が罪を犯しのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです』◆世の人造宗教界が盛んに利用する「因果応報論」ではなく、イエス様は真理を説き明かされた。すなわち不幸と思う出来事を通して神は、<永遠の救いへと導いてくださる>というのである◆神に目を向けよ。そこでは悲しみが喜びに変えられ、嘆きが感謝に変えられ、愚痴が歌に変えられる。神のことばに耳を傾けよ。歩くべき道へと導かれ、数えきれないほどの宝に気づかされる。神よ、『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です』(詩篇119:105)◆その後あの盲人はイエス様のことばに従って行動すると、目が見えるようになったのである(ヨハネ9:7)。イエス様を妬み悪く言いふらす宗教の専門家に彼は証言して言った。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」(同25)。

■ 2017/11/26 (日)
 [題]
「感謝− 神の御力に与る 」
 [みことば]
『みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』 (ヤコブ1:22)
 [ショート・メッセージ]
◆イエス様はエルサレムに向かわれた。その途中でサマリヤとガリラヤの境を通られた(ルカ17:11)。ある村に入られると10人のツァラアト(らい病)に冒された人たちがイエス様と出会い、失礼にならないように遠く離れた所から叫んで言った。「イエス様、私たちをあわれんでください」(13)。イエス様は彼らに言われた。「行きなさい。そして自分を見せて祭司に診断してもらいなさい。」 彼らは行く途中できよめられたことを知った。10人のうちのひとりはいやされたことを自覚すると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエス様の足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人だった(16)◆そこでイエス様は言われた。「10人全員がきよめられたのではないのか。あとの9人はどこにいるのか。神をあがめ感謝するために戻って来た者は、この異邦人のほかにはだれもいないのか。」(18) それからそのサマリヤ人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」(19)◆神の御力に与り、神の不思議を体験するなら、神をあがめ、ほめたたえずにはおられない。聖書の知識を蓄えるのは良い。しかし、神のことばに聞き従い、それを実行して生活するすることを後回しにするなら、神の御力にあずかることはできない。『みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』(ヤコブ1:22)

■ 2017/11/19 (日)
 [題]
「感謝− 神に感謝する異邦人ヨブ 」
 [みことば]
『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』 (Tテサロニケ5:16〜18)
 [ショート・メッセージ]
◆ウツの地にエドム人ヨブがいた(ヨブ記1:1)。彼は異邦人であったが、『潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた』(同1)。彼は私たちと同じ異邦人だったが、人格的に神を恐れていたので、悪から遠ざかっていた。クリスチャンと呼ばれる者の中にも、聖書の知識はあっても理屈は知ってはいても、神を人格的に恐れていない者がいる。そういう知識だけのクリスチャンは、今でも罪を楽しんでいる。神を霊的に知らないので、平気で罪を犯せるのである◆しかしヨブは違った。6節に『サタン』が登場するが、神との正しい関係にあるヨブをサタンは嫉妬し、ヨブを神との交わりから引き離そうと策略を練り、神に申し出た。『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。・・・あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません』(9〜11)。そこで主はサタンに仰せられた。『では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない』(12)◆するとすべての禍が次から次にヨブに降りかかった。@ヨブの家の働き人がシェバ人に虐殺された(15)。A雷によって羊と働き人が焼け死んだ(16)。Bらくだと働き人が殺された(17)。C暴風により息子娘が亡くなった(19)。この知らせを受けたヨブは、それでも神を恐れ、神の御手にゆだねて言った。『主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな』(21)◆『ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった』(22)

■ 2017/11/12 (日)
 [題]
「感謝− 神に感謝せよ」
 [みことば]
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。・・・ただひとり、大いなる不思議を行われる方に。その恵みはとこしえまで。』(詩136:1、4)
 [ショート・メッセージ]
◆礼拝とは、<神への感謝>を言い表す交わりの時である。『主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。・・・ただひとり、大いなる不思議を行われる方に。その恵みはとこしえまで。』(詩136:1、4) 全被造物の中で唯一、神の愛の対象として存在している人間への計り知れない神の恵みを実感し、溢れるばかりの感謝の言い表しを<祈り>という。私たちの祈りは感謝であり、願いも感謝に基づいたものであり、とりなしも感謝から生まれたものである。みことばを通して神と触れ合うことがなければ、感謝は生じない◆パウロとシラスは、ピリピの獄舎にあって『神に祈りつつ賛美の歌を歌って』いた(使16:25)。どのような境遇の中にあっても、常にそばにおられ、導いておられる神への感謝は尽きない。そのとき突然、不思議が起こった。大地震だ。獄舎内のすべてのとびらが開くほどの地震であった。さらに不思議が起きた。囚人たちは一人も逃げもせず、二人の祈りに耳を傾けていたのだ。そしてさらなる不思議が起きた。看守が救われたのである◆『看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた』(同33)。そして『全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ』(同34)。神よ。あわれみ深く、恵みに満ちておられるあなたを、心より感謝いたします。

■ 2017/11/05 (日)
 [題]
「質疑応答− (メシヤ誕生の知らせが羊飼いに告げられたのはなぜ) 」
 [みことば]
『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちの者だから。』 (マタイ5:3)
 [ショート・メッセージ]
◆【Q1】メシヤがベツレヘムの家畜小屋でお生まれになったとき御使いは羊飼いに知らせた。さらにイエス様の弟子たちはガリラヤ湖の漁師たちが中心であった。その理由を教えてください。【A1】イエス様の福音は権力者たちにではなく、ユダヤ社会の底辺にいる人々に向けられた。権力者たちは自分を低くすること、すなわち謙虚になれないからだ。ルカ18章に、神殿に上ったふたりの人の譬話が記されてある。ひとりはパリサイ人で、ひとりは取税人だった。パリサイ人は宗教の指導者であるパリサイ人は心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します(11〜12)。彼は人の耳を意識しながら自画自賛し、自己満足に酔いしれていた。それに比べ取税人は目を天に向けようともせず自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』(13)。神に義と認められて家に帰ったのはパリサイ人ではなく、もちろん取税人のほうだった。『だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるから』だ(14)。自分の認めることなくして福音を受け入れることはできない。イエス様は『罪人を招くため』(マルコ2:17)に来られたお方だった。『心の貧しい者は幸いです』(マタイ5:3)。

■ 2017/10/29 (日)
 [題]
「マルコの福音書− わたしについて来なさい 」
 [みことば]
『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』 (マルコ2:17)
 [ショート・メッセージ]
◆「罪を自覚し、罪の赦しを求め、罪の力からの解放を求める者を、神は放っておかれるお方ではない」。では人はどういう自分に気づいたとき、罪を自覚することができるのだろう。それは、<自分の心から出て来る思い>(マルコ7:20〜21)に支配されて行動をしたときだ。それに打ち勝てないこと、その衝動的な行動こそが、罪なのだ。神につながることなしに、衝動的な行動を起こさせる罪に勝利することはできない。繰り返す罪によって罪責感に苦しみ続け、赦しを求めた取税人の言葉がこれだ。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』◆イエス様が求めておられるのは、自分の中にある心の病に気付き、罪の力からの解放を神に願う者だ。ではどうすれば、そのような思いに導かれるのだろう。答えはひとつ。イエス様にお会いすることだ。聖書を通してイエス様に会い、イエス様を知り、イエス様に聴くことだ。イエス様に会わなければ、だれも自分を悟ることはできない。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい』(マタイ11:28)◆ところで、ある日いつものように収税所にすわって仕事をしていたレビをご覧になって、イエス様は、『わたしについて来なさい』と言われた。わたしの弟子となりさい、という意味だ。するとレビは立ち上がってすぐにイエス様に従った。

■ 2017/10/22 (日)
 [題]
「マルコの福音書− 罪の赦しを宣言されるイエス様 」
 [みことば]
『子よ。あなたの罪は赦されました』。(マルコ 5:5)
 [ショート・メッセージ]
◆ガリラヤ湖の北西部の湖岸にあったカペナウムの町での出来事が、マルコ2:1〜12に記録されている。そこにペテロの家があり、そこにイエス様がおられることが知れ渡ると、群衆が集まってすきまもないほどになった。そこに四人にかつがれた中風の男の人が連れて来られたが、群衆のために中に入れなかったので、四人は屋根に上り穴をあけ、中風の人を床に寝かせたままイエス様の前につり降ろした。するとイエス様は彼らの信仰を見て中風の人に、「あなたの罪は赦されました」と言われた。するとその場にいた律法学者が心の中で理屈を言った。「この人は神を汚している。神以外にだれが人の罪を赦せよう」◆イエス様はこの律法学者の理屈を霊で見抜いて言われた。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせるために」。それから中風の人に「起きて寝床をたたんで家に帰りなさい」と言われると、その人はすぐに起き上がり、みなの見ている前を出て行った◆神の権威に満ちておられるイエス様を知り、自分の罪を自覚したペテロのように(ルカ5:8)、中風の人もまた同じであった。罪を自覚した彼は、罪の力からの解放を求めた。それゆえあわれみ深いイエス様は、罪の赦しを宣言されたのだ◆罪を自覚し、罪の赦しを求め、罪の力からの解放を求める者を、イエス様は放っておかれるお方ではない。

■ 2017/10/15 (日)
 [題]
「マルコの福音書− 自分の人生を台なしにする悪事を生み出す罪 」
 [みことば]
『また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」』 (7:20〜22)
 [ショート・メッセージ]
◆ローマ人を対象として書かれたマルコの福音書の書き出しは、『罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた』(1:4)バプテスマのヨハネの記事であった。ローマ人はモーセ律法を学ぶことのない異邦人であったため、罪の現実について明らかにしながら福音の扉を開いている。罪がわからなければ罪のさばきの怖さがわからない。罪のさばきが理解できなければ<救い>のすばらしさがわからないからだ。罪とは何だろう。◆罪とは、人生を台なしにする悪事を生み出す<悪の力>のことだ。しかし人は悪事を働く人々の世界で生きるので、悪事を働いて生きることに慣れてしまい、悪を行うことに違和感が無くなるほど、良心はあるのに麻痺している。「みんながしているから」という理由で道徳意識がますます低くなりながら大人になっていく。7章でイエス様が次のように言われた。『また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」』(20〜22)◆人の内側にあるもの、これが罪である。罪とは、人生を台なしにする悪事を生み出す<悪の力>のこと。

■ 2017/10/08 (日)
 [題]
「マルコの福音書− 悔い改めのバプテスマから始まっている 」
 [みことば]
『「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」』 (イザヤ1:18)
 [ショート・メッセージ]
◆マルコの福音書の著者マルコは、最後の晩餐に使われた家、の持ち主の子であり、”マルコ”はギリシャ名でヘブル名は”ヨハネ”であった(使12:12)。その家は初代教会の集会所としても使われていた。このような事情から彼は早い段階から福音に接し、信仰を持ち、使徒たちとは親しい関係にあった。彼はまたバルナバのいとこでもあったので、パウロの第一回伝道旅行には助手として同行した(使13:5)◆Tペテロの手紙 5:13には『私の子マルコ』とあり、ペテロを通して明確な信仰へと導かれたと思われる。伝承によればマルコはペテロの通訳者で、さらに別の伝承によれば、多くのローマ人からペテロの説教を文書にまとめてほしいと頼まれた。このことが福音書を書きまとめる直接的要因となったと思われる◆ところでこの福音書の書き出しは”悔い改めのバプテスマ”から始まっている。神に対する「罪」を認識するまで救いに与ることはできない。罪とは道徳に反する罪悪のことではない。天地万物の創造者であられる生ける神の存在を意識的に認めず無視することで、自分中心の身勝手な考え方・生き方の奴隷であり、その生き方を続けることを言う。聖書を通して神のことばに耳を傾ける以外に、罪を認識・自覚することはできない。神がわからないからである。

■ 2017/10/01 (日)
 [題]
「ルカ(人物)− 役人とザアカイを対比して書きまとめた 」
 [みことば]
『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』 (マタイ16:24)
 [ショート・メッセージ]
◆ルカは福音書の18章と19章で、一人の役人(ルカ18:18〜30)と取税人のかしらザアカイ(同19:1〜10)を対比させて記事にまとめた◆18章の「役人」は、自分にこそ永遠のいのちを受ける資格があると誇っていた。イエス様が神の戒めを示すと『そのようなことはみな、小さい時から守っております』と自信を見せたので、『あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい(弟子になりなさい)』と仰ると、役人は非常に悲しんで去って行った。たいへんな金持ちだったからだ(23)。彼もまた、「主よ、主よ」と口先で言う者のひとりに過ぎなかった(マタイ7:21)。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている』◆一方19章に出て来るザアカイはイエス様の話を聞くと、持ち物を全部売り払ってその半分は貧しい人たちに施し、だまし取った物は四倍にして返す決断をし(19:8)、取税人の職を辞し、その上でイエス様の弟子となった◆役人は自分を捨てることができなかったが、ザアカイはその道を歩んだ。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』 (マタイ16:24)。

■ 2017/9/24 (日)
 [題]
「ルカ(人物)− 信仰の本質を書き記したルカ 」
 [みことば]
『マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」』 (ルカ 1:38 )
 [ショート・メッセージ]
◆先週見たルカ5章で、漁師ペテロの経験上どだい無理と思われた「日が昇ってからの漁」を、ペテロは『おことばどおり』と言って実行に移したところ信じられない奇蹟を劇的に実体験した。そのことによってイエス様のうちに神の権威を見たため彼は、イエス様を『先生』(ルカ5:5)から、『主よ』(同8)という呼び名に変えて叫んだ。恐ろしかったのである。そして懇願して言った。『私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから』(8)。神の権威に触れたときペテロは自分の罪を自覚し、恐れつつ、心からの悔い改めに、理屈抜きで導かれたのであった◆同じ言葉を発した人物がいた。ルカが調査しているとき気づき、その言葉をしっかりと聖書に書き記した。イエス様を産んだマリヤのことである。『おことばどおりこの身になりますように』(ルカ1:38)。マリヤもまた御使いを通して神の権威に触れたのであった。それで恐れをもって自分の人生のすべてを神のご計画に明け渡す決断へと導かれた。これが信仰である◆信仰とは自分の計画を神に告げて導いてもらうことではない。『わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください』(ルカ22:42)。神の御手の下にひれ伏すことだ。『心の貧しい者は幸いです』(マタイ5:3)。

■ 2017/9/17 (日)
 [題]
「ルカ(人物)− ペテロの証言を記事にまとめたルカ 」
 [みことば]
『これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。』 (ルカ5:8)
 [ショート・メッセージ]
◆ルカ5章に書かれてある「大漁の奇跡」は、現場にいた人たちから直接聞かなければ解らない出来事で満ちている。特にペテロ本人の口から詳しく聞かなければ書けない内容であった。ガリラヤ湖で漁を営んでいたペテロは一尾も取れないまま朝を迎え、岸辺で帰り支度をしていた(2)、そんな疲れ切った中で、「小舟を少し漕ぎ出してください」とイエス様から頼まれたのである(3)。群衆がイエス様のお話を聞こうと押し迫っていたからだ◆舟の上からのお話が終わると、ペテロに「沖へ漕ぎ出して網をおろして魚をとりなさい」と言われたが、プロの漁師であるペテロは、日が上ってからは魚は湖底に沈んでしまうため漁はできないことを知っていたため、「先生。それは無理です」と断ろうとしたが、イエス様の真剣なまなざしを見て、「でもおことばどおり網をおろしてみましょう」と返事をし(5)、そのとおりにしたら、魚が網をめがけて飛び込んできて、網は破れそうになった◆この奇蹟を実体験したペテロは、自然を支配する権威を持っておられるイエス様の前に、ただひれ伏し、『主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから』(8)と震えおののいたのであった。ルカはこの証言を、記事にまとめた。神の顕現の前に、人は罪を強く認識するのだ。

■ 2017/9/10 (日)
 [題]
「ルカ(人物)− 事実と真理に輝く奇跡の書を書き上げたルカ 」
 [みことば]
『私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。』 (ルカ1:3)
 [ショート・メッセージ]
(メッセージ)◆ルカは二冊の聖書を書く奉仕に導かれた。「ルカの福音書」と「使徒の働き」だ。彼は、ルカ1:1〜3で次のように言っている。「神の子イエス様についての出来事は、初めからの目撃者である人々が伝えておりますが、私自身も綿密に調べておりますので、あなたのために順序を立てて書いて差し上げようと思います。尊敬するテオピロ殿」。ギリシヤ人のテオピロという人物から頼まれたイエス様のご生涯を、ルカは文書にまとめる使命に与ったのであった。当時、イエス様の教えとわざは際立っていたため、イエス様のうわさはユダの国に留まることなく全世界に広まっていた◆そのためルカは依頼主であるテオピロに、真実を伝えるために、非常に多くに人から証言を集め、記録して書きまとめたのであろう。1章の中だけでも、バプテスマのヨハネの両親や地元の人々、イエス様の母マリヤやイエス様の肉の兄妹、十二弟子、ザアカイや盲人バルテマイ、百人隊長やピラトなど気が遠くなるほどの大ぜいの人々を取材し、数年かけて書き上げて行ったと思われる。とてつもない労力である◆ルカは、現代においても色あせることのない「正確な事実」を、確信をもってテオピロに提示したのだ。今私たちが読み、学んでいるこの聖書は、事実と真理に輝く<奇跡の書>である。

■ 2017/9/3 (日)
 [題]
「新しいいのち− だから、悔い改めて生きよ 」
 [みことば]
『イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。─ 神である主の御告げ ─だから、悔い改めて、生きよ。』 (エゼキエル書18:31〜32)
 [ショート・メッセージ]
◆神を認識することがなければ人は、<反省と後悔>を繰り返すだけで、壁を乗り越え神のもとに進むことは不可能。<悔い改め>は霊的いのちに触れて初めて導かれる。<霊的いのちに触れる>には、聖書を通して語っておられる神の御声を、聞く耳をもって聞き続ける以外にない。恋文を受け取った人は、その手紙を食い入るように見つめ、繰り返し読んでその意味を知ろうと努める。聖書に対してそのような読み方をする者は神のいのちに触れるようになり、深い悔い改めと導かれ、真実の救いを体験する◆『なぜ、あなたがたは死のうとするのか』(エゼ18:31)とは、肉体の死後に<永遠の死>を選ぶことがないように、という意味だ。人はなぜ生まれて来るのか。聖い神のみもとに行くためだ。そのために認識すべき真実を神は聖書を通して語っておられる。人の良心は、世を生きることによって罪の影響にさらされ邪悪なものとなってしまった(ヘブル10:22)◆そのためキリストはこの世に遣わされ、悔い改めに導かれる者を<罪から解放>すべく(ロマ6:7)、十字架による贖いの道を歩まれたのだ。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』(ヨハ3:16)。

■ 2017/8/26 (日)
 [題]
「新しいいのち− 永遠の救いのご計画が明らかにされた 」
 [みことば]
『あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。』 (黙示3:1)
 [ショート・メッセージ]
◆『あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる』(黙示3:1)、と神は聖書を通してすべての人に対して警告を発し続けてこられた。アダムとエバがサタンの誘惑に負けてエデンの園を後にしなければならなくなった創世記3章以来、人は<霊のいのち>を失くしたまま地上に増え広がったのだ◆なぜ全能の神は即座にサタンをさばき、解決なさらなかったのか。それはもしサタンを葬り去るなら、サタンの罪を受け入れた人も同時に、葬り去らなければならないからだ。それゆえ神は、約束を賜った◆原福音である。『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく』(創3:15)。このサタンに対する「敵意」が、サタンと罪に強く敵対する<霊のいのち>である。このいのちが回復すると、サタンと罪に敵対し神の定めを守り行う者となると約束されている(エゼ11:20)。神はこのいのちを恵みとして与える<永遠の救のご計画>を明らかにされたのである。神は愛であられる(Tヨハ4:4〜10)。

■ 2017/8/19 (日)
 [題]
「新しいいのち− 新しいいのちにある「平安」と「希望」と「確信に満ちた人生」 」
 [みことば]
『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』 (Uコリント5:17)
 [ショート・メッセージ]
◆「花はなぜうつくしいか/ひとすじの気持ちで咲いているからだ」。これは明治31年に生まれ、29歳の若さで結核のため天に召されたクリスチャン詩人、八木重吉さんの詩です。彼は、ひとすじの気持ちで神を思い続けることを心から願い求めたに違いありません。旧約聖書に記されているアブラハム、モーセ、ダビテ、ダニエルのように、神を証する生涯を送りたいと強く思ったことでしょう◆『もも子よ/おまえがぐずってしかたないとき/わたしはおまえに/げんこつをくれる/だが 桃子/お父さんの命が要るときがあったら/いつでもおまえにあげる』。聖書を通して重吉は、神の厳しさと愛を知ったのでしょう。神の厳しさの前に己をさぐり、神の愛の前に十字架に架けられなければならなかったキリストの愛を思ったことでしょう。そしてキリストの内に導かれ、己の人生のすべてを新していただいたことを、心から喜び感謝に満ち溢れたでしょう◆神はすべての罪人に、<新しいいのち>にある「平安」と「希望」と「確信に満ちた人生」を準備しておられます。

■ 2017/8/13 (日)
 [題]
「新しいいのち− <新しいいのち>に生きる人生に変えられた 」
 [みことば]
『わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』 (ヨハネ5:24)
 [ショート・メッセージ]
◆「唇に/さぐりて小さき/桜貝」という俳句を書かれた玉木愛子さん。大阪の大きな材木商に長女として生まれたお嬢様。明治20年に生まれ、少女のころ<らい病>に罹り、家族もみんな苦しんだ。特にお母さんは瀬戸内海に身投げしようとまでしたらしい。日本で最初に熊本の黒髪町に建てられたミッション系のらい病の病院、回春(復活の意味)病院に入院したが、しばらくして足の切断手術、さらにらい菌が目に入り両目とも失明、手の指も腐敗し、触感として唯一残る唇で桜貝を感じた喜びを歌にした。「唇に/さぐりて小さき/桜貝」◆玉木愛子さんの入った病院は毎朝礼拝があり、みことばが解説された。おのずと神から信仰が導かれ、人生を主にお任せして30代で洗礼を受けた。未信者時代の古いいのちを捨て、神から与えられた<新しいいのち>に生きる人生に変えられた。「一冊の/聖書がいのち/冬ごもり」。今は冬ごもりの日々だ。いつか冬眠から目覚める復活の祝福に与るのだと、望みに満ちて聖を楽しんだ。

■ 2017/8/6 (日)
 [題]
「質疑応答− Q1:性同一性障害、Q2:第一の復活 」
 [みことば]
『しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。』 (伝道11:9)
 [ショート・メッセージ]
◆Q1:性同一性障害をどのように考えたらよいか教えてください。A1:性同一性障害(性別違和)は出生時に割り当てられた性別とは異なる性の自己意識を持つため、身体的性別に持続的な違和感を持ち、自己意識に一致する性別を求めるため、医療を望むことさえある。そのような状態をいう医学的な疾患名。異性愛に満足せず同性愛にエスカレートしていく性的快感依存症の者たちは性転換手術を望むことはしないので区別しやすい。◆Q2:『第一の復活』(黙示20:5)について教えてください。A1:第一の復活とは栄光のからだに変えられて永遠の御国に移される者が与る復活である。これに対して第二の復活は『大きな白い御座』(同11)の前に立ち、さばきを宣告されるためのものであり、『第二の死』(6)、すなわち永遠の死に至るための復活である。この者たちは神を無視し、否定し、敵対し続けた者たちである。聖書を調べると、復活は2種類に明確に分けられている。『地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。』(ダニ12:2)、『善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。』(ヨハ5:29)。非常に厳粛なことだ。神に対して無知を続けることは、致命的なことであることを肝に銘じなければならない。

■ 2017/7/30 (日)
 [題]
「箴言− その道の終わりは死の道である 」
 [みことば]
『人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。』(箴言14:12-13)
 [ショート・メッセージ]
◆神を意識しない者の歩みは、世を基準にした生き方しかできないため、自分の人生はまっすぐで正しいと思い込む。同じ箴言12:15にある『愚か者は自分の道を正しいと思う』ということば通りだ。では愚か者とはどういう者か。それはこの世から受ける価値観に振り回されて生きている者のことで、真理に基づいた確信がない。永遠への希望もなく、刹那的な生き方を続けるしかない。イエス様を裏切り、銀貨三十枚を受け取ったイスカリオテのユダがそうだ。『そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。』(マタ26:14〜15) ところがユダはしばらくして後悔した。『イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。』(同27:3〜5)◆『人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。』(箴言14:12-13)

■ 2017/7/23 (日)
 [題]
「箴言− 主を恐れることは知識の初め 」
 [みことば]
『主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。』 (箴言1:7)
 [ショート・メッセージ]
◆『主を恐れる』(箴1:7)とは、神を人格的に知ったときに体験する思いであり、天の御座に『座しておられる主を見た』イザヤのようであり(イザ6:1)、ダマスコ途上で『「なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた』サウロと同じである(使9:4)。神の聖さと絶対的権威に触れる体験がなければ、単なる神知識であり、神の真理を正しく理解してはいない◆『初めである』(箴1:7)とは、<出発点>という意味だ。神を人格的に知る体験なしに、神の意思に自分の人生のすべてをゆだねきることはできない。たとい信仰告白へと導かれバプテスマを受け、クリスチャンと呼ばれる者になったとしても、『肉に属する人(クリスチャン)』(Tコリ3:1)として歩み続けしかなく、その信者はその出発点には立っていない『愚か者』(箴1:7)のままだ。そういう信者はいつも自分の中にある古い「肉」(Tコリ7:18)の思いを優先し続け、いつまで経っても「神の聖さにあずかる」(ヘブ12:10)ことはできず、神の知恵も訓戒もさげすむのである。自己流の信仰生活を続け、聖さにあずかるための主の訓練も後回しにする。要注意だ◆ではどうしたら神の聖さと絶対的権威に触れる体験ができるのだろうか。『心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。』(箴3:5〜6) 常に主のみこころを求め続け、主のみこころを選び続けることだ(マタ6:33)。

■ 2017/7/16 (日)
 [題]
「箴言− 正しすぎてはならない 」
 [みことば]
『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。』 (箴言17:1)
 [ショート・メッセージ]
◆『一切れのかわいたパン』(箴17:1)しかないほど経済的に貧しくても平和に満ちている家庭は、経済的に豊かであっても争いの絶えない家庭とは比べものにならないほど、幸いである、と教えている。経済的な豊かさを追求しすぎて、本末転倒になって情緒的にバランスが崩れてしまった家庭は本当に多い。お金で幸せが買えると思い込んでいるのだ。TVのコマーシャルにだまされるとこうなる◆情緒的にバランスが崩れると思い描いた通りにならない現実に苛立ち、その責任を家族の誰かに押し付けるようになる。そして自分の言うとおりにみんながしないからこうなるんだ、と裁判官の立場に立つようになる。こういうとき客観的に自分を見つめることができなくなるため、エスカレートするようになる。箴言16:18には次のように記されてある。『高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。』高ぶり高慢は、家庭を必ず崩壊すると言うことだ◆伝道者7章6節を見てみましょう。『あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。』自分の思いや考えを家族に押し付けてはならないと注意喚起し、戒めている。自分の思いや考えを押し付けることをモラルハラスメントという。ハラスメントとは嫌がらせ・いじめという意味で、自分の思いを一方的に押し付けることを<モラハラ>いう。客観的に自分を見つめる必要がある。『正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない』のである。

■ 2017/7/9 (日)
 [題]
「箴言− 自分の心に光を当てられ、認識と自覚を得よ 」
 [みことば]
『心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。』 (箴言3:5〜7)
 [ショート・メッセージ]
◆@「イエスは受肉された神ご自身である」(ロマ10:9)、との信仰告白へと導かれたクリスチャンに対して、聖書を通して神は、どのような導きを与えておられるのだろうか。第一に「信仰を成長させるための<教え>」、第二に「罪を認識させるための<戒め>」、「聖めるための<矯正>」で、それらはすべて「義の訓練としての有益」である(Uテモ3:16)。クリスチャンとされていると言えども、自己中心に生きることを求める古い肉の性質は、肉体に留まっている間ずっと私たちの中に存在しているのである(士3:1、ロマ7:14〜24)◆Aアダムとエバは罪のない存在として創造された(創1:26)が、彼らがサタンである蛇にだまされて罪を犯した瞬間(創3章)、彼らの性質は完全に堕落し、その罪の性質はすべての子孫に受け継がれた(創4章、6章)。そして地上に人が増え広がるにつれ、たましいの創造者であられる神を忘れ、無視し、自分の思い考えに支配されるようになった◆B肉の性質については、聖書の至るところに記されてある。イスラエルの王ダビデは告白した。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」(詩51:5)。ダビデは両親から罪の性質を受け継いでいることを深く自覚した◆C今回から見る〈箴言〉とは、「教訓を与える短いことば」という意味だ。箴言を学ぶことを通して、自分の心に光を当てられ、認識させられ、自覚を得よう。そうしなければ、罪の力によって大切なものが崩壊される。

■ 2017/7/2 (日)
 [題]
「イエスに出会った女たち− カナン人の女 」
 [みことば]
『しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。』 (マタイ15:27)
 [ショート・メッセージ]
◆地上生涯で一度だけ、イエス様は異邦人の地ツロとシドンの地方に行かれた。娘の病のために苦悩している一人の女に会うためであった。『主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです』(22)。その女はイエス様のことを『ダビデの子よ』と呼んだ。イエス様が、旧約聖書で預言されていた救い主であるという知識と信仰をすでに持っていたのだ。さらにその娘は人間的レベルでは癒しようのない病の中にあったのである◆女は必死に主に懇願し叫ぶが、イエス様は一言もお答えにならなかった。叫び続け女の声に弟子たちが困惑していると、イエス様は女に言われた。「わたしはまずイスラエルの民に<神の国の福音>を知らせに来たのである」(24)。すると女はなおもしつこくイエス様に助けを願った。するとイエス様は今度は、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない」(26)。それでも女は諦めることなく、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」(27)◆『そのとおりです』のことばに表れた女の謙遜と、娘のいやしのために諦めずにしつこくイエス様に懇願し続けた女にイエス様は言われた。『ああ、あなたの信仰はりっぱです』(28)。その瞬間、女の娘は癒されたのであった◆私たちもまた、イエス様から目を離さずにいよう(ヘブル12:2)。目を離すとき、事態はますます悪くなる。

■ 2017/6/25 (日)
 [題]
「イエスに出会った女たち− 姦淫の現場で捕まえられた女 」
 [みことば]
『彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」』 (ヨハネ8:11)
 [ショート・メッセージ]
◆イエス様が朝早くエルサレム神殿の庭で民衆に教えておられると、律法学者とパリサイ人がひとりの女を連れて来て真ん中に置いてイエス様に言った。「この女は姦淫の現場で捕まえられた。モーセは律法の中で、こういう女は石打ちにしなければならないと命じているが、どうしますか」。彼らはイエス様を告発する理由づくりのために、この女を利用したのであった。しかしイエス様は身をかがめて指で地面に何かを書いておられた。宗教指導者たちが問い続けてやめなかったのでイエス様は身を起こして彼らに言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、最初に彼女に石を投げるがよい」。イエス様は、もう一度身をかがめられた◆それを聞くと彼らは、年長者たちから始めてひとりひとりその場を去って行った。イエス様がひとりその場に残り、女もそのままそこにいた。イエス様は身を起こして女に言った。「あなたを罪に定めようとしたあの人たちは今どこにいますか」。女は言った。「だれもいません」。そこでイエス様は女に言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはいけません」◆世の光であられるイエス様の弟子となり、イエス様に従い、イエス様と行動を共にする以外に、罪を犯さない人生を生きることはできない。この女もまた、イエス様によって罪の奴隷状態から解放され、救われたのである。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』(マタイ16:24)

■ 2017/6/18 (日)
 [題]
「イエスに出会った女たち− サマリヤの女 」
 [みことば]
『わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』 (ヨハネ4:14)
 [ショート・メッセージ]
◆イエス様が、ヨハネ3章でニコデモに示された『水』(ヨハ3:5)が、神のことばを指すことが、サマリヤの女との会話の中で解き明かされる。パリサイ派の教師であったニコデモはユダヤ教の戒めを実践することの幸いを人々に教えていたが、自分が御国に入る確信がなかった。それで、夜人目を忍んでこっそりと、イエス様に教えを乞うため来たのだった。そのニコデモにイエス様は、『新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません』(3)と教えられ、しかもその新生の奇跡は『水と御霊』(5)よらなければならない、と諭されたのである。では『水』とは何か◆4章に入るとイエス様は、サマリヤの町の共用井戸の端で、人目を避けて生きるひとりの不憫な女を待っていた。女が水汲みに来ると、イエス様は女に飲み水を求めた。怪訝な顔をする女に、「わたしが誰であるかを知ったならあなたのほうから求め、わたしはあなたに生ける水を与える」、と話された。この水を飲んでもすぐに渇きが来るだろうが、わたしが与える水は、飲む者のうちで泉(井戸)となり、永遠のいのちへの水が湧き続ける」(13〜14)と示された◆「この水」とは世の人の教えのことで、「わたしが与える水」とは霊的いのちに導く神のことばのことであった。女はときめき、その生ける水を求めた。するとイエス様は女に言われた。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊のいのちによって礼拝しなければならない」(24)と教えられた。「新生」とは、聖書のことばを聖霊によって解き明かされ、霊的いのちを受けることに他ならない。

■ 2017/6/11 (日)
 [題]
「イエスに出会った女たち− ベタニヤ村のマルタとマリヤ 」
 [みことば]
『彼女にマリヤという妹がいたが、主の足元にすわって、みことばに聞き入っていた。』 (ルカ10:39)
 [ショート・メッセージ]
◆イエス様がベタニヤ村に入られると、姉のマルタがイエス様と弟子たちを喜んで家に迎え入れた(ルカ10:38)。姉のマルタはさっそくもてなしのための料理作りを始めた。旅の疲れを癒してもらおうと、大量の食事作りに精を出した。手伝ってもらおうと妹のマリヤを捜すと、『主の足もとにすわって、みことばに聞き入って』いた(同39)。「まあ、マリヤったら何も手伝おうとしないで、いい気なもんだわ」。マルタは自分だけに食事の準備をさせているマリヤにイライラし始めた◆それでイエス様に愚痴をこぼして言った。『主よ。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください』と(40)。そこでイエス様はマルタに答えて言われた。『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません』(41〜42)◆ここで主は、私たちに何を優先すべきかを教えておられる。すなわち、「永遠のいのち(霊的いのち)」を受けるために必要なことは何かということだ。イエス様は霊的いのちを与えるために世に来られた。なぜなら、今の天と地は、罪に汚染されているがゆえに、『焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされ』(Uペテ3:10)、『神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地』(同13)が誕生することが定められているからだ。永遠のいのちがなければそこに移されることができないのである。

■ 2017/6/4 (日)
 [題]
「十字架上の7つのことば− 昼12時から3時間に語られたことば 」
 [みことば]
『三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』 (マタイ27:46)
 [ショート・メッセージ]
◆十字架上で語られたイエス様のことばのうち3つは午前9時〜昼12時の3時間に語れたものだった。残り4つはそれ以降夕方3時までに語られたものであった。C「エリ、エリ、レマ、サバクダニ…」、D「わたしは渇く」、E「完了した」、F「わが霊を御手にゆだねます」である◆C『エリ、エリ、レマ、サバクダニ…』とは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46)という意味である。このときだけイエス様は「父よ」と呼びかけることはなさらず、「わが神」と呼びかけられた。罪人の代表として立たれ、<怒りの盃>すなわち神のさばきを一身に受けられ、悔い改める者への永遠の赦しが完成するために、永遠に聖いご自分のからだを、完全ないけにえとして、<真実捧げてくださった瞬間>であった。D『わたしは渇く』(ヨハ19:28)は出血多量で、のどの渇きを正直にことばに表わされた瞬間であり、E『完了した』(ヨハ19:30)はご自分に与えられたご使命を完遂されたことばせある。そして最後に、F『父よ。わが霊を御手にゆだねます』(ルカ23:46)と言われた。息を引き取られる直前の、意識が遠のくときに語られたおことばであった◆へびに化身したサタンによって、取り返しのつかない事態となった人間の上に、神は永遠の解決を成就してくださったのだ。人間の力では成し得ない永遠の救いが、このようにして神のあわれみとして完成された。人間よ、目を覚ませ。

■ 2017/5/28 (日)
 [題]
「十字架上の7つのことば− 女の方。そこに、あなたの息子がいます 」
 [みことば]
『もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。』 (ピレモン16)
 [ショート・メッセージ]
◆イエス様の十字架のそばに四人の女が立っていた(ヨハ19:25)。その中にイエスの母マリヤがいた。イエスは、母と、そばに立っていた愛する弟子とを見て、マリヤに、「女の方。そこにあなたの息子がいます」と言われ、それからその弟子ヨハネに「そこに、あなたの母がいます」と言われた。母マリヤを弟子ヨハネに託したのである。血縁による家族関係は罪に汚染された地上に限定されるが、それよりもはるかにすばらしい<神の家族関係>があることをイエス様は明らかにしてくださった。これはただの宗教グループによる別の人間関係ではない。永遠のいのち、すなわち霊的いのちによる新しい家族関係である◆かつてイエス様はサマリヤの女に言われた。『真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。…神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません』(ヨハ4:23〜24)。聖霊が降臨されたことによって<霊的ないのちの交わりによる新しい神の家族関係>がスタートすると明らかにされた瞬間であった。そしてその時が来ると話されたのである◆イエス様の<十字架の死>に続く<復活>、そしてその後の<昇天><着座>によって救いが完成し、アダムとエバからの人類の歴史の中には存在し得なかった、霊的いのちによる神の家族の誕生が、ここで明言されたのだった。

■ 2017/5/20 (日)
 [題]
「十字架上の7つのことば− あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます 」
 [みことば]
『イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」』 (ルカの福音書23:43)
 [ショート・メッセージ]
◆ゴルゴタの処刑場に三本の十字架が立てられ、イエス様を真ん中に二人の犯罪人がかけられた。犯罪人は二人ともイエス様をののしっていたが、しばらくして一人の犯罪人がもう一人の犯罪人をたしなめて言った。『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ』(ルカ23:40〜41)。そしてイエス様に言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください』(同42)。このあと数時間で死を迎える運命にあった彼は、同じ十字架にかけられているイエス様のおことばとその態度に触れながら、自分とイエス様との違いをまざまざと見せつけられた。人生の終わりに彼は自分の罪深さを正直に告白し、イエス様が人間以上の存在であられるという信仰を言い表し、イエス様の前に人生の重荷を下ろした。するとイエス様は彼をいとおしんで言われた。『あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます』。パラダイスとは、分かりやすく言うと<天の御国>だ◆神は待っておられる。自分の罪深さを正直に告白することと、イエス様が約束されていた救い主であられるという信仰を、言い表すことを。

■ 2017/5/14 (日)
 [題]
「十字架上の7つのことば− 「父よ彼らをお赦しください」 」
 [みことば]
『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。』 (ルカ23:34)
 [ショート・メッセージ]
◆イエス様の十字架上の七つのことばは次のとおり。@ルカ23:34「父よ彼らをお赦しください」。Aルカ23:43「あなたはきょうわたしとともにパラダイスにいます」。Bヨハネ19:26-27「女の方そこにあなたの息子がいます」。Cマタイ27:46「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。Dヨハネ19:28「わたしは渇く」。Eヨハネ19:30「完了した」。Fルカ23:46「父よ。わが霊をゆだねます」◆今回は最初のことばを聖書の中に調べる。このことばの中に『お赦しください』とあるが、「わたしに免じて」という意味が隠されてある。ところで、罪人が受けるべき罪の呪いとは何か。それは神との断絶である。目を開き、耳を開いて、このことを認識しなければならない。もしも永遠に神と断絶する世界に落ちるとしたなら、この世に生まれて来なかった方がよかったのだ(マタ26:24)。人が地上で味わうどのような苦しみも、この苦しみと比べることはできないほどのものである。その呪いを「わたしが受けますので」とイエス様は言われた。「人がもし自分の罪を認めて心から悔い改めるなら、彼らの罪をお赦しください」という切なる願いとともに。御父と永遠に一つであられるイエス様(ヨハ10:30)の、思い告白であった。すべての人が神から愛され続けている。

■ 2017/5/7 (日)
 [題]
「質疑応答− アブラハムとイサク 」
 [みことば]
『ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。』 (創世記22:9)
 [ショート・メッセージ]
◆Q1:創世記22章9節の記事が現実離れしているようで信じがたい。青年イサクの従順は本当だったのか?◆A1:そのその人の在り様(ありよう)は幼児期の家庭環境でほぼ決定される。真実な生き方をしている両親によって育てられた人は真実な生き方を求め、二心な生き方の両親のもとで育てられた人はお手本通りの生き方をまねして生きるようになる。親から虐待された人はいつの間にかわが子を虐待するようになる。理想を掲げても現実は模範者となった人を真似た在り様となる。もちろん例外の人も存在するであろうが、数パーセントに過ぎないと思われる。アブラハムの幼児期は明記されてはいないが、ハランの地を出た75歳から死に至るまでの第二の人生(創12:4)、すなわち創造者なる神から学び訓練された生き方が良い影響となり、彼アブラハムを根底から変えていったと思われる。イサクの模範者は新しく変えられたアブラハムであり、神よって変えられた両親から受けた信仰教育による影響が大だった。両親を通して養われたイサクの信仰は、神を恐れ、徹底して自制し、神のことばには絶対服従、神の喜びを喜びとする生きた信仰であったと思われる。それゆえ、尊敬する父にすべてを委ね、信頼しきっていたのであろう(同7〜10)。

■ 2017/4/30 (日)
 [題]
「使徒の働き− 預言の賜物の目的 」
 [みことば]
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。…主の大いなる輝かしい日が来る前に、…主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』 (使徒2:17〜18)
 [ショート・メッセージ]
◆<預言>とは予知能力のことではない。預言とは<神の啓示を受け取る霊的賜物>のことである。神の啓示とは<神のみが明らかにされる霊的真理>のことだ。この神の啓示を受け取る霊的賜物は聖霊が注がれた真のクリスチャンだけに『注がれた』(使2:17)。『偽教師・偽預言者』(Uペテ2:1、Uヨハ4:1)はこの賜物を持たない(Uヨハ4:3)◆さらにこの『預言の賜物』(Tコリ13:8)は初代教会時代のある期間にのみ、限定的に与えられた。ある期間とは『完全なもの』が現れるまでの期間である(同10)。完全なものとは<聖書>のことである。当時は旧約聖書(ヘブ8:7)だけが存在していたが、それだけでは『欠けがあるとして』(同8)、主は次のように言われた。『見よ。日が来る。…新しい契約を結ぶ日が』。この『新しい契約』こそが<新約聖書>である。そしてパウロが『完全なもの』(Tコリ13:10)と呼んでいたのは、この新約聖書のことである。すなわち旧約聖書と新約聖書が一つとなって、神のことばである聖書が完全なものとなったのである◆この新約聖書が成文化されるために、神は<預言>の賜物を一時的に、初代教会の真のクリスチャンたちに備えてくださったのだ。『神のなさることは、すべて時にかなって美しい』(伝3:11)。

■ 2017/4/23 (日)
 [題]
「使徒の働き− 異言が用いられた 」
 [みことば]
『この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれの自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。』 (使徒2:6)
 [ショート・メッセージ]
◆『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた』(使2:1)。五旬節の日とは、『安息日の翌日』から数えて(レビ23:15)、『七回目の安息日の翌日までの五十日』目のことだ(同16)。すなわちイエス様が復活された日曜日から50日目の日曜日のこと。その日、約束通り聖霊が降臨された。『大ぜいの人々が集』まるほどの『物音が起こ』った(6)。すなわち激しい風が吹くような<響き>(使2:2)と、『炎のような分かれた舌』(同3)という<視覚に訴えるもの>が現れた。『すると、みなが聖霊に満たされ』(4)、『御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした』(4)。これが異言である。異言とは聞く人が理解できる明確なことばで、福音が宣べ伝えられることであって、恍惚にひたることではない◆『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい』(マコ16:15)の成就であり。『聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは…わたしの証人とな』る(使1:8)。『話すのは…あなたがたの父の御霊』だとの預言の成就であった(マタ10:20)。しかも異言は永久に『やみます』とも預言されていた(Tコリ13:8)。福音の成文化である<新約聖書>が『完全なもの』(同10)として現れたら、即刻不要なものとなるのだ。

■ 2017/4/16 (日)
 [題]
「使徒の働き− 聖霊のバプテスマ 」
 [みことば]
『しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。』 (イザヤ59:20)
 [ショート・メッセージ]
◆天に帰られる直前、イエス様は弟子たちに念を押して言われた。『わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。…もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです』(使1:4〜5)。父の約束とは神なる聖霊が遣わされることで(ヨハ14:16)、聖霊のバプテスマとは真理の御霊(聖霊)が全世界を覆うことを意味している◆イエス様が天に帰られ父の右の座に着座されることによって贖いが成し遂げらたのであった。『御子は…罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました』(ヘブ1:3)。『わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主(聖霊)をあなたがたのところに遣わします』(ヨハ16:7)。これが御父の、永遠の救いのご計画であった。◆神なる聖霊の助けによらなければ、だれもみことばの奥義を知ることはできない。その奥義を受け取らないまま聖書を読むなら、それは自己解釈を続けることであり危険なことだ。聖霊はだれのとことに来るのか。『そむきの罪を悔い改める者のところに来る』(イザヤ59:20)。自分のうちにある罪を認め、神に立ち返ることを願う者のところに来る。

■ 2017/4/9 (日)
 [題]
「使徒の働き− 聖霊行伝 」
 [みことば]
『イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』 (マルコ 16:15)
 [ショート・メッセージ]
◆新約聖書は27巻だ。初めの4つは福音書で、イエス様のご生涯とその教えが明らかにされている。その次が歴史書の使徒の働きで、「聖霊行伝」とも言われる。教会の交わりの中心におられる聖霊なる神の働きによって、みことばの奥義が細部に至るまで<解き明かされ>、福音の約束が全世界に<宣べ伝えられ>、「キリストのからだなる教会」が<建て上げられ>続けて来た◆さらにその次に、21巻の手紙がまとめられている。この目的は全て異端対策である。教会誕生の初めから、偽教師・偽預言者が各地で出現し、現代に至っている。彼らによって「キリストのからだなる教会」の交わりは混乱し、その成長が阻まれて来た。偽教師による異端の教えは、教会の信者たちの口から出て来た。みことばの自己解釈による。互いに注意し合う必要がある。聖霊なる神によって、二千年の間、明らかにされて来た「みことばの奥義」を彼らは軽んじた◆そして新約聖書の最後は、預言書であるヨハネの黙示録だ。これは、「新生した真のクリスチャンたち」が天に引き上げられたあとの、こ世の最後のありさまを予告している。この最後の時代、すなわち患難時代に突入する前に、福音をしっかりと伝え、証しなければならない(マコ16:15)。

■ 2017/4/2 (日)
 [題]
「預言者たち− 三人の預言者 」
 [みことば]
『私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」』 (イザヤ6:8)
 [ショート・メッセージ]
◆イザヤは、ウジヤ王が死んだ年(BC742)に預言者として召された。そのとき彼は『(天の)王座に座しておられる主を見た』(イザ6:1)。すると彼は『もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、…しかも万軍の主である王をこの目で見たのだから』(同5)と言って主を恐れた。彼が震えていると、御使いが祭壇の上から燃えさかる炭(いけにえの骨)を持って来て彼の口に触れて言った。『見よ。…あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた』(7)。そのとき彼は「だれがわれわれのために行くだろう」と言われる主の声を聞き、『ここに私がおります。私を遣わしてください』(8)と願い出て、預言者の働きに就いた◆エレミヤが預言者に召されたのはBC627だった(エレ1:2)。彼は偽預言者のように見られ、ののしられ、預言者職の厳しさを体験し、預言者の心理を最もよく味わった(エレ20:2)。彼はバビロン捕囚を預言し、それが70年であることを明らかにした(同25:8〜12)◆ダニエルは第一回バビロン捕囚の時(BC605)、捕囚民の一人として連行された(ダニ1:1)。彼はバビロン捕囚が70年であることを『預言者エレミヤにあった主のことば』(9:2)から知った◆預言者は神体験を導かれ、命がけで神に仕え、神のことばを民に、まっすぐに届けなければならなかった。

■ 2017/3/26 (日)
 [題]
「預言者たち− まず、神のことばに従いなさい 」
 [みことば]
『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない』 (T列王記17:14)
 [ショート・メッセージ]
◆エリヤは「主こそ神である」という意味。彼は北イスラエルの預言者でした。神はアハブ王のところにエリヤを遣わしました。『…イスラエルの神、主は生きておられる。…ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう』(T列王17:1)。そして神はそのききんの間エリヤを養われます。最初はカラスによって。『彼は行って、主のことばのとおりにした。…ケリテ川のほとりに行って住んだ。幾羽かの烏が、朝になると…夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。しかし、しばらくすると、その川がかれた』(同6〜7)◆次はひとりのやもめを通して(9)。エリヤはやもめに水とパンを求めますが、やもめは言います。『…ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、…私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです』(12)。するとエリヤは彼女に言います。『…あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない』(13〜14)。<まず>神のご命令に従いなさい。そうすればあなたの必要は満たされます、と言うのです。やもめはこれに従い、ききんの間、神の奇跡の中で生き延びました。

■ 2017/3/19 (日)
 [題]
「預言者たち− 矯正されたヨナ 」
 [みことば]
『ヨナは彼らに言った。「私を捕らえて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」』 (ヨナ1:12)
 [ショート・メッセージ]
◆神が預言者たちに要求することは、私心をさしはさまないことである。大きな魚に飲み込まれ救助された預言者ヨナは、私心をさしはさんだため、神からの矯正を受けなければならなかった。神に絶対服従しない限り、神の代弁者にはなれないからだ◆ヨナはニネベに行くことを命じられた時(ヨナ1:1)、主の御顔を避けた。罪ゆえに内部崩壊し弱体化していたアッシリヤ帝国が悔い改めて回復することを、ヨナは望まなかったからだ。自分の国イスラエルを滅ぼそうと攻撃してくるアッシリヤに神のことばを届け、救いの手を伸べることは、イスラエル人としてはしてはならないことだと思う私心があったからだ。だからヨナは神の御顔を避けて逃げ回ったのである◆しかしヨナは神の愛を教えられる。『主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」』(ヨナ4:10〜11)◆ヨナと同じ失敗をする弱さは、私たちの中にもある。だからこそ私たちもみことばを学び、絶えず軌道修正されなければならないのである。

■ 2017/3/12 (日)
 [題]
「預言者たち− 神からキリストに関することばを預かったイザヤ 」
 [みことば]
『しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。』 (イザヤ53:10)
 [ショート・メッセージ]
◆預言者とは、第一義的には「神の言葉を預かる者」である。しかし旧約時代にも新約時代にも、真の預言者を模倣する職業的預言者(偽預言者)も数多く存在していた。真の預言者たちは聖書記者(約40名)であった。彼らによって書き記されたものは、聖霊によって、聖書66巻にまとめられた。聖書を通してのみ、人は神の実存を知り、神と人との唯一の仲介者、受肉されたキリストを知る◆第一回目の今回は、イザヤ書53章から具体的に真の預言を調べる。『主の御腕』(イザ53:1)とは「神の御力」のことで、『彼』(同2)とは「キリスト」のこと。すなわち、主のご計画は『彼』と呼ばれる者(キリスト)を通して実現すると言うことだ。彼(キリスト)は、神の目にはエッサイの『若枝(ダビデ)』のように誕生し成長して行くが、人の目には『砂漠の地から出る根のように…見とれるような姿も…慕うような見ばえも』なく(2)、普通の姿で現れ過ごされる。ただ違うところは、『人が顔をそむけるほどさげすまれ』ること(3)。この『人』とは、キリストをねたむ「宗教指導者たち」を指す。『イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した』(マタ26:3〜4)。しかしこうしてキリストが死に追いやられるのは、御父のみこころであった(イザ53:10)。

■ 2017/3/5 (日)
 [題]
「神のご性質− 愛なる神 」
 [みことば]
『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』 (Tヨハ4:10)
 [ショート・メッセージ]
◆神の愛は、聖と義に裏付けされた愛である。そこには、打算なし、偽りなし、かけ引きなし、えこひいきもない。そこあるのは、自滅に向かう罪人へのあわれみである。『私たちが滅びうせなかっ、たのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。』(哀3:22)◆神が愛の対象として創造された人間は、サタンの罠にはまり、サタンの支配下に入り、神に敵対する存在となった。そんな人間をサタンの手より救出するために、神は救いのご計画を立てられた。そのため、神は秩序と調和に基づいて人類の歴史を導かれた。そしてその時が来た。御子が世に現れたのである。御子は十字架の道を歩まれ、ご自分のからだで贖いを成就された。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハ3:16)◆御子を通して現わされた神の愛を、聖書を通して知り、信じ、人生をゆだねる者は幸いである。『私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。』(同16)◆神はあなたをも、招いておられます(マタ11:28)。

■ 2017/2/26 (日)
 [題]
「神のご性質− 聖なる神 」
 [みことば]
『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』 (Tペテ1:16)
 [ショート・メッセージ]
◆聖なる神とは、「サタンから出た罪汚れ欺きと完全分離」されているお方であることを意味している。神の救いとは、人間をサタンから引き離し、サタンとの関係を完全に断ち切ることである。ゆえに救われた者は『聖徒』(ロマ8:27)と呼ばれ、『聖霊』(ヨハ14:26)に教えられ導かれる。聖であられる神は、サタンに汚されたこの宇宙を火で燃やし(Uペテ3:7)、響きをたてて消し(同10)、神の約束に基づいて『新しい天と新しい地』(同13)を創造してくださる。聖なる神は私たちを天に迎え入れてくださるためのご計画を立て(創3:15)、御子を世に遣わし、御子の聖なるからだを十字架に付けることによって罪人を贖うための代価とされ、永遠の救いのご計画を完璧に成就してくださった。御子によって成し遂げられた救いを信じ受け入れて自分の人生をゆだねる以外に、聖とされる道はどこにもない(ヨハ14:6)。御子が世に来られた使命を全うされて天に帰られたのは、聖徒を迎え入れる準備のためであり、聖徒を迎え入れる場所ができたら、再び来て、からだなる集会に属している者を迎えに来てくださる(同2〜3)。だからこそ主は命じられる。『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』(Tペテ1:16)。

■ 2017/2/19 (日)
 [題]
「神のご性質− 義なる神 」
 [みことば]
『肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません』(ガラ5:19〜21)
 [ショート・メッセージ]
◆義なる神とは、「人間に対して常に正しい態度を取る」という意味である。すなわち、「罰すべき者は必ず罰し、赦すべき者は必ず赦す」ということで、神には依怙贔屓(えこひいき)はない。ところで、「依怙(エコ)」には自分本位という意味があり、「贔屓(ヒイキ)」には特別に引き立てるという意味がある。そこから、自分勝手に特別扱いすることを「えこひいき」と言うらしい。しかし神の義は完全であり、罰すべき者を意味もなく赦すことはなく、赦すべき者を無意味に罰することもない。すなわち集会・教会に属しているクリスチャンだからと言っても、罰すべきクリスチャンは罰するということだ。『肉の行いは明白であって…不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもので…こんなことをしている者(クリスチャン)たちが神の国を相続することはありません。』(ガラ5:19〜21)◆自分は信仰を告白しバプテスマを受けたのだから大丈夫だ、と油断していてはいけない。『ですから兄弟たちよ。ますます熱心にあなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。』(Uペテ1:10)

■ 2017/2/12 (日)
 [題]
「神のご性質− あわれみ深い神 」
 [みことば]
『父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。 主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。』 (詩篇103:13〜14)
 [ショート・メッセージ]
◆聖書を通してご自身を紹介される神が「あわれみ深く」なかったならば、だれ一人として天の御国に迎え入れられる者はなかったでしょう。『父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる』(詩103:13)。「神があなたをあわれんでおられます」とお伝えすると、「あわれんでもらわんでもいい」と憤慨する人がいます。コンプレックスの強い人です。自分の弱さ、足りなさ、みじめさを認めたくないし、知られたくない人で、強がって生きている人です。絶体絶命の窮地に立たされると、人はあわれみを乞います●姦淫の現場で捕まえられた女に対して、主イエス様は深くあわれんで言われます。『あなたを罪に定める者はなかったのですか。…わたしもあなたを罪に定めない。(そのためにわたしは天から来たのだ) 行きなさい。(新しい赦された人生をスタートしなさい) 今からは決して(同じ)罪を犯してはなりません』(ヨハネ8:11)。へりくだりなさい。そして神のあわれみの対象として生かされていることを自覚しなさい。神は、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられるのですから。強がって生きる負け犬のような生き方から離れなさい。主なる神はあなたをあわれんでおられる。

■ 2017/2/5 (日)
 [題]
「質疑応答− 二つの質問 」
 [みことば]
『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』 (詩篇119:105)
 [ショート・メッセージ]
◆Q1:イエス様が誕生された時に東方から訪ねて来た博士たちは、イエス様誕生からどれくらい経っていたのでしょうか?◆A1:ヘロデ大王が命令した幼児虐殺の年齢から推察しますと、一歳前後ではないかと推察できると思います。ちなみに家畜小屋に礼拝に訪れた、ベツレヘムの羊飼いたちとは一緒になることはなかったと思われます。◆Q2:異端の信者たちを救いに導くことはやはり難しいのでしょうか?◆A2:初代教会当時の異端対策を調べるととても良いと思います。『なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです』(7)。エホバの証人はイエス様を神と認めず、御使いミカエルだと結論付けています。『…よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく』(8)。実とは聖徒のことで、真の救いから離れることは恐いことです。『この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません』(Uヨハネ7〜10)。パチンコ依存症の人をそこから救出することはほぼ不可能に近いです。それと同じように十分な準備をしたとしてもこの上なく難しいです。

■ 2017/1/29 (日)
 [題]
「ダニエル書− 何よりも神を愛し証した三人の友 」
 [みことば]
『しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。』 (ダニエル3:18)
 [ショート・メッセージ]
◆バビロニヤ帝国の王ネブカデネザルは、帝国をまとめるために巨大な金の像をつくった(ダニエル3:1)。その高さは60キュビト(22m)で、幅は6キュビト(2.2m)。そしてこの像の奉献式に全国の高官・国民が集められ、王が立てた金の像を拝ませたが、これを拝まない者はただちに火の燃える炉に投げ込まれる、との命令が出た。そしていよいよその奉献式が始まったが、像を拝まないユダヤ人たちがいるの訴えがなされた。ダニエルの3人の友たちであった(12)。王はその報告を聞いて怒り狂い、三人を呼び寄せて言った。『拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。』(15)◆すると三人の友は王に言った。『もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。』(16〜18)◆三人の友は、何よりも神を愛し、神を証した。

■ 2017/1/22 (日)
 [題]
「ダニエル書− 王の見た夢とその解き明かしを導かれたダニエル 」
 [みことば]
『天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。』 (ダニエル2:28)
 [ショート・メッセージ]
◆ダニエルは、偶像の前に安置した食べ物や飲み物で身を汚したくない、と宦官の長に願うと(8)、世話役はこの申し出を聞き入れ、十日間、彼らをためしてくれた(ダニ1:14)。その結果世話役は、彼らに野菜を与えることにした(同16)。すると神はこの4人の少年に、善悪を判断する知識と、あらゆる文学を理解し悟る力と、神のみこころを実行する知恵を賜った(17)。特にダニエルには、神の啓示である「幻と夢」とを解く力を与えたのであった◆しばらくしてネブカデネザル王は悪夢にうなされ、バビロン中の知者を集め、王の見た「夢」と「夢の解き明かし」を命じた。すると知者たちは、『どうぞその夢をしもべたちにお話しください』と王に願ったが、王は「私の夢を知らせよ」と繰り返した。知者たちにできないことが分かると(11)、王は怒り狂い、知者たち全員を殺せと命令を出した。その命令を聞いたダニエルは家に帰り、3人の友といっしょに神に祈った◆それからダニエルは、王のもとに、行き「王の見た夢」と「その解き明かし」をすると、王はダニエルの前にひれ伏し贈り物を与え、ダニエルをバビロンの総理大臣の位に就かせた。こうして異教の地バビロンで、ダニエルを通してイスラエル人は神の栄光を現わしたのであった。

■ 2017/1/15 (日)
 [題]
「ダニエル書− 信仰に基づいた行動を取ったダニエルたち 」
 [みことば]
『ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。』 (ダニエル1:8)
 [ショート・メッセージ]
◆近隣諸国の偶像礼拝を導入して、神への信仰を捨てた南ユダ王国を悔い改めへと導くために、神は、当時世界のトップに君臨していた「新バビロニヤ帝国」を用いられた。南ユダ王国の住民を全員をバビロンに捕囚民として拉致させたのである。この『バビロン』(ダニ1:1)はバビロニヤ帝国の首都のこと。ところでバビロン捕囚は計3回に分けて行われた。その第1回バビロン捕囚は、ユダの王エホヤキムといっしょだった(BC605/U歴代誌36:5)◆この時いっしょに連行された者たちの中に、少年ダニエルと3人の友も含まれていた(ダニ1:6)。この少年たちは、『身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者』であった(同4)。ネブカデネザル王は、あとで彼らが帝国に仕えるようにするために、『王の食べるごちそうと王の飲むぶどう酒から、毎日の分を彼らに割り当て、3年間、彼らを養育すること』にした(5)。しかしダニエルは、『王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った』(8)。彼らは少年ではあったが、信仰に基づいた行動を取ったのであった。

■ 2017/1/8 (日)
 [題]
「主に導かれた主のことば− 人間をとる漁師 」
 [みことば]
『イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」』 (マタイ4:19)
 [ショート・メッセージ]
◆主なるイエス様は、ガリラヤ湖で漁をしていたペテロとその兄弟アンデレに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」 福音宣教の働きを始めるためにイエス様は、二人を、「弟子として」召されたのである。召されたというよりも、絶対的主権を持って一方的に「命じられた」のであった。二人は、『すぐに網を捨てて従った』(同20)。捨てなければ、従うことはできない。主に従うために、捨てたのである◆一方、『人間をとる漁師』とは、主イエス様の元に人々を導くことである。、私たちもかつては罪と死の支配者として君臨するサタンの世界に閉じ込められていた。考え方も行動もすべて罪と死に色づけられ、サタンの影響下にあった。その忌まわしい世界から人間を解放し、ご自分の聖く正しい御手の中に招き入れてくださるために、イエス様は人間と同じ姿(ロマ8:3)で、天から遣わされていた。それは肉の思いを捨て、御霊の導きに従って歩む者の中に、「いのちと平安」が満ちあふれるため、そのことによって、死ぬべきからだが神の御前に生きるためであった(同11)◆『神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。』(同14)

■ 2017/1/1 (日)
 [題]
「ルカ1-2章− ことばは人となって私たちの間に住まわれた 」
 [みことば]
『羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話の通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。』 (ルカ2:20)
 [ショート・メッセージ]
◆『あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』 (ルカ2:12) 羊飼いたちは話し合った。「さあベツレヘムに行って、主が知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そしてほどなくして、マリヤとヨセフと飼い葉おけに寝ておられる嬰児(みどりご)を捜し当てた。羊飼いたちはこの幼子について御使いから告げられたことをマリヤとヨセフに知らせた。見聞きしたことが全部御使いの話の通りだったため、神をあがめ賛美した(20)◆神は全知であられ、全能であられる。アダムとエバが造られてから四千年、サタンの支配下に墜ちて罪にあやつられ、汚れと快楽と暴虐の闇の世をさまよい続けた人類に、再創造の希望の光を与えるために、神の御子が人となって来られたのだ。その最初の目撃者、証人として選ばれたのが、その昔、ベツレヘムで『羊の番』(Tサムエル16:11)をしていたダビデと同じ、羊飼いたちだった。そしてこの出来事は、『神があらかじめお立てなったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現』(エペソ1:9〜10)したものであった◆使徒ヨハネの証言が聞こえるようだ。『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。』(ヨハネ1:14)

■ 2016/12/25 (日)
 [題]
「ルカ1-2章− 羊飼いたちのための目印 」
 [みことば]
『きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』 (ルカ2:12)
 [ショート・メッセージ]
◆羊飼いたちが野宿で羊たちの群れを見守っていたある夜、御使いが現れて言った。「きょうダビデの町ベツレヘムで、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ約束されていた主キリストです。あなたがたは、布にくるまれ、飼い葉おけに寝かされているみどりごを見つけることができます。これが、あなたがたのための目印です。」◆後に使徒ヨハネは証言して言った。「私たちは見たのです。神のことばなるキリストが、人となられて私たちの間に住まわれたからです。」(ヨハネ1:14) この『住まわれた』ということばは、別訳では「仮庵となる」であり、レビ23:34で救い主の誕生が暗示されていたのである。そこには第7の月の15日と記されてある。太陽暦に換算すると、9月だ。秋の季節の初めに羊飼いたちは見たことになる。真冬12月ではない◆そのとき御使いから知らされた目印は、布にくるまっていることと、飼い葉おけに寝かされていること。二つのしるしとも、死を象徴していた。死体に防腐剤として塗る没薬が剥がれ落ちないように布(亜麻布)で巻き、墓に死体を収めるときは石のお棺(石棺)に安置する。イエス様は死によってサタンを滅ぼすために来られたお方(ヘブル2:14)。心より感謝いたします。

■ 2016/12/18 (日)
 [題]
「ルカ1-2章− 受肉された神の御子イエスの誕生 」
 [みことば]
『…身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。』 (マタイ2:5〜7)
 [ショート・メッセージ]
◆当時イスラエルを統治していたローマ帝国が行った、徴税・徴兵のための住民登録のために、ヨセフは身重になっているいいなずけの妻マリヤを連れてベツレヘムに急いだ。ところがベツレヘムに到着すると、どこの宿屋も満室だったため、家畜小屋を借りてからだを休めることにした。そうこうしているうちにマリヤは、月が満ちて男子の初子を生んだ。彼らはその子を布にくるんで、飼い葉おけに寝かせた。◆ところでこの土地にいた羊飼いたちが、野宿で羊の群れを見守っていた。すると御使いが現れて、主なる神の栄光が羊飼いたちの回りを照らした。彼らがひどく恐れていると、御使いは言った。「恐れることはない。すばらしい喜びの知らせを届けに来たのだ。きょう、このベツレヘムで、約束されていた救い主がお生まれになった。その子は、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられる。これがあなたがたのためのしるしである。」するとたちまち、その御使いといっしょに数え切れないほどの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。『いと高き所に栄光が神にあるように。地の上に平和がみこころにかなう人々にあるように。』◆御使いたちが去って行くと彼らは、ベツレヘムの町に急ぎ、その出来事を見に行った。すると、布にくるまって飼い葉おけに寝かされているみどりごを捜し当てた。御使いたちの話してくれた通りであった。このようにして神の御子イエス様は、人間の姿を持って、人の世に現れたのである。

■ 2016/12/10 (日)
 [題]
「ルカ1-2章− 神のご計画を信じ受け入れるマリヤ 」
 [みことば]
『神にとって不可能なことは一つもありません。マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」』 (ルカ1:37)
 [ショート・メッセージ]
◆『その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。』(ルカ1:26) 「六か月目」とはザカリヤの妻エリサベツがみごもってから(同24)六か月目のことである。また「ガブリエル」とは「神の人」という意味で、神のご計画を知らせる任務が与えられていた。「マリヤ」とはヘブル名では「ミリヤム」と言い、ガリラヤ地方のナザレという町に住む処女であった。処女とは言ってもヨセフという人のいいなずけ(婚約者)がおり、籍を同じくしていたが、ユダヤの習わしでまだ一緒に生活していなかった。ユダヤの国では婚約と同時に入籍するが、一年間は別々に暮らし、結婚後の諸々の準備をしなければならなかった。健全な習わしだ。この一年間に妊娠するならふしだらな女と言われなければならなかった◆『おめでとう、恵まれた方』とガブリエルは言った。イザヤ7章14節で預言されていた救い主をこの世に送り届ける「処女」としてあなたが選ばれた。こわがることはない。あなたは神から使命を受けたのだ、と告げたのであった。「恵み」とは一方的な祝福で、マリヤが願っていたわけではなく、神からの一方的な選びによるのであった。マリヤが戸惑っていると、「聖霊が臨み神の力があなたをおおい、妊娠する」と告げられた。「さらに神にとって不可能なことはない」と告げられると、マリヤはすべてを受け入れ、「おことばどおりこの身になりますように」と言って、神のみこころをそのまま受け入れたのであった。信仰とは神が示された約束を信じ、身をゆだねることである。

■ 2016/12/4 (日)
 [題]
「アブラハム− アブラハムのとりなし 」
 [みことば]
『彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。』 (創世記18:32)
 [ショート・メッセージ]
◆アブラハムは主の御前にとりなした。甥っ子ロトのために。創世記18章に記録されている出来事だ。ロトはアブラハムと別れて後(創13章)、よこしまで非常な罪人の町ソドムに近づいて行った(同11-13)。ソドムの町はロトにとっては魅惑の墓所であったが、ほどなくして近隣諸国との争いに巻き込まれ、身内の者全員拉致され、財産も奪われた(14章)。この時アブラハムは、とりことなったロト一族を必死で奪還した(同14-16)◆その後、ロト一族が住むソドムが滅ぼされると主から聞いたアブラハムは、愛するロトの命を守るために主にとりなした(18章後半)。『もしや、その町の中に50人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる50人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。』(同24) すると主は答えた。『もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。』(26) アブラハムは食い下がった。「もし45人だったら、…40人だったら、…30人だったら、…20人だったら、…10人だったら」 『滅ぼすまい。その10人のために。』(32)◆アブラハムは必死になってとりなした。十字架上でのイエス様のとりなしの実物預言であった。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』(ルカ23:34) 救われる以前私たちは、聖くあわれみ深い主の愛の中で、同じようにとりなされ続けていたのだ。

■ 2016/11/27 (日)
 [題]
「質疑応答− 明らかにされたアブラハムの信仰 」
 [みことば]
『彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。』 (ヘブル11:19)
 [ショート・メッセージ]
◆創世記22章の「イサクをささげよ、との神の命令に従ったアブラハム」について、主はヘブル書11:17〜19において、アブラハムの信仰を解き明かされた。その17節に、『信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです』とあるが、アブラハムの心をいつも占領していたのは神の御声であった。神の約束によって奇蹟的に生まれたイサクを、彼は私物化せず、神の御手に委ねながら、イサクに語りかけ、イサクと交わり、イサクを訓練し、イサクを育てた。彼にとってイサクは、神から預けられたひとり子であった◆それで、『あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい』との主の御声を聞いたとき(創22:2)、彼は猶予せず翌朝すぐに実行に移したのだが(同3)、彼は、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」(11:19)、という信仰を受けていたのだった。このことのゆえにアブラハムは「信仰の父」と呼ばれるようになり、彼の信仰の歩みよってイスラエル民族が生まれ、その中からキリストが世に現れた◆彼を通して、『信仰による神のご計画』(Tテモ1:4)は実現し、恵みによる永遠の赦しが、全人類に準備されたのである。

■ 2016/11/13 (日)
 [題]
「アブラハム− 主の導きに応答して、神とともにある人生がスタートした 」
 [みことば]
『アブラハムは主がお告げになったとおりに出かけた』 (創世記12:4)
 [ショート・メッセージ]
◆イスラエル民族の初めとなったアブラハムの生涯は、『あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい』(創12:1)、との主のご命令に従って出かけた瞬間から始まった。ちなみに2節に『そうすれば』とあるが、これは完全分離を命じることばだ。アブラハムの父テラは『昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた』(ヨシュア24:2)偶像礼拝者であった。主なる神は、偶像礼拝の世界と完全に分離せよ、とアブラハムに命じたのである。◆悔い改め(ハマルティア)ということばには二つの意味がある。一つは方向転換であり、もう一つは神とくびきを負って生きる決断だ。アブラハムはこの二つを事がら実行した。すなわち@偶像礼拝との完全分離、A神のことばに委ねて生きる人生のスタート。神はこのアブラハムをさらに導いて、神に仕える一つのイスラエル民族興されたのであった。そしてこの選ばれし民族から「キリスト」を世に送る救いのご計画(創3:15)を進めていかれたのである。◆神はそれと同じことを、それぞれの時代の中で、生きているすべての人々に、聖書を通して「分け隔てなく」(ガラ2:6)なさっておられる。あなたも、神に選ばれている。耳を傾け、目を見開いて、神の招きを実感してください。

■ 2016/11/13 (日)
 [題]
「アブラハム− 神の選民の誕生のために選ばれた 」
 [みことば]
『今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』 (創22:12)
 [ショート・メッセージ]
◆今日から新しいテーマ「アブラハム」。[アダム(BC4000)]から[ノア(BC3000)]まで約千年。そしてノアから[アブラハム(BC2000)]まで約千年。さらにその千年後に[ダビデ(BC1000)]、そしてその千年後に約束のメシヤであられる[イエス様(AD0)]が、ついにこの地上にお生まれになられた。◆とこで人類の歴史は、ノアの箱舟の時代に完全に消滅しかけた、と聖書に記録されている。『主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。・・・地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている」』(創6:5、11〜13)。そこで神はノアを通して「人類の自滅」を回避され、救い主を意味する『女の子孫』(創3:15)を世に送り出すための準備をさらに進められた。◆ここでアブラハムが登場する(創11章)。『女の子孫』を誕生させるために、神のご計画を「受け止め、守り、待望する民族」を興すためであった。アブラハムが100歳の時にやっと生まれた約束の子「イサク」(創22:2)を伴い、モリヤの地でイサクをささげよと命じられたのであった。神はアブラハムの「信仰と献身」を試されたのであった。◆主は御使いを通して言われた。『今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。』(創22:12)

■ 2016/11/06 (日)
 [題]
「質疑応答− 自滅から救おうとしておられる神 」
 [みことば]
『わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。』 (ヨハネ15:4)
 [ショート・メッセージ]
◆Q:旧約聖書に登場する神は敵を殺害させたりする恐怖の存在に思われます。なぜでしょうか? A:それは人類を「自滅」から救うためでした。エデンの園で、サタンにによって惑わされたエバを通してアダムがだまされ、こうして全人類がサタンの支配下に墜ちることになりました。イエス様が天から遣わされるまで、旧約時代の世は、至る所が無法地帯だったのです。その証拠となるべき前例がノアの時代でした(創6章)。神が洪水を起こし、ノアを通して勧告しなければ(Uペテ2:5)、あの時点で人類は消滅してしまったでしょう(創6:5、11、12、13)。『すべての肉なる者の終わりが、わたしの前に来ている。』(同13)。しかしあわれみ深い神は、忍耐深く待ち続けておられました。『ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられた』(Tペテ3:20)にもかかわらず、サタンの罪の呪縛から逃れて救い与ったのは『わずか八人の人々』(同)だけでした。アブラハムの甥っ子の『義人ロト』(Uペテ2:7)でさえ、ソドムと共に滅ぼされかけていたのです。『さあ立って…行きなさい。さもないと…滅ぼし尽されてしまおう』(創19:15)。『しかし彼はためらっていた』(同16)。クリスチャンとされた私たちですら、まだまだ鈍いところがあります。決断して、ここからスタートです。『立ちなさい。さあ、ここから行くのです。』(ヨハ14:31)

■ 2016/10/30 (日)
 [題]
「クリスチャン− 福音を宣教する者 」
 [みことば]
『イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたがたは人間をとるようになるのです。」』 (ルカ5:10)
 [ショート・メッセージ]
◆この10月の福音集会のテーマを覚えておられでしょうか。第一週「クリスチャンとはキリストの弟子である」、第2週「クリスチャンは地の塩である」、第3週「クリスチャンは世界の光である」、そして第4週は「クリスチャンは福音を宣教する者である」という題でした。もっともっと多くの題で聖書から教えられると思いますが、「福音を宣教する者」について学んでいきたいと思います◆クリスチャンとされると不思議な体験へと導かれます。まず第一に、この世のものが色あせていくという現実です。この世のものに命を懸けるほどの価値を見出せなくなり、しがみつかなくなるのです。世のものはすべて、古びてゆき、無くなってゆき、消滅するのです。イエス様は言われました。『なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。』(ヨハ6:27)◆クリスチャンとは、「永遠のいのちに至らせる食物」、すなわち神のことば、を宣教するという、新しい霊的な使命を与えられた者たちである。ルカ5:6に、『そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった』と記されてある。福音の網を、未信者の方々の前に広げなければなりません。自分だけ救われて満足していてはいけないのです(同10節)。

■ 2016/10/23 (日)
 [題]
「クリスチャン− 世界の光なるクリスチャン 」
 [みことば]
『あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。』 (エペソ5:8)
 [ショート・メッセージ]
◆クリスチャンとは「光」であるとイエス様は教えられた。しかも「世界の光」である。この世界は「闇」に沈んでおり、クリスチャンも以前は闇の中で生活し、闇の支配者であるサタンから影響を受け続けて来た者たちであった◆@闇とは、どこから来てどこへ行くのかわからない世界である。『やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい』(ヨハ12:35)。聖書を通して光に出会わなければ、いつまでも闇の世界に閉じこもるだけである。生きる希望も、喜びも、感動も、感謝も、確信もなく、世に流されるだけである◆A闇とは、自分の汚れ、間違い、過ちに気づかない世界である。『彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ』(創19:4〜5)。「知りたい」とは男どうしで情欲に燃えることである(ロマ1:27)。ソドムの町の男たちはゾンビのように町をうろついていたというのだ。光なる神から教えられるチャンスのないこの世は、真っ暗やみである。できるだけ早く抜け出して、光の子にしていただこうではないか。

■ 2016/10/16 (日)
 [題]
「クリスチャン− 地の塩としての新しい人生 」
 [みことば]
『わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』 (マタイ11:29〜30)
 [ショート・メッセージ]
◆山上の垂訓の中で、『あなたがたは地の塩です』(マタイ5:13)、『あなたがたは世界の光です』(同14)、とイエス様は未来のクリスチャンに向けて語られました。未来のクリスチャンとは、イエス様が昇天され父の御座の右に着座され、聖霊が降臨されなければクリスチャンの誕生はないからです。使徒の働き2章1節に聖霊が下って来られてから約二千年間、聖霊の時代となりました。そうです、私たちは聖書のみことばを通して働かれる聖霊の時代に生きているのです◆ところでイエス様が未来のクリスチャンたちに語られた「地の塩」とは何でしょう。塩とは人間社会に蔓延し続けている道徳的・倫理的腐敗を防ぐ存在、という意味です。「キリストとともに十字架につけられました/ガラ2:20』という信仰を主からいただいて真のクリスチャンとされる者は、主から「塩」としての特権を受けるのです。特権は用いなければ何の意味もありません。『イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました』(ヘブ12:2)◆世の道徳的・倫理的腐敗を防ぐ「塩」としての新しい人生に導かれていることを確認し、神に感謝しようではありませんか。神は、あなたのこれまでの人生のすべてを赦し、新しい人生を準備しておられるのです。

■ 2016/10/09 (日)
 [題]
「クリスチャン− キリストの弟子 」
 [みことば]
『聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。』 (Uテモテ3:16)
 [ショート・メッセージ]
◆「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった」(使11:26)。「キリスト者」はギリシャ語ではクリスチアノス、英語ではクリスチャン。これは当時の人々が信徒につけたあだ名です。初代教会の信徒たちが、キリストを賛美し、キリストに忠誠を誓い、キリストが完成してくださった福音を熱心に宣べ伝えていた姿を見て、「キリスト狂い/キリストマニヤ」という見下げ、侮辱した呼び名を作ってからかっていたのが始まりでした。ところが今では、クリスチャンという呼び名はキラキラ輝いたものとなり、憧れの対象のようになっています。◆クリスチャンにはどんな意味があるのでしょう。まず第一に、「キリストの弟子」という意味です。主はクリスチャンを弟子として受け入れ、訓練しておられます。みこばを通して「教え」、「戒め」、「矯正」して訓練してくださるのです(Uテモ3:16)◆全宇宙の創造者であられる神について、被造物であるすべての生き物、エデンの園で導入された罪、神との断絶(迷子の羊)、全人類を救うために選ばれたイスラエル民族、キリストについて、天の御国について、その他多くの教えを受けさせていただきます。続いて「戒め」です。私たちの心を探って、戒め警告してくださいます。そして「矯正」です。主に出会い、訓練される人生が、あなたのために準備されているのです。

■ 2016/10/02 (日)
 [題]
「ルカ16章− 神のなさることは、すべて時にかなって美しい 」
 [みことば]
『主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。』 ロマ14:11)
 [ショート・メッセージ]
◆貧乏人ラザロは死んで、御使いたちによって「アブラハムのふところ」に連れて行かれた、と記されてある(ルカ16:22)。「アブラハムのふところ」とは「パラダイス」(23:43)のことである◆イエス・キリストは十字架で死なれた後、このパラダイスに行かれた、とエペソ人への手紙に明らかにされている。『--この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう』(エペ4:9)。そして主はきおのパラダイスを御国に引き上げれられたのである。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた』(同8)。彼キリストは、多くの捕虜、すなわちパラダイスに、贖いが完成するまでの間に一時的に留まっていた「たましい」のことだ。それは旧約の聖徒たちのたましいと、十字架の犯罪人の一人(ルカ23:42〜43)と、ラザロである。また「賜物」とは、「永遠の赦しの宣言」と、「霊的ないのち」のことだ◆こうして私たちは、『キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです』(ヘブ10:14)、と記されているみことばが、完全に成就されていることを知る。『神のなさることは、すべて時にかなって美しい』(伝3:11)、のみことばの約束がここに成就したのである。

■ 2016/09/26 (日)
 [題]
「ルカ16章− ハデスに逃げ込んだ金持ちのたましい 」
 [みことば]
『アブラハムは彼に言った。「もしモーセと預言者との教えにみみをかたむけないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」』 (ルカ16:31)
 [ショート・メッセージ]
◆『ある金持ちがいた。いつも紫色の衣や細布のを着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。』(ルカ16:19) 当時有名な金持ちだったのだろう。王様気取りで暮らしていたようだ。その金持ちの家の門前に、ラザロという貧乏人が施しを求めに来ていたが無視されていた(同20〜21)。彼の全身は栄養失調性のおできが覆っていた。体力のない彼は力なく横たわるしかなかった。しばらくしてこの貧乏人のたましいは、死んでアブラハムのふところという霊的世界に移された。いっぽう金持ちも死んで盛大な葬儀が営まれたが、彼のたましいはハデス(地獄)に逃げ込んでしまった。彼自身が神のもとに行くことを拒んだのだ。『悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。』(ヨハ3:20)◆イエス様は霊的な目でご覧になった死後の世界を、弟子たちに話されたのである。ハデスで良心の呵責の炎に苦しむ金持ちのたましいは、まだ地上に残っている自分の兄弟5人までもがこんな苦しみの場所に来ないように、ラザロを生き返らせて兄弟5人のところに遣わしてよく言い聞かせてほしいと懇願したが、アブラハムは金持ちに言った。「彼らには聖書がある。その教えに耳を傾けないのなら、何が起ころうとも彼らは聞き入れはしない。」(同31)

■ 2016/09/04 (日)
 [題]
「ルカ16章− 聖書を読むときの要注意 」
 [みことば]
『ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。』 (ルカ16:11)
 [ショート・メッセージ]
◆1〜13節には、「不正な管理人は世の不正な富で友をつくった」という題をつけることができる。彼は主人に損害を与えない方法で、苦しんでいる債務者たちを救済した。すなわち自分の財布から債務者たちに犠牲を払って救済したのだ。このことを主は「不正の富に忠実だ」と言われたのである。不正の富とは、単に「世の富」のことであり、これに対比して「まことの富」(11)、とイエス様は言われた。これは「まことのいのち」(マタ16:26)のことで、すなわち霊的いのちに関わる尊い働きを意味している。これらの区別を学ばなければ、聖書の真理が不明のまま聖書を読み進めることになる。要注意だ◆ところで私たちは良く、「イエス様を信じればあなたは救われる」という勧めのことばを耳にした。イエス様が天地を造られた全知全能の神であられることを聖書から深く学ぶこともないまま「イエス様を信じれば救われる」とは、あまりにも人間的て宗教的な勧めのことばである。これでは偽クリスチャンをつくるようなものだ。これもまた要注意だ◆9節でイエス様が言われた『不正の富で、自分のために友をつくりなさい』とは、犠牲を払って信仰の友とつくりなさい、と命じていることであり、ズル賢く生きることを容認していることではないことを、しっかりと認識しなければならない。

■ 2016/08/28 (日)
 [題]
「新しい天と新しい地− 神からの賜物としての信仰を受け取らなければならない 」
 [みことば]
は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。』 (エペソ2:8)
 [ショート・メッセージ]
◆新しい天と新しい地(御国)の住人として「私たち罪人」を迎え入れてくださるために、イエス様は天から来られ、十字架によって贖いを成就してくださった、と聖書はその事実を明らかにしています。そしてその事実を信じ受け入れる者に「救い」が成就し、御国の住人となる資格が与えられるのです。『もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。』(ロマ10:9)◆多くの人がここまでは理解できると思っているのですが、「イエスを主と告白し」の「主」の意味を聞くと、信じ受け入れることが容易ではないと、すぐに認識するのです。なぜなら「主」とは、「天地を創造された全知全能の神」という意味だからです。そのことを事実として受け入れる信仰は、残念ながら人間の中からは生じ得ないからです。エペソ2章8節に次のように記されています。『それ(信仰)は、自分自身から出たことではなく』、さらにTコリント1章21節にも『事実、この世が自分の知恵で神を知ることがないのは…』と記されています。人として生きかられたイエス様を「天地を創造された全知全能の神」と告白できるのは、『聖霊(の取り扱い)によるので』あり(Tコリ12:3)、人間の知恵によるのではない◆恵みによって信仰によって救われるその信仰は『神からの賜物』(エペ2:8)、としての信仰でなければならないのです。

■ 2016/08/21 (日)
 [題]
「新しい天と新しい地− サタンの支配下から解放される 」
 [みことば]
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』 (マタイ11:28)
 [ショート・メッセージ]
◆イザヤを通して明らかにされていた「エルサレム」(イザ65:18)とは、「キリストのからだなる教会」のことであった(黙21:9〜10)。イザヤを通して主は語っておられた。『見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない』(イザ65:18〜19)。エルサレムとは「からだなる教会」、すなわち霊的共同体であり、その民とは「クリスチャン」のことだったのだ。『また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」 そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。』(黙21:9〜10)◆エデンの園でエバがだまされアダムもだまされて、神が計画されていた「御国」は一時的に中断したが、このとき悪魔の存在が明らかとなった。神は一時的に中断された御国を、「女の子孫」(創3:15)として遣わされる「メシヤ」によって、サタンの支配下にある闇の世に誕生させ、サタンによって汚されたたましいを招き、御国の住人にふさわしく聖めるご計画を、預言者たちを通して一つ一つ明らかにしていかれた◆あなたはなおもサタンの支配下に留まり続けるのだろうか。それとも、『わたしのところに来なさい』(マタ11:28)と招いておられるイエス様に自分の人生をゆだねて、そこから解放されないのだろうか。

■ 2016/08/14 (日)
 [題]
「新しい天と新しい地− すべてが新しくなる新しくなる 」
 [みことば]
『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』 (黙21:5)
 [ショート・メッセージ]
◆『見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。』(イザヤ65:17〜19) イザヤを通して、「主は新しい天と新しい地」について預言のことばを取り次がせておられる◆ここに用いられている『創造する』(17)のヘブル語バーラーは、「神」以外を主語にしてはならないことばである。「全人類を神のようになって惑わし続けた悪魔は、そのすべてが暴かれた後、火と硫黄との池に投げ込まれ、永遠のさばきを受ける」(黙20:10)。それは千年王国後のことである◆ついに、「この悪魔の有罪の真相のすべてが暴かれ、全人類にその悪と汚れが明らかにされる」のである。エデンの園のアダム時代からノアの箱舟までの二千年間、アブラハムからイエス様誕生までの二千年間、そして教会時代の二千年間、を通して「悪魔の永遠の滅び」が宣告され、悪魔はついに滅びるのである◆そして神の約束に基づいて「新しい天と新しい地」(黙21:1)が出現する。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない(同1)。そのとき、御座についておられる方の声がする。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」(同5)◆また七人の御使いの一人がこう言う。「ここに来なさい。小羊の妻である花嫁を見せましょう。」(同9)

■ 2016/08/07 (日)
 [題]
「新しい天と新しい地− 今の天と地はサタンの支配下にある 」
 [みことば]
『私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。』 (Tヨハネ5:19)
 [ショート・メッセージ]
◆今の天と地はサタンの支配下にあることが聖書の中で明らかにされている。『私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にある』(Tヨハネ5:19)。私たちとはからだなる教会に属している真の聖徒たちのことで、世を支配している悪い者とは、かつてエデンの園でエバをだましアダムに神との契約を破棄させた「サタン」のことだ。私たちもまた知らぬまま、闇の世・サタンの支配下に生まれ、生活して来たのだが、聖書に出会い、聖書の中に記されてある神の御声に注意深く耳を傾けるまで、全くの無知だった◆自分の人生を振り返るとき、確かにサタンの支配下で生活して来たことを確認することができる。『人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさ』であるとイエス様が教えておられる(マコ7:21-22)。これらの思い考えが私たちの中に確かに存在しているではないか◆サタンは何食わぬ顔、そしらぬ顔で神の前に立つ横着者である。『ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた』(ヨブ1:6)◆そんなサタンに操られて生きていた私たちに、神は完全で永遠の御救いを準備し完成してくださった。人となられた神、イエス様の十字架を通してである。この御救いについて神は、聖書の中に詳しく教えておられる。

■ 2016/07/31 (日)
 [題]
「質疑応答− 真理の御霊なる聖霊なる神によって知らされる 」
 [みことば]
『しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。』 (ヨハネ16:13)
 [ショート・メッセージ]
◆Q:聖書の成り立ちを教えてください。A:聖書66巻を通してしか神を知ることはできない。聖書は神の自己紹介の書であり、神のご計画と約束が記されてある。人造宗教しか知らない人間は、キリスト教という宗教の規律と思っているが、被造物である人間への神の語り掛けであり、全人類が知らなければならない真実が記されてある書だ。それゆえ、宗教書と思って聖書に向かう人間は、その時点でつまづく。まず知るべき真実は、神はこの被造物全体を御国として創造されたが、蛇に化身したサタンによってエデンの園時代のうちに中断されたという事実だ。サタンの誘惑にはまってしまったエバによってアダム契約(創2:17)が破られたからだ。そのためサタンの支配下に墜ちた闇の世に(Tヨハ5:19)、御国の光(マタ5:14)をともすため、神はアブラハムを選んでイスラエル民族を興し(創12:1〜3)、救い主を遣わす道筋を導びかれた。そして、時至り、処女マリヤの胎を用いてキリスト(救い主)が遣わされた。キリストは「主の祈り」の中で弟子たちに言われた。『だから、こう祈りなさい。「…御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」』(マタ6:9〜10)。その御国が父の約束として誕生したのが、使徒2:1〜4である。これらのことは、真理の御霊なる聖霊なる神によって知らされる。それが聖書である。

■ 2016/07/24 (日)
 [題]
「ヨナ書− 右も左もわきまえない十二万以上の人間と家畜 」
 [みことば]
『すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」』 (ヨナ書4:9)
 [ショート・メッセージ]
◆今回はヨナ書4章です。ヨナが教育される場面です。海底に沈みながら真剣になって悔い改めたヨナは、大きな魚の中で神への感謝の祈りと誓いをささげました。そして3章では、その誓いを果たし、ニネベの人たちに神のことばを伝えました。ヨナのうわさに満ちていたニネベの住民は、噂の人ヨナの口から出る神のことばに強く反応し、真剣に悔い改め(3:5)、神は悪の道から立ち返るために努力しているニネベへのわざわいを思い直し、わざわいを下すことはされなかったのでした(同10)◆ところがこのことでヨナは再び不愉快になります(4:1)。ユダの敵ニネベが滅びなかったからです。ヨナ自身、海中で悔い改めて赦された(2:6)にもかかわらず、ニネベに対する苦々しい思いはいまだ消えてはいませんでした。そこで神はヨナを教育するために、三つのものを準備されます。『とうごま』(6)、『虫』(7)、『東風』(8)◆とうごまで日陰を作り、虫によってとうごまを枯らせ、東風を送ってヨナを熱風で苦しめます。このことを通してヨナは、またたくまに枯れたとうごまを惜しみます。主は仰せられます。『まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか』(11)。神の律法を知らぬがゆえに善悪の判断もできずに生活しているニネベの住民の自滅を惜しまれる神。私たちも神に学び続けよう。

■ 2016/07/10 (日)
 [題]
「ヨナ書− むなしい偶像に心を留めてはならない 」
 [みことば]
『むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。』 (ヨナ2:8〜9)
 [ショート・メッセージ]
◆人々は仕方なく、ヨナを抱えて海に投げ込んだ。なんとヨナのからだが海面に触れた瞬間、海は怒りをやめて静かになった。それを体験した乗組員たちは非常に主を恐れ、ヨナという人物と、ヨナが仕えている主なる神に圧倒された◆ところでヨナのからだは、海底に向かって沈み続けた。その時のことをヨナは、大きな魚の腹の中で回想し思い返した。『よみの腹の中』(2:2)とは海中のことだ。絶体絶命の中では人は、助けを求める以外何もできない。海底に向かって沈みながらヨナは『主にお願い』(2)し、『叫ぶと』、その祈りに応えてくださる神を実感した。「私は海の真ん中に投げ込まれ、潮の流れに囲まれながら、大波の下に沈みました。そのとき私は、もう一度生きてあなたに礼拝をささげたいとお願いしました。神の命令に逆らった私の高慢を悔い改めながら私のからだはなおも沈み続け、息ができなくなり、海草に足がとられ、海底に沈み、脱出不可能になりました(6上)。と次の瞬間私のからだはふいに死の穴から引き上げらました(6下)。死の直前、私の祈りにあなたが答えてくださったのです(7)。身勝手な自分の考えや思いという偶像に支配されていた私は、あなたの恵みのご計画をないがしろにしていたのです(8)。」◆ヨナは神が備えてくださった大きな魚に保護された(1:17)。

■ 2016/07/03 (日)
 [題]
「ヨナ書− ヨナと、彼の仕える神に、人々は圧倒された 」
 [みことば]
『こうして、彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ。すると、海は激しい怒りをやめて静かになった。人々は非常に主を恐れ、主にいけにえをささげ、誓願を立てた。』 (ヨナ1:15〜16)
 [ショート・メッセージ]
◆本書は他の預言書と異なり、預言者の体験を描写している。ヨナとは、U列王記14:25で、ヤロブアム2世によってイスラエルの領土が拡大する、と預言した人物だ。それゆえ当時ヨナはイスラエルの国民に人気があった。人気があると人の評価が気になるもの。それが彼の愛国心に拍車をかけた。彼はニネベが、神のあわれみの対象となることを拒んだ。自国イスラエルを救うためには、ニネベ、すなわち大国アッシリヤが神のさばかれなければならないと考えた。それゆえニネベへの宣教命令を拒み(3)、タルシシュ行きの船に乗り込んだ◆すると主は大風を海に吹きつけ、暴風で船は沈没しそうになった。水夫たちは難破を恐れ船の積み荷を海に投げ捨て始めたが、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込み、自分を呼び戻そうとされる神を無視した。自分の神に向かって命乞いもしないヨナの行動は船長をはじめ乗組員の目には奇異に映った。海がますます荒れたときヨナは言った。「私を海に投げ込めば嵐はおさまります。この暴風は私が仕えている神が、私のためにあなたがたを襲ったのです」(12)◆人々は仕方なくヨナを海に投げ込んだ。何とその瞬間、海は激しい怒りをやめて静かになった。人々は非常に主を恐れた(16)。ヨナという人物と、彼の仕える神に、人々は圧倒された。

■ 2016/06/26 (日)
 [題]
「ヨナ書− わたしはあなたがたを全然知らない 」
 [みことば]
『あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。』 (Uコリ13:5)
 [ショート・メッセージ]
◆『悪いなまけ者のしもべだ』と、帰って来た主人から厳しく戒められたのは、一タラントを地の中に隠しておいたしもべであった(マタ25:24〜26)。このしもべは、主のことばを聞いてもそれを行わない、愚かな者であった(マタ7:26)。この山上の垂訓の締めくくりのたとえ話として、イエス様は、聞いても行わない者は神の御前に愚かな者で、さばきの日には、『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』とイエス様から宣告される者たちだ、と言われた◆たとい神についての知識を熱心に蓄えていても、また聖徒たちとの交わりを楽しんでいても、霊的いのちが与えられていないため(良い木に変えられていないため/マタ7:17〜18)、主から与えられている使命に関心がなく、聞いても神のことばを実行することができない。『良い実を結ばない木(信者)は、みな切り倒されて、火に投げ込まれ』る(マタ7:19)。だから主の警告に熱心に耳を傾けなければならない。『わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする』(黙示3:19〜20)◆『あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。』(Uコリ13:5)

■ 2016/06/19 (日)
 [題]
「山上の垂訓− 神のみこころを求めなさい 」
 [みことば]
『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます』 (マタイ7:7)
 [ショート・メッセージ]
◆山上の垂訓の教えは、『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから』(マタイ5:3)から始まっているが、勘違いしている方が多い。心の貧しい者(謙遜な者)になれと命じられている、と思っている。ところがここはそうではない。救いに与って霊的いのちに再創造された者は、その人の内側から、心の貧しさという新しい性質があふれ出て、救いの証明となるという意味だ。あなたはなおも謙遜にならなければならない、と努力しているのではないだろうか。それの性質は、救いと同時にすでに与えられているのだ。それ以外に、罪を悲しむ性質(4)、柔和さ(5)、神の義を求める思い(6)、あわれみ深さ(7)、などがあるとイエス様は教えられた◆さらにイエス様は『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます』(7:7)と教えられたが、求めるべきものは何だろう。自分の身勝手な願いではない。「神のみこころ」である。このみことばの直前でイエス様は命じておられたのだ。『神の国とその義とをまず第一に求めなさい』(6:33)。そしてその「神のみこころ」は、新生した者に内住してくださる「聖霊/ルカ11:13」によってつぶさに教えられるのである◆神が準備しておられる救いは、実に、完全で完璧であられる。主に感謝します。

■ 2016/06/12 (日)
 [題]
「山上の垂訓− 罪に対する敵意を受け取りましたか 」
 [みことば]
『あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。』 (Uコリント13:5)
 [ショート・メッセージ]
◆敵意とは、創世記3章15節で明らかにされた『敵意』のことで、アダムとエバがサタンに騙(だま)されて失った霊的いのちのことです。それは罪とサタンに対する敵意です。この敵意(霊的いのち)を回復するために御父は、御子をこの世に送るご計画を立てられたのです(原福音)◆山上の垂訓の終わりでイエス様は次のように教えて言われました。『良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません』(マタイ5:18)と。「良い木」とは霊的いのちが回復させられた者のことで、ヨハネの福音書3章では別のことばで教えてくださいました。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。』(3:5〜7)◆主よ私はあなたを信じました、信仰告白したので救われました、と単純に思い込んではいませんか。『あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい』、とパウロを通して主が命じておられるのです(Uコリント13:5)。あなたの中にこの敵意(霊的いのち)が与えられていますか。

■ 2016/06/5 (日)
 [題]
「山上の垂訓− 心の貧しい者は幸い 」
 [みことば]
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』 (マタイ5:3)
 [ショート・メッセージ]
◆数え切れないほどの『群衆』(マタ4:25,5:1)がイエス様のまわりに集まった。いつの時代も、どこの国の人も、みな倦み疲れている。たましいのルーツである創造主との正しい関係が損なわれたままだからだ。『空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。・・・私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ』(伝1:2〜3、14)。政治に求めても、社会に求めても、富に求めても、満足を得ることはできない。人の欲が深過ぎるからだ。イエス様は口を開いて教えて言われた。『心の貧しい者は幸いです』と(マタ5:3)。欲深い者は哀れだ。謙遜になり神に助けを求め、神の語り掛けに耳を傾けなければならない◆ところでこのあとイエス様は仰せられた。『天の御国はその人たちのものだから』(3)。天の御国、すなわち天国とはまず第一に「神がおられるところ」。そのお方が天国から聖書を通して語りかけておられる。ハデスに逃げ込んだ金持ちの懇願に対しアブラハムが答えている。『モーセと預言者の教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない』(ルカ16:31)。「モーセと預言者」とは、聖書のことだ。

■ 2016/05/29 (日)
 [題]
「質疑応答− イエス様の生涯8段階と、新生の確認の大切さ 」
 [みことば]
『わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。』 (マタイ7:21)
 [ショート・メッセージ]
◆Q:イエス様のご生涯の8段階についても一度教えてください。A:誕生・宣教・十字架・死・葬り・復活・昇天・着座。イエス様は御父のご命令に従ってこの世に来てくださった(受肉)が、私たちと異なり罪を犯すことはなかった(『罪は犯されませんでした/ヘブ4:15』)。なぜなら、『神は悪に誘惑されることのない方/ヤコ1:13』だからだ。私たち罪人と異なり、霊のいのちそのもののお方であられ、罪の性質を持っておられないからである。今も罪の性質(肉)にさいなまれている私たちも、栄光のからだに変えられる「栄化」の瞬間に、罪の性質から完全に解放されるのだ。『人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです/マコ12:25』◆Q:信仰告白しても救われていないことがあるのですか。A:それは本人がよく分かっていること。福音集会の独特な雰囲気の中で、イエス様のことをほとんど知らないまま、「イエス様を信じます」と告白してしまう人がいる。でも、自分の人生のすべてをささげるバプテスマ(献身の証明)を前に正直に自分を振り返り、新生していない自分に気づいて、バプテスマを躊躇するならその人は、その正直さのゆえに偽クリスチャンになる危険から主によって回避されたのである。主に感謝しなければならない。

■ 2016/05/22 (日)
 [題]
「ルツ記− 神のみことばに生きる者たちの幸い 」
 [みことば]
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』 (ロマ8:28)
 [ショート・メッセージ]
◆ボアズは自分よりももっと近い買戻しの権利のある親類を捜して、エリメレクの畑を買い戻すかどうかを聞くために、門のところに上って行くと、ちょうどその親類が通りかかった(ルツ4:1)。ボアズは彼に声をかけ、しかも町の長老10にんも招いて、公的裁判を始めた。するとその親類が「私が買い戻します」と言ったので、ボアズは確認した。『あなたがナオミの手からその畑を買うときには、死んだ者の名をその相続地に起こすために、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければなりません』(5)。するとその親類は言い直した。『私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。あなたが私に代わって買い戻してください』(5)◆そこでボアズは町の長老たちと民たちとに言った。『あなたがたは、きょう、私がナオミの手から、エリメレクのすべてのもの・・・を買い取ったことの証人です。さらに、死んだ者の名をその相続地に起こすために、私はマフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、私の妻としました。・・・きょう、あなたがたはその証人です』(9〜10)◆確かに神は、すべてを働かせて、益としてくださるお方である(ロマ8:28)。

■ 2016/05/15 (日)
 [題]
「ルツ記− ルツからボアズへの求婚 」
 [みことば]
『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』 (詩37:5)
 [ショート・メッセージ]
◆ルツ記の1章「導き」、2章「出会い」、3章「求婚」、4章「結婚」が書かれてある。今回の3章は「ゴーエールという法的根拠に基づいた/ルツからボアズへの求婚」について記されてある箇所である。ここに不思議な神の導きがあった。そしてそれに気づいたのが姑ナオミであった。姑はルツに、『(あなたの)身の落ち着く所を私が捜してあげなければならないのではないでしょうか』と言って、大麦の刈入れが終わり、打ち場でのふるい分けも終わり、祝いの宴が終わった後、打ち場で寝るボアズの足元の寝具をめくってそこに寝るように、と命じた(2〜4節)。するとルツは信仰によって応答し、その命令に従って打ち場に下った(6)。ところで足元の寝具をめくってそこに寝るという行為は、『その翼の下に避け所を求め』ることを意味していた(2:12)◆姑に従ったルツの行為に驚きながらもボアズはルツに言った。『主があなたを祝福されるように。あなたのあとからの真実(3:10d)は、先の真実(2:11)にまさっています』。信仰に応答したルツの行為に対しボアズもまた信仰に応答したのだ。そしてボアズは続けて言った。『主は生きておられる。とにかく朝までおやすみなさい』。信仰とはゆだねきることである。

■ 2016/05/08 (日)
 [題]
「ルツ記− 主からの豊かな報い 」
 [みことば]
『ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。』 (ルツ2:11〜12)
 [ショート・メッセージ]
◆さてモアブ人の嫁ルツは、しゅうとめナオミとの生活を保持するために、落ち穂を拾い集めに出掛けた。慣れない土地で、右も左もわかないまま、広い農場に行き麦を刈る人たちの後についた。ところがその畑ははからずも、エリメレク一族に属するボアズの畑だった◆ちょうどその時、主人ボアズがベツレヘムの町から帰って来て、刈る者たちの世話をしている若者に尋ねた。「この女はだれの娘か。」 若者は答えて言った。「モアブの野からナオミといっしょに帰って来たモアブの女で、朝から今まで休みもせず、ずっと立ち働いています。」◆ボアズはルツに親切にして言った。「遠慮しないで、ずっとここで落ち穂を拾いなさい。だれもあなたの邪魔しないように、きつく命じておきました。」(8〜9) 「どうしてそんなに親切にしてくださるのですか」(10)、と問うルツにボアズは言った。「あなたがしゅうとめにした愛の行為、また自分の国を離れてユダの民のところに来たことについて、すっかり話を聞いたのです。主があなたのしたことに報いてくだるように。主から豊かな報いがあるように。」(11〜12) そして昼食の時にはパンと炒り麦をルツに与えた(14)◆主なる神は私たちのすべても見ておられ、豊かに報いてくださるお方である。

■ 2016/05/01 (日)
 [題]
「ルツ記− 信仰に生きるルツ 」
 [みことば]
『ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」』 (1:16〜17)
 [ショート・メッセージ]
◆ルツ記は旧約聖書の、歴史書の中にあります。『さばきつかさが治めていたころ/1節』、とありますがBC1150年ごろのできごとです。妻と男の子ふたりを連れてエリメレクは、飢饉の難を避けるためにモアブの地に行きました。そこで長男マフロンはモアブの女ルツを妻に迎え、次男のキルヨンは同じくモアブの女オルパを妻としました◆ところがそこで過ごした10年の間に、父エリメレクとふたりの息子も死んでしまいます。過労死だったのかも知れません。後に遺ったのは二人の嫁と、しゅうとめのナオミの女性だけ3人。そのころやっと、故郷ユダの飢饉が去り、再び繁栄してきたとの知らせが届いた。しゅうとめはふたりの嫁と一緒にユダの地への帰途についたが、オルパはモアブの地にとどまることになり、ルツはナオミから離れずユダに行くことになった。エリメレク一家を通してルツは真の神を知り、本物の信仰に至っていたのだ◆ユダの地に付いて行くというルツを心配しするナオミに、モアブの嫁ルツは言った。『あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です』(1:16)。ルツの信仰は、イスラエルの神、聖書を通して語りかけておられるお方にしっかりとつながっていたのだ。

■ 2016/04/24 (日)
 [題]
「使徒の働き2章− 兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか 」
 [みことば]
『わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。』 (イザヤ57:19)
 [ショート・メッセージ]
◆父の約束が成就して注がれた聖霊を受けたことにより、12使徒たちは舌を制御され、めいめいの国の国語で福音を語り続けた(2:7〜11)。ペテロが11人とともに立って福音宣教のことばを取り次いでいると、これを聞いて心を刺された人々は(37)、ペテロたちのところに来て言った。「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」◆そこでペテロは彼らに言った。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」(38〜39)◆このバプテスマは献身のバプテスマではなく、悔い改めのしるしとしてのバプテスマであり、このあとイエスを主と信じ受け入れる者には、新生のしるしとしての聖霊が注がれるのである。この約束は、ユダヤ人にも異邦人にも与えられていた。『わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。』(イザヤ57:19)、『主の名を呼ぶ者はみな救われる。』(ヨエル2:32)◆こうしてキリストのからだなる教会は、歴史の中で躍動し始めた。

■ 2016/04/17 (日)
 [題]
「使徒の働き2章− 天の御国の誕生が証明された 」
 [みことば]
『私たちは・・・滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。』 (使徒2:9〜11)
 [ショート・メッセージ]
◆イエス様は、よみがえられてから40日後に天に帰られ、父の右の座に着座された/ヘブ1:3。それから10日後の五旬節の日に、父の約束が成就し、聖霊なる神が降臨された。その時の様子が次のように歴史に刻まれている。『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』(使2:1〜4)◆弟子たちは学んだことのない外国語で何を話していたのか。それを聞いていた群衆の証言によると、『神の大きなみわざ/11』、すなわち福音であった。福音とはキリストが贖いの代価を支払ってくださることによって罪人の罪が清算され、神の御前に無罪とされるという、新しい契約(ルカ22:20)のことである。聖霊の満たしを理解できなかった群衆の中には、「彼らはぶどう酒に酔っている」とかんちがいする者たちもいた◆世界各地から集まった人々に共通の「理解できる言語」で語られたということは、バベルの塔以来の「言語の呪い」が消滅することをも意味していた。福音という新しいことばによる天の御国の誕生が証明されたのである。

■ 2016/04/10 (日)
 [題]
「使徒の働き2章− 父の約束 」
 [みことば]
『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』 (使徒2:1〜4)
 [ショート・メッセージ]
◆「父の約束を待ちなさい。もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」(使1:4〜5)、とイエス様は弟子たちに言われ天に帰られた。「父の約束」とは聖霊降臨のことであり、「もう間もなく」とは、イエス様の身代わりの死と、葬りと、よみがえりと、昇天と、着座によって、贖いのみわざが文字通り完了し、聖められる人の中に聖霊なる神が宿られる、その瞬間がもうすぐ来る、という意味である◆イエス様はよみがえられてから40日間、彼らに現れて神の国のことを語られ、数多くの証拠をもってご自分が生きておられることを示され(3)、「聖霊があなたがたの内に宿られるときが来たなら、あなたがたはわたしの証人となる」(8)、と言われて昇天され(9)、父の右の座に着座された(ヘブ1:3)◆さらにそれから10日後の五旬節の日に、レビ記23:16に預言されていたとおりに、弟子たちが『新しい穀物』として誕生した瞬間が、聖書に記録され、歴史に刻まれた。『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』(2:1)◆父の約束はこのようにして成就したのである。

■ 2016/04/03 (日)
 [題]
「使徒の働き2章− 教会時代の幕開け 」
 [みことば]
『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』 (使2:1〜4)
 [ショート・メッセージ]
◆週の初めの日の夕方のこと、弟子たちはサンヘドリンの議員たちを恐れて戸を閉め切っていたが、よみがえられたイエス様が来られ、弟子たちの中に立って言われた。『平安があなたがにあるように。』(ヨハ20:19)こう言われてイエス様は、十字架刑で傷つけられたご自分の手とわき腹を弟子たちに示されて、もう一度繰り返して言われた。『平安があなたがたにあるように。』そして彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』(同21〜22)神のかたちの再創造を宣言されたのである(創2:7)◆よみがえられてから40日間、確かな証拠をもってご自分が生きておられることを使徒たちに示されたイエス様は、彼らに命じて言われた。『エルサレムを離れないでわたしから聞いた父の約束を待ちなさい。』(使1:3〜5)イエス様の十字架と復活によって義とされ聖められる者たちの中に、聖霊なる神が宿られるその時が来たのである。人類の中から消滅していた、神のかたちの再創造の瞬間が来たのである。イエス様がオリーブ山から天に昇って行かれてから10日後の五旬節の日に、その約束は成就した(使2:1〜4)◆この地上に、生ける水の川が流れ出るようになったのである(ヨハ7:38)。キリストのからだなる教会の誕生である。

■ 2016/03/27 (日)
 [題]
「律法− イエス・キリストを信じる信仰による神の義 」
 [みことば]
『なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。・・・今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。』 (ロマ3:20-22)
 [ショート・メッセージ]
◆聖書を学んでいくうちに、「律法」に対して悪いイメージが付くようになります。しかしそれは聖書の入り口で立ち止まっているからです。律法それ自体は、『聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いもの』(ロマ7:12)、問題は罪に汚染されている人間の側にあります。すなわち律法を利用して自分を誇り、他者を見下して高慢の罪を犯し(ルカ18:11、21)、神の前で自分に栄光を帰すようになるからです。これでは、神のようになろうとして神に反逆した悪魔と同じです(エゼ28:2)◆救いは「行い」にはよりません。救われるための「行い」の道はどこにもないのです。神を無視して生きようとする罪が自分の中にあることを素直に「認め」、その罪の支配下から抜け出せない人間を救うために天から来られ天に帰られた神なるイエス様を、聖書をとおして知り、「人生を委ねる」信仰によるしかないのです。そうです、この道以外にはないのです◆神の前にへりくだってください。謙遜になって神が何を教え示しておられるのか、耳を澄ませてください。自分がどう思いどう考えているかを主張せず、聖書から学び続けるのです。そのために大切なことは、必ず、どこかの集会に属し、『導く人』たち(使8:31)を通して、聖霊の取り扱いを受けること。高慢にならないように気を付けてください。何かにつけ、高ぶりやすいからです(箴18:12)。

■ 2016/03/20 (日)
 [題]
「律法− キリストの律法を守り行う 」
 [みことば]
『わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。』 (エゼキエル11:19-20)
 [ショート・メッセージ]
◆神は律法を通して、「どう生きるべきか」を教え導き、「献身」へと促しておられるのだ。ところで、神への信仰告白は3つの段階がある。@悔い改めの信仰告白(使徒2:38)、Aイエスを主であると信じる信仰告白(ロマ10:9)、B献身の信仰告白(マタ16:24)、の3段階であり、これらは順番を変えることはできない。認め・告白し・委ねることであり、すなわち、(自分の罪を神の前に)「認め」、(イエスが主であると)「告白」し、(これから後の人生の一切を神に)「委ねる」と誓うのである◆そしてこの、@とAの告白を日々2本のレールとし、Bの信仰告白の中で信仰生活を全うしていくのだ。この主とくびきを負って生きる人生を可能とするために欠かせないのが、「新生」体験である。『人は、新しく生まれなければ神の国を見ることはできません』(ヨハネ3:3)と記されてある通りだ◆『わたしは彼らに一つの心(神の霊)を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊(神の霊)を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心(神の霊)を与える。それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定め(キリストの律法/ガラ6:2、ヤコ1:252:12)を守り行うためである。こうして(はじめて)、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。』 (エゼキエル11:19-20)◆知識だけでは、人生のすべてを明け渡すことはできない。

■ 2016/03/13 (日)
 [題]
「律法− 律法を実行するには 」
 [みことば]
『わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。』 (エゼキエル11:19-20)
 [ショート・メッセージ]
◆律法の専門家がイエスをためそうとして質問した。「永遠のいのちを受けるためには何をしなければなりませんか。」そこでイエス様は「律法には何と書いてありますか」と質問すると、その専門家は見事に答えた。「神を愛することと、人を愛することです。」イエス様は言われた。「そのとおりです。それを実行すればいのちを得ます。あなたにはそれが実行できますか。」イエス様が言われたのは、あなたは霊的ないのちに基づいた神の真実な愛を受けていますか、と言うことであったが彼には理解できなかった。そこで彼は尋ねた。「私の隣人とはだれのことでしょう」◆イエス様は傷ついたユダヤ人を助けたサマリヤ人のたとえ話をされて、隣人とはあなたの助けを必要としているすべての人であると諭された。新約聖書の書簡は福音が完成された後の正統的教理であるが、旧約聖書の律法は福音が完成される以前の時代の正統的教理である。すなわち律法も神のみこころそのものであるが、霊的いのちによらなければ実行不能であった。イスラエル民族に、そのことに気づかせ求めさせるためのものだったが、ユダヤ人たちはユダヤ教を作ることによって、自己満足に突っ走る宗教の指導者たちと、それに付いて行けずに意気消沈する一般民衆に分かれた◆神のみこころは永遠のいのち(霊的いのち)が与えられなければ実行できないのである(エゼ11:19-20)。

■ 2016/03/06 (日)
 [題]
「律法− 律法は神の基準を明らかにする 」
 [みことば]
『聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。』 (Uテモテ3:16)
 [ショート・メッセージ]
◆今回から律法について聖書から学びます。今回は出エジプト記の20章にある十戒についてです◆@聖書を通してご自信を示しておられる主のほかに礼拝する神を考案してはならないこと(3)。A偶像を作って礼拝してはならないこと(4-7)。B主の御名をみだりに唱えこれを利用して誓約してはならないこと(7)。C一週間に一日の安息日を守り公の礼拝を守ること(8-11)。D信仰を継承してくれる父と母を敬うこと(12)。E殺人をしてはいけないこと(13)。F姦淫をしてはいけないこと(14)。G盗んではいけないこと(15)。Hうその証言をしてはいけないこと(16)。I隣人の家にあるものをどれ一つもむさぼってはいけないこと(17)◆この十の戒めは二つにグループ分けできる。前半@〜Cは「神との関係における戒め」であり、後半D〜Iは「人との関係における戒め」である。これらは神の基準を明らかにするものであり、人がうごめく世と、ルールを作って形成する社会に、混乱を招き続けている人間的基準を排除するために、仲介者モーセを通してイスラエルの民に与えられた(ガラテヤ3:19)◆神を認めない人間社会の影響を受けて生きてきた私たちである。聖書を通して神の基準を学び、軌道修正していただこうではないか。

■ 2016/02/28 (日)
 [題]
「ザアカイ− イエス様の弟子となることを拒んだ役人 」
 [みことば]
『あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい』 (ルカ18:22)
 [ショート・メッセージ]
◆ザアカイが登場するのはルカの福音書19章だが、18章にも「金持ち」が登場していた(23)。役人だ(18)。サンヘドリンの議員のひとりだろう。彼はイエス様と出会うなり、イエス様の弟子や群衆に聞こえよがしに質問をした。『何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょう』。自分こそ永遠のいのちを神から受け取るにふさわしい生き方をしている者だ、と言わんばかりに◆するとイエス様が律法についてお話をなさると、『そのようなことはみな、小さい時から守っております』と、これまた人の前に自慢した。他にまだやり残しているものがあるのでしょうか、と言わんばかりに。その時イエス様がその役人に言われた。『あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい』。致命的な欠けがあると言われた。それは神のみ前にへりくだり、神を信頼し、神に自分の人生のすべてをゆだねて生きること、すなわちイエス様の弟子となることだ◆彼はこれを聞いて非常に悲しんだ。なぜならたいへんな金持ちだったからだ(23)。どんなに威張ってもそれは人間のレベル内でのこと。神を真に知らなければ、永遠のいのちを得ることはできない。

■ 2016/02/21 (日)
 [題]
「ザアカイ− お金への執着心から解放されたザアカイ 」
 [みことば]
『イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」』 (ルカ19:5)
 [ショート・メッセージ]
◆人生に行き詰っていたザアカイはどうしてもイエス様にお会いしたかった。群衆にじゃまされて路上では見ることができないと悟った彼は、前方に走り出ていちじく桑の木に登った(4)。あきらめたくはなかった。するとイエス様は、『ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた』(ルカ19:5)◆「ちょうど」である。全知であられるお方はザアカイのすべてを知っておられたので、他の弟子や群衆には気づかれなかったザアカイに、イエス様のほうからグッドタイミングで声をかけられたのだ。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから』。イエス様の招きである。交わりへの招きである。御国への招きである◆『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』(マタイ11:28)。全知なるイエス様のもとにこそ、休息がある、解決がある、真の自由がある。新しい人生が準備されてある。過去を悔い改めたザアカイは、財産のすべてを手放す決心がついて言った。『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します』(8)。ザアカイの人生を狂わせていたお金への執着心から解放され、イエス様の弟子としての人生がスタートしたのだ。

■ 2016/02/14 (日)
 [題]
「ザアカイ− ふたりの主人に仕えることはできない 」
 [みことば]
『しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません』 (ルカ16:13)
 [ショート・メッセージ]
◆イエス様が言われた通り、確かに人はふたりの主人に仕えることはできない。取税人のかしらザアカイは、イエス様に人生のすべてを明け渡す決断と信仰告白によって、富に執着して来た苦しみから解放された。『ザアカイは立って主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」』(ルカ19:8)◆お金に執着している間は、お金の奴隷だ。神ご自身が見えなくなる。なぜなら、富に執着することは神に逆らう<罪>だからだ。『肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです』(ガラテヤ5:14)◆ザアカイはイエス様に来ていただき、教えを受けて、モヤモヤとしていたすべての原因が判った。人は気づかぬうちに、自分の中にある古い肉の性質に支配される。『人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて誘惑されるのです』(ヤコブ1:14) 決断せよ、立ち上がれ。あなたの前におられるイエス様に、一切を明け渡せ。それ以外に真の幸いはない◆イエス様はあなたに言っておられる。『わたしについて来なさい』(マタイ4:19、8:22、9:9、16:24、19:21)。

■ 2016/02/07 (日)
 [題]
「ザアカイ− 信仰とは何か」
 [みことば]
『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』 (詩篇37:5)
 [ショート・メッセージ]
◆2月の4回の福音集会では、ザアカイの箇所を調べていきます。まず第一回目の今回は、ザアカイを通して「信仰とは何か」を学び合いたいと思います。ザアカイは人生に行き詰まっていました。藁(わら)にもすがる思いで、『イエスがどんな方か見ようとした』のです(ルカ19:3)。背が低く、エリコの住民から嫌われていた彼は、人間の壁に邪魔されて、道を通られるイエス様を見ることができませんでした。それでもあきらめることなく、必死の思いでいちじく桑の木によじ登りイエス様一行を待っていると、イエス様のほうからザアカイの名が呼ばれ、『きょうはあなたの家に泊まることにしてあるから』急いで降りて来なさい(5)、とのこと。町中の人々にねたまれながらザアカイはイエス様一行を自分の家に招きました◆取税人御殿の中でザアカイはイエス様から、『神の国とその義とを』(マタ6:33)教えてもらいました。求めていた彼は、目からうろこが何枚も落ちたのでしょう。これまで得た財産のすべてを手放す決断(同8)を、群衆の前で告白し、イエス様についていく決心をしたのです◆信仰とは「イエス様を信じます」と口で告白するだけでなく、残された人生のすべてを明け渡すことだと知ったのです。

■ 2016/01/31 (日)
 [題]
「質疑応答− わたしの目には、あなたは高価で尊い 」
 [みことば]
『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』 (イザヤ43:4)
 [ショート・メッセージ]
◆Q:主のみこころを行いたいと思いながらもできずに、ジタバタもがいているクリスチャンに対して、主の目にはどのように映っているのでしょうか?◆A:『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。/イザヤ43:4』勝手に家を飛び出した放蕩息子に対する父の思いです(ルカ15章)。あの弟息子は、自分の思い考えを最優先し、自制できないまま父の元から離れ遠い国に旅立ちますが、そこでジタバタします。何をやってもうまくいかないのです。孤独と寂しさの中にあって意地を通しますが、ますますジタバタしていきます。このままでは自分の人生は迷路の中で行ったり来たりだと思った彼は、思い切って父の元に帰る決断をします。そんな彼を父は待ち続けていました。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。父の目には涙があふれ、準備されていた良い着物と指輪と靴が渡されました◆Q:信仰とは何を信じるのですか?◆A:イエスが旧約聖書に約束されていたメシヤであること、神であられること、贖いの代価を支払うために来られたこと、御国の王であられ、大きな白い御座に座すさばき主であられることを信じることであり、信じて人生のすべてをゆだねることが信仰です。

■ 2016/01/24 (日)
 [題]
「詩篇− 主は私の羊飼い 」
 [みことば]
『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』 (詩篇23:1-4)
 [ショート・メッセージ]
◆『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません/詩23:1』。ダビデ王は神を羊飼いにたとえ、自分を羊になぞらえた。視力が弱く、嗅覚も鈍く、武器としての鋭い爪も尖った角も持たず、咬み付く牙もない羊は、羊飼いの保護と導きの中でしか生きる術がない。羊という動物はそういう生き物なのである。そしてダビデは、イスラエルの王位につく以前、羊飼いとしての働きを続けていたので、その羊の習性を熟知していた。その上で自分を羊になぞらえていた。いや、ダビデだけではない。私たちもまた神の前に存在しなければならないならない羊である◆羊は、羊飼いに導かれて牧草地へ行き、水のほとりで水を飲む。敵である野獣に囲まれても、羊飼いがいるので恐れることがない。むちで敵を追い払い、進むべき方角を杖で示してくれる(4)。肉体的にも精神的にも守られ、導かれ、守られる◆イエス様は弟子たちに言われた。『わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます/ヨハネ10:11』。『わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています/同14』。十字架上で自分の身代わりとなられたイエス様を、自分の救い主であると信じ受け入れ人生をゆだねるならば、主は常に共にいてくださる(マタイ11:29)。

■ 2016/01/17 (日)
 [題]
「詩篇− 心を尽くして主を尋ね求める 」
 [みことば]
『私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。』 (詩篇119:10-11)
 [ショート・メッセージ]
◆『どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。/詩119:10』聖書のみことばは私たちの人生の道しるべです。みことばを学ばないため、世界中で人が迷子となって犯罪に手を染めているのです。迷子とは、自分の感情に支配されて奴隷状態となることを言います。聖書のみことばを軽んじてはなりません。世の知識をいくら収集しても、人生が汚れに引き渡されているなら、平安も喜びも消え失せてしまうのです◆『あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。/同11』人が幸せを感じるのは、創造主なる神と喜びの共有を味わっているときです。みことばを蓄えて生きる者は悪魔の策略に立ち向かう訓練を受ける者(エペ6:11)とされます。敗北の人生ではなく勝利の人生が約束されます◆『私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。/10』あなたは心を尽くしていますか。すなわち、みことばの奥義を学び続けていますか。みことばを自己解釈していては無意味です。霊的共同体である集会・教会の交わりという、主の臨在の中で学ばなければなりません◆『あなたのことばに従ってそれを守ることです。/9』守るとは実践のことです。ペーパードライバー信者になってはいけません(ヨハ15:2)。

■ 2016/01/10 (日)
 [題]
「詩篇− 詩篇は神の民の人生の縮図 」
 [みことば]
◆詩篇は、神の民のありのままの姿を赤裸々に描いており、賛美歌の歌詞として用いられていた(エペソ5:19、コロサイ3:16)。詩篇全体を内容ごとに分類することは難しいが、幾つか分類するなら、「都上りの歌」(120篇から134篇)、「ハレルヤ詩篇」(146〜150篇)、「メシヤ詩篇」(2,16,22,110、他)、「悔い改めの詩篇(32,51,130,143、他)」、「イスラエル史詩篇」(78,81,105,106)、「神のことばについて歌う詩篇」(19,119)、などに分類することができる◆『どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。』(詩119:9) 神のことばを学ぶ時、人は人としてのあるべき姿を見出す。さらにみことばを生きる時、人は平安を体験し、生きる喜びを味わうことができる◆『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』(同71) 『主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。』(同75) 主のみことばによって養われなければ、神の子ではなくなる。神の子としての苦しみを味わうことがなければ、神の子としての成長はない。詩篇を通して神の民のあるべき姿を学ぼう。
 [ショート・メッセージ]
◆詩篇は、神の民のありのままの姿を赤裸々に描いており、賛美歌の歌詞として用いられていた(エペソ5:19、コロサイ3:16)。詩篇全体を内容ごとに分類することは難しいが、幾つか分類するなら、「都上りの歌」(120篇から134篇)、「ハレルヤ詩篇」(146〜150篇)、「メシヤ詩篇」(2,16,22,110、他)、「悔い改めの詩篇(32,51,130,143、他)」、「イスラエル史詩篇」(78,81,105,106)、「神のことばについて歌う詩篇」(19,119)、などに分類することができる◆『どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。』(詩119:9) 神のことばを学ぶ時、人は人としてのあるべき姿を見出す。さらにみことばを生きる時、人は平安を体験し、生きる喜びを味わうことができる◆『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』(同71) 『主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。』(同75) 主のみことばによって養われなければ、神の子ではなくなる。神の子としての苦しみを味わうことがなければ、神の子としての成長はない。詩篇を通して神の民のあるべき姿を学ぼう。

■ 2016/01/06 (水)
 [題]
「ガラテヤ人への手紙5章− 新しいいのちはみことばによってしか養われない 」
 [みことば]
『御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。』 (ガラテヤ5:16)
 [ショート・メッセージ]
◆先ほど賛美した聖歌402番「♪丘に立てる荒削りの」のおりかえし部分を見てください。「十字架にイエス君/われを贖いたもう/十字架の悩みは/わが罪のためなり」とありましたが、この「罪」を賛美したときみなさんはどのようにイメージしながら賛美したでしょうか◆多くの場合、ほとんどの人は、過去犯した自分の罪の罪状書きを思い起こすのではないか、と思います。そして、「ああ、何であんな事をしたんだろう。失敗したなあ。今度からは気を付けよう。もう二度としないぞ。ああ神さま恥ずかしいです。ごめんなさい、赦してください。あなたの記憶から消してください。思い出さないでください」というような気持ちになったのではないでしょうか◆違うのです。あの「わが罪のため」の「罪」とは、罪の力、罪性、罪の誘惑に弱い自分の古い肉性のこと、すなわち「罪と死の原理/ロマ8:2」に支配されていた古い肉性のことです。キリストはあなたのその肉性を処罰するためにあなたの身代わりとなって十字架上で罪の刑罰を受け、死なれたのです。あなたを新しいいのちに再創造するためです(ヨハネ3:3)。罪が赦される、とはそういう意味なのです。そしてその新しいいのちは、みことばによってしか養われないのです。

■ 2016/1/3 (日)
 [題]
「クリスマス− よみがえられた救い主 」
 [みことば]
『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』 (ヨハネ11:25)
 [ショート・メッセージ]
◆旧約の約束に基づいて、メシヤが「女の子孫」(創3:15)として世に誕生するときの大きなしるしが明らかにされていた。「処女降誕」(イザヤ7:14)である。そしてその通りに、ナザレの町の処女マリヤからお生まれになられ、イエスと名付けられた。この処女降誕の事実は、ルカ1章とマタイ1章に克明に記録された◆ところがこの方の最期は十字架による公開処刑だった。ユダヤの民衆はこの方に希望を託していたのだが、公開処刑が決定付けられたことを知って民衆は失望した。メシヤと期待を寄せていたイエスは死なれ墓に葬られた。しかし、なおもうひとつの大きなしるしが旧約に約束されていた。「復活」である。そしてイエス様は弟子たちに、逮捕される直前に繰り返し話しておられた(マタイ16:21)。そしてその通り、墓に葬られて3日後にイエス様は復活され、弟子たちは復活の証人となって命がけで証したのである。『しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。』(使3:15)◆クリスマス、それはアダムとエバの時からずっと縛られていた罪の鎖を解き放ち、サタンと罪の支配から人類を救出するために世に来られたキリストを記念する喜びの出来事。処女降誕と復活によって裏付けられた神の約束の成就。

■ 2015/12/27 (日)
 [題]
「クリスマス− イエス様はずっとあなたを待っておられる 」
 [みことば]
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』 (ヨハネ3:16〜18)
 [ショート・メッセージ]
◆クリスマスとは何か。12月になるとテレビでもラジオでも、ネットでも雑誌でも、スーパーでもデパートでも、クリスマス一色になって、街全体が浮かれ始める。商売のために大いに利用され、中身のないお祭り騒ぎが始まる。もう一度聞こう、クリスマスとは何か。クリスマスとはキリスト(christ)+マス(mas)で、救い主の誕生を喜び、礼拝することだ◆しかし、商売には邪魔だと言わんばかりに、キリスト誕生の聖書記事は割愛され、ソリに乗ったサンタやスノーマンが表舞台に立たされ、人々は一人歩きした情報に振り回される。楽しけりゃあ、面白けりゃあ、それでいいと、人々は無意味な時間を過ごしていく◆イエス様は天から来られた。失われた羊を捜す羊飼いのように、イエス様は自分の体を傷つけながらも、罪の牢屋から解放されないままの一人ひとりを救出して御父のもとに連れて行くために、世界の終わりに天から遣わされる、と約束されていた救い主だ。目覚めよ、気付けよ、応答せよ。主はあなたの名を、これまでも繰り返し呼んでおられる◆生きることに疲れを感じたら、空しさに気付いたら、不安を認識したら、遠慮なく教会に飛び込んで、イエス様について尋ねよ。イエス様が休息を準備しておられる。そこに癒しがあり安らぎがる。イエス様はずっとあなたを待っておられる。

■ 2015/12/20 (日)
 [題]
「クリスマス− 処女降誕2 」
 [みことば]
『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。』 (マタ1:20)
 [ショート・メッセージ]
◆『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。…神にとって不可能なことは一つもありません。』(ルカ1:35-37) 処女降誕という御父の特別なご計画は、長い人類の歴史を経て、ついにその成就の時を迎えようとしていた。ここに至るまで神は、ノアを用いられ、アブラハム、モーセを用いられ、ダビデを用いて来られた。しかも秩序を壊すことなく、サタンに反撃の隙を与えることなく、綿密緻密にそのご計画を進め、語られた預言のことばを成就し続けれ来られた◆処女降誕。マリヤ自身、理解を超えた出来事だけに、自然の法則を超えた事柄だけに、受け入れ難いことであったが、「神にとって不可能なことは何一つありません」との御使いのことばによって信仰を与えられ、神のことばを受け入れた。ほどなくして体調の変化に気付いたマリヤ。お腹に神の子が宿ったのである。しかし納得いかないのがヨセフである。愛するマリヤのお腹が膨らんでいくとヨセフは、2-3人の証人を立てて内密にマリヤと離縁することにした。ちょうどその夜、マリヤの元に来たのと同じ御使いが現れて、事の詳細が告げられた(マタ1:18-25)。二人とも神の信仰を受け入れ、生まれてくる新生児を養育する使命に与ったのであった。贖いの代価として必要な罪なきからだはこのようにして導かれたのであった。 

■ 2015/12/13 (日)
 [題]
「クリスマス− 処女降誕 」
 [みことば]
『御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。…神にとって不可能なことは一つもありません。」』(ルカ1:35-37)
 [ショート・メッセージ]
◆御使いガブリエルがナザレの町のひとりの処女マリヤのもとに遣わされたことにより、人類を永遠の滅びから救う神のご計画が幕を開けた。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28) マリヤがこのことばにとまどっていると、御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」◆婚約は済ませ、籍は一つとなってはいても、まだいっしょに生活を始めていなかったマリヤは御使いに尋ねた。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだヨセフといっしょに結婚生活を始めてはいません。」 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ生まれる者は聖なる者、神の子と呼ばれます。」◆人間と同じ肉体を得て神の御子が世に現れるために、人間の営みによらない方法が明かされた。聖霊が臨み、神の力によって、奇跡的な受胎がなされることだ。神にとって不可能なことはない。マリヤは神のご計画を受け入れた。「ほんとうに私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(38)

■ 2015/12/06 (日)
 [題]
「質疑応答− 熱心になって悔い改めなさい 」
 [みことば]
『堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。』 (Tペテロ5:9-10)
 [ショート・メッセージ]
◆Q;黙示録3:20の『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』の意味を教えてください◆A;ここは、教会の交わりの外に追い出されたイエス様が、イエス様抜きの交わりを楽しんでいる不信仰名教会に、「悔い改めて戸を開けなさい」と呼びかけている場面である。ラオデキヤ教会時代、すなわち空中携挙直前の教会時代に入ると、教会が霊的に堕落し、信仰が低迷し、世との境界線が曖昧となることが預言されていたのである。私たちもまた、この箇所から戒めを受け、身を引き締めなければならない。ではなぜ教会の中からイエス様を追い出すようなことになるのか。15節には、『あなた(ラオデキヤ時代の教会)はなまぬるく、熱くも冷たくもない』、とイエス様から厳しく警告されている。教会は目覚めなければならない。サタンが神に対し最期の挑戦をする時代に突入しているからだ。『あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回って』いる(Tペテロ5:8)。世の豊かさの中で神を見失わないように。世の便利なものに振り回されすぎないように。イエス様の次のことばをいつも思い出すべき。『わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。』(黙3:19)

■ 2015/11/29 (日)
 [題]
「ローマ人への手紙7、8章− 主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝 」
 [みことば]
『肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。』 (ローマ8:3)
 [ショート・メッセージ]
◆『私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。』(ロマ7:24) 人間のレベル、人間の力、人間の努力では無理であることを認めなければならない。漬け込まれた大根を、元の初々しい新鮮な大根に戻すことはできない。しかしパウロは、知った、出会った、体験した。心を低くし、信じ受け入れる者に対して、「新生」という奇跡をなしてくださる主を。『私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。』(同25)◆たとい肉体の弱さのゆえに「罪の律法」に支配される弱さが残されていようとも、もうすでに新生の恵みを受け、心に霊のいのちをいただいているのですから、神に感謝するばかりです、とパウロは喜び感謝している(同)。『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。』(ロマ8:1)、とパウロは声を大にして神に感謝している。キリストの十字架による贖罪の死は、罪人の罪を御父の前に清算するためであり(同3)、キリストのよみがえりによって罪赦された者たちのうちに霊のいのちが与えられることが証明されたのである(11)◆『ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。』(12-14)

■ 2015/11/22 (日)
 [題]
「ローマ人への手紙7、8章− 神の前に正直に生きること 」
 [みことば]
『では、律法(戒め)とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫(キリスト)が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、・・・こうして、律法(戒め)は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。』 (ガラテヤ3:19、24)
 [ショート・メッセージ]
◆パウロは言った。『律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。』(ロマ7:7) 律法(聖書)に出会い、そのみことばを正しく解き明かされることがなければ、私たちは自分の現実を知らないまま人生を過ごしていたでしょう、とパウロは言った。神が全人類に求めておられることは何か。それは自分の現実を認め、神の前に正直(真実)に生きることである。自分を飾り、よく見せかけようと繕(つくろ)うことは不真実であり、何の解決にもならない。神の前にすべてをさらけ出さなければ聖められず、癒されず、赦されず、解放されない◆『私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。』(同9) 私パウロはかつて神のみことばに心探られることなく生きていましたが、探られて初めて罪を認識し、古い自分は罪のゆえに死ななければならない存在(神から断絶されなければならない存在)であることを知りました、とパウロは言う。ここに至って真の悔い改め(いのちに至る悔い改め/使11:18)へと導かれるのだ◆『律法とは何でしょうか。それは…違反を示すためにつけ加えられたもので』(ガラ3:19)、『律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。』(同24) 神がすべての人に求めておられることは、神の前に正直に、真実に、ありのままの自分をさらけ出して生きることだ。聖められよ、癒されよ、解放されよ。

■ 2015/11/08 (日)
 [題]
「ローマ人への手紙7、8章− 新しい契約に生きるときが来る 」
 [みことば]
『彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。─主の御告げ─ わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』 (エレミヤ31:33)
 [ショート・メッセージ]
◆ローマ7章1〜6節。ローマ教会にいるユダヤ人クリスチャンよ。あなたがたが未だに律法に支配され続けているのは、あなたがたの中にある古い肉の性質が死んでいないからだ(1)。この世でも夫婦という契約は、連れ合いが死んだ時点でその連れ合いに関する律法から解放されるように(2、3)、あなたがたも古い肉性が死ななければ、死者の中からよみがえられたキリストと結ばれることはできない。古い自分が死ぬことによってキリストと結ばれ、神のために実を結ぶ者となれる(4)。未信者時代、すなわち古い肉の性質に完全に支配されて生活していたころは、死のために実を結ぶだけであった(5)。しかし罪と死の原理から贖われると、新しい御霊に導かれて新しい人となり、霊的な実を結ぶ者に変えられる(6)◆エレミヤ31章31〜34節。待ちなさい。新しい契約が結ばれる日が来る(31)。その契約は出エジプトのときにモーセを仲介者として結んだ文字による契約とは異なる(32)。信じ受け入れる者の心の中に、御霊の働きによって神のみこころが書き記され(33)、神を無視し神に逆らう古い性質が死ぬからだ(34)◆エゼキエル36章22〜26節。わたしがことを行う日が来る(22)。その時、諸国の民はわたしが主であることを知るようになり(23)、あらゆる国々から集められ、新しい民となる(24)。彼らには、新しい心、すなわち新しい霊、いのちの通った心、神の霊なる聖霊が注がれる(26)◆古い肉の性質が死に、新しいいのちに生きるときが来る。

■ 2015/11/08 (日)
 [題]
「ローマ人への手紙7、8章− 罪はすでに神の前に清算されている 」
 [みことば]
『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。』 (ロマ8:1)
 [ショート・メッセージ]
◆罪を犯したあとどんなに平気な顔をしても、心の中は騒ぎ、痛み、疼く。良心があるからだ。そしてそれはいつまでも続き、消えることはない。感情のままに行動し、たとえその罪がばれていなくても、『私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。』(ロマ7:4)という思いになる。どこにも解決はない。私たちをこの世に誕生させ、生きるすべてのものを与えて私たちを生かしておられる生けるまことの神に出会うまで◆2人を殺害して逃亡していたT.Y.は、心が疼いて夜も眠れず、とうとう自首し死刑囚となった。しかしこれによって彼に一条の光が差した。獄中でO牧師を通して聖書に導かれ、創造者なる神に初めて出会ったのだ。彼は新約聖書に記されてある放蕩息子のように、あるがままのみじめな自分を告白し悔い改めた。そして彼は知った。イエス・キリストの身代わりによって、すでに自分の罪は神の前に清算されているという事実を。そしてそのことを信じ受け入れた彼の人生は、牢獄の中で変えられ、失望から希望に変えられたのだった◆やがて死刑執行の日、一首の短歌をO牧師に託して輝いた顔で天に召された。その紙には、「罪の身は/浮き世のちりと/消ゆとても/心は清き/神の都へ」と書かれてあった。あなたの罪も赦されている。あなたはその罪の赦しという神の約束を受け入れ、死後の希望を生きていますか。私たちの罪に汚れたからだは焼き尽くされても、たましいは神の御国へ。

■ 2015/11/01 (日)
 [題]
「ダビデ− 完全な清算の道が準備されている 」
 [みことば]
『ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。』 (詩51:5-6)
 [ショート・メッセージ]
◆ダビデもまた自分が罪人のかしらであると告白した(詩51:4)。姦淫と殺人の罪を犯し(Uサム11章)、それをひた隠しに隠し、素知らぬ顔をしていたが、神はそのすべてを見ておられた(同27節)。そして罪を告白しないダビデに、預言者ナタンを送って罪を指摘し、罪の告白による罪の清算へと導かれた(Uサム12:7)。―旧約時代の罪の清算もまた、イエス様の身代わりによる贖いまで保留された―◆自分の愚かな罪が明らかにされたときダビデは叫んだ。『私は主に対して罪を犯した。』(同13) そして神と国民の前に自分の恥を曝(さら)け出し、心から砕かれて悔い改めた(詩51篇)。彼は自分の罪を隠すことなく、明らかにして言った。『まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の前にあります。』(同3) 罪とは神への反逆であり、神を無視しなおざり(いいかげん)にすることであり、罪に汚染された自分の心に支配されて行動すること。具体的には、人に対する裏切りと、神に対する不真実である◆一度犯した過ちは人間的には取り返しがつかない。覆水盆に返らずであるが、神は完全な清算の道を準備してくださった。十字架にかかられ、悔い改める者の身代わりとして、罪に対する神のさばきを受けられたキリストによる、「罪と死の原理からの解放の道」(ロマ8:2)である。この神の一方的な恵みを、心からの悔い改めに基づいて信じ受け入れる者の上に、永遠の赦しが成就するのだ(ヨハ3:16)。

■ 2015/10/ (日)
 [題]
「ダビデ− 罪を自覚させ、告白へと導かれる主 」
 [みことば]
『私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。』 (詩篇51:4)
 [ショート・メッセージ]
◆『私はその罪人のかしらです。』(Tテモテ1:15)との自覚へと、みことばを通して聖霊なる神が必ず導いてくださる。この「罪人である」という自覚なしに、キリストの贖いを受け入れることは不可能だ。『疲れた人、重荷を負っている人』(マタ11:28)という現実の中で自分は生きている、という事実を自覚できなければ、主のもとに荷を降ろすことはできない。聖書を学ぶ一人ひとりの上に主は、『医者を必要とする…病人』(同9:12)であるとの告白へと導いてくださる◆バテ・シェバとの過ちを犯し、罪の自覚へと導かれたときのダビデの言葉がこれだ。『ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。』(詩51:5) ダビデは、自分が生まれつきの罪人であることを認め、告白した。ダビデの懇願の言葉がこれだ。『私の罪から、私をきよめてください。』(同2) そしてダビデは心から主に感謝した。『神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。』(同17) 神がもっとも喜ばれる心の状態、「砕かれた、悔いた心」へと導かれたことが、ダビデにとって大きな喜びとなったのだ。神が求めているのは、神との交わりぬきの勇ましさでも、お手柄でも、熱心さ忠実さでもなく、心低くして神の御前に進み出ること、すなわち『心の貧しい者』(マタ5:3)として生きる姿である。神の前に謙遜となり、常に真実に生きる者へと変えられ続けようではないか。

■ 2015/10/11 (日)
 [題]
「ダビデ− 内側から変えられた 」
 [みことば]
『「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。』 (Tテモテ1:15)
 [ショート・メッセージ]
◆大男ゴリヤテに向かってダビデは叫んだ。『私は…万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。』(Tサム17:45) ダビデは内側から湧き上がってくる神の力に満たされていた。同じように新約時代の使徒パウロもまた、内側からあふれ出る大能の力によって、世の悪と偽りの支配者である悪魔に立ち向かいながら、福音を宣べ伝えた。ダビデもパウロも、神よって内側から変えられてからの人生である◆パウロは、かつての未信者時代の自分を重ねて言った。『…涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。』(ピリ3:18-19) パウロもキリストに背を向けていた、キリストの十字架の敵として歩んでいた。その見せかけの人生を告白し、何も隠さない、飾らない、見栄を張らない。神の前に正直に、真実に、すなおに生きる人生に変えられ何にも動じることなく、自覚のないまま罪の支配に身をゆだねている多くの人々に福音を伝えた。彼は言う。『「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。』(Tテモ1:15) あなたもまた、聖書を通して神に出会い、主イエスの十字架による救いに与るなら告白するであろう。「私もまた罪人のかしらです」と。

■ 2015/10/11 (日)
 [題]
「ダビデ− 主の霊が激しく下った 」
 [みことば]
『サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。』 (Tサムエル16:13)
 [ショート・メッセージ]
◆ダビデは、主の霊が彼に激しく下る(Tサム16:13)までは、父の羊の世話をする目の美しい普通の少年だった(11-12)。そのダビデが内側から変えられた。イスラエルの王として神の働きにあずからせるために、神は聖霊を特別に与えられたのである。この時代は、イエス様が遣わされ十字架による贖いが成就する以前だったので、聖霊はまだ注がれてはいなかった◆聖霊を受けて変えられていたダビデはサウル王に証言した。『しもべは…獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと…そのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。…獅子や熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。』そしてペリシテの巨大戦士ゴリヤテ(17:4)には次のように言った。『おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう』◆この確信に満ちたダビデの姿こそ、キリストによって救いに与るクリスチャンを予表していた。霊的な世界については無知だった私たちは、素手で悪の力(罪)と戦っていたのだ。勝てるわけがない。クリスチャンになってから神の声が響く。『主にあって、その大能の力によって強められなさい。』(エペ6:10) あなたは自分のうちにある罪と、素手で戦ってはならない。

■ 2015/10/04 (日)
 [題]
「死− ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちが与えられる 」
 [みことば]
『こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。』 (ローマ5:18)
 [ショート・メッセージ]
◆アダムとエバの違反によって全人類が罪に汚染されている、と聖書を通して明らかにされた神のことばをすなおに受け入れる時、私たちは自分の中にあるすべての矛盾の現実を理解できるようになる。私たちをまちがいに引きずり込んでいたのは、実にサタンから導入された「罪と死の原理」(ロマ8:2)によるものであって、実に神ご自身がこの事実を明らかにされなかったら、人類はだれも知ることはできず、やみの中を永遠にさまよい続けなければならなかったのだ◆それと同様に、ひとりの人イエス・キリストの義の行為、すなわち十字架のみわざによって「すべての人が義と認められ(神の御前に無罪とされ)、いのち(霊的いのち)を与えられる」という約束も、神から与えられたものであり、人間は何ひとつこれに関与することはできなかった。「すべてのことは神から発し、神によって成り、神に至っている」(ロマ11:36)のである。神の前にへりくだり、この神に栄光がとこしえにあるように、と祈るばかりである◆イエス様は次のように教えてくださった。『狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。』聖書を通してその門を見出し、いのちの回復を成就していただこうではないか。人生は変えられる。それが神の永遠のご計画である。

■ 2015/09/27 (日)
 [題]
「死− 霊的死の現実を知り、救いを得よ 」
 [みことば]
『わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。』 (マタ23:27-28)
 [ショート・メッセージ]
◆聖書は明らかにする。創世記3章6節の時点から、この天と地は罪に汚染されたままの、霊的死の世界である(Tヨハ5:19)。その中で人は生まれて生きて、子孫を残して生涯を閉じ、それを繰り返してきた。ある者は神のことばである聖書に出会って神を知り、平安の人生に変えられて残された人生を全うする。またそれ以外の者は、聖書に出会わないまま、神を知らぬまま人生を閉じる◆「死」には2種類ある。肉体的死と霊的死。肉体的死は、他人の死を見て実感できるが、霊的死は聖書から教えられなければ解らない。霊的死の現実を、聖書から教えられ実感した者だけが、暗中模索の人生から脱出させられ、平安に満ちた生涯を全うできる。その人生を与えるために御父は救い主の誕生を計画された(創3:15)。霊的死という闇の世に遣わされたイエス様によって、いのちの光が輝いた。『光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。』(ヨハ1:5) イエス様の誕生によって、人間の知恵と力ではとうてい解決できない3つの問題が解決されるに至った。@霊的死の問題、A罪の支配の問題、B自滅の問題、である。これらの問題がイエス様の誕生によって同時に解決されるに至った◆これらの真理が明らかにされることを邪魔していた当時の宗教指導者たちの目を覚ますために、イエス様はあえて彼らに辛らつなことばを投げかけた(マタ23:25-28)。霊的死の現実を知り、救いを得よ。

■ 2015/09/20 (日)
 [題]
「死− 死からいのちに移される 」
 [みことば]
『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』 (ヨハネ5:24)
 [ショート・メッセージ]
◆「死」とはいのちの源泉である神との断絶であり、それはすなわちいのちとの断絶である。表面だけを繕う宗教の指導者たちをイエス様は厳しく戒めた。『わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。』(マタ23:25) 人間が究極的に求める真の自由は「いのちと御霊の原理」(ロマ8:2)の中にしか存在しない。「罪と死の原理」(ロマ8:2)の中にあるのは似て非なるもので、放縦と呼ばれるものである◆聖書を通して神とう存在を知り、御声を聞き、教えを学び、神から軌道修正させていただくまで、私たちもまた放縦な生き方をして来た。その罪の現実を自分の中に認識させられて初めて、放縦という名の罪と死の原理の生き方に背を向ける思いが与えられる。そこからやっと悔い改めへと導かれ、キリストの十字架のみわざのゆえに、そこから解放させていただく神の恵みを体験する。すなわち再び、『いのちの息を吹き込まれ』(創2:7)、神に対して生きる者へと変えられるのだ。これを新生という。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』 (ヨハネ5:24)◆キリストはこの救いの約束をを成就するために天から来られ、十字架の上で、公に贖いの代価を払われ、それは消し去られることなく、歴史に刻まれた。

■ 2015/09/13 (日)
 [題]
「死− 罪と死の世界から私たちを救い出すためにキリストは遣わされた 」
 [みことば]
『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。』 (Uテモテ1:10)
 [ショート・メッセージ]
◆死は、いのちある全ての被造物の終末であり、死を逃れ得るものはひとつもなく、すべてが死を体験する。『…人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている』(ヘブ9:27) 『私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです。』(Uサム14:14)◆なぜ死が存在するのか。罪に支配されているからだ。罪は神を無視させるがゆえにそこから悪を生じさせ、汚れを生み出し、秩序を乱し、安らぎと喜びを消滅させ、すべての良いものを破壊させるのである。この罪ゆえに死が定められた。『罪から来る報酬は死』(ロマ6:23)◆「死」とはいのちの源泉である神との断絶のこと。よって永遠の死とは、神との永遠の断絶のことであり、永遠のさばき、である。罪は、神に敵対するサタンの所有物であり、神はこれを永遠に滅ぼすべく『ハデス』(ルカ16:23)を準備され、『ゲヘナ』(マタ23:33)をつくられた。同時に神は、罪と死の世界から私たちを救い出すためにキリストを遣わされた。『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。』(Uテモ1:10)◆『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』(ヨハ5:24)

■ 2015/09/06 (日)
 [題]
「質疑応答− 試みについて、賜物としての信仰について 」
 [みことば]
は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。』 (エペソ2:8)
 [ショート・メッセージ]
◆Q:主の祈りの中の『試みに会わせないで、悪からお救いください。』とはどういう意味ですか? A:「試み」とは誘惑のことで、「悪」とは欄外にあるように悪い者すなわちサタンのこと。サタンの誘惑にさらされることのないように守り、導き、助けてくださいと強く祈り求めること。この意識がないため、ふらふらとサタンの術中に嵌(はま)ってしまうのである。創世記3章のエバがそうであった。神にも、そばにいたアダムにも助けを求めることなく、自分の判断でサタンのわなにかかってしまったのだ。世はサタンの支配下にあるという現実(Tヨハ5:19)を認識し続けていなければならない◆Q:あんなに信仰深いヨブだったのになぜパニックニ堕ちていったですか? A:ヨブ記38〜41章までの神の語りかけを通して神体験が導かれるまで、信仰深そうに見えていたヨブの信仰はまだ確信に至ってはいなかったことが分かる。知識だけではまだ信仰ではないが、信仰が与えられたと勘違いしやすい。パウロがダマスコ途上で神体験を導かれたように、ヨブもまたここで導かれた神体験を通して、神から「信仰」を賜り(エペ2:8)、深い悔い改めを体験したのであった。『私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。』(42:5-6) 私たち一人ひとりにも、同じこの瞬間が準備されている。聖書を通して語りかけ続けておられる神の御声を学び続けよう。

■ 2015/08/30 (日)
 [題]
「ヨブ記− 最善をご計画の神に一切を明け渡す 」
 [みことば]
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』 (ロマ8:28)
 [ショート・メッセージ]
◆ヨブに、隠している罪を明らかにせよと責め続ける3人の友の前で、ヨブはひたすらに自分の無実を訴え続けた。そのやり取りを聞いていた若者エリフが登場し、自分の高潔を強く主張するヨブに、神よりも自分を賢いとしてはならないと注意する(32-37章)。そして最後に神ご自身がヨブの前に現われ、語りかけられた。人生のあらゆる問題は、ここにしか解決はない(38-42章)◆顕現された神はヨブの疑問に直接答えようとはなさらず、天地創造のみわざを告げ、近視眼になっていたヨブに、人はみな被造物に過ぎないことを諭された。『あなたは海の源まで行ったことがあるのか。深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。死の門があなたに現れたことがあるのか。あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。』(16-18) 主はさらに仰せられた。『自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。』(40:8)◆自分のために顕現された主に、ヨブは答えて言った。『私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。』(42:5-6) 『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ロマ8:28) 最善のみをなさる神を信じ、一切を明け渡す以外に幸いはない。

■ 2015/08/23 (日)
 [題]
「ヨブ記− あわれみのない的外れな言葉 」
 [みことば]
『落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。』 (ヨブ6:14-15)
 [ショート・メッセージ]
◆ヨブの痛みの大きさを目撃した途端に(13)、3人の友は、これはヨブへの天罰だと思ってしまった。そのため彼らの中からヨブへの慰めの思い(2:11)は消え、ヨブを責める思いだけが残った。ヨブが自分の生まれた日をのろい、それを声を出して言ったため、それを聞いた3人の友は、自分たちの考えに間違いはないと確信に至った◆最年長のエリファズが、まず重い口を開いてヨブを責め始めた。「だれが黙っておられよう。ヨブよ、あなたは今、天罰に耐えられずおびえている。思い出せ。罪がないのに滅びた者があるか。正しい人で絶たれた者があるか。隠している罪を神から責められることは幸いなことだ。ヨブよ、神の懲らしめをないがしろにするな。隠している罪を白状し、悔い改めて救いを得よ。」(4-5章) 神とサタンとの会話(1:8-12、2:3-6)を知らないエリファズは、因果応報に基づいて一方的にヨブを責めた◆エリファズの言葉に対してヨブが答える。「なぜあなたは一方的に責めるだけで、私のこの苦悶を推し量り(6:2)、同情しようとしないのか(15)。教えてくれ、私がどんな罪を犯したと思っているのか(24)。あなたの理屈だけの愛のない言葉は痛いだけだ(25)」◆因果応報に基づいた一方的な言葉はヨハネ9章にもある。「この人が盲目に生まれたのは、だれが罪を犯したからですか」と弟子たち。するとイエス様は答えられた。「これは罪の結果ではない。神の救いのわざがこの人に現われるためだ。」(1-3)神のみこころを求め続けよう。

■ 2015/08/16 (日)
 [題]
「ヨブ記− ヨブは自分の生まれた日をのろった 」
 [みことば]
『こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。』 (ヨブ2:13)
 [ショート・メッセージ]
◆聖書はヨブについて次のように記す。『ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。』(ヨブ1:22) 『ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。』(2:10) 神の主権を疑うことのなかったヨブの信仰が証明されている。何が起きようとも、すべては神の許可なしに起こることはない、と信じきっていた。信仰とは何かと問うとき多くの信者は、「信じ受け入れること」と答えるだろう。しかし聖書全体を通して気づかされることは、「信仰とは信じ委ねること」である。そこには打算が無いゆえ、「神をのろう」(1:11、2:5)こともない◆ところがヨブ記を読み進めるうちに、自分の生まれた日をのろうヨブの姿に出会う。神をのろうことができなかったヨブは、精神的な重圧に耐えられなくなり、生きることからの逃避を願ったのだ。この精神的な重圧はどこからきたのか。その直前のみことばに注目。『…彼ら(3人の友)は彼(ヨブ)とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった…』(2:13) なぜ3人の友はヨブに話しかけられなくなったのか。それが4章からの長い論争の中で明らかになっていく。彼らは、ヨブがとてつもない大罪を犯したに違いないと、猜疑の思いに支配され始めた。ヨブの痛みがあまりにもひどいのは(13)、それゆえの天罰に違いないと思ったとたん、彼らの中から慰め(2:11)の思いが消え、責める思いだけが残ったのであった。

■ 2015/08/09 (日)
 [題]
「ヨブ記− 神の最善に委ねきったヨブ 」
 [みことば]
『このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」』 (ヨブ1:20-21)
 [ショート・メッセージ]
◆『主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」』(1:8) 神がヨブをどのように見ておられたかが、神ご自身のことばで、ここに公に紹介された。すると悪意のかたまりであるサタンが抗議して言った。『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。』(9) どんな人間でも必ず打算的な理由が隠れているはずです、とサタンは主張したのである。神がヨブの財産を守り豊かに祝福しておられるので、ヨブはあなたを礼拝しているに過ぎないのだ。彼の持ち物を打ったなら、彼はあなたをのろうに違いありませんよ。彼の財産をすべてなくしたらわかりますよ。サタンの挑戦を受けた神は、サタンがヨブの財産全部をを打つことを、御使いたちの前でサタンに許可された◆するとすぐにサタンは出かけて行きヨブの財産を打った。「シェバ人が襲いかかり」(15)、「神の火(雷)が天から下り」(16)、「カルデヤ人が」(17)、「大風が吹いて来て」(19)、ヨブの財産はすべて打たれた。正しい人がなぜ苦しまなければならないのかが、この書物を通して明らかにされている◆ところでその報告を聞いたヨブはどうしたか。深い悲しみと心痛のすべてを神に委ねて、神を礼拝して言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』(21) ヨブは愚痴をこぼさず、神をのろうことをせず、神の最善に委ねきったのであった。

■ 2015/08/02 (日)
 [題]
「パウロ− とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ 」
 [みことば]
『私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」』 (使徒26:14)
 [ショート・メッセージ]
◆ダマスコ途上で主はサウロ(パウロ)に言われた。『とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』(使26:14) これは、神への反逆は自分を傷つけるだけだ、とサウロの間違いを諭すことばであった。イエス様がメシヤであることを信じ受け入れることができなかったサウロは、クリスチャン狩りを繰り返し、教会の交わりを破壊し続けていたのだ。サウロはこれこそ自分に与えられた使命であると思い込んでいた。『私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、…すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせ…彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。このようにして…ダマスコへ出かけて行きますと…私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、…私たちはみな地に倒れましたが、そのとき…私にこう言うのが聞こえました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」私が「主よ。あなたはどなたですか」と言いますと、主がこう言われました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。…わたしは…あなたを救い出し彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ…わたしを信じる信仰によって彼らに罪の赦しを得させ、御国を受け継がせるためである。」』(9-18)◆今も同じように聖書を学ばないがゆえに、世から学んだ価値観に支配されている多くの人がいる。彼らの目が開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせようではないか。

■ 2015/07/26 (日)
 [題]
「パウロ− 偶像礼拝を捨てて神に立ち返りなさい 」
 [みことば]
『木で(偶像を)細工する者は、…杉の木を切り、…それは人間のたきぎになり、そのいくらかを取って暖まり、またこれを燃やしてパンを焼く。またこれで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。…彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。』 (イザヤ44:13-18)
 [ショート・メッセージ]
◆第一回伝道旅行の折り返し地点のルステラで、パウロとバルナバは神に祭り上げられそうになった。ルステラの町の群集は、「バルナバをゼウスと呼び…パウロをヘルメスと呼」びながら(使14:13)、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と叫んだ。すると町の門の前にあるゼウス神殿の偶像の祭司たちまでもが、いけにえとしての牛数頭と花飾りを準備して大騒ぎとなった。生まれつき足のなえた人がパウロの福音を聞くうちにいやされる信仰が与えられ、いやしの奇跡を目撃したからであった(8-10)◆そのときパウロとバルナバは血相を変えて衣を裂き、怒りをあらわにして叫んで言った。「皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そしてこのようなむなしいことを捨てて天地を造られた真の神に立ち返るようにと、福音を伝えている者たちです」(14-15)。真の神を知った者は、自分が神に祭り上げられようとするとき、それを喜んで受け入れることはしない。神とは天地万物の創造者であられるからだ。そして二人は、いとも簡単に何でも神として祭り上げる「むなしい偶像礼拝」の罪を指摘し、その愚かさを明らかにした◆『偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない』(イザヤ44:9)。聖書を通して真の神に出会っていないゆえに、不思議なことがあれば何でも神として祭り上げる愚かさ。その愚かさの中でますます神から遠ざかり、ますます罪の闇に閉ざされ、罪に支配され、不自由となり、死後たましいは神に帰る道を見出すことはできない。偶像礼拝を捨てて、神に立ち返りなさい。

■ 2015/07/19 (日)
 [題]
「パウロ− むなしいことを捨てて、神に立ち返りなさい 」
 [みことば]
『皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。』 (使14:15)
 [ショート・メッセージ]
◆パウロは聖霊に命じられて、バルナバとともに第一回伝道旅行に出発した(使13:2)。福音宣教の拠点であるシリヤのアンテオケ教会(1)から送り出されて、キプロス島に渡り(4)、ペルガに渡り(13)、そこからピシデヤ地方のアンテオケに行って会堂で福音を語った(14〜)。パウロはこれまで自分が知らずに迫害していたイエスが救い主であることを力強く証し(23、26)、イコニオムで迫害を受け(使14:1)、ルステラに避難した(8〜)◆ルステラでのこと、生まれつき足の聞かない人がいやされ、飛び上がって歩き出したため、町の人たちと偶像の神殿の祭司たちはパウロとバルナバを神に祭り上げ拝もうとした(13)。そのことを知った二人は、神を冒涜することへの恐れと怒りに燃えて自分の衣を裂きながら(14)、叫んで言った。「いったい何をしているのです。私たちも皆さんと同じ人間です。天と地を造られた真の神に立ち返るように福音を宣べ伝えているのです。」こう言って、ようやくのことで群集が二人にいけにえをささげるのをやめさせた(18)◆霊的ないのちを失ったままの人間は、目で見える物質世界に神を求め、まちがいを繰り返してきた。石や木を削ってはこれが神だと言い、何の根拠もないのにこれにひれ伏し、これに期待してきた。そうして彼らは気付かぬうちに悪霊と交わる行為を繰り返してきた(Tコリ10:20)。聖書に帰らなければ何時までも闇だ(詩119:130)。聖書を通して神を知り、神を信じて、神に従う人生をスタートしようではないか。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』(マタ16:24)

■ 2015/07/12 (日)
 [題]
「パウロ− テロリストだったサウロ(パウロ) 」
 [みことば]
『さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。』 (使9:1-2)
 [ショート・メッセージ]
◆サウロ(パウロ)はクリスチャン狩りをするテロリストだった。復活の主に出会う以前は、視野の狭い熱血者で、一人よがりでまわりが全く見えず、自己主張の強い存在だった。『私(パウロ)は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。私は自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。』(ガラ1:13-14) 『私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、(ユダヤの長老で高名なラビである)ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け…神に対して熱心な者でした。私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。』(使22:3-4)◆クリスチャン狩りのためにダマスコに近づいたとき、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いた。『彼(サウロ)は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。…「主よ。あなたはどなたですか。」…「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。』(使9:4-6) 3日間目が見えなくなったサウロのもとへアナニヤという聖徒が遣わされ、サウロのために祈ると、サウロの目からうろこのような物が落ちて見えるようになった(同17-18)◆サウロは、神の前に悔い改めてバプテスマを受け、数日間ダマスコの町の聖徒たちとともにいて、それから『ただちに諸会堂でイエスは神の子であると宣べ伝え始め…イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。』(同20,22)

■ 2015/06/28 (日)
 [題]
「聖書− 聖書に付け加えたり減らしはならない 」
 [みことば]
『私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。』 (申命記4:2)
 [ショート・メッセージ]
◆聖書のみことばはすべて、神の啓示によるもので、欠けたところがなく、完全である。それゆえ聖書のことばに、付け加えたり、削除してはならない。申命記4:2、13:1-3に次のように警告してある。『私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を守らなければならない。…あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。』◆キリスト教の異端グループは別の書物を書き付け加え、独自の教えを混ぜ加えて、似て非なる宗教へと引き込もうとしている。カトリックも自分たちの組織の独特な教理を正当化するために15冊の続編を聖書に付け加えている。神を恐れなければならない◆人を救いに導くのは純粋な神のことばである。『あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。』(Tペテ1:23) ただし注意しなければならないことがある。自己解釈だ。聖書のことばを世の知識・知恵で解釈してしまうと、新しい異端を作ることになる。『導く人』(使8:31)、すなわち真のクリスチャンからみことばの奥義を教えられ、『非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べ』るという姿勢が強く求められる(使17:11)。

■ 2015/06/29 (日)
 [題]
「聖書− 聖霊に動かされた人たちによって記された書物 」
 [みことば]
『それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。』 (Uペテロ1:20-21)
 [ショート・メッセージ]
◆ヨハネ13章から始まる最後の晩餐の席上でお話くださったイエス様の教えの中心は、「聖霊なる神」。メシヤによって贖いのみわざが成し遂げられない限り、聖霊なる神が地上に下ることはないからだ。贖われ聖められた者の心のみが、聖霊なる神の住まいとなられるからだ。それゆえイエス様は、天に帰られる直前に弟子たちに次のように命じられたのである。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。…もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受ける(聖霊降臨を目撃し体験する)からです』と。この聖霊に与る瞬間こそが(使2:1-3)、弟子たちが新生する瞬間であり、イエス様が昇天されてから10日目の五旬節の祭りの日にそれは成就したのであった◆最後の晩餐の席上、イエス様は次のように教えられた。『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。』(ヨハ13:34) すなわち聖霊によって、神の愛をもって仕え合いなさいということだ。さらにイエス様は教えられた。「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。…またやがて起ころうとしていることをあなたがたに示します。」(同13) ここにある「やがて起ころうとしていること」とは、空中携挙と黙示録の内容である。さらに言われた「示します」とは、これ以降弟子たちに示される内容のことだが、これらが新約聖書としてまとめられていったのである◆それゆえ聖書は、聖霊に動かされた人たちによって記された書物、と言われているのである。

■ 2015/06/21 (日)
 [題]
「聖書− 聖書はすべて神の霊感によるもの 」
 [みことば]
『聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。』 (Uテモテ 3:16)
 [ショート・メッセージ]
◆「聖書はすべて」とあるが、『初めの契約』(ヘブ8:7)の旧約聖書39巻と『新しい契約』(同13)の新約聖書27巻を合わせた、聖書全体66巻のことだ。カトリックはこれに独自の教理を裏付けるための続編15を加え、他の異端も聖書以外の書物を加えて自分たちの教えを正当化しているが、聖書はすべてで66巻である。このことは、イザヤ書を用いて聖霊がすでに明らかにしておられた。イザヤ書全体は66の章から成り、それは聖書66巻の縮図のようであり、その構造は聖書全体を予表していた。すなわちイザヤ書は内容的に大きく2つに分かれ、前半の39の章には「罪と審判」(旧約聖書の内容)について記され、後半の27の章には「救い」について(新約聖書の内容)記されてあるのだ◆続けて「神の霊感によるもの」とあるが、これは『聖霊に動かされた人たち』(Uペテ1:21)によって書き記されたものという意味である。聖書はすべて神からのことばであり、神が預言者40人を用いて、二千年の歴史の中で書き記させてくださったものであって、人間的な動機で書かれたものは皆無である。ゆえに聖書を通して人は、純粋に神から「教えられ悟りを与えられる」のだ。さらに未信者時代に世から洗脳されてしまった間違った考え方を「戒め」られ、さらにクリスチャンとされてもなおも引きずっているこの世的な行動パターンを「矯正」させていただく。何と幸いな書物であろう。神はこの最高のプレゼント品を私たちに与えてくださった。閉じていたらもったいない、学ばなかったらクリスチャンとしての訓練なく、成長もない◆日々聖書から教えられ、戒められ、矯正させられて、義人としての訓練をしていただこうではないか。ただただ主に感謝するばかりだ。

■ 2015/06/14 (日)
 [題]
「聖書− 闇に生きている人類への約束の書物 」
 [みことば]
『みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。』 (詩篇119:130)
 [ショート・メッセージ]
◆聖書は約束の書物である。神を見失い闇に閉ざされた世界に生きている人間への、66冊の書物である。旧約聖書と新約聖書から成り、旧約聖書には救い主イエスの誕生と生涯と死と復活と昇天と着座が預言されている。旧約聖書はBC1500〜BC500の間に書き記された。旧約聖書についてイエス様はひとことで説明された。『あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたし(イエス)について証言しているのです。」(ヨハ5:39)◆新約聖書は救い主イエス様によって成し遂げられた新しい契約(福音)による天の御国が約束され、サタンの支配下から完全に奪還されて誕生する新しい天と新しい地が預言されている。そしてそこに導かれるための唯一の仲介者がだれであるかを繰り返し教えている。『この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は、人に与えられていないからです。」(使4:12) ちなみに新約聖書はAD50〜AD90の間に書かれた◆聖書を通してしか、創造者なる神を知ることはできない。神を知ることなくして自分が何者なのかを知ることはできない。人が知るべき霊的な世界については、聖書にしか記されていない。『みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。』(詩119:130)

■ 2015/06/7 (日)
 [題]
「聖書− 主から教えられ、変えられる喜び 」
 [みことば]
『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』 (Uコリント5:17)
 [ショート・メッセージ]
◆Q)喜びに至る苦しみについて教えてください。A)未信者時代には一種類しかなかった苦しみ(世と比較して自己憐憫に陥る苦しみ)。しかし罪赦されて神と和解させられた後に味わう苦しみは神に助けを求めさせ、神の約束を思い出させ、神を思って喜ぶのです。『苦しみに会ったことは私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました』(詩119:71)。『恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。』(ロマ5:2-4)◆Q)Uコリント12:9の、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』の意味を教えてください。A)私たちの中になおも存在している古い肉の性質は絶えず神に反抗するものであり、これが弱くされている時こそ神の恵みを十分に味わい、神の霊的な力は完全に現れる、という意味。みことばを学ぶことを通して、主から教えられ、戒められ、矯正させられて、ますます神ご自身に近づかせていただき、変えられ続けようではありませんか。

■ 2015/05/31 (日)
 [題]
「ルカ8章− 新しい天と新しい地に移される人々 」
 [みことば]
『ところが、イエスは人々にこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです。」』 (ルカ8:21)
 [ショート・メッセージ]
◆蛇に化身してエデンの園に侵入したサタンはエバに目を留め、エバを誘導した(創3:1)。するとエバは、サタンに誘導されるまま、神との約束のことばから思いを離し、蛇の言葉に従った。次にはそのエバを通して、アダムもまた神との契約を破ってしまった(同6)。こうして『ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死(霊的死)が入り、こうして死(霊的肉体的死)が全人類に広がった』のである(ロマ5:12)。神に応答できる唯一の被造物として創造されていたにもかかわらず、サタンの支配下で生きるものとなった全人類と全被造物(ロマ8:20-22)。神が創造された美しい世界は一瞬のうちにサタンの支配下に堕ちてしまったのだ(Tヨハ5:19)◆しかし神は、新しい天と新しい地を創造するご計画を、アダムとエバを園から追放する直前に明らかにしてくださった(創3:15)。『この(救いの)恵みを、神は私たち(信じ救われる者たち)の上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たち(真のクリスチャン)に知らせてくださいました。それは、この方(キリスト)にあって神があらかじめお立てになったみむね(救いのご計画)によることであり、時がついに満ちて(新しい天と地が)実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方(キリスト)にあって、一つに集められるのです』(エペ1:8-10)◆その新しい天と地に移される神の家族とは、『神のことばを聞いて行う(ことのできる霊的いのちを受けた)人たち』(ルカ8:21)なのだ。『神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望』(Uペテ3:13)みながら、日々の生活を送ろうではありませんか。

■ 2015/05/23 (日)
 [題]
「ルカ8章− 火で焼かれる実は空しい 」
 [みことば]
『だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。』 (ルカ8:18)
 [ショート・メッセージ]
◆種蒔きのたとえの締めくくりとしてイエス様は、聞き方に注意しなさいと警告された。持って聞く人と、持たないで聞く人には大きな違いがあるからだ。では、何を持って聞きなさい、と言っておられるのだろう。それは「信仰」である。信仰を定義づけると、主を信頼し、ゆだねることである。信仰を持って聞く、とは主が示してくださったみことばを「信じきること」(ルカ1:45)であり、みことばを与えて導いておられる主に「ゆだねきること」(詩37:5)である。信仰を持たない聞き方は、道ばたであり、岩地であり、優柔不断ないばらの地である◆さらに、持って聞く人がさらに与えられるものとは、「実」のことである。実とはみことばを実践する生活のことだ。『みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』(ヤコ1:22) 一方、信仰を持たないで聞いている人は、持っていると思っているものまでも取り上げられる、とイエス様が言っておられるがどういうことだろう。その実はみことばから生じた実ではないということだ。すなわち主から見ると「金・銀・宝石」ではなく、「木・草・わら」のうな実で(Tコリ3:12)、独りよがりで自己満足な働きの結果に過ぎないということだ。そのような実は、キリストのさばきの座では、真価がためされる火によって焼かれて消えてしまう(同13-15)。主とのくびきを確認しながら信仰生活を送る訓練を受けなければ、みことばとは無関係の、実と思い込んでいるだけの空しい信仰生活になる危険に満ちてしまう。心を尽くして主を尋ね求めよう(詩119:2)。

■ 2015/05/17 (日)
 [題]
「ルカ8章− だから聞き方に注意しなさい 」
 [みことば]
『…あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。』 (Tテサロニケ2:13)
 [ショート・メッセージ]
◆『だから聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです』(ルカ8:18)、とイエス様は注意された。道ばたのような無関心な聞き手や、岩地のような知的興味だけの表面的な聞き手、いばらの残った地のような都合のよい二心の聞き方ではなく、信仰によって神と結びつくことのできる聞き方でなければならない。『神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです』(Tテサ2:13)◆ということはイエス様が言われた『持っている』(ルカ8:18)とは、信仰のことであると知ることができる。では「信仰」とは何か。聖書のみことばを通してご自分の意志を明らかにしておられる「神のことばに対する信頼」である。その信仰的聞き方をしなければ、持っていると思っているものまでも消えていくというのだ。『福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。』(ヘブ4:2)◆だから聞き方に注意しなければならない。この地上に生まれて来た人はすべて、アダムとエバから受け継いだ罪の性質を持っているため、聖く真実な、天地の創造者である神を認めようとしない。みことばを聞いても悪魔が来て、『信じて救われることのないように、人間の心から、みことばを持ち去ってしまう』からだ(ルカ8:12) 謙遜な思いで、みことばを学び続けようではないか。

■ 2015/05/10 (日)
 [題]
「ルカ8章− 種まきのたとえ 」
 [みことば]
『しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。』 (ルカ8:15)
 [ショート・メッセージ]
◆この箇所の前半には、イエスが語られた種蒔きのたとえ(4-8節)とその解き明かし(9-15節)が記録されている。当時の種蒔きは、手ですくった種を畑に投げるという大雑把な方法で蒔いていた。そのため、畦道や、石垣のところや、抜き取られていない雑草の中にも落ちた種があった。それらの種は実を結ぶことはなかったので、そこから主イエスは分かり易く、みことばを聞く姿勢について教えてくださったのである(5-8)◆弟子たちには解き明かして、こう言われた。『このたとえの意味はこうです。種は神のことばです』(11)。そしてさらに、『道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです』(12)と言われて、天の御国に関して関心のない人たちのことだと言われた(12)。さらに『岩の上に落ちるとは』聖書の知識だけを楽しむ人のことで(13)、『いばらの中に落ちるとは』みことばを聞いて救いに与っても、世の誘惑に負けてどっちつかずとなり、成長しない者のことだ(14)。そして最後に『良い地に落ちる』ことについて教えてくださった。こういう人たちは神との関係を正しく保ち、神の前に謙遜で、みことばを聞くとしっかりと生活の中に生かし、神に信頼して忍耐し、みことばを実践しようと務める者たちのことだ、と教えられた(15)◆聖書を通して真剣に神に向かい、聖書のみことばに自分を写して点検し、すなおに反省し、罪をさばく権威を持っておられる方を恐れて、みことばに耳を傾け続けようではないか。

■ 2015/05/03 (日)
 [題]
「ノア− 罪を認め告白する 」
 [みことば]
『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』 (Tヨハネ1:9)
 [ショート・メッセージ]
◆もしあなたがノアの時代に生きていたら、箱舟に入りますか、箱舟を無視しますか。もしあなたがノアの時代に生きていたら、ノアを通して語られる神の警告を受け入れますか、無視しますか。もしあなたがノアの時代に生きていたら、周りの人々の異常さに気付くでしょうか、それとも気付かないでしょうか。ノアの時代、人々の人間性は『神の前に堕落し、地は暴虐に満ちて…(すべての人が)地上でその道を乱していた』のですが、その当時の人々は強く認識することができなかったのです。ノアが箱舟を造っている百年の間、忍耐される神の前でほとんどの人が従おうとはしなかったのです。ノアの家族8人以外はみな自滅を選択してしまったのです(Uペテロ3:20)。ノアを通して語り続けておられた神の御声を軽んじたためです。『ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、めとったり、とついだりして』(マタイ24:38)いました◆聖書を通して神は、気付かぬうちに堕落している私たち罪人に、何を命じておられるのでしょう。まず第1に、自分のまちがいを認めることです。『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。』(Tヨハネ1:8) 第2に、その事実を神の前に告白することです。『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(同9) きよめてくださるとは、罪の支配から救出してくださる、ということです。全人類は罪依存の状態だからです。『もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。』(10) 真理なる神のみことばの前に立ち、自分を吟味し、罪まちがいを認めて悔い改める、そこがスタートラインです◆悔い改めのポイントをまとめると次の3つになります。@自分の罪・間違いを認めること、Aそれを口で告白し・神に赦しを請うこと、B神が命じておられる義の道を聖書から学び生きること。ここで大事なことは、神の家族の交わりを保つこと(7)、すなわち集会・教会に属して信仰生活を全うすること。そうすることによってすべての罪からきよめられていきます(7)。そう、すべての罪からです。『神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』◆神の前にへりくだりましょう。正直に、自分の罪・過ちを認めましょう。そして、あわれんでくださる神に、御子イエス様の十字架によって成し遂げられた新しい契約に基づいた「罪の赦し」を、大胆に求めるのです。

■ 2015/04/26 (日)
 [題]
「ノア− 神の前に謙虚な者となれ 」
 [みことば]
『 しかし今の天と地は、同じみことばによって火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで保たれている。』 (Uペテロ3:7)
 [ショート・メッセージ]
◆先ほど聖歌から主を賛美した。「神は汚れたる/世人のため/御ひとり子さえも/地にくだしぬ…」。ここに「汚れたる」とあるが、神は私たちの心は汚れていると言われる。別なことばでは、「罪深い」、「忌まわしい」、「愚か」などが使われている。普通、聖書を通して神のことばに触れるまで、自分が汚れているとか、罪深いと意識することはほとんどない。周りに生きている世の人と同じ生き方・行動をしているからだ。自分は普通の生活を送っているのだから問題はないと思っている。ノアの時代もそうだっただろう。しかし神はノアに言われた。『すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに暴虐で満ちている。』(創6:13)◆良心が麻痺し、善悪の基準が低下することは非常に危険なことだ。友人知人が、いじめ・暴力・ごまかし・窃盗・横領などを、へらへら笑いながら当然のごとく行うようになったら、あなたはゾッとしないだろうか。神の基準ではなく、自己中心に生きている人間の基準の中でしか生きられないとしたら、空しさは喪失感へ、不安は恐怖へ、動揺は絶望へとエスカレートしていく。私たちの人格の創造者であられる神に帰らなければ、何の解決もない◆ノアの時代と今の時代は似ている。人の中に存在している罪と汚れがますます肥大増大し、制御不能状態になって行くとしたら、ノアの時代と同じように神は、今のこの時代にさばきを決行するのではないだろうか。人類が自滅消滅しないために。実はそのことも聖書に預言されているのだ。『当時の世界は、その水により洪水におおわれて滅びました。 しかし今の天と地は、同じみことばによって火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで保たれているのです。』(Uペテロ3:6-7) 神の前に謙虚になり、聖書を通して神を知り、神を信じ、神に従う者にならなければならない。

■ 2015/04/19 (日)
 [題]
「ノア− ノアはすべて神が命じられたとおりにした 」
 [みことば]
『ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。大洪水が起こり、大水が地の上にあったとき、ノアは六百歳であった。ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。』 (創世記7:5-7)
 [ショート・メッセージ]
◆アダムとエバがサタンから受け取った罪の性質は子から孫へと受け継がれ人類を蝕(むしば)んで行った。ねたみのゆえに弟アベルを殺害したカインは両親のもとを離れ、神との交わりを無視した暗黒社会を形成していった。そのカインの末裔が、神への祈りを保っていたセツの子孫と交わるようになったことにより(創6:2)、当然の成り行きとしての悲劇が生まれた。祈りが消え、神への思いが無くなり、次第に良心が汚され麻痺していったのだ。神はノアに仰せられた。『地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実にそれは堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである』(同11)。このまま放っておけば大変なことになる。とうとう人類消滅の危機が来た。人類消滅を避けるために、神は「さばき」という直接介入を決断するしかなかった◆神は見ておられた。今と比べるとそれほど多くない当時の世界人口の中で、一人だけ神を思い、神を信頼し、神に祈り続ける者がいた。ノアである。神はそのノアに巨大な箱を造るように命じられた。洪水によるさばきを計画されたのだ。『わたしは今…大洪水を起こそうとしている』(17)。自分の罪を認め、悔い改めて神に保護を求めさせるためのさばきであった。ゴフェルの木というゴム科の木で、しかも箱の寸法も定まっていた(同14-15)。『ノアはすべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。』(22)◆しかし民は、ノアとその家族8人で造る巨大な箱をあざけりながら悔い改めることなく日を過ごした。『ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりして』いた(マタ24:38)。百年を要してやっと箱舟が完成するまで、麻痺したままの人々の良心は、悔い改めを無視した。そしてとうとう約束のさばきの瞬間が来た。ノアの家族8人が箱舟に入ってしばらくして、『主は、彼のうしろの戸を閉ざされた』(創7:16)。

■ 2015/04/12 (日)
 [題]
「ノア− 神の御声に聞き従ったノアとその家族 」
 [みことば]
『ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。』 (創世記6:22)
 [ショート・メッセージ]
◆ノアについての記録は創世記6〜9章にある。ノアの名の意味は「休息」。ノアは、背信と不道徳の時代にあって、人類を自滅消滅の危機から救うため、神によって用いられた人物であり、ノア5百歳の時からの記録が記されてある◆ところで地球は造られた当初、水で覆われていたと聖書は記録している(創1:2)。その水が2つに別れ、その間に大気圏が造られたらしい。地球の表面をおおう海と、大空の上をおおう厚い水の層(雲)の2つに分かれたのだ(同6)。その厚い水蒸気の層ゆえに宇宙からの有害な宇宙線がさえぎられ、生き物は巨大な恐竜時代、植物もまた巨大なシダ類の時代であった。その分厚い水蒸気で覆われていたためであろう、その当時の人間の寿命も驚くほど長かったと聖書は、創世記5章に記録している。アダムは930歳まで生き(5:5)、最も長寿はメトシェラで969歳である(27)。ノアの一生も950年だったらしい(9:29)◆ちなみにノアが神から巨大な箱を作るように命じられたのは500歳の時であった(5:32)。ノアは神のことばを拒むことをせず、従う道を選んだ。『ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。』(6:22) 実に、ノアは神に聞く人であり、神に従う人であり、神のみこころを生きる人であり、神を恐れかしこむ敬虔な人であった。『信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。』(ヘブ11:7)◆巨大な箱が完成したのは、作りはじめて百年後の、ノアが六百歳になった時であった(7:6)。『主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。』(7:1) 神の御声に聞き従う者は幸いである。

■ 2015/04/05 (日)
 [題]
「質疑応答− 第一の復活にあずかる者は幸いな者 」
 [みことば]
『この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死(永遠のさばき)は、なんの力も持っていない。』 (黙20:6)
 [ショート・メッセージ]
◆Q…カレンダーに印刷されていた『第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。(黙20:6)』の意味を教えてください◆A…復活には二種類ある、と聖書は教えています。第一の復活と第二の復活です。第一の復活にあずかる者は「御霊のからだ(Tコリ15:44)」に変えられ永遠の天の御国に移されますが、第二の復活にあずかる者は「自分の行いに応じてさばかれるため(黙20:12)」に、逃げ場のない「大きな白い御座」(11)に引き出されなければなりません。ところで、この二種類のよみがえりについては、すでに旧約聖書のダニエル書の最後の章で明らかにされています。『地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。』(2) このことをご存知であるがゆえに神は、御子をメシヤとしてこの世に遣わし、そのからだを通して完全に罪の代価を支払い、罪に汚染されている全人類を、罪の力と永遠の滅びから救出するご計画を立ててくださったのでした(創3:15)。そしてそのご計画は、二千年前にすでに成就されました。『このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。』(ヘブ10:10) だからこそ御子イエスは、その救いにあなたを招いておられ、これからもずっと招き続けてくださるのです(マタ11:28)。この御声に応答し、神の御前に進み出て、御子の十字架の死と復活による永遠の赦しを信じ受け入れる決断をする者は、幸いな者です。「第一の復活にあずかる契約」、に生きる者となってください。『この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死(永遠のさばき)は、なんの力も持っていない。』(黙20:6)

■ 2015/03/29 (日)
 [題]
「世の終わりの時代− 神が準備してくださった賜物 」
 [みことば]
『罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』 (ローマ6:23)
 [ショート・メッセージ]
◆キリストの十字架のみわざによる霊的いのちの回復が、すべての人の前に準備されているにもかかわらず(マタ11:28)、人はそれを受け取ることを躊躇する。受け入れたいと願っても、確信に至らないからだ。そのため、霊的いのちに対してなおも傍観者を続ける。その結果、聖書のみことばの裏に隠されてある霊的な奥義を学び続けることをあきらめる。そのため、再びこの世への興味と関心に引きづられ、思いが主から離れてしまう。これが、罪に支配されることに慣れた人間の現実◆信じ切ることができないゆえに、委ね切ることもできない、中途半端な状態だ。『このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう(黙3:16)』。吐き出そうとは神との交わりの断絶のことだ。『罪から来る報酬は死(ロマ6:23)』とあるが、死とは神との交わりの断絶。平安も喜びも神への感謝もない。『空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう(伝1:2-3)』◆罪の世の終わりへの招きがスタートして早2千年。しかし傍観者は増え続けても、いのちに至る『狭い門(マタ7:13-14)』の前で思案するばかりで、決断する者は少ない。栄光在主ではなく、栄光在我なら、だれでも飛び付き楽しむ。自分の誉れとなる生き方には慣れているからだ。いつまでも罪の影響が続く。『死のとげは罪であり、罪の力は律法です(Tコリ15:56)』とあるとおり。霊的死から生え出るとげは罪、すなわち神を避けること。罪の力は律法、すなわち自分の力を見せつけること。なんと傲慢なんだ◆もっともっと、へりくだらなければならない。神との交わりがなければ自分の人生は無に等しいという事実に気付き、神が準備してくださった賜物『私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのち(ロマ6:23)』を感謝して受け入れる決断をしなければならない。

■ 2015/03/22 (日)
 [題]
「世の終わりの時代− 罪の赦しによる霊的いのちの回復 」
 [みことば]
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』 (マタ11:28)
 [ショート・メッセージ]
◆世の終わりの時代とは、罪の支配下にある人類の歴史が終わることを意味している。創世記3章のエデンの園での出来事以来、人類はサタンに支配され、罪に支配され続けて来ている。『私たちは…全世界は悪い者の支配下にあることを知っています』(Tヨハ5:19)。悪い者とはサタンのこと。人はみなサタンの支配下にある。『私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。…私は、ほんとうにみじめな人間です』(ロマ7:19、24)。これはパウロが全人類のことを言っている◆だから現実に色んな人が色々な事件を引き起こし、私たち自身もまた色んな事件を引き起こす可能性を秘めている。神のかたちに創造されたにもかかわらず、与えられていた霊的いのちを失って生きている現実。『善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ(創2:17)』。霊的に死んでいるがゆえの不安、自己嫌悪◆神はこの失われた霊的いのちの回復を計画され、そのためにメシヤを遣わす約束を、預言者たちを通して繰り返し示して来られた。その旧約4千年間の約束が成就する時がついに来て、ナザレの村の処女マリヤを通してメシヤなるイエスが誕生された。『さあわたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために』(ヘブ10:7)◆神のみこころとは、メシヤが身代わりとなって罪人の罪を清算し、霊的いのちを回復されることである。『神は、罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました。それは私たちが、この方にあって神の義となるためです』(Uコリ5:21)。主イエスはこの世に来て言われた。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』(マタ11:28)。罪の赦しによる霊的いのちの回復、そして神との霊的交わりの回復。この祝福がすべての人の前に準備されている。

■ 2015/03/15 (日)
 [題]
「世の終わりの時代− わたしを仰ぎ見て救われよ 」
 [みことば]
『地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。』 (イザヤ45:22)
 [ショート・メッセージ]
◆私たちは生きてそして死んで行くのですが、死後どこに行くのかがキリストにあって確かに約束されているのなら、病気や事故・災害で地上の命を閉じることに何ら問題はありません。『神のなさることは、すべて時にかなって美しい/伝3:11』。『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる/詩37:5』◆ところでマリヤを通してイエス様が誕生されたことによってスタートした新約時代は、すでに2千年が経過しました。この新約時代こそ、罪の世の終わりが約束された時代です。なぜなら、キリストの十字架の死と復活と昇天・着座によって成し遂げられた新しい契約が、すべての国民の前に準備されたのですから。イエス様が招いておられます。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます/マタ11:28』◆多くの人が、確信のない不安な人生を過ごしています。『私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ/伝1:3』。でもそれも、聖書を通して神を知り、信じ、従うその日が来るまでです。その日、人は新しく変えられ、その後みことばを学ぶたびに確信が深まり、霊的な平安に包まれて一日一日を過ごすせるになるのです。『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました/Uコリ5:17』◆救われて主とともに生きる人生に移された者に、主は力強く語って言われます。『わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る/イザ41:9-10』。

■ 2015/03/08 (日)
 [題]
「世の終わりの時代− 世の終わりの時代の意味 」
 [みことば]
『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』 (Uコリント5:17)
 [ショート・メッセージ]
◆集会で教会で祈りの途中や最後に、クリスチャンたちが唱和する「アーメン」とは、「真実その通りです」と言う意味である。すべてをご存知の神に、きれいな言葉、飾った言葉、作り言葉を数多く並べることは、神に対して不謹慎なことである。祈りこそが、神との霊的な交わりの瞬間であることを忘れてはならない。そのためクリスチャンは祈りの時間を大切にし、祈る者と心を合わせるために、目を閉じ、鉛筆やボールペンを置き、祈りが終わる時、「今祈られたこの祈りに偽りはありません」と、祈りを共有して神に申し上げるのが、一言の「アーメン」である。祈りの時間を汚してはならないし、軽んじてはならない。「世の終わりの時代」とは、この神との霊的な交わりが始まる時代のことを指している◆「世の終わり」の「世」とは神との断絶が続いた時代のことであり、約束に基づいてイエス様が天から来られ、十字架のみわざを完成してくださったことにより、その古い神との断絶の時代は終わったのである。すなわち「世の終わり」は、主イエス様が天から来られたことによってすでに成就しているのだ。そういう意味でパウロは明言した。『今は恵みの時、今は救いの日(時代)なのです(Uコリ6:2)』と◆イエス様が語られた次のことばに注目しなければならない。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタ11:28)』。「休ませてあげます」とは神との霊的な交わりの回復を指している。にもかかわらずなおも多くの者が、神との断絶の中に留まり続け、平安を知らない生活の中にいる。目を上げ、聖書が何と教えているかを知らなければならない。神に対するあなたの罪は、イエス様の十字架の死と復活によってすでに清算されている。あなたの人生のすべての汚点は、父なる神の前に完全に赦されている。この事実を受け入れ、あなたが神との霊的な交わりと言う、まったく新しい人生を始めることを、神は願っておられる。

■ 2015/03/01 (日)
 [題]
「創世記1〜3章− 贖いの真髄 」
 [みことば]
『人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている』 (ヘブ9:27)
 [ショート・メッセージ]
◆私たちはいつかこの世を去ります。そのとき、帰るべき場所を知っており信じており委ねる事ができるならどんなに幸いでしょう。聖書を通して神は次のように教えておられます。『人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブ9:27)』。死んで終わりではない。いろんな悪事を働かせて逃げ回っていた者が、死んで終わりにしようと思っても終わりません。肉体と分離した魂は裸の状態となって神の御前に出て、正しいさばきを受けるのです。人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。これを覆すことはできません◆あなたの人生のすべてを見ておられ知っておられる創造主なるまことの神が、あなたを待っておられるのです。では、死後のさばきとは何ですか。白黒が付けられることです。有罪か無罪かが宣告されるのです。人は思春期以降、それまで味わったことのないどろどろした汚れた思いを持つようになり、幼児期とは異なる罪の誘惑の前に立たされるようになります。罪とは神を無視することであり、心の中から生じる間違った思いを実行に移してしまうことです。その瞬間、自分の心を傷つけ、相手がいる場合は相手をも傷つけます。人が大人になり不幸を感じる最大の原因がこれです。そして過去犯した罪の行為は、善行に励んでも、趣味を楽しんでも消えません。消したいのですが消せません。しかし聖書にはそれを消す方法が、その傷が癒される方法が記されているのです◆神はそれを賜物としてプレゼントとして、すべての人の前に準備しておられるのです◆『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない(ヘブ10:17)』。キリストのゆえにです。自分の罪を認め、神に告白し、神はキリストの十字架において自分の罪をすでにさばいてくださったと信じ受け入れる者に赦しを宣言し、癒し、罪の重荷から解放してくださいます。愛するゆえに。ロマ5:8-9をお読みください。

■ 2015/02/22 (日)
 [題]
「創世記1〜3章− 心の貧しい者 」
 [みことば]
『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』 (マタイ5:3)
 [ショート・メッセージ]
◆クリスチャンは祈りの最後に「アーメン」と唱和する。アーメンとは「真実その通り」という意味。心の中のすべてをご存知の神に祈る時、クリスチャンはアーメンの心で祈るから、祈りの最後に、「今お祈りしたことに偽りはございません」と告白する。神をごまかすことはできない。この「神との真実の交わり」、これこそが霊的ないのちの交わりである◆マタイ5〜7章に記録されている山上の垂訓の、最初に記されてあるイエス様のことばに注目すると、そこには『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』(5:3)とある。「心の貧しい者」とは、自分の弱さを悟らされた謙遜な者のことだ。反対語は「慢心している者」で、おごり高ぶり自慢している者のこと。なぜか知らないけれど、自分の生き方を誇り、自慢している。それは、生けるまことの神を知らないゆえである。神に出会っていないゆえに、周りの人と比較して心の中で静かに自分を誇り、ほくそ笑んでいる。自分の自慢できるところを数え上げ、そして慢心へと至る。神を知らないことは実に致命的である◆ところで聖書の言う「罪」とは、神に反抗することであり、神を知ろうとしないことであり、神を無視することである。この罪はエデンの園で始まった。創世記3章に詳しい。『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、─それというのも全人類が罪を犯したからです。』(ロマ5:12) その通りだ。聖書は真理の書であるがゆえに太刀打ちできない。それでも何か文句を言いたい気分になる。自分を否定したくないゆえに。ところで「罪によって死が入り」とあるが、アダムの子孫のすべてが「霊的死」に陥ったことを聖書は教えている◆もう一度イエス様のことばに戻ろう。心の貧しい者は幸いである。聖書を通して神を知り(ホセア6:3)、自分の現実を教えていただき、神の前に進み出ようではないか(マタイ11:28)。

■ 2015/02/15 (日)
 [題]
「創世記1〜3章− 神のかたちの回復 」
 [みことば]
『しかし、人が主に向くなら・・・鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』 (Uコリント3:16,18)
 [ショート・メッセージ]
◆『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」』(創1:26) 神が言われた「われわれのかたち」、とはどんなかたちなのだろうか。神はどんな「かたち」を持っておられるのか。サマリヤの女との会話の中でイエスは次のように話しておられる。『神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』(ヨハ4:24) 人が神の霊的なかたちに創造されたという事実は、聖書の中で繰り返し明らかにされているが(創5:1、9:6他)、罪に陥った時、一瞬にしてその「かたち」を損ない、契約に基づいて(創2:17)、霊的に死んでしまったのである◆ところで『神のかたちに創造された』(創1:27)という事実は、人間が他のすべての生き物と相違することの端的な証拠である。アダムから始まった全人類は霊的に死に(黙3:1)、神との交わりが遮断された。『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって(霊的)死が入り、こうして(霊的)死が全人類に広がった』、と聖書に記されてある(ロマ5:12)。ところが父なる神は、「御子において」(エペ1:9)、「救いのご計画」(Tテモ1:4)を立てられた。だれでも聖書を通して神の存在を知り、自分の愚かさ、罪深さを知り、心から深く反省し、救いを成就するために天から来られたキリストに向きを変え、キリストとともに生きる決断に導かれた時、人は新しくされ、「神のかたち」を回復される(Uコリ3:16-18)。『人が主に向くなら…顔のおおい(古き自我/肉の性質)を取りのけられて…栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』◆個人的に、聖書をどんなに熱心に読んでも、全く意味が分からない。人間的な知識で自己解釈するだけだ。霊的に死んでいるからである。しかし聖書を学び続けるとき、顔のおおいが取りのけられ、霊的かたちを回復される。主に感謝します。

■ 2015/02/08 (日)
 [題]
「創世記1〜3章− 喜びと確信に満ちた人生へ 」
 [みことば]
『』 ()『あなたは、生きているされているが、実は死んでいる。』 (黙3:1)
 [ショート・メッセージ]
◆黙示録の3章1節に『あなたは、生きているされているが、実は死んでいる』と記されてあるが、これはクリスチャンとは呼ばれていてもキリストの復活のいのちを持っていない、という意味である。復活のいのちとは<霊的ないのち>のこと。そのため、聖書のみことばを聞き学んでも、『本能によって知るようなことがら/人間的な知識』(ユダ10)の範囲内でしか理解できないのだ。それよりも深い、霊的な意味を理解することができず、そのため私的解釈(Uペテ1:20)を施しながら読み続けている◆では霊的ないのちに至るという分岐点はどこにあるのか。使徒の働き11章18節に次のように記されている。『神は、(霊的)いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになった』。聖書を学び続けていくうちに聖霊なる神の取り扱いをいただき(ヨハ3:5)、確かに聖書が言うとおり神の御前に自分は罪人である、という実感へと導かれ、心の底から神に悔い改める思いが与えられたその瞬間、これこそ霊的ないのちへの分岐点である◆人間は霊的存在として造られたのに、アダムによって霊的な死が入り、それが全人類に広がった、と聖書を通して神は明らかにしておられる。『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった』(ロマ5:12)。全人類である。キリストによる救いに与るまで、人は皆、霊的に死んだ状態なのだ。人間のルーツと、罪と(霊的)死が全人類に広がった歴史的な記録は、今月学び合う、創世記1〜3章に記されてある◆聖書を通してしか創造者なる神を知ることはできない。そして神を知ることによらずして自分の心の内側(罪の現実)を知ることはできない。罪の現実を知ることなくして霊的いのちに至る悔い改めへと導かれることはできない。確信のない人生から、迷子のような人生から救い出され、喜びと確信に満ちた人生へと変えられようではないか。

■ 2015/02/01 (日)
 [題]
「イエスの教え− 地上再臨について 」
 [みことば]
『私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。』 (ゼカリヤ14:5)
 [ショート・メッセージ]
◆クリスチャンとされている者たちは、神の目から見て大きく二つに分類される。真のクリスチャンか、偽クリスチャンかである。真のクリスチャンは『ただ神によって生まれ』、偽クリスチャンは『肉の欲求や人の意欲によって』クリスチャンになったと思い込んでいる人たちである(ヨハ1:13)。真か、偽かは、信仰の試練を通して信仰生活の中で明らかにされていく(Tペテ1:7-9)。『信仰の試練(の中でも)…ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは…たましいの救い(霊的いのち)を得ているからです。』◆聖書のみことばを学ぶことを通してキリストに対する明確な信仰(エペ2:8)を、神から与えられた真のクリスチャンは、救いの確信をさらに得るため、聖書のみことばのすべてが神によって書かれたものであると信じ信頼しているため(Uテモ3:16)、キリストの神性も、キリストのよみがえりも、これからのち起こる空中再臨も地上再臨も、真のクリスチャンの霊のからだへのよみがえりも(Tコリ15:44)、そのすべてを疑うことなく、さらにその奥義を学びたいと強く願っている◆そこで今回は、地上再臨について聖書から学びたい。まず患難時代の7年間は、空中再臨によってスタートする(Uテサ2:6-8)。人間の気配がなくなった闇の中でゴキブリが出てくるように、『引き止めているもの(教会/エクレシア)』(Uテサ2:6)が空中再臨によって天に携挙されたあと反キリストが登場(黙6:2)。そして7年間この世を支配。前半の3年半は中東和平を完成させた結果の偽平和ことにより、この世にユートピアが実現したかのようにように思わせ、Uテサロニケ2:9-10の預言『不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。』が成就する◆しかしその7年後、約束通りキリストが地上再臨される。その時、すでに天に引き挙げられていた真のクリスチャンたちも天から下りて来る、と預言されている(黙19:14)。

■ 2015/01/25 (日)
 [題]
「イエスの教え− 再臨は2度行なわれる 」
 [みことば]
『見よ。わたしはすべてを新しくする。』 (黙21:5)
 [ショート・メッセージ]
◆マタイの福音書25章でイエス様は再臨について教えておられるが、処女マリヤから御生まれになった時の「初臨」という歴史的事実を根拠として、「再臨」が約束されている。すなわち再臨とは、イエス様が再び来られることで、十字架で死なれ三日後によみがえられてから繰り返し弟子たちに現れ、復活後40日にして弟子たちが見ている前で天に帰って行かれたイエス様(昇天/使徒1章)、その時御使いが弟子たちに告げたのが再臨であった(使1:11)。それ以来クリスチャンたちはいつも、「マラナ・タ」(主よ、来てください/Tコリ16:22)と祈りながら、1日も早い再臨を待ち続けている。今私たちが生きているのは、初臨と再臨の中間期であることを確認しなければならない◆ところで再臨は、2回に分けて行なわれる。「空中再臨」と「地上再臨」だ。空中再臨は携挙とも呼ばれる。真のクリスチャンたちが天に引き挙げられるからだ。聖書を調べるとその後7年間、世の光であり地の塩である真のクリスチャンが存在しない「患難時代」(暗黒時代・恐怖政治時代)が訪れる。聖書を通して神は実に多くのことを教えておられる。私たちはわずかな知識で自己満足せずに、聖書を十分に学び、神のみこころをさらに深く知り、主なる神に人生をゆだねながら日々を歩ませていただき、聖書は何と言っているか学び続けようではないか◆ところでこの7年間の患難時代は反キリストによるものであるが、あっという間にその終わりが来る。地上再臨によってイエス様が終わらせるのだ(黙19:11-21)。この空中再臨(携挙)と地上再臨にはさまれた7年間の患難時代は、アダムの時代から始まった罪の世を終わらせるためのふるい分けの最終段階であり、この後、千年王国が誕生し、さらにその千年王国が終了してから、「死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」(黙21:4-5)新しい天と新しい地が誕生する、と約束されている(Uペテ3:12-13)。

■ 2015/01/18 (日)
 [題]
「イエスの教え−心の貧しい者とは (題) 」
 [みことば]
『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』(マタ5:3)
 [ショート・メッセージ]
◆聖書を通して人は何を知り、何を学ぶことができるのか。「アーメン/真理」である。イエスの教えは人間が知らなければならない真理であり、真理を知らないばかりに、人は人生において確信がなく不安におののいてしまっているのである。『「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」』(ヨハ8:31-32)◆マタイの福音書5章〜7章にかけて、イエス様が語られた「山上の説教」が記録されてある。その初めの部分に八福の教えがある。霊的ないのちを受け新生させられた天の御国の住人(クリスチャン)の新しい性質が8つにまとめられて教えられている箇所だ。その最初に注目したい。『心の貧しい者は幸いです。』(3) 人間的に絶望的な状態にあることを霊的に自覚できる者、のことである。聖書に導かれるまでそんなことは知りもしなかった。思いも及ばなかった。ただ毎日を生きることで満足していた。周りで生きている人の真似をしながらただひたすらに生活していた。価値観は自分の周りで生きている人々の生きざまから学んだ。親であり近所の人であり学校の人であり、TVの中の人であり、本の登場人物であった。聖書ではなくイエスでもなかった。天地を創造された神の存在なんて、日本人を含め、全世界の異邦人はだれも知らなかった◆神との関係のない状態、それが「心の貧しい者」状態である。それは聖書を通して学ぶまでだれも知る由も無い。あなたは自覚へ導かれているだろうか。神に出会うことが無いままであるなら、自分が危機的で絶望的な存在でしかないという事実を。イエスは迷子のまま生きているあなたを、さがして救うために来られた。『わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。』(ヨハ10:11) あなたを愛されるがゆえに、イエス様は十字架の上で、あなたの御代わりとなって命を捨てられた。

■ 2015/01/04 (日)
 [題]
「クリスマス − 罪が処罰されるために 」
 [みことば]
『肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。』 (ローマ8:3)
 [ショート・メッセージ]
◆神を知らなかった以前の私たちは、周りの人間からの影響を受け、世の価値観に洗脳され、時に低い道徳的基準の中で、ひたすら人生を楽しもうとしていた。しかしもともと「神のかたち」に造られた私たち人間は、その痕跡である良心が残っているため心を痛め、強い違和感を感じながら、出口のない迷いの森をさまよい続けていた◆一人になり自分を静かに省みれば、深い後悔の思いに沈み、自分で自分をゆるせない時があったりもした。主なる神の語りかけを受け取るチャンスのときであったが、聖書から遠く離れたままであったため、何の解決もなかった。しかしある時聖書に導かれ、聖書から神の声を聞くようになった。空しい人生の、その出口へとやっと導かれたのだ。その出口に立っておられる方が見えた。十字架に釘付けにされたイエス様だ。受肉された神、メシヤなるイエス様だった◆神は人となって私たちの間に住まわれたと聖書は教えているのだが、なぜ、人となる必要があったのか。聖書は語る。私たち罪人の上に、永遠の赦し、完璧な贖いが成し遂げられるため身代わりに裁きを受けるために受肉されたと。神の前に犯した罪の裁きを私たちが自力で受けようものなら、私たちは永遠に裁かれなければならない。しかし神は、すでに永遠の救いを計画しておられた。罪を持たない神が人となられて、身代わりのさばきを受けることによってそのご計画を成就されたのだ。『しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。』(ヘブ9:26)◆イエス様は十字架上で叫ばれた。『三時ごろ、イエスは大声で、「エり、エり、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』(マタ27:46) イエス様は真実私たちの身代わりとなって罪のさばきを受けてくださったのだ。罪のないキリストのからだにおいて、私たちの罪が処罰されるためであった(ロマ8:3)。

■ 2014/12/28 (日)
 [題]
「クリスマス− 処女マリヤの懐妊と出産 」
 [みことば]
『それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける』 (イザヤ7:14)
 [ショート・メッセージ]
◆聖書は旧約(旧い約束の)39巻と、新約(新しい約束の)27巻から成り立っているが、旧約の中心が「メシヤ誕生の約束」であることを銘記しておかなければならない。アダムによる契約違反(創世記3章)の結果、罪と死の原理の支配下に堕ち霊的に死んだ人類は(参/創2:16-17)、エデンの園(=聖い神の国)に存在できなくなったため、神は人をエデンの園から追放しなければならなくなった(創3:23-24)。だがその前に、「女の子孫(メシヤ)をこの世に送る」との約束を明らかにされた。『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。』(創3:15) この子孫こそ、人類を霊的に再創造し、人類を本来の姿に回復させるために、天から遣わされるメシヤである。ところでこの「子孫」という単語は男性名詞・単数形で、「ひとりの男の子」という意味であり、メシヤ(=キリスト、救い主)を指し、この誕生をイスラエルは待ち続けていたのであった◆それから気が遠くなるほどの長い年月が過ぎ、ついに約束の子孫がこの世に送り出される時が来た。『御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た』のである(ルカ1:26)。数多くの旧約の約束の中の一つを見よう。『それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける』(イザヤ7:14)。処女の名はマリヤ。神を信じ、神のみこころを第一にして生きていた。婚約は済ませていたがまだ結婚生活に入っていなかったマリヤは戸惑った。すると御使いは言った。「男女の交わりにはよらず、神の力によってみごもるのです」(ルカ1:35)。処女マリヤは神のことばを受け入れ、ほどなくしてマリヤは懐妊し、出産に至ったのである。『それはこの方(御子)にあって神があらかじめお立てになったみむね(ご計画)によること』であった(エペソ1:9)。

■ 2014/12/21 (日)
 [題]
「クリスマス− 私たちの代わりに罪とされた主 」
 [みことば]
『神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。』 (Uコリ5:21)
 [ショート・メッセージ]
◆旧約聖書はなぜ書かれたのか。罪に堕ちた人類を救うためのメシヤ(救い主)を遣わし、罪と死の原理に支配されてしまった全人類をそこから解放し、神との霊的な交わりを回復させる時が来ることを、告げ知らせるためであり、旧約聖書はそのことを約束するものであった。ちなみにメシヤは、『女の子孫』(創3:15)として、肉体を有する者として、罪のこの世に現われる◆創世記3章に記録されたアダムとエバが隠し切れなかった「罪」(7)と、その罪をおおうために神が作られた『皮の衣』(21)。この皮の衣は、メシヤによって罪がおおわれ、神の前に無罪とされる日が来ることを暗示していた。詩篇の32篇に次のように記されてある。『幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのない人は。』(1-2)◆メシヤは人としてこの世に誕生するが、一つの大きなしるしが約束(預言)されていた。『それゆえ、主みずから、、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を生み、その名を「インマヌエル」と名づける。』(イザ7:14) この「インマヌエル(神は私たちとともにおられる)」には、二つの意味がある。まず第一に神が人の世に住むという意味であり(ヨハ1:14/私たちの間に住まわれた)、第二にまことの神であると同時にまことの人となるという意味である(ヘブ2:14/主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました)◆御子イエスが肉体をまとわれた理由は、実に、罪人の身代わりとなって死ぬためであった。そのことによって罪の代価を永遠に支払い、自分の罪を神の前に認め謝罪し神の義にしたがって生きる決断をする者の罪を清算し、永遠に赦し、無罪を宣言するすためであった。『神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。』(Uコリ5:21)

■ 2014/12/14 (日)
 [題]
「クリスマス− 神が人となられて救いの道を成就された 」
 [みことば]
『それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。』 (イザヤ7:14)
 [ショート・メッセージ]
◆福音集会が今日も導かれたが、キリスト教用語の「福音」とは、一般的な「朗報」とどう違うのか。両方とも良い知らせ、喜ばしい知らせ、であるが、「福音」(Evangelion/エバンゲリオン)は、ギリシャ語(エウ-/good/良い)と(アンゲリオン/message/知らせ)をつなげた言葉で、直訳すると「good news」となる。すなわち福音とは、天の御国に関する朗報のことで、簡単に言うと、旧約聖書で約束されていたことがその通りになったという、信じがたい驚くべき知らせのこと◆旧約聖書で何が約束されていたかを学ばなければ、福音を理解することは不可能である。ひとことで言うと、「天の御国(天国)に私たちを迎え入れるための、キリスト(救い主)の誕生および生涯と、十字架上での贖いのみわざと、成し遂げられた新しい永遠の契約」のこと◆@キリストについては、『ことば(なる神)は人となって(肉体を持たれて)、私たちの間に住まわれた』(ヨハネ1:14)、『福音を知らせましょう…次のことです。キリストは(旧約)聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また…三日目によみがえられたことです』(Tコリント15:1-5)と記録されている。A十字架上での贖いのみわざについては、『キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。』(Tペテロ3:18)と記されてある。B成し遂げられた新しい永遠の契約については、『キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物(キリストのからだ)によって、永遠に全うされた(赦された)のです。』(ヘブル10:14)と書かれてある◆クリスマスとは、神が人となられて救いを成就されたことを記念し、心から神に感謝する喜びの日である。

■ 2014/12/07 (日)
 [題]
「質疑応答− タラントのたとえについて教えてください 」
 [みことば]
『それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。』 (Tペテロ4:10)
 [ショート・メッセージ]
◆Q:マタイ25章14節からのたとえ話の意味を教えてください。A:「天の御国」とは地上のクリスチャンの交わり(教会)のことで、「しもべ」はクリスチャン、「旅に出て行く人」は天に上げられた主イエス様、「自分の財産」とは御霊によって分けられた御霊の賜物のことであり、Tコリント12章で詳しく教えられてある。真のクリスチャンには分け隔てなく「御霊の賜物」(Tコリ12:1)が与えられているが、自己満足や自慢するためのものではなく、互いに仕え合うためのものであり、福音を証するために与えられる。『みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物』が分け与えられるのは(同11)、役割を分担するため。ひとりのクリスチャンが多くの賜物を持つことは神のみこころではないが、おのおのに与えられるタラントに差があるのは(マタ25:15)、賜物を用いる能力に若干の差があることを示唆している。第一・第二のしもべは主人と喜びを分かち合っているのに対し、第三のしもべが断罪されているのは(同26)、与えられた賜物を活用しなかったからである。口先だけで「主よ、主よ」と言うだけで天の御国の働きに与ろうとしない者に対し主は「悪いなまけ者のしもべだ」と厳しいがそれは、『すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる』からである(Uペテ3:9)。聖書を通して創造者なる神を知り、自分の罪深さに気づかされ、心からの悔い改めに導かれ、贖いを体験し、新生を体験し、霊的ないのちに与るまでは、御霊の賜物は未知の世界のものである。しかし、いのちに至る悔い改めに導かれ、新生を実感するなら、その時、与えられている賜物に気づかされ、神が準備してくださった使命を生きる喜びに満たされるようになる。すべての真のクリスチャンにこのことは成就する。

■ 2014/11/30 (日)
 [題]
「ローマ7、8章(聖書箇所)− 神の御前に聖なるものとされる 」
 [みことば]
『このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。』 (ヘブル10:10)
 [ショート・メッセージ]
◆『しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。』(ロマ7:6)にある「今」とは、「イエスの死と復活と昇天と着座によって贖いの約束(福音/新しい契約)が成就した今」、という意味である。イエス様が天から来られ、十字架のみわざを完成させてくださったことにより、旧約の時代は終わり、新約の時代がスタートしているのだ。新約の時代とは、新しい契約の時代のこと◆人は善行によってどうにかして罪の赦しを得ることができるのではないかと勝手に考えているが、神は言われる。『不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7:23) 『わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる』(イザ55:8) 私たちは聖書から教えられて神の前にへりくだらなければならない。人の中に存在する罪は想像以上に根深く、深刻であり、自分で自分の過去を清算できるほど生易しくない◆『人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。』(ガラ2:16) 父なる神の永遠のご計画に基づいてキリストは天から来られ、あなたのために永遠の赦しを成し遂げてくださったのである。『このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、(主イエスを信じ人生をゆだねた)私たちは(神の御前に)聖なるものとされているのです。』(ヘブル10:10)

■ 2014/11/23 (日)
 [題]
「ローマ7、8章(聖書箇所)− 罪の自覚へと導かれる神 」
 [みことば]
『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』 (ヨハネ8:31-32)
 [ショート・メッセージ]
◆ローマ7:6の『私たち』とは、ユダヤ人クリスチャンのこと。彼らは、以前は「律法に捕らえられていた」、すなわち律法に束縛されていた。この時代の律法とは、バビロン捕囚以降に改ざんされたユダヤ教のことであり、パウロが学んでいたパリサイ派の教えが中心であった。パウロ自身もその教えに洗脳されていたため、クリスチャン迫害に積極的に加担し過激的な活動をしていたのだった(使26:9-11)。私たち日本人の場合は、学校で教えられる進化論の教えも同じである。真実でないものを真実であるかのように教えられて生きる危険が山ほどある。イエス様はこう言っておられる。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』(ヨハ8:31-32)◆世界中のすべての人間は、聖書から正しく学ぶまで、何らかの教えや習慣や習わしに洗脳され束縛されて生きている、それが現状だ。それから解放されてはじめて、自由と平安の中を生きることができる。聖書を学び続けよう。その自由と平安の中に生きる人生の入り口についてパウロは続けて言及した◆「罪を知ることが」(同7)なかったなら、永遠の「死」に向かって生きている自分の現実に気付かないままであっただろう(同9-10)。罪に気付かせてくれる本来の「(モーセ)律法」は、聖なるものであり良いものである(12)。「聖」とは、世の汚れから分離されている状態のことで、神のご性質の根本である。この聖なる律法によって罪の自覚へと導かれることがなければ、神への悔い改めが分からず、それゆえ罪から解放されることもない。いつまでたっても、神にある真の自由と平安の中に入ることはできないのだ。

■ 2014/11/00 (日)
 [題]
「ローマ7、8章(聖書箇所)− 律法から解放されて生きる 」
 [みことば]
『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』 (Uコリント5:17)
 [ショート・メッセージ]
◆『律法に対して死んだので、そこから解放され』(ロマ7:6)と、パウロは歓喜する。「キリストを知り・信じ・従う道」に進むことによってパウロは、「自分を誇らせ自画自賛させるための律法の道」からやっと解放されたのだ。古い罪の性質は、自分しか見えず、他人と比較し、人の上を目指し、自分を誇らせることによる快感を得ようと必死に働く。そのとき神との関わりはなく、神との交わりもなく、糸の切れた凧状態であり、そのような自己中心の近視眼的な生き方から解放されたのだ◆パウロはまさに、『古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕え』る人生へと導かれたのであった。この救われた道、福音の道こそ、休息の人生、全き平安の人生である。『人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。』(ガラ2:16) 『イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。』(Uコリ3:14)◆かつてソロモンは溜息をついて言った。『空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。』(伝1:3) そして彼も気付かされた。『結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。』(同12:13) しかし旧約時代に生きていたソロモンはそれを体験できなかったが、パウロは実体験したのである。

■ 2014/11/09 (日)
 [題]
「ローマ7、8章(聖書箇所)− 古い生き方からの解放 」
 [みことば]
『私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。』 (ローマ7:4)
 [ショート・メッセージ]
◆「あなたがた(クリスチャン)、は律法に対しては死んでいるのです。それはあなたがたが、神のために実を結ぶようになるためです」とイエス様は教えられた。律法とは、選民イスラエルを守り導くために、神が定め、預言者モーセを通して与えられたものであった。旧約時代に定められた律法には、道徳律法、祭儀律法、刑法・民法・行政法などのイスラエル社会を保つための律法などがあったが、バビロン捕囚後のユダヤの律法は、パリサイ人や律法学者たちによって、細かい人間的な規則が考案されるようになり、極端な律法主義に陥って行った。イエス様は、この人間的に考え出され出現した律法主義的考えに強く反対され、これを断罪された(ルカ15章)◆パウロもまた、以前は形式主義的律法解釈の中で学び、クリスチャン迫害の急先鋒に立っていたのだが、よみがえられた主イエスに出会い、その間違いに気付かされ、人間が神との霊的な交わりに入ることができるのは、キリストの十字架とよみがえりによって成し遂げられた新しい契約に与り、神のみこころにかなった真の律法が心に書き記される時であること(エレ31:33)を知ったのである。そのパウロが言う。律法主義的教えの呪縛から解放されない限り、新しい御霊に仕える人生を生きることはできないと。『私の兄弟たちよ。…あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。』(ロマ7:6)◆神の御前に、先祖から受け継がれた罪の性質が自分の中にもあることをすなおに認め、それを告白し(悔い改め)、御子イエス様の十字架の死により、その罪が、すでに清算されていることを信じ受け入れ、古い生き方から解放されようではありませんか。

■ 2014/11/02 (日)
 [題]
「ダビデ(人物)− ダビデ心から悔い改める 」
 [みことば]
『ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」』 (Uサム12:13)
 [ショート・メッセージ]
◆詭弁を弄したダビデ、しかしそのすべてを神は見ておられた◆夕暮れに起床するほどダビデの生活リズムは狂いっていた。そこにサタンは罠を仕掛けた。人妻がからだを洗う姿をダビデに見せつけたのだ(Uサム11:2)。『わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。』(マタ5:28) ダビデの心は神を見失い、その目は情欲に汚れていた。ダビデは誘惑に負けその人妻バテ・シェバを召し入れた。女はみごもった(Uサム11:3-5)。『夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい。』(申22:22) 聖い神は汚れを憎まれる。汚れが人類を滅びへと向かわせるからだ。人類を汚れから救うため、ノアの時代に大洪水が起きた。それでも汚れは受け継がれていった。『肉によって生まれた者は肉』に過ぎないからだ(ヨハ3:6)◆私は身ごもりましたという報告を女から受けたダビデはすぐに、罪を隠すための策を練った(Uサム11:6-13)。それが失敗するとその女の夫ウリヤを間接的に殺害した(同14-25)。恥を掻かないために彼は王としての立場を利用したのだ。しかしそのすべてを神は見ておられた。預言者ナタンを通して神は、ダビデに悔い改めを迫った。ダビデは叫んで言った。『私は主に対して罪を犯した。』(同13)◆ダビデの悔い改めの言葉が詩篇に記録されている。『私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ 』(32:3-5)

■ 2014/10/26 (日)
 [題]
「ダビデ(人物)− 神の主権にゆだねたダビデ 」
 [みことば]
『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』 (詩37:5)
 [ショート・メッセージ]
◆30歳で即位して12年間イスラエルを治めた初代の王サウルは、神の命令に背いて不従順の罪を犯したため、サウル王国は彼1代限りで途絶えると宣告された(Tサム13:13-14)。さらにその後もサウルは、アマレク人を絶滅せよとの主の命令を軽んじ、アマレクの家畜の最良のものを惜しんで自分のものとし、不従順の罪を重ねた(Tサム15:1-9)。そのためサウルは主に見捨てられ、王位から退けられたのであった(同11)◆預言者サムエルはサウルに代わる王として、主に命じられてダビデに任職の油を注いだ(Tサム16:13)。その後、主の霊はサウルを離れ、悪霊に悩まされるようになり、そんなサウルの気持ちを静めるためにダビデは竪琴をひく者として宮殿に召し出された。そのダビデがゴリヤテを倒し民から英雄視されるようになると、サウルはダビデをねたみ始め、繰り返しダビデを槍で殺害しようと企てた(Tサム17章以下)。しかしダビデはサウルに対して「神が王として任命された方」としての敬意を払い続け、サウルに危害を加えるチャンスがきても、神の主権にゆだね、自ら手を下そうとはしなかったのである(Tサム24:6-7)。これこそダビデの中に聖霊が注がれていたことの証拠である◆『御霊に属する人』(Tコリ3:1)でなければ、安きに流れ、古い肉の思いを優先させ、その結果、霊的な平安も喜びも感謝も遠のいていく。逆に、御霊に属して生きていることを意識する生活を心がけるなら、絶えず主に感謝し、与えられている使命に生き、用いられている喜びを実感し、一切を主にゆだねる平安に留まることができる。『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』 (詩37:5)◆みことばを学び続けることなくして、主との人格的な交わりを継続することはできない。そして、主との人格的な交わりを継続することができなければ、主の主権にゆだねて軌道修正されることも成長もない。キリストの体なる集会の交わりの中でみことばを学び続けようではないか。

■ 2014/10/19 (日)
 [題]
「ダビデ(人物)− 目が美しいダビデ 」
 [みことば]
『主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。』 (イザヤ55:6-7)
 [ショート・メッセージ]
◆神は預言者サムエルをダビデの父エッサイの家に遣わしたのは、そこに初代の王サウルに代わる王を見つけたからだった(Tサム16:1)。末弟八男のダビデのことだが、サムエルはダビデについてこう記した。『その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。』(同12)目が美しいとは、隠し事がない偽りがないということ。神を求める正しい生き方を日々心がけているということだ。イエスが山上の垂訓の中で次のように言っておられる。『からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。』(マタ6:22-23)サムエルがダビデの目の美しさを思っているとき主が言われた。『さあ、この者に油をそそげ。この者がそれ(わたしの選びの器)だ。』◆あなたが天地を創造された神を思い、正しい生き方を日々心がけるなら、神もまたあなたに目を留めて、聖霊なる神の取り扱いを通して、あなたを救いへと導かれる(ヨハ3:5)。その時が来たら、あなたはそれに気づきそれを自覚する。そしてその第一段階は、罪の自覚だ(ヨハ16:8、ルカ18:13)◆私たちは、神によって創造されたすべての被造物(酸素・水・引力・自律神経他)に依存して生き、生かされているが、それらすべてのルーツである神に背を向け、自分の好きなように生き、罪・咎・悪・汚れのスパイラルに陥ってきた。この事実に気付かされるのだ。そのとき、あなたがこの第一段階でなおも神のお取り扱いを無視するなら、あなたを導かれる主の霊はあなたから離れる(Tサム16:14)。だから、『主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。』(イザ55:6)

■ 2014/10/12 (日)
 [題]
「ダビデ(人物)− 心を見ておられる神 」
 [みことば]
『彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』 (16:7)
 [ショート・メッセージ]
◆ダビデ王のルーツはルツ。ルツの曾孫になる。ルツ-オベデ-エッサイ-ダビデ(マタ1:5-6)。ちなみにルツはモアブの女で、士師時代にききんを逃れてモアブに来たベツレヘム人エリメレクとナオミ夫妻の子マフロンと結婚したが(ルツ4:10)、義父と夫に先立たれたため、故郷ベツレヘムに帰る義母ナオミに従ってベツレヘムに行った。そしてそこで親族の一人ボアズと出会い、結婚(同13)。ルツはダビデ王の父エッサイの父となるオベデを生み、異邦人のモアブ人でありながら、信仰によってイスラエル人の系図に加えられ、約束された救い主イエスの先祖の一人とされた◆ダビデの父エッサイには8人の男の子が産まれ、その末弟であった。彼は血色がよく目が美しく姿もりっぱで(Tサム16:12)、琴が上手で勇士であり戦士であり、ことばには分別があり体格も良かった(同18)。一方、イスラエル初代の王サウルはたび重なる不従順の罪ゆえに神に見捨てられ、王位から退けられてしまった(Tサム15章)。そこで次期王となる者に任職の油を注ぐために預言者であり士師であったサムエルが、ベツレヘムのエッサイの家に遣わされた(16:1)◆サムエルは長男エリアブを見てこの者に違いないと直感で思ったが、主は仰せられた。『彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』(16:7) そしてサムエルは、自分に任された羊飼いの仕事を忠実に守って野にいた末弟ダビデに会う。主は『さあ、この者に油を注げ』と命じ、サムエルが兄弟たちの真中でダビデに油を注ぐと、主の霊(聖霊)がダビデに激しく下った。神はダビデの信仰(人生を神に委ねる決断)をご覧になっておられた。

■ 2014/10/05 (日)
 [題]
「死− 神との断絶である死 」
 [みことば]
『しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』 (創世記2:17)
 [ショート・メッセージ]
◆死はどこから来たのか。天地が創造され、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常に良かった」(創1:31)の時点には、死は存在していなかった。土地のちりで人が形造られ鼻からいのちの息が吹き込まれ(2:7)、エデンの園に置かれてそこを耕し守っていたときも死はなかった(同15)。そのあと神は、人間の代表であるアダムと契約を結ばれた。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』(同16-17) 園にある多くの木の中から無作為に選ばれた1本を約束の木とされ、神を無視し神との約束を破るしるしとされた◆このあと神はアダムのふさわしい助け手として、彼のからだの一部から女を創造された。ある日、へびに化身したサタンが園に入りエバに話しかけた。女はへびの言葉に誘導され神との約束を捨て、へびの誘いの言葉を受け入れ、取って食べてはならない木の実を取って食べ、これをアダムにも食べさせた(3:6)。こうして人間の代表であるアダムは約束を破り、罪が入り、罰則としての死が全人類に広がった(ロマ5:12)◆死を定義づけると「神との断絶」となる。人を永遠の死から救うために、神は女の子孫からメシヤを誕生させるご計画を立てられた。『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとにかみつく。』(3:15/原福音) このご計画に基づいて、人を<永遠の死>から救うために天から来られたお方がイエスである(エペソ1:9-12)。聖書はこのお方について書き記されている。あなたが聖書を通して神を知り、神を信じ、神に従う者とされるために。

■ 2014/09/28 (日)
 [題]
「死− 平安に包まれて神のもとに帰る 」
 [みことば]
『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』 (ヨハネ8:32)
 [ショート・メッセージ]
◆死について聖書は何と語っているか。死によって人のたましいは肉体から分離され、ふるさとである神のもとに帰らなければならない(伝12:7)。地上でどのように生きたかを報告するためである。そのときアダムとエバを通してサタンから受け継いだ罪が清算されたたましいは、平安と希望を持って神を見つめながら神のもとに帰ることを喜ぶ。一方、心に痛みを感じながら楽しんだ罪(ロマ2:14)を清算されることを拒み続けたたましいは、それが明るみに出されることを恐れて、さばき主なる神のもとに帰ることを拒む(ヨハ3:20)◆神のもとに帰ることを選択し受け入れられたたましいは何のわだかまりもないばかりか、平安と感謝と喜びに満ちる(ルカ16:25)。一方、隠し続けた罪のゆえに神から遠く離れた世界に逃げ込んだたましいは、不安におののきながら良心の呵責の炎の中で苦しむ(ルカ16:23-24)◆神は人を赦し、ご自分のもとへ迎え入れたいと願われて、メシヤなる救い主を天から遣わすご計画を立てられ(エペ1:9/創3:15)、メシヤなるイエスの十字架の死と復活によってそのご計画を成就されたのだが(ヘブ10:10,12,16,17)、それでもなお人は、神よりも自分の思いを優先し続け、救いに至る道を拒み続けている(マタ23:37)◆仏教の創始者である釈迦は聖書に出会わなかったゆえに暗中模索を続け、縁起(因縁生起/自然の法則)に身を任せるほかなく、四諦(生・老・病・死に対し執着を捨て諦めること)以外に苦しみから逃れる道を見出すことはできなかったと弟子たちに教えるだけだった。彼は神を源泉とする真理(ヨハ8:32)を知ることはできなかった。『人間の教え』(マタ15:9)の領域内に留まることしかできなかったのだ。あなたは聖書を通して、神を源泉とする真理に出会ってください。

■ 2014/09/21 (日)
 [題]
「死− 死によって分離されたたましいは神に帰らなければならない 」
 [みことば]
『ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。』 (伝12:7)
 [ショート・メッセージ]
◆『霊はこれを下さった神に帰る』という事実を聖書を通して神は明らかにしておられる(伝12:7)。「死」とは肉体と霊(たましい)の分離である。地上で生きているあいだ、肉体と霊は不可分の状態にあったが、霊と分離して抜け殻となった肉体は腐敗していずれ土に戻り(創3:19)、あなた自身である霊(たましい)は創造者であられる神のもとに帰る。そして、神から与えられた自由意志を用いてこの地上でどのように生きたか、が問われるのである。『律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。…律法を持たない異邦人…は、自分自身が自分自身に対する律法なのです。』(ロマ2:12,14) そのとき、罪であると認識しながらあえて罪を犯したたましいは、『その行ないが明るみに出されることを恐れて、光(神)のほうに来ない。』(ヨハ3:20) すなわち、与えられた自由意志を用いてハデスに向かって逃げるのだ◆そのような弱さを持つ人間が、罪を赦されて喜びと感謝と賛美を持って『光のほうに来る』(同21)ことができるように、神は『新しい生ける道』を備えてくださったのである(ヘブ10:20)。神が、メシヤなるイエスを世に遣わしてくださったのは、実にこのためであった。『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。』(同17) 彼らとは、自分の罪過ちをすなおに認め、心から悔い改めて、メシヤの身代わりの死である十字架による贖い(ロマ8:3)によって自分のすべての罪も清算されていること(ロマ6:6-7)を信じ受け入れ、神の御前に罪を赦された者のことだ(ガラ2:16)◆アダムとエバから罪の性質が受け継がれ、罪の中に生きていた者たちが、その罪の支配から解放されいのちの中を生きる者とされることを(ヨハ5:24)、神は計画され(創3:15)、それを成就してくださった(ヨハ19:30)。

■ 2014/09/14 (日)
 [題]
「死− 肉体の死と霊の死 」
 [みことば]
『イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。』 (ヨハネ19:30)
 [ショート・メッセージ]
◆死について、神は2つの側面から教えておられる。「肉体の死」と「霊(たましい)の死」である。旧約聖書に次のように記されてある。『ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。』(伝12:7)◆しかし神は、旧約聖書においてはそれ以上のことを明らかにはされなかった。死とその問題の解決については、新約聖書で明らかにされている。『神はむかし…預言者たちを通して…語られましたが、この終わりの時には、御子(イエス)によって私たちに語られました。』(ヘブ1:1-2) 死の問題を永遠に解決されるために、メシヤなるイエスは天から来られて人となられ、一時的にサタンに支配されているこの世(Tヨハ5:19)を歩んでくださり、十字架の道へと進まれ、ユダヤの宗教指導者たちからねたまれ、死なれ、3日目によみがえられ、昇天され、父の右の座に着座されたのである。この永遠に解決された死について、これから見て行く◆ところで、人が死を恐れるのはなぜか。それは、死の扉の向こうに何があるのかを知らないからだ。神は、愛の対象として人を創造されたのであるが、人は神を知らない環境の中で生まれ生きてきた。神がどれほど自分のことを思っておられるのか、いつも自分を見つめておられるのか知らない。罪と死に関わるすべての問題を完全に処理されて、解決しておられるかを知らない。『神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。』(Tコリ15:57) メシヤなるイエスによって、すでに『死は勝利に飲まれた』(同54)のである◆十字架上で息を引き取られる直前、主イエスは叫んで言われた。『完了した』(ヨハ19:30)

■ 2014/09/07 (日)
 [題]
「質疑応答− 苦しみについて教えてください 」
 [みことば]
『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』 (詩篇119:71)
 [ショート・メッセージ]
◆Q)人生の中で生じる苦しみはすべて神からの試練と受け止めていいのですか?・・・A)苦しみに至る原因には2つあります。ヨブのように一方的に神の主権によって導かれる苦しみと、バテ・シェバとの姦淫の罪を犯したダビデのように犯した罪の結果としての苦しみです◆@神の主権による苦しみ(迫害・災害・不慮の事故など)の場合は、試練と呼ぶことができます。試練とは、信仰が[試]され、[練]られることです。『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』(詩119:71) 『患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望(御霊のからだに変えられる栄化の希望)を生み出すと知っているからです。』(ロマ5:3-4)◆A犯した罪の結果の苦しみは、人が神のかたちに造られたという聖書のみことば(創1:27)の実証になります。アダムとエバの堕落により神のかたちは損なわれましたが、良心としてその痕跡は残されているため、罪悪感により後悔の苦しみを感じるのです。神の御前に悔い改める以外にこの苦しみから逃れる道はありません。『私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。』(詩32:3-6)◆苦しみを通して練られ、あるいは軌道修正していただけることは大きな喜びです。

■ 2014/08/31 (日)
 [題]
「ヨブ記− 神との人格的な交わり 」
 [みことば]
『主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。』 (ヨブ42:12)
 [ショート・メッセージ]
◆神はあらしの中からヨブに答えて仰せられた(ヨブ38:1)。神は雷鳴とあらしの現象を伴って顕現される(出19:16、使2:2)。ヨブはあらしの中から神の御声を聞いた。「知識もなく言い分を述べて、知識を暗くする者(神のご計画を邪魔する者)はだれか」(ヨブ38:2)。ヨブへの神の語りかけを準備をしたエリフが、「ヨブは知識もなく自己主張を繰り返した」と告げていたように(35:16)。信仰が与えられ成長し結実に至るのもみな、みことばを聞き、その奥義を学ぶことから始まることを心に留めなければならない(ロマ10:17、使8:31)。ヨブは生まれて初めて、神の御声を聞き、神を見たのだ(42:6)。この時ヨブは徹底して砕かれ、神に対する恐れを感じ、へりくだって悔い改めた(42:6)◆「悔い改め」とは、徹底して自分の非と罪を認め(自己否定)、神への恐れをもって謝罪することだ◆悔い改め神との和解が導かれたヨブに、神は大切なことを命じられた。それは「3人の友のためにとりなして祈ること」であった(同8)。自分が神から赦され受け入れられたように、無知であった3人の友を赦し受け入れ、神に赦しを請う祈りをささげることであった。ヨブが友のために祈ったとき、「主はヨブを元どおりにし、ヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された」のであった(同10:12)。あとの半生とは、神に出会った後という意味である◆あなたは人から聞いたお話で満足していないか(マタ15:9)。聖書を通して神に出会い、神との人格的な交わりを体験し続けているだろうか。あなたの人生を最善へと導いておられる神の、あなたへのご計画を邪魔してはいないだろうか。『あなたの道を主にゆだねよ。』(詩37:5)

■ 2014/08/24 (日)
 [題]
「ヨブ記− 私たちを不動の者へと導いておられる神 」
 [みことば]
『あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。』 (Tペテロ5:10)
 [ショート・メッセージ]
◆ヨブはもがき続けた。因果応報論に基づいた3人の友からの徹底した有罪宣言に対し、ヨブもまた身の潔白を語り、己の義を主張し続けた(ヨブ3〜26章)。論争が煮詰まって友は沈黙し、ヨブの独白が続いた(同27〜31章)。その中でヨブは怒りの矛先を神に向け、なぜ沈黙を守り徹されるのかと神を非難し、怒りをぶつけた。そしてヨブの言葉は終わる(31:40)◆彼らの論争をそばで聞いていたエリフが突如として立ち上がり、ヨブと3人の友に語る。神の証言を待たないまま、互いにエスカレートした彼らに怒りを燃やしたのだ(32:2.3)。「ヨブよ、なぜあなたは神を非難するのか。自分の言葉に神がいちいち答えてくださらないからと言って。」(33:13) 「ヨブよあなたはいたずらに口を大きく開き、知識もなく自分の言い分を述べたてた。」(35:16) 「神が自己啓示してくださらない限り、人間の力で神を見出すことは不可能なのだ」(37:23)、と言ってエリフの言葉は終わった◆その時あらしの中から突如、神が現われヨブに語り始められた(38:1)。「知識もなく言い分を述べ、わたしの計画を邪魔する者はだれか。」(同2) 神との人格的な交わりが与えられることによって、ついに解決への扉が開かれたのである(ダマスコ途上のサウロと同じように/使徒9章)◆この体験を通してヨブはやっと知ることができた。どんな困難・患難・苦悩にも、常に最善へと導いておられる神のご計画があることを。自分に求められていることは、ただひたすらに神の御前にひれ伏すこと(これが信仰)であり、神はこの信仰を求めておられるということを。神は私たちをも、成長を遂げた完全な者へと導いておられる(Tペテロ5:10-11)。

■ 2014/08/17 (日)
 [題]
「ヨブ記− 神の御前に無条件でひれ伏す 」
 [みことば]
『その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人となります。』 (ヤコブ1:4)
 [ショート・メッセージ]
◆散文体で書かれているヨブ記の1,2章は、3章以降の友との論争に入るための序論であり、3〜42章前半までの詩形式で書かれている本論がヨブ記の中心となっている。3〜26章までの友人3人とヨブの論争を通してヨブの問題点が明らかになっていくが、ここが重要であり、このあと神を責めるヨブの独善のひとり言が記され(27〜31章)、32〜37章でエリフが登場して「神を恐れよ」とヨブに迫り、ヨブが神に会う準備が導かれる。そしてついに神ご自身がヨブに現われ、ヨブは自分の高慢さに気づかされ、悔い改めて神を礼拝する(42章)。神との人格的な交わりが与えられた後のヨブの半生は、豊かに祝福されたと記されてある(42:12)◆ところで、友との論争の場面は、裁判長(神)は登場せず、被告人ヨブと、罪に定めようとする検事(3人の友)だけである。友は一方的にヨブを責め、与えられている苦悩はヨブの隠された罪の結果であると決め付ける。弁護人のいないヨブは自分の身の潔白を主張するあまりむきとなり(13:8,27:5-6、29:14,32:1-2)、神と争い、神を責めるに至る(40:2,8)◆ヨブはもがき、限界にまで導かれたそのとき、突如として神との人格的な交わりが与えられ、ついに解決への扉が開かれた。ヨブは知った。どんな困難・患難・苦悩の中にあっても、常に最善を導いておられる神の御前に無条件でひれ伏すこと、これが信仰であり、神はこの信仰を求めておられるということを。神はあなたを、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者に導いておられる。

■ 2014/08/10 (日)
 [題]
「ヨブ記− 繰り返されたヨブへの試練 」
 [みことば]
『私には、キリストを得、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。』 (ピリ3:9)
 [ショート・メッセージ]
◆ヨブが住んでいたウツは、アブラハムの孫エサウの子孫が住むエドム人の地であった(哀4:21)。すなわちヨブは、イスラエル人から見ると外国に住む外国人ではあったが、このヨブ物語は旧約聖書の詩歌5巻の中の最初に置かれた。イスラエル人ではなかったのに、ヨブは、『潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざか』る生活を送っていた(ヨブ1:1)。彼は、自分の中にある良心に従い、良心に恥じないような生き方を心がけていたのだ(エゼ14:14)。すなわち彼は、『自分自身が自分に対する律法』となって、用心深く生きていたのである(ロマ2:14)◆そんなヨブが、神から認められていることを快く思わない者がいた。サタンである(ヨブ1:9)。サタンはエデンの園においてもアダムとエバに嫉妬し、彼らを誘惑することによって、神との間を引き裂いたのであった(創3章)。そこでサタンは神に訴えた。ヨブに災いを与えたらきっと彼は、あなたをのろうに違いありません。すると神はそれを許可され、災いがヨブを覆った。しかしそれにもかかわらず、ヨブは神をのろうことはしなかった(1:12〜2:10)◆するとさらに続けて、別の角度からの試練がヨブに迫って来た。彼の大親友3人が見舞いに来たのだが(2:11-13)、この3人はヨブに悔やみを言って慰めることができなかった。ヨブの痛みがあまりにもひどかったからである。彼らは7日7夜、ついに一言も話しかけることができなかった、と記されてある(2:13)◆ここまでがヨブ記の序論で、いよいよこの後、3章からが本論となる。

■ 2014/08/03 (日)
 [題]
「パウロ− 聖霊なる神の働きかけに与る 」
 [みことば]
『その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。』 (ヨハネ16:8)
 [ショート・メッセージ]
◆パウロがシラスとともに、ピリピの獄舎に叩き込まれたことについて使徒の16章22節から記されてあったが、それは聖霊の導きによるものであって、人間的に立てた計画によるものではなかった。パウロたちは第1回伝道旅行で巡った小アジヤ地方を再訪問しようと考えていたのだが『聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方』を通り(6)、さらに『ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった』(7)、と記されてある◆そこで、聖霊なる神について聖書の中に調べたい。ヨハネ16:13『その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。』 「来る」とは、聖書のみことばを用いてあなたがたに、"働きかける"の意味。「あなたがた」とは集会(教会)の、"霊的な神の家族の交わり"のこと。「真理に導き入れる」とは、"真理を解き明かしてくださる"こと。集会の交わりから離れてしまうと、聖書のことばを自己解釈し続けてしまうので要注意(Uペテ1:20)◆聖霊の働きかけがなければ、聞いたみことばは単なる知識。知識は信仰ではないが、知識が入ることで自分はクリスチャンになったような気がする人がいる。聖霊なる神の働きかけに与らなければ、まだバリバリの未信者である。聖霊なる神の働きかけに与るとは、心をさぐらされ、これまで神を無視して生きてきた自分に気付かされ、生きておられる神のご人格を認識させられ、神を恐れ、神への悔い改めへと導かれるようになることである。みことばを通して聖霊なる神のお取り扱いを受けてください。

■ 2014/07/27 (日)
 [題]
「パウロ− 未信者の方々の最後は滅びである 」
 [みことば]
『というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。』 (ピリピ3:18-19)
 [ショート・メッセージ]
◆パウロの福音宣教は『どうしても、しなければならないこと』であった(Tコリ9:16)。人から尊敬されたくてしているのではない、誉められたくてしているのではない、報酬を求めているのではない。未信者の方々の魂の最後が滅び(神との永遠の断絶)であることを知ったからである。彼らが神に帰るチャンスを永遠に失ってしまうと知ったパウロは、同国の者にだけでなく異邦人にも、近くの者にも遠くの者にも、仲の良い隣人にも自分のことを敵対視する者たちにも、それこそ老若男女すべての人に、この霊的真理を知らせなければならなかったのである◆ピリピの獄舎に叩き込まれたとき、パウロはそこが伝道会場に見えた。罪を犯して投獄された囚人一人ひとりに、あなたもあなたも神から愛されているのですよと伝えずにはおられなかった。十字架上であなたの罪を負って死なれたキリストによって、あなたの罪は永遠に赦されているのですよと知らせずにはおられなかった。だから素直に自分の過ちを認め、神の前にへりくだって謝罪し、神を無視して生き続けて来た人生に終止符を打ちなさいと勧めずにはおられなかった◆私たちもまた、同じような思いで福音を届けてくれたクリスチャンによって聖書に導かれ、今度は私たちクリスチャンが同じ思いで福音を届けているのである。未信者の方々よ、聖書を通して神を知ってください。

■ 2014/07/20 (日)
 [題]
「パウロ− 信仰によって追い求める霊的世界 」
 [みことば]
『しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。…』 (ロマ9:31-32)
 [ショート・メッセージ]
◆パウロはピリピで牢獄に入れられたとき、腹を立てなかった。重罪犯罪人扱いされ足かせを付けられたままで奥の牢に入れられたとき、パウロは神に感謝すらした。囚人たちでごった返している牢獄を伝道の場として導かれたことに気付かされたからだ。パウロは愚痴一つこぼすことなく喜び、主にお任せした。その夜、奇蹟が起きた(使16:25-26)◆人間的には腹を立てたい状況の中で、パウロは霊的な世界を見ていたのである。不穏で悪臭を放つ牢獄が、一瞬の内に伝道メッセージの講演会場と化したのだ。鞭打たれてボコボコにされていたにもかかわらず、激痛で声も発し得ないほどの状況の中で、パウロは大きな声で神の祝福を祈り、オリジナルの賛美を歌い、賛美を通して福音を伝えたのだ。なんと牢獄内の囚人たちは皆、パウロの歌に『聞き入っていた』と記録されている(同25)◆かつては"行ない(手柄)"によって救いを得ようと必死だったパウロであったが、主イエスに出会い、悔い改めて、メシヤとして世に来られたこの方を信じる信仰を与えられることをとおして真実救われ、霊的ないのちのうちに新生させられたのである。パウロは言う、『…神の恵みによって、私は今の私になりました。』(Tコリ15:10) 救いは一方的な神からの霊的祝福であって、人間的な基準とはまったく異なったものである。ゆえに、真実救われたクリスチャンは、逆境の中で、パウロのように霊的な世界を見させられるのだ。

■ 2014/07/13 (日)
 [題]
「パウロ− 主よ。あなたはどなたですか。 」
 [みことば]
『「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。』 (Tテモ1:15)
 [ショート・メッセージ]
◆イエスに出会う前のパウロはどんなであったか。彼(ユダヤ名はサウロ)はイエスがキリスト(救い主)であることを認めず、イエスを信じているクリスチャンたちを世から完全消滅させようと必死に活動した。『さてサウロはなおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それはこの道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。』(使9:1-2)◆後日、彼はこの時のことを思い出して次のように語った。『(私の)熱心は教会を迫害したほどで、(パリサイ派の)律法(解釈)による義についてならば非難されるところのない者(でした。)』(ピリ3:6) そんな彼に主はご自身を現わされたのだ。『「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。彼が「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」』 死んだはずのイエスが目の前におられる◆この瞬間から彼は天地の創造者なる神に導かれ、聖書を調べ、人知をはるかに超えた神の救いのご計画を学び続けたのである。そしてやっと理解できた彼は言った。『人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められるということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。』(ガラ2:16)

■ 2014/07/06 (日)
 [題]
「聖書− 質疑応答 」
 [みことば]
『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。』 (ヨハネ3:5)
 [ショート・メッセージ]
◆Q:"神のことばと神の霊"による取り扱いを受けると聞きましたが、神の霊はどのようにしたら分かるのですか?◆A:霊という言葉を聞くと、幽霊や精霊、死霊など超自然的な存在をイメージしやすく、祈祷師のようなシャーマンの恍惚状態の姿を連想すると思います。聖書から学ぶことのないこの世がいかに真理から隔絶された中に存在しているかが証明されています。祈祷師の世界は悪霊の支配下にあり、人を創造者なる神に出会わさないために悪霊は、今でもいろんな現象を見せています。一方、神の霊とは神ご自身のことです。この宇宙が造られた時、神の霊が働かれたとあります(創1:2)。創造者なる神がすべてを造られ、愛の対象として人を造られ、聖い愛に満ちた霊的な交わりを喜んでいましたが、それを見てねたんだ悪魔は女をだまし、男をも引きずり込んで神との約束を破らせ、神から引き離して自分の支配下に置いたのです(3章)。神を知り神に帰るには神ご自身による助けと導きが必要です。それが"神のことばと神の霊"なのです。神以外の人造宗教や哲学、人間的な学問等を通して創造者なる神に至ることは不可能です。『全世界は悪い者の支配下にある』(Tヨハネ5:19) 『私たち(クリスチャン)は神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。』(Tヨハネ4:6)神のことばと神の霊による取り扱いを受け続けてください。

■ 2014/06/29 (日)
 [題]
「聖書− 聖書は足のともしび道の光 」
 [みことば]
『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』 (詩篇119:105)
 [ショート・メッセージ]
◆人は、暗黒の中では一歩も足を踏み出すことができない。大きく目を見開いても何も見えない漆黒の闇の中では、微動だにできない。人生も同じだ。真理が見えない中で生きることは不安であり、確信がなく、希望がない。聖書を学ぶことによって、人は何が本当かを知ることができ、やっと光の中で生きることができるようになる。ゆえにそのような人生に移された者には、平安があり、確信があり、希望がある◆「あなたのみことば」のあなたとは、宇宙を造られ、すべての命あるものを造られ、それらを生かし、聖書を通して被造物である人間に語り続けておられる神ご自身のことだ。神のことばの裏に隠されてある真理こそ、人の足元を照らすともしびであり、道を輝かせる光だ。足元とは日々の生活であり、罪人は気づいてはいないが多くの罠に気付かせてくださる。悪はどんな悪でも避けなければならないがその悪が見えないために心を汚し傷つけ思い煩いを増していく。道とは一度しかない人生のことであり、喜びと感謝と確信を持って人生を全うすることができるようにと、神は聖書を通して光を準備されたのである◆クリスチャンになっても苦しみはある。しかしそれは悪をむさぼった後の苦々しい苦しみではなく、神ご自身をさらに知るための、そして神のみこころに沿って聖められるための苦しみである。『 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』(詩119:71) 聖書からさらに学び続けようではないか。

■ 2014/06/22 (日)
 [題]
「聖書− 救いに至る3段階 」
 [みことば]
『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』 (ロ-マ10:17)
 [ショート・メッセージ]
◆神が分からない、ゆえに罪が分からない。罪が分からない、ゆえに現世利益を求める。そんな人の欲心を利用してビジネス宗教がはびこる。現世利益を求める者を掻き集めるために新興宗教が名乗りをあげ、真実を学んでいない多くの人が入っていく。『狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そしてそこからはいって行く者が多いのです。』(マタ7:13)◆聖書のことばは、あなたの足元を照らす光だ。滅びに向かわぬように、暗闇から救出するため、神からあなたへの愛の手紙である。みことばの光に足元を照らされて、あなたを創造されたまことの神に帰らなければならない。『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』(詩119:105)◆人が救いを受けるための段階が3つある。第1段階、聖書を学んで「神を知ること」。第2段階、罪に気付かされ悔い改めて「神を信じること」。第3段階、神との人格的な交わりを体験して「神に従うこと」だ。すなわち、知ること・信じること・従うこと、である。この順番を入れ替えることはできない。聖書は何を教えているかを十分に学ばない限り、罪が分からず、罪が分からなければ先へは進めない◆『律法(聖書)がはいって来たのは、違反(罪の自覚)が増し加わるためです。』(ロマ5:20) 『悔い改めて福音を信じなさい。』(マコ1:15) 『罪から来る報酬は死です。しかし神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです』(ロマ6:23)

■ 2014/06/15 (日)
 [題]
「聖書− 聖書に耳を傾けない限り 」
 [みことば]
『アブラハムは彼に言った。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」』 (ルカ16:31)
 [ショート・メッセージ]
◆ある金持ちがいた。毎日ぜいたくに暮らしていた。自分で稼いだお金だ自分の自由に使って何が悪いと、臆面もなく王様気取り(ルカ16:19)。彼の元使用人だったのか、金持ちの門前で助けを求める貧乏人ラザロ。貧乏人は立ち上がれないほど衰弱していたが、金持ちはあわれみの心を閉ざしたまま。その態度が金持ちの罪深さを物語っていた。ほどなく貧乏人は死んで無縁仏として埋められた。金持ちも死んで盛大な葬儀が営まれた(22)。しかし地上に残った者たちは誰ひとり気付かなかった。貧乏人のたましいは御使いたちによって天に引き上げられ、金持ちのたましいは神を避けるようにしてハデス(地獄)に落ちて行ったことを(23)◆ハデスは自責の念で苦しみ続ける霊的世界であった。ふと見上げると、はるかかなたにあのラザロが見えた。アブラハムのふところ(パラダイス)と呼ばれる霊的世界にいた。金持ちは言った。「ここは自分を責め続ける場所で、何の解決もなく苦しい。アブラハム様お願いだ。まだ地上に残っている5人の兄弟たちまでもが、こんな苦しみの場所に来る事のないように、ラザロを生き返らせて彼らによく言い聞かせてやってください。」アブラハムは答えた。「地上には聖書がある。それを通して悟る以外にない。」金持ちは言った。「いいえ、不思議が起きれば彼らは悔い改めるに違いありません。」「もしも聖書を無視するなら、何が起きても変わらない。」(27-31)◆聖書を通してしか人は変えられない。

■ 2014/06/08 (日)
 [題]
「聖書− 聖書を読むときに注意すべきこと 」
 [みことば]
『それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。』 (Uペテロ1:20-21)
 [ショート・メッセージ]
◆聖書は、神が約40名の預言者を用いて地球上に生まれたすべての人に送られた、天の御国への招きの手紙である。旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合計66巻。最も古いものは旧約聖書のモーセ五書でBC1500年ごろ記され、新しいものは新約聖書でAD90年ごろ記された。読めばおのずとその意味が見えてくるというものではない。なぜなら私たちはひとり残らず、神との関わりが遮断されたままの世に生きているからだ◆聖書は『導く人』がいなければ(使8:31)、無用の長物となり、宝の持ち腐れとなる。聖書を読むときの鉄則。それは聖書に人間的な意味づけをしてはならないということだ。『聖書はすべて神の霊感によるもの』(Uテモ3:16)なので、『人の私的解釈を施してはならない』(Uペテ1:20)のである。聖書は読み続けさえすればよいというのではなく、実に、学び続けるべきものである、と知らなければならない◆導く人、すなわち聖書のみことばを解き明かす人たちが集っている集会(教会)の交わりに、定期的に参加して耳を傾ける必要がある(ルカ8:8,18)。みことばを学ぶとき、一を聞いて十を知ろうと意気込んではならない。百を聞いて一を知ることしかできないことを心に強く刻まなければならない。調子に乗ると、岩地の状態のまま、みことばを枯らしてしまうからだ(ルカ8:6,13)。学び続けることによって少しずつ、人はみことばに隠された霊的意味を知るようになる。これが神からの祝福の第一歩だ。

■ 2014/06/01 (日)
 [題]
「ルカ8章− 心の貧しい者 」
 [みことば]
『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』 (マタイ5:3)
 [ショート・メッセージ]
◆「良い地」とは、人間的な価値観の矛盾に気づかされてそこから離れ、表面的な快楽の愚かさを教えられそこから遠ざかり、二心で生きる空しさを悟らされそこから脱出し、神のご計画に一切をゆだねて生きる決断をした者のことである。かつては高慢に振る舞い、自分を誇り、良い行ないを勲章のように見せびらかして生きていた者であったことを認め、神の御前にへりくだり、やっと『心の貧しい者』(マタ5:3)の段階に導かれた者のことだ◆心の貧しい者とは、人の目に映る自分を意識するのではなく、まことの神の目に映る自分を意識する訓練を受けている者である。また、自分が神の前には、神に満足していただける何ものも持っていない空っぽの者であることを認め、自分を含めすべては神のものであることを信じ、一切をゆだね生きている者のことである◆そのような生き方をしていた旧約聖書の人物は「ヨブ」だ。彼は耐え難い苦難の中でも愚痴をこぼさず、神を賛美して祈って言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』(ヨブ1:21) また新約聖書の中に調べるなら「パウロ」である。彼はかつて自分の行ないを誇り自慢し、イエスを認めず軽蔑し、クリスチャン狩りをしては教会を滅ぼす活動の急先鋒に立っていた。しかしダマスコ途上で、復活・昇天・着座されたキリストに出会い(使9章)、心から悔い改めて言った。『私はその罪人のかしらです。』(Tテモ1:15)

■ 2014/05/25 (日)
 [題]
「ルカ8章− さまざまな欲望への未練を捨てよ 」
 [みことば]
『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。』 (ガラテヤ5:22-23)
 [ショート・メッセージ]
◆イエス様は言われた。『いばらの中に落ちるとは、…世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならない』ことだ。主が言われた「世の心づかい」とは、世と調子を合わせることで(ロマ12:2)、神の評価よりも人の評価が気になり、人から良く思われたいための行動を優先してしまうことを意味している。これでは何年経っても軌道修正されることは無理で、未信者時代と少しも変わることはない。その延長上に「富や快楽」への未練がある。この未練を断ち切らなければ、神の子としての成長が阻害されたままだ◆ガラテヤ5章24節には、罪が清算されて『キリスト・イエスにつく者(とされた者)は、自分の肉(未信者時代の罪の影響を受けた性質)を、さまざまの情欲(性的な罪)や欲望(金銭欲や遊興娯楽への欲や名誉欲)とともに、十字架につけてしま(わなければならない)』と教えている。十字架につけるとは、その欲望から離れ無視する決断を意味している◆それを有言実行することによって、新しい人生に変えられ神の子とされた者の中にやっと実が熟していくのだ。実とは御霊の実のことで、神との関係において『愛、喜び、平安』の実が、隣人との関係において『寛容、親切、善意』の実が、自分に関しては『誠実、柔和、自制』の実が豊かに熟していくと約束されているのである。しかも神はこのことを、旧約聖書の中ですでの約束しておられたのである(エゼキエル11:19-20、36:26-28)。

■ 2014/05/11 (日)
 [題]
「ルカ8章− 種まきのたとえ(第三段階/いばらの真中) 」
 [みことば]
『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。』 (ガラ5:22-23)
 [ショート・メッセージ]
◆種蒔きのたとえで4つの土地が出てくるが、神のみことばを聞く者たちの4段階を示している。先週学んだ第一段階の"道ばた"はみことばを初めて聞く者たちの反応で、天に関心がないため集中して聞けず、聞いても意味がさっぱり解らない。第二段階の"岩の上"は何度か繰り返し聞いているうちに、みことばを少しずつ理解できるような気がするが、人間的な理解に過ぎず、人事(ひとごと)のようにしか聞けていない。ここまでは『根がない』状態。すなわち新生されていない未信者である◆これから学ぶ後半の二つの土地は、罪とは何かに、やっと気づかされ、すべての不幸の原因である罪(罪と死の原理/ロマ8:2)を自覚し、心から悔い改め、罪の赦しを懇願し、真に救われて新生し、クリスチャンとされた段階の者たちのこと。まず第三段階の"いばらの真中"は、救われて間もない者の反応で、新しいいのちに与ったものの、99%は古い肉の思いに支配されたまま生活している者の段階。そのため二心の信仰(ヤコ1:8)が続き、世の心づかい(世と調子を合わせること/ロマ12:2)や富(富への執着/ヘブ13:5)、快楽(遊興娯楽への執着/ガラ5:21)の世界から足を抜け出せずに悶々としている。聖徒としては未成熟の状態で、未信者時代と同じ生活で、地の塩としての分別も、世の光としての輝きもない。実(御霊の実/ガラ5:22-23)が熟するまでに成長していないからだ◆悔い改めによって成長させていただこう。

■ 2014/05/11 (日)
 [題]
「ルカ8章− 種まきのたとえ(前半2つ) 」
 [みことば]
『だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。』 (ルカ8:18)
 [ショート・メッセージ]
◆イエス様のまわりには12弟子以外にも、多くの男弟子・女弟子がいて(ルカ8:1-3)、公的宣教の手伝いをしていた。そしてさらに夥(おびただ)しい群集がイエス様の行くところに集まって来た(4)。そこでイエス様は種蒔きのたとえを用いて、聞き方に対する注意について(18)教えられた◆今回はその前半2つを考える。道ばたのような聞き方と、岩地のような聞き方である。道ばたのような聞き方とは、天の御国にまったく関心のない聞き方のこと。みことばを聞いても真剣に受け止めようとせず、集まっている大勢の中にいることを楽しんでいるだけで、みことばは悪魔が持ち去ってしまう(12)。ところがしばらくみことばを聞いていくうちに、神は次の段階へと導いてくださる。それが岩地のような聞き方だ。聞いていくうちに自分なりに理解できるようになり、人間的な角度で知識を楽しむようになるが、それどまりで自分の人生と生活とにみことばを適用しようとは思わない。霊的ないのちに与っていないので、神との交わりの経験がないため、みことばを聞いてはいるが霊的な平安も喜びも感謝も賛美もまだ味わっていない。神を信じているようで確信がないので、試練が来ると自分の知恵で行動する(13)◆しかし、このことを繰り返しながらも次の段階へと導かれていく。それは来週考える、いばらの中のような聞き方と、良い地のような聞き方である。みことばを学び続けるなら、神はあなたを次の段階へと、必ず導き続けてくださる。

■ 2014/05/04 (日)
 [題]
「ヨナ(人物)− 神の教育を受けたヨナ 」
 [みことば]
『聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。』 (Uテモテ 3:16)
 [ショート・メッセージ]
◆預言者ヨナは、敵国アッシリヤをどうしても好きになれなかった。虫唾(むしず)が走るほど嫌いであった。そのため、アッシリヤの首都であるニネベでの宣教を命じられたとき、彼はすぐに反対方向にあるタルシシュに逃れるため船に飛び乗った(1章/逃亡)。すると神は嵐を起こして船を止めさせ、ヨナが海に投げ出されるように導かれた。投げ出されたヨナのからだが海面に触れるや否や嵐は止み、目撃した乗組員と乗客はイスラエルの神を恐れた。ヨナは海の底に沈んで行った。深い海底に沈み続ける死の恐怖の中で、ヨナは真実悔い改めて叫んだ(2章/悔い改め)。神は心からの悔い改めをターニングポイントとして、次の段階へ導かれるお方である。海底で大きな魚に飲み込まれたヨナは、魚の腹の中で、神に従いますと誓いを立てた。魚に飲み込まれたから3日目に陸地に吐き出されたヨナは、神に従いアッシリヤの首都ニネベに向かった(3章/宣教)。ニネベの町ではヨナのはなしで持ち切りだった。そこに現われたヨナにニネベの人々は釘付けになった。ヨナの宣教に敏感に反応した人々は自分たちの悪を認め、イスラエルの神に悔い改めたのであった◆ニネベに下すと言っておられた災いを思い直された神にヨナは抗議した。神に服従したゆえにニネベが神のあわれみの対象となったことをどうしても受け入れることができないヨナに、神はご自分のみこころは何かを教え、ヨナを教育された(4章/教育)。私たちも同じだ。死ぬまで神から教育され続けようではないか(Uテモ3:16)。

■ ?2014/?04/?27? (日?)
 [題]
「ヨナ(人物)− ヨナが悔い改めた結果 」
 [みことば]
『再びヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。』 (ヨナ3:1-3)
 [ショート・メッセージ]
◆海中で悔い改め、魚の腹の中で誓願を立てたヨナに、再び主のことばがあった(3:1)。『ニネベに行き、ことばを伝えよ』と(2)。ヨナは、拒まず逃げず逆らわなかった。『主のことばのとおり』に行動し、町に入ると一日中歩き回り叫んだ。「このまま悪事を続けると、ニネベの町は40日で滅ぼされる。神の御前に悔い改めて向きを変えよ」(4)と。すると、ニネベ市民は驚くほどすなおにヨナの語る神のことばを信じ、互いに断食を呼びかけて悔い改めたのである(5)◆ヨナが仕えるイスラエルの神のうわさが、すでにニネベの町を覆いつくしていたためだろう。町に入ってきたヨナを見て、息も止まるばかりの恐怖に包まれたに違いない。そして、預言者ヨナの語ることばを一言一句聞き漏らさぬように耳を傾けた彼らは、雷に打たれたかのようにヨナのことばに弾かれ、真剣に悔い改めたのだ。異邦人に対しても、神は自滅することを悲しまれる。神は、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのである(Uペテ3:9)。しばらくして、説明を受けた王から、全市民に布告が出された(6-9)。ニネベ中が異様な雰囲気に包まれた◆ところで神は、ヨナの失敗を益に変えられた。ヨナが悔い改めて神を愛する者として立ち上がったからだ。『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ロマ8:28)

■ 2014/04/20 (日)
 [題]
「ヨナ(人物)− 心からの悔い改めへと導かれたヨナ 」
 [みことば]
『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』 (詩篇119:71)
 [ショート・メッセージ]
◆船から投げ出されたヨナの体が海面に触れるやいなや、あれほど荒れ狂っていた嵐がピタッと止んだ。それには、船員も乗船客も息が止まるほど驚愕し、恐怖に包まれ、ヨナが仕えていたイスラエルの神を恐れた。そしてイスラエルの神、"主"の名を呼んでいけにえをささげ誓願を立てたのである(ヨナ1:16)。その日の出来事はこの後、寄航する各港で大きなうわさとなって、ひろく語り告げられていったことだろう◆一方ヨナの体は海中に沈んでいった。どんどんどんどん沈んでいくうちに、ヨナは窒息していき(9)、死の危険に包まれるギリギリのところでヨナは真剣に悔い改め、心の中で叫んだ(2)。そうしながら海底まで下ったヨナを(7)、死の寸前で神は大きな魚を備えて飲み込ませ、一瞬のうちに救出されたのである(6)◆魚の腹の中、ヨナは神への感謝の声をあげ(9)、もう二度とあなたに逆らいませんと誓願を立てた(9)。ギリギリまで苦しみを与えられた神がヨナに求めたのは、心からの悔い改めであった。真剣な悔い改めがなされるほどでなければ、自己否定も中途半端、献身も中途半端、何もかもいい加減になりやすい私たちであることを神は十分にご存知である◆三日三晩、魚の腹の中で神との静かな交わりの時が与えられたヨナを、神は魚に命じて陸地に吐き出させた(10)。新しい預言者としての再出発の時が導かれた。

■ 2014/04/13 (日)
 [題]
「ヨナ(人物)− 敵を赦せなかったヨナ 」
 [みことば]
『私を捕らえて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。』 (ヨナ1:12)
 [ショート・メッセージ]
◆イエス様の十字架のみわざにより、新しい契約(罪の清算と神のかたちの回復)が成し遂げられる前の時代を旧約時代という。それは聖霊なる神が降臨される以前の時代である。その罪が清算される前の時代であるにもかかわらず、特別に聖霊を注がれ、神の貴い働きに与った者たちがいた。預言者たちである。聖霊を注がれるという目に見えないことがらを、視覚的に表わしたのが"油注ぎ"であった(Tサム16:13)が、ヨナもまた特別に聖霊を受けていた人物であった◆そのヨナに神からの命令が下った。アッシリヤ帝国の首都ニネベに行って神のことばを宣べニネベが悔い改めて救われるようにせよと。絶対服従しなければならない立場にありながら、ヨナにはそれがどうしてもできなかった。怖いからではなかった。嫌いだからである。自分の国イスラエルにとって宿敵であるニネベは滅ぼされるべきであり、救う必要はないとヨナはかたくなに思っていたのだ◆それでヨナはアッシリヤから遠く離れたタルシシュへ逃げようと、ヨッパ出港の大きな貿易船に乗った。神はヨナを戒め、教育し、任務につかせるため、嵐を送った。転覆の危機が増す中で船の乗組員は、突如起きた嵐はだれのせいかと乗船客を含めた全員にくじを引かせると、ヨナに当たった。事情を話したヨナは、自分を海に投げ込めば嵐は収まると勧め、人々は不本意ながらもそうした瞬間嵐がピタッと収まり、目撃した者たちは恐怖に包まれた。

■ 2014/04/06 (日)
 [題]
「永遠のいのち− 自己否定を通して新しい自分へ 」
 [みことば]
『聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。』 (Uテモテ3:16)
 [ショート・メッセージ]
◆新しいいのちが与えられると、自分の中で自己否定が始まるようになります。新しい皮袋(生活様式)が準備されているからです。今まで、神を無視しているこの世からの影響を受けてきた私たちですから、キリストとともに生きる生活へと変えられると、時には違和感を感じたり、矛盾に思ったりすることがあります。しかしそれは、聖書を学び続けることを通して少しずつ気づかされ、軌道修正され、本物の自由を味わう者へと変えられていきますから感謝です。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』(ヨハネ8:31-32)◆聖書を学べば学ぶほど、古い自分が浮き彫りにされ、古い自分が嫌いになっていきます。そして落ち込むことすらありますが、この過程を通してしか、真に変えられることはありません。私たちの陶器師であられる神は、古い私たちを壊してくださる方であり、みこころにかなった者へと育てておられるお方です。このお方に人生をゆだね続けようではありませんか。『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』(詩37:5)◆自己否定することは苦しいことですが、古い自分を否定することによって新しい自分と出会えるのですから、みことばから教えられ、戒められ、矯正され続けようではありませんか。

■ 2014/03/30 (日)
 [題]
「永遠のいのち− 罪と死の原理の中に生きていることを認めよ 」
 [みことば]
『人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』 (ヤコ1:14-15)
 [ショート・メッセージ]
◆何もかもうまくいっている時は簡単に脇道に反れてしまう。ダビデは連戦連勝の戦いが続く中、とんでもない罪を犯してしまった。バテ・シェバという人妻と姦淫の罪を犯し妊娠させたのだ(Uサム11章)。律法によれば姦淫を犯した者は男も女も共に死刑に処せられなければならない(レビ20:10、申22:22)。一国の王であろうと、神の前には一人の人間であり、さばきを受けなければならない罪人である◆妊娠の知らせを聞いたダビデは動揺し、罪を隠すために策を練り、戦場からバテ・シェバの夫ウリヤを呼び戻した。自宅に帰らせて妻と寝るように仕向けたのだ。しかし勇士ウリヤは、「他の兵士が戦場で戦っているのに、どうして自分だけが家に帰って妻と寝ることができましょう」と王の申し出を固辞。そのためダビデは王としての権威を利用して、ウリヤが戦場で死ぬように仕向けた(Uサム11:14-17節)◆義なる神を意識できない罪人は、隠れたところで罪を繰り返す。『人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』(ヤコ1:14-15) 弁解の余地はどこにもない。王ダビデもまた『罪と死の原理』(ロマ8:2)の中にあり、罪の力に支配されていたのだ◆人はそれを認めることを嫌うが、認めることなしに新しいいのちに近づくことはできない。

■ 2014/03/23 (日)
 [題]
「永遠のいのち− 肉によって生まれた者は肉に過ぎない 」
 [みことば]
『肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない』 (ヨハネ3:6-7)
 [ショート・メッセージ]
◆律法学者とパリサイ人が、ひとりの女を連れて来てイエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じていますが、あなたは何と言われますか。」(ヨハ8:4-6) パリサイ人らはイエス様をローマ帝国に告発し処刑するために、手の込んだ罠を仕掛けたのである。確かに律法には、「婚約中の女が、他の男といっしょに寝た場合は、そのふたりを連れ出し、石で彼らを打たなければならない。その女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。』(申22:23-24)とあるが、彼ら宗教指導者たちは正義感ぶりながら、心の中はイエス様に対する悪意で満ちていたのだ◆イエス様はかつてニコデモに言っておられた。『人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』(ヨハ3:3) 今持っている肉のいのちではなく、新しいいのち、すなわち神と交わることのできる<霊的ないのち>のことだ。父なる神はこれをあなたに与えるためにイエス様を世に遣わされたのである。イエス様が証言しておられる。『わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。』(ヨハ12:50)◆あなたが自分の罪を認めることができなければ、神の御前に自分の罪を悔い改めることができなければ、あなたはいつまでも古い肉のいのちの中にのみ存在することになるのだ。

■ 2014/03/16 (日)
 [題]
「永遠のいのち− 父の命令は永遠のいのち 」
 [みことば]
『イエスは大声で言われた。「…わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。…」』 (ヨハネ12:44,50) 
 [ショート・メッセージ]
◆聖書がいう「救い」とは、永遠のいのちが与えられること、である。永遠のいのちを聖書の中に見出さないまま救いを体験することはできない。だからこそ御父は、永遠のいのちを回復させるために、救い主を受肉させて世に遣わされたのである。もしも人が永遠のいのちを神から受け取ることをしなければ、いつまで経っても神を知らず、神と交われず、祈りも届かず、平安も、確信もなく、神から遠く離れたままの状態で、御国に入る準備もできない。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって(霊的に新しく)生まれなければ、神の国にはいることができません。』(ヨハネ3:5)◆主イエスは言われた。『わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。』(同12:46) 真理の光が、あなたのやみに閉ざされた心の中に届かなければ、罪が見えない、罪が分からない、悔い改めができない、きよめられない。一度しかない人生を神と無縁のまま過ごさなければならないのだ◆聖書を読みながらも多くのユダヤ人が、心を閉ざしたままの盲目であった。彼らは主イエスに尋ねた。『尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。』(ルカ18:18) 何をすればよいかと問う。いや違う。どんなに多くの手柄を立てようと、それによって天の御国の門をこじあけることはできない。永遠のいのちを受けよ。ここからが、新しい人生の始まりである(Uコリ5:17)。

■ 2014/03/09 (日)
 [題]
「永遠のいのち− 霊的ないのち 」
 [みことば]
『その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。』 (ヨハネ17:3)
 [ショート・メッセージ]
◆「永遠のいのち」とは、不老不死のことではない。主イエスは言われた。永遠のいのちとは、「唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ること」であると(ヨハ17:3)。すなわち人祖アダムとエバが失った「霊的ないのち」のことで、このいのちが欠落しているため、私たちはみな神が分からず「神を知ること」ができいまま生きているのだ。そのため多くの人造宗教の餌食となり、一度しかない人生を振り回されている◆この霊的ないのちを得ていないため、まじめに生きようとしても、一生懸命仕事に従事しようとしても、労苦を惜しまずに生きようとしても邪念が入り、『振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない』(伝2:11)とぼやいてしまうのである。神に出会い、正しく生きる人生に変えられるまで、人は『空の空。すべては空』(伝1:2)と嘆き続ける。豊かになろうと、欲しいものを手に入れようと、便利なものに囲まれようと、神から離れたままでは自己嫌悪と無縁の人生を生きることができず、心の平安を味わうことはできない◆そんな私たちに主イエスは声をかけておられる。『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』(マタ11:28)。永遠のいのちによる平安と確信に満ちた人生が、あなたの前に準備されてある。聖書を開いて、ご一緒に主イエスの前に出て行こうではありませんか。

■ 2014/03/02 (日)
 [題]
「イザヤ53章− 神に対する自分の罪をすなおに認めなさい 」
 [みことば]
『結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。』 (伝道者12:13-14)
 [ショート・メッセージ]
◆「罪」はいのちをもってしか償えないと聖書で明らかにされている。『罪から来る報酬は死です。』(ロマ6:23) もし人間のいのちが、神に受け入れられる聖いものであるなら、罪に対する刑罰は1度で終了するのだが、そうではないためそのさばきは永遠に繰り返されなけれる。厳粛なことである。『…多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。』(ダニ12:2) この永遠のさばきのことを「第2の死」と呼ぶ。『死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。』(黙示20:14) 「火の池」とは永遠にさばきを受ける地獄のこと。私たちはこれを、おとぎ話のように聞き流してはならない。『神がこのことをされた(定められた)のだ。人は神を恐れなければならない。』(伝3:14) 罪に対して無感覚になっている人間は、神のさばきを無視する◆そんな無知でいい加減な罪人を、それでも神は大切に思っておられ、聖書を通して、「イエスの十字架によってあなたの罪はすべて清算されており、あなたは神の前に赦されている。自分の罪深さをすなおに認め、神の前に出て進み出て赦しを享受せよ」と言っておられる。『人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。」』(使2:37-38)◆『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』(マコ1:15)

■ 2014/02/23 (日)
 [題]
「イザヤ53章− 「赦し」と「許し」 」
 [みことば]
『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』 (イザヤ53:5)
 [ショート・メッセージ]
◆聖書は万民に「赦し」が準備されてあることを教えていますが、「許し」ではありません。イスラエル人は律法を通して、いけにえによる赦しを神から学び続けてきました。一方、異教徒である日本には、景教を通して聖書の影響は与えられていましたが、聖書に記されてあるいけにえによる赦しは浸透していません。そのため「赦し」よりも「許し」をイメージしますから、集会(教会)で「ゆるしのメッセージ」を聞くと、頭の中で勝手に「許し」へと文字変換して理解してしまうのです。「赦し」と「許し」はまったく別物です◆「赦し」には罪の清算がなされているのですが、「許し」には罪の清算はなく無法状態です。死亡事故を起こしても賠償金を払わずに逃げ回っているひき逃げ犯のようなものです。この世で逃げ得を楽しんでも、死後に神のさばきを逃れることはできません。『主(神)は決して罰せずにおくことはしない方。』(ナホム1:3)◆だから、伝道者の書12:13-14に次のようなみことばがあるのです。『結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。』 聖書を通して真理を学び続けてください。時間をかけて、ゆっくりじっくり学んでください。『すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。』(ヤコブ1:21)

■ 2014/02/16 (日)
 [題]
「イザヤ53章− 私たちを神のみもとに導くため 」
 [みことば]
『キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。』 (Tペテロ3:18)
 [ショート・メッセージ]
◆義なる神は、私たちの罪を見過ごすことはなさいません。『主は怒るのにおそく、力強い(お方)』、しかし『決して罰せずにおくことはしない方』(ナホ1:3)。人の罪は、刑罰を受けて代価を支払うまで消滅することはありません。清算されていない罪はいつまでも残るのです(ヨハ9:41)。しかも私たち罪人には、聖い神に受け入れていただける聖い代価となるべきものが何一つありません。私たちは神を無視し拒否し裏切り続けてきたのです。それでも神は私たちに愛の手を差し伸べ続け、招き続けておられるのです◆神は、いけにえによって罪が清算される身代わりの赦しを計画しておられたのです。そのご計画が、このイザヤ53章に明らかにされています。『私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた』(6節)。その"いけにえ"となられるためにキリスト・イエスは人としてこの世に来られました。『わたし(イエス)はあなた(父)のみこころを行なうために(この世に)来ました』(ヘブ10:9)。罪に塗(まみ)れた私たちを永遠の刑罰から救うためにこの世に来られ、十字架の上で父のみこころを成し遂げ、心から罪を認め悔い改める者を、完全に救う新しい契約(福音)を成就してくださったのです。私たちを神のみもとに導くために。

■ 2014/02/09 (日)
 [題]
「イザヤ53章− 再創造される時が準備されている 」
 [みことば]
『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』 (Uコリント5:17)
 [ショート・メッセージ]
◆今月はイザヤ53章から見ていきます。1節に目を留めてください。『私たちの聞いたことを、だれが信じたか』とあります。神を封印している世に育った私たちは聖書の話しを聞いてもピンと来ません。みんなそうです。理解できないのです。ですから信じるなんて到底無理です。聖書に通じている人が解説してくれても最初はさっぱり解りません。がっかりしないでください。知識として耳を傾けることはできても、信仰の対象とはなりません。なぜでしょう。霊のいのちを失った状態で母の胎から出て来ているからです。『神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』(ヨハネ4:24)◆でも不思議なことに聖書を繰り返し教えられ続けると、少しずつですが解るようになります。聖書のみことばを通して神の霊が働きかけてくださるからです。そしていつか神の約束が成就する時が来るのです。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。』(同3:5-6)◆神のことば(水)と神の霊(御霊)によって霊的に再創造される時が来たなら、神と親しく交わることができるようになるという約束です。『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。』(Uコリ5:17) 神はあなたにも再創造の時を準備しておられます。

■ 2014/02/02 (日)
 [題]
「アダム− 救いとは霊的いのちの回復のことである 」
 [みことば]
『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』 (ヨハネ3:3)
 [ショート・メッセージ]
◆創世記1章に記されている創造は宇宙と地球に関するものであり、2章には人間の創造が記され、そして3章には人間の堕落が記されている◆ところで神が最後に創造されたのは、人であった。それゆえこの人こそが、神が天地万物を創造された目的であると知ることができる。子の出産に備えて両親ができる限りのものを準備するように、神は完璧な創造物(宇宙と地上の生物)を準備されたのだ。さらに神は人にのみ、特別ないのちを与えられた。「霊のいのち」である。これは1章では『ご自身のかたち』と呼ばれ(26-27節)、2章では『いのちの息』と呼んでおられる(7)。『神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません』(ヨハ4:24)とあるように、この霊のいのちなくして神を認識し、神と交わることはできない。霊のいのちを有している状態こそが完全な人の姿であると知ることができる◆ところが創世記3章にあるように、サタンである蛇にだまされてそのいのちを失ってしまったのだ。蛇の巧みなだましごとに誘導されたエバが最初に堕落し、そのエバによってアダムも堕落した(1-6)。この堕落によって人は神を見失い、心の安らぎを手放し、異常行動を取るようになり、何をやっても『空の空』(伝1:2)と言わざるを得ない、失意と落胆の中に閉じ込められてしまったのである。救いとはこの回復のことである。

■ 2014/01/25 (土)
 [題]
「アダム− 見よ。それは非常によかった 」
 [みことば]
『そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。』 (創世記1:31)
 [ショート・メッセージ]
◆創世記1章に『神は見て、それをよしとされた』ということばが繰り返される(4,10,12,18,21,25)。一つ一つの物が創造される度に、完全無欠であると宣言されたのだ。創造された瞬間から、創造物は完全無欠であって、不完全な物は何一つなかった。ダーウィンが提唱した進化説は、気の遠くなるような年代を経て少しずつ高等な生き物に変化していったという仮説を立てているが、聖書にはそのような記述はない。神が命じ創造された瞬間から、完全無欠な完成品として存在したのである。羊も牛も馬も、鯖も鯨もイルカも、鳩も烏も雀も、蛙も昆虫も蛇も、そして人も今と何ら変わりはない。サルからの進化という仮説は成り立たない。注意深く読むとそのことを裏付けることばを見出すことができる。『種類に従って』ということばである(11,12,21,24,25)。遺伝子の数が違うのだから、サルから人間が生まれたという仮説は無意味となる◆アダムの体は今の私たちと何ら変わらない。他の動物と根本的に違う点があった。『神のかたち』に造られたという点である(26,27)。他の生き物は神のかたちに創造されなかったので、神と霊的に交わることはできない。アダムだけが霊のいのちを持ち、神と交われたので、神に代わってすべての生き物を管理する働きが命じられたのである(28)。そしてアダムを創造されてから神は言われた。『見よ。それは非常によかった。』(31)

■ 2014/01/19 (日)
 [題]
「アダム− 神のかたちに創造された 」
 [みことば]
『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』 (創1:27)
 [ショート・メッセージ]
◆アダムが創造される前までに、神はそれ以外のすべてを造られた。宇宙と地球を造られ(1:1)、物質の世界のスタートしたが、漆黒の闇に包まれた宇宙空間の中で地球は水で覆われた状態であった(2)。その時神が命じて言った。『光よ。あれ。』(3)。真っ暗闇の宇宙に光がともった。いくつかの星々にエネルギーが与えられ、光りだしたのだろう。闇の宇宙に光と闇の区別が生じた瞬間である(4)。これが創造の第1日目◆しかし地球はすっぽりと水に覆われたままで、大気圏もなく陸地もなく、植物も鳥類も魚類もその他の生き物もいなかった。これらのものは第2日目から第6日目までに順次創造されていき、そのつど神はそれらをよしとされた(4,10,12,18,21,25)。すなわち完全で完璧なものであることを明らかにされたのである。付け加えるものは何もないほどに◆それから神は人を造られた。ご自身のかたちに似せてと記されてある(26,27)。この「かたち」とは、神と交わるための霊的いのちのことである。動物にも本能やある程度の感情は与えられているが、神と交わることのできる霊的いのちは与えられていない。人間にだけ与えられた器官である。そしてこの「神のかたち(霊的いのち)」は、2章では「いのちの息」(7)という言葉で表現されているが、これが蛇に化身したサタンにだまされて消失してしまうのである(17)。

■ 2014/01/12 (日)
 [題]
「新年交わり会− 主の名によって生きる 」
 [みことば]
『あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。』 (コロサイ3:17)
 [ショート・メッセージ]
◆新しい年がスタートしました。どのような足跡を付けて行くことでしょう。今すでにあなたの足跡は、主の足跡と共にあるでしょうか。主の行かれるところどこにでも付いて行きましょう。付いて行くとは、具体的にはみことばを通して主のみこころを学び、それに従うと言うことです◆上記のみことばの中に同じような意味のことばが2回繰り返されています。『主イエスの名によって』と『主によって』です。わかりやすく言うと「自分勝手ではなく」ということです。「罪」の第一の性質は自分勝手です。好き嫌いで行動し、自分の都合の良いように解釈し、打算で生活することです。ところが聖書は私たちに「主の名によって生きる道」を教え、「主によって感謝する生活」へと導きます。これは日常生活の全領域において神の主権を認めなさい、と言うことなのです。わかりやすく言うと「自分勝手ではなく」と言うことになるのです◆自分勝手とは神との人格的・霊的な交わりを無視した行動のことです。『すべてのことはしてもよいのです。しかしすべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことはしてもよいのです。しかしすべてのことが徳を高めるとはかぎりません。』(Tコリ10:23) 『あなたの感謝は結構ですが、他の人の徳を高めることはできません。』(Tコリ14:17) さらにさらに聖書から教えられ、戒められ、軌道修正され続けようではありませんか。

■ 2014/01/05 (日)
 [題]
「年末感謝会− 主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな 」
 [みことば]
『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』 (詩篇103:2)
 [ショート・メッセージ]
◆2013年が終ろうとしている。この一年を振り返るときに、反省すべき点は確かにあるが、神を知り、神から学ぶようになった私たちには、神に感謝すべき点も少なからずあったことを思い出すことができる。それを忘れるな。思い出して確認し、主から導かれ教えられ戒められ軌道修正させられたことがらを、深く心に刻み込まなければならない。あなたがますます聖められ、成長させられ、天に帰る準備が進められるためだ◆『今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。』(コロサイ1:22) 神は私たち一人ひとりを喜びをもって迎え入れようとしておられる。このお方に応答し、真理の道を歩むため、聖書から学び続けようではないか。『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』(詩篇119:105) 学び続けなければ、導かれる以前の生活に戻ってしまい、空しい日々を過ごさなければならない◆振り返るときに主の豊かなお取り扱いに気づかされる。主は私たちの咎をキリストの十字架のゆえに赦し、私たちの病をいやしてご自身の働きに与らせてくださり、私たちのいのちを死の恐怖から贖い出し、日々恵みとあわれみの冠を頭上に被らせてくださり、この一年を良いもので満たしてくださった(詩篇103:3-5)。主よ、ありがとうございます。

■ 2013/12/29 (日)
 [題]
「クリスマス− あなたを迎えに来られた主 」
 [みことば]
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』 (マタイ11:28)
 [ショート・メッセージ]
◆人間は被造物に過ぎないのに努力次第では何でもできると思う。豊かになると太っ腹になり、仕事が順調にいくと横柄になり、人より勝ると何でもやれると思い上がる。そのくせもろく不安定な存在だ。それは、創造者との関係を無視しているからだ。まるでパイロット不在の飛行機、船長不在の船だ。だから目標点に達した途端に不安になる。『空の空。伝道者は言う。』(伝1:2) 伝道者とは、神に帰る道を伝える者のことで、この伝道者とは大失敗をしたソロモン王のことである。そしてこの書は彼の悔い改めの書である◆彼の名は平和(シャローム)が語源だ。しかしその平和を、彼は次第にあらぬ方向へと向かわせた。中東和平だ。彼は政治上の駆け引きを目的とした政略結婚を繰り返し、数知れぬ多くの異教徒の女を娶り、偶像の持ち込みを許可した。まるで未信者信者が増える教会・集会のようだ。秩序は乱れ、調和は崩れ、一致が消えていく◆彼は『多くの知恵と知識を得』(同16)、『事業を拡張し…庭と園を造り…果樹を植え…池も造った』(2:4-6)、『心のおもむくままに…どんな苦労をも喜んだ。…しかし…振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ』(10-11)。彼は後悔し、反省し、そして神の御前に悔い改めた。次の言葉で彼はこの書を閉じている。『神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。』(12:13)◆クリスマス。あなたに間違いに気づかせるために来られた救い主を迎えなさい。

■ 2013/12/22 (日)
 [題]
「クリスマス− 贖いの代価となるために来られた神の子 」
 [みことば]
『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』 (イザヤ9:6)
 [ショート・メッセージ]
◆マリヤの胎を用いて、神はキリスト(救い主)をこの世に遣わされた。神のご計画を知らされた時マリヤは困惑して言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』(ルカ1:34) 知りませんとは、肉体関係がないという意味だ。すると天使ガブリエルが言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。』(35) 人間の営みにはよらない、神の力によって宿る。それゆえ生まれる者は、"ヨセフの子"ではなく、"神の子"である。すなわち、誕生するその子には、罪は受け継がれてはいない。人類を罪の支配から贖うための神の奇跡が、マリヤのうちに生じると言うのだ。マリヤは天使を通して神に決断して言った。『私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』(38)◆人が罪を赦される方法はただ一つ、いのちによる贖いであった。罪はいのちによってしか贖われないのである。しかし人間のいのちはすでに罪によって汚染され、贖いの代価とはなる条件を満たしてはいない。それゆえ神は、救い主が世に遣わされるまで、傷のない病気のない健康な家畜の身代わりの死による贖いを、イスラエルの民に命じておられたのである◆そしてついに神の時が満ちて、罪との関係を持たない男の子がこの世に誕生することとなったのである。『この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』(マタ1:21)

■ 2013/12/15 (日)
 [題]
「クリスマス− 飼葉おけに寝かされたキリスト 」
 [みことば]
『ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。』 (ルカ2:6-7)
 [ショート・メッセージ]
◆イエス様が家畜小屋で生まれた経緯を聖書に調べます。処女マリヤはヨセフとの婚約を済ませ、妻と決まっていたが、ユダヤの慣習により1年間は同居してはならなかった。その期間は新婚生活への準備、互いに自制することを学ぶために必要であった。体に触れてはならないその期間に妊娠することは不貞を働いたことと同じようにみられ、厳しい処罰の対象であった◆その期間に天使ガブリエルが遣わされた。『御使いは、はいって来るとマリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」』(ルカ1:28)。驚き戸惑うマリヤに御使いは言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。』(35) 人類を罪から解放するための『神の救いのご計画』(Tテモ1:4)がついに明らかになる瞬間がおとずれたのだ。そしてマリヤは自分に導かれた神のみこころを受け入れ、マリヤの中に御子イエスが宿られたのであった◆産み月になった頃、ローマ皇帝により人口登録の勅令が下った(ルカ2:1)。しかたなくヨセフは身重の妻マリヤを伴い、故郷ベツレヘムへ上った。そこでマリヤは出産の時を迎えたが、登録のための旅人で満室の宿屋には泊まれず、家畜小屋に案内されたのであろう。すべては神の御手の中にあった。産声を上げた幼な子のゆりかごは、飼葉おけ(7)。すべての人を招くために、王宮ではなく、家畜小屋で生まれられたのだ(マタ11:28)。

■ 2013/12/08 (日)
 [題]
「クリスマス− クリスマスとは 」
 [みことば]
『この方(キリスト)はもとから世(神が創造された世界)におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった(気付くことができなかった)。』 (ヨハネ1:10)
 [ショート・メッセージ]
◆クリスマスとは、キリスト(救い主)の誕生を記念するために設けられ、全世界で祝われている日です。キリスト(救い主)とは、あなた罪の支配から解放し、あなたの人生を根底から新しくするために、天から遣わされたイエスです。『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(Uコリ5:17)◆クリスマスの中心はソリに乗るサンタクロースではありません、ツリーでもありません、リースでもありません、クリスマスケーキでも、プレゼントを入れるソックスでもありません。今から約2千年前に、エルサレム近くにあるベツレヘムの家畜小屋でお生まれになったイエスです◆イエスは「神の子」ということばで紹介されていますが(ルカ1:35)、「神の子」という表現は、ヨセフの子ではないことを明らかにするために御使いを通して語られたものです。『御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。』(ルカ1:35) 神の子とは、人となって世に来られた神という意味です。『すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。』(ヨハ1:3)◆このお方を通して神は、罪人に対するご自分の愛を明らかにしてくだいました。『しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(ロマ5:8)

■ 2013/12/01 (日)
 [題]
「ルカ16章− 神から受けた祝福(福音の恵み)を周りの方々に届ける 」
 [みことば]
『そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。』 (ルカ16:9)
 [ショート・メッセージ]
◆ルカ16章の前半を学びます。そこには、主人の財産を乱費していた管理人が、主人から解雇を宣告された話が記されています。この仕事を辞めさせられたら、体力がないので日雇いの仕事には就けないし、かといって乞食をするのも恥ずかしい、と困り果てた管理人は、しばらくして妙案を思いつくのです◆管理人は債務者を呼んで証文を書き換えさせた。そして彼は、債務者によって退職後の保障を思って胸をなでおろした。後でそのことを聞いた主人は、抜けめなくやった管理人をほめた。なぜなら彼は、自分の貯金を取り崩して、苦しんでいる債務者たちの借金の一部を立て替えてやったのだから。苦しむ者たちを自分の財で助けのである。彼は管理の仕事を辞めされられる直前に、自分にできることは何かと考え、それを実行したのだ◆イエスさまはそのあと次のように弟子たちに話された。『不正の富(世の富)で、自分のために友をつくりなさい。』(ルカ16:9) 友とは、苦しみを共有する者のことだ。『喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。』(ロマ12:15)、『わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。』(ヨハ15:14)◆私たちもまた、こっそり楽しむ歩みではなく、キリストとくびきを負って共有する中で得た祝福を、周りの方々に届ける人生を導かれようではないか。その時、むなしいと嘆く人生から、新しい使命に生きる、充実した確信ある人生へと変えられるのである。

■ 2013/11/24 (日)
 [題]
「ルカ16章− 幸せの条件とは 」
 [みことば]
『あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。』 (黙示録3:17)
 [ショート・メッセージ]
◆聖書を通して神に出会い、神から教えられる以前、私たちは幸せになるための条件を、お金と健康だと思い込んでいた。しかしそうではなかった。お金があっても不幸な人、健康があっても不幸な人はいっぱいいるのだ◆ずっと、貧しさと飢えの中で暮らしている国が取材され、テレビで放映されたが、その国の人々は食べ物を分け合い、互いに譲り合い、助け合っていた。ところが、その貧しさと飢えが強調された番組を見た世界各国から、多くの物資が届けられた。すると助け合っていた彼らは力ずくで奪い合う者となり、ケンカが始まり、死者が出るようになった。心の中に眠っていた貪欲の罪が、刺激を受けて活動を始めたのだ。豊かさがその国の人々の心の中に眠っていた罪を引き出したのである◆一方では国のリーダーたちが国会で話し合い、良い政策を打ち立てたと自画自賛しているが、国民ひとりひとりの人間性が変わらない限り、絵に描いた餅だ。理想論が空回りしている。人間性の根本にメスを入れ、病巣を確認し、除去し、すべてを新しくするというご計画を、神は立てられ、導き、成就され、っ全人類を招いておられる。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』(マタイ11:28)。多くの人は、自分の考えは正しく、このまま熱心でまじめに生きていきさえすれば良いと思っているにもかかわらず、確信がなく不安におののく。あなたを創造された神に、しばし耳を傾けようではないか。

■ 2013/11/17 (日)
 [題]
「ルカ16章− 自滅してはならない 」
 [みことば]
『…私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。』 (ピリ3:18-19)
 [ショート・メッセージ]
◆「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」(19) あわれみ深い神にとって、貪欲ゆえの無慈悲は、殺人の罪に等しい。目の前で苦しむラザロを助けようともせず、見殺しにした金持ちの、富への執着心という罪がさばかれたのだ。有罪判決を言い渡されることを恐れた彼のたましいはハデスに逃げ込み(ヨハ3:20)、『苦しくてたまりません』と叫びながら(ルカ16:24)、地上で生きている自分の兄弟たちまでが『こんな苦しみの場所(ハデス)に来ることのないように、よく言い聞かせてください』と懇願したが(28)、神からのメッセージである聖書に耳を傾ける以外に、心から悔い改め、向きを変えることは不可能であると聞かされる(31)。『あなたのみことば(聖書)は、私の足のともしび、私の道の光です。』(詩119:105)◆聖書のことばを正しく学ぶことによって、自分が今歩いている道を照らされ、進むべき道を示していただこうではないか。決して、罪にまみれている自分の考えと世の価値観を基準にして、自分に都合の良い曖昧な道を突き進んではならない。「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリ3:18-19)◆あなたの罪を負って十字架の上で、あなたの代わりに罪の刑罰を受けてくださったイエスを通して、あなたの人生の道の向きを変えていただかなければならない。そうしなければ、あなたは自滅するだけである。

■ 2013/11/10 (日)
 [題]
「ルカ16章− アブラハムのふところとハデス 」
 [みことば]
『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』 (ルカ16:31)
 [ショート・メッセージ]
◆金持ちは、自分のもとに助けを求めてやって来た貧乏人ラザロを見殺しにした。自分の家の門前に寝ていた貧乏人ラザロ(ルカ16:20)に気づきながら、助けの手を伸べなかったのだ。寝ていたとは衰弱して立ち上がれなかったという意味だ。しかも全身おできとは重篤な栄養失調性の吹き出物のことで、「犬もやってきては…なめていた」(21)とはラザロには犬を追い払う力すら残っていなかったことを示している◆しばらくしてラザロは死に、同じころ金持ちも死んだ。ラザロは身寄りがなかったのだろう、「死んだ」(22)とだけ記されているので無縁仏として埋められたようだ。しかし金持ちは「葬られた」(22)とあるように遺族によって盛大な葬儀が営まれたと思われる。その後の死後の世界をイエスが明らかにされた。ラザロのたましいは〈アブラハムのふところ〉(22)すなわちパラダイスに移され、金持ちのたましいはハデス(22)に行った◆パラダイス(ルカ23:43)とは、イエスの十字架による贖いが成就したあと天に移された霊的世界のことで(エペ4:8、コロ2:15)、ハデスとは〈大きな白い御座〉(黙20:10)のもとで行なわれる最後の審判によって〈火の池〉(ゲヘナ/同14)に投げ込まれる霊的世界のことだ。パラダイスにはいる者たちについてイエスは、アブラハムの言葉を用いて教えられた。『モーセと預言者との教え』(ルカ16:31)すなわち聖書に耳を傾けて罪を自覚し悔い改める(30)者たちこそが、罪の赦しを感謝しながら天の御国に入ることができるのである。

■ 2013/11/03 (日)
 [題]
「ノア− ノアの忍耐と自制と絶対服従 」
 [みことば]
『そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。」…そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。』 (創8:15-18)
 [ショート・メッセージ]
◆主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。」(創7:1) ”あなたとあなたの全家族”とは、神のことばを信じきった者たちのことだ。五千トン級の容積を持つ箱舟建造のために百年を必要とした。信仰による忍耐と、信仰を失った者たちからの嘲(あざけ)りと軽蔑の言葉への自制が求められた◆箱舟が完成するまでの百年間は不信仰な者たちへの悔い改めによる招きの期間であったと同時に、ノアたち8名にとっても信仰を証する期間であり、信仰が試される期間であった。主は彼らの信仰をご覧になられ、箱舟の中に迎え入れられたのだ(マタ7:21)。ノアは、神の御声に従って箱舟に入り、神ご自身が箱舟の戸を閉ざされた(創7:16)。その後、『巨大な大いなる水の源が…張り裂け』、『天の水門が開かれた』(同11)。地殻変動によって地下水が吹き上げ、地球を覆っていた「大空の上の水」(1:7)が地上に降り注ぎ、地上のすべての山が水没したのであった(7:19)◆ノアが箱舟に入り箱舟から出るまで、1年と10日経ったと記されてあるが(7:11と8:14)、これは太陰暦による日数であるので、太陽暦に換算するとちょうど1年となる。ところでノアは、水が引き地が渇いて来たことを知りながらも、勝手に行動せず、『箱舟から出なさい』との、主の御声を待ち続けた(8:15-16)。神への全き信頼と、信仰による絶対服従の姿を見る。

■ 2013/10/27 (日)
 [題]
「ノア− 彼らの神は彼らの欲望 」
 [みことば]
『というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。』 (ピリピ3:18-19)
 [ショート・メッセージ]
◆罪とは、被造物なる人間が創造者である神に逆らうこと。良く聞く話だが、信者が福音を伝えようとすると、それを遮って人は言う。「俺には神は必要ない。俺の中に神が居るから。」 究極的な自己中心である。自分の人生を自分の思うように気ままに生きる、それが幸せだと定義付ける。立ち止まることをしない、向きを変えようとしない、だれからも邪魔されたくない、そしてひた走りに走って自滅する。『彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、…彼らの思いは地上のことだけです。』(ピリ3:19)◆創造者なる神に立ち返らなければ、人は人として正しく生きることはできない。みな世に影響され自己流に生きているだけだ。本当のことを聞こうとしない、真実を学ぼうとしない、神の招きに応えようとしない。そんな人間の姿は、ノアの時代も今の時代も変わらない。『地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していた』(創6:11-12)◆ノアが箱舟を完成させるまでの百年間は、当時の者たちへの悔い改めのチャンスであったが、箱舟建造に携わったノアの家族8人以外はだれひとり、神のさばきを真剣に考える者はいなかった。悔い改めて向きを変える者はいなかった。そしてついに箱舟の戸が閉じられた(7:16)◆神はあなたにも語っておられる。イエスの身代わりによる完全な救いの約束がここにある。無視してはならない。

■ 2013/10/20 (日)
 [題]
「ノア− 神のさばきには救いが伴う 」
 [みことば]
『すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。』 (創世記6:13)
 [ショート・メッセージ]
◆アダムとエバが子をもうけたのは罪に汚染されたあとであった。カインが生まれアベルが生まれたが、この兄カインが弟アベルを殺害した。弟へのねたみの火を抑えることができなかったためだ。アダムとエバがサタンから受けた罪が確実に子の中に受け継がれていた。カインは神から罪を示されたときこれを否定し、悔い改めないままエデンの東に移り住んだ。そこで彼は妻を得て子孫を増やし町を建てた◆一方アダムとエバの間に、しばらくして男の子が生まれセツと名付けた。さらにセツから男の子が生まれエノシュと名付けた。このときから人々は信仰を回復し神に祈り始め、『主の前から去っ』たカイン(創4:16)と対照的な存在となった◆長い年月が流れて、信仰を失ったカインの子孫とセツの子孫とが混ざり合うようになった(6:1-2)。すると信仰者から信仰が失われ始め、信仰が見られなくなった。とうとう信仰によて生きる者はノアの家族だけとなってしまった。このままでは信仰の炎が消されて、人々は互いに殺し合って行く。人類を全滅から救うために神は一つの計画を立て、ノアに示された(13)。洪水によるさばきの宣告だ◆神がさばきを行なう時には必ず救いの道が準備される。さばきの目的は、罪を認めて悔い改め、神に救いを求める者をおこすことだ。そして神はノアに大きな箱舟を造ることを命じた。五千トン級の大きさだ。動力もない舵もない、ただ浮くだけの巨大な箱(アーク)である。ノアがこれを完成させるまでが、招きの期間だ。そして百年後、舟は完成した(22)。

■ 2013/10/13 (日)
 [題]
「ノア− 神の救いの御手を拒んだ人々 」
 [みことば]
『私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。』 (申命記30:19)
 [ショート・メッセージ]
◆みなさん、先ほど数名の方が、桜島が爆発して火山灰が降ってきましたねと、小さな声で大騒ぎしていましたが、確かに灰が降り続いているようです。聖書を見ると、灰をかぶるということは心からの悔い改めを表現する時の行為でした(マタ11:21)。しかし聖書にある灰は火山灰ではないのですが、神は心からの悔い改めへと導かれるお方です。見せかけの悔い改めは罪を楽しむ未練を残していますから、神はそれを望んではおられません◆紀元前3千年ごろのノアの洪水直前の世は、『地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く』状態であり(創6:5)、『神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた』状態であった(11)と記録されています。今の世とそっくりです。豊かさと快適さの陰で不道徳と暴虐が満ちていたのです◆このまま人類が自滅することがないようにと、神は人々に「洪水が起きますよ」と警告を発し、真の悔い改めへと導かれたのでしたが、人々は神の警告を軽んじ続けたのでした。滅びから救われる道(箱舟に入る道)を神は準備されたのですが、人々は無視したのです。神が与えてくださった悔い改めのチャンス(百年間)を人々は無視したのです◆神の警告を信じ箱舟に入ったのは8人だけでした。ノアと3人の息子とそれぞれの妻たちです。この8人は神を信頼し、百年かけて巨大な箱舟を建造したのです(22)。他の人々は神の救いの御手を拒んで、目の前にある滅びを選択してしまったのです。

■ 2013/10/06 (月)
 [題]
「質疑応答− 「肉に属する人」について教えてください 」
 [みことば]
◆「キリストのからだなる教会(集会)」(エペ1:23)には2種類のクリスチャンが存在している、と主はパウロを通してコリント人への手紙の中で明らかにされた。〈新生していないクリスチャン〉と〈新生しているクリスチャン〉の2種類だ。前者は『生まれながらの人』と表現され、後者は『御霊を受けている人』と表現されている(Tコリ2:14,15)◆新生していないクリスチャンは神の霊的ないのちに与っていないので、学びを受けてもみことばの奥義が理解できず、そのため神に服従できず、神からの賜物としての苦しみ(ピリ1:29)を感謝できず、逆境の中で平安を味わうこともできない。さらに神への献金を喜んでささげることができず、神のために世の富や快楽を手放すことができない。教会の中での霊的な交わりができないので批判的になってトラブルメーカーとなり、リーダーになりたがって教会の秩序を壊すようになる(Vヨハ9)。これをヨハネは『神を見たことのない者』と表現し(Vヨハ11)、ユダは『生まれつきのままの人間』(ユダ19)と表現している◆ところでご質問の『肉に属する人』(Tコリ3:1)とは、新生はしているがみことばの学びが不十分なため聖められず成長していないクリスチャンのことで、種まきのたとえでは『いばらの中』(ルカ8:14)として説明されており、ヤコブは『二心の人たち』(ヤコ4:8)という言葉で表現している。自分を捨てきれず(マタ16:24)、世に対して十字架を負うこともせず(ガラ6:14)、古い肉の性質に引きずられ続けている。自分の信仰を常に吟味しようではないか(Uコリ13:5)。

■ 2013/09/29 (日)
 [題]
「悲しみ−イエスの涙 『そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。』 (ヨハネ11:33-35) 」
 [みことば]
(聖句)
 [ショート・メッセージ]
◆『イエスは涙を流された。』 なぜ!?◆イエスはラザロを愛しておられた(ヨハ11:3)、にもかかわらず、彼が危篤であるという知らせを受けても、すぐには彼のもとに行かなかった(6)。そして彼の死を待つようにして、彼の家族のもとへと弟子たちを伴って出かけられた(14-15)◆すると姉マルタは、「早く来てくださったら弟は死ななかったでしょうに」と泣き崩れ(21-22)、妹マリヤも同様であった(32)。彼女たちには主のご計画が隠されてあったからだ。彼女たちばかりではなく、弔いに集まった多くのユダヤ人たちもみな泣いていた(33)。この時イエスは、『霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて』、涙を流された◆罪ある全人類が支配されている死に対して憤られた主、死の前にうろたえるしかない人間への深い悲しみの涙、を流されたのである。しかしイエスはこのあと、この『最後の敵ある死』(Tコリ15:26)を滅ぼして永遠のいのちを与えるために天から来られたことを、しるしを通して人々に力強く証されたのである◆『ラザロよ。出て来なさい。』 死んで4日もたつラザロに向かってイエスが命じられると、驚愕の形相で見ている群衆の前に、生き返ったラザロが出て来た。イエスこそが、罪に堕ち死に支配される者たちを、神によって創造された本来の姿、「神のいのちによって生きる者」(創1:26-27)に戻らせるために、天から人となって来られた約束のメシヤであった(ヘブ10:5-7)。あなたが罪の力にねじ伏せられてもがいている時、イエスは涙を流しておられる。

■ 2013/09/22 (日)
 [題]
「ルカ8章− みことばを聞く4つの態度 」
 [みことば]
『だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。』 (ルカ8:18)
 [ショート・メッセージ]
◆イエスのもとに集まった大ぜいの人の群れに、イエスはたとえを用いて神の国に関して話された。種は4つの場所に落ちた。道ばた(ルカ8:5)と、岩の上(同6)と、いばらの真中(同7)と、良い地(同8)であった◆道ばたに落ちた種は空の鳥がすぐに食べてその場所で根を張ることはできなかった。空の鳥とは世を支配するサタンを暗示(12)。サタンが支配する世(ルカ4:6、Tヨハ5:19)に強い興味関心を持っていると、神の国に対しては〈無関心〉となっている。聞く耳はない◆岩の上に落ちた種は生え出て根が出たように見えたが水分が十分でなかったのですぐに枯れ、根を張るに至らなかった。知識欲が刺激されたり集会の雰囲気や信者たちとの交わりが楽しくてしばらくは仲間として参加していても、真の悔い改めがなくいのちに至ってなかったので信仰に基づいた試練が来ると枯れていく◆いばらの中に落ちた種は新生し根を張ったにもかかわらず世の心づかいや富や快楽にも思いを寄せる二心の状態が続き成長できず、実が熟すまでに至らないのだ。実とは新しいいのちに基づいた生活のこと(マタ7:21、24-25)◆良い地に落ちた種は柔らかな土深くに受け入れられることにより空の鳥に邪魔されず、十分に根を張り成長しよく耐えて実を結ばせていくのである。自分の高慢さ愚かさ自己流の生き方を悔い改めることによっていばらを手放し、引き抜いてもらうので豊かに成長し、過程でも職場でも神の栄光を現わすのである。

■ 2013/09/15 (日)
 [題]
「悲しみ− 世の悲しみと、神のみこころにかなった悲しみ 」
 [みことば]
『神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。』 (Uコリント7:10)
 [ショート・メッセージ]
◆コリントにある教会ほど乱れた教会はなかった。大都会にある、大きく、豊かな教会ではあったが、神の秩序は軽んじられ、賜物第一主義に陥り(Tコリ12-14章)、道徳的に乱れていた(5-7章)。そのためパウロは、手紙の中で厳しいメッセージを送らなければならなかったのだ。『あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。…今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。』(Uコリ7:8-9)◆神のみこころにそった悲しみ。これこそ、神が私たち信者に求めておられる悲しみである。神の恵みばかりを追い求めてさまよう信者がいるが、恵みは神から一方的に与えられるものであって、単独で要求すべきものではない◆神が悲しまれることとは何か、聖書から学ばなければならない。『主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。』(ミカ6:8)◆神とともに歩むことなくして、神のみこころを確信することはできない。主とくびきを負う生活の中でしか、『神のみこころにそった悲しみ』(10)が何であるかを具体的に知ることはできない。神が見えなくなって味わう世の悲しみではなく、神を見つめて自覚させられる霊的な悲しみをとおして、さらに聖められ続けようではないか(コロ1:21-22)。

■ 2013/09/08 (日)
 [題]
「悲しみ− 悲しむ者は幸いです 」
 [みことば]
『悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。』 (マタイ5:4)
 [ショート・メッセージ]
◆山上の説教の中でイエスは言われた。『悲しむ者は幸いです』(マタ5:4)と。何を悲しむ者のことであろう。人と比較して不足している何かを、であろうか。いや、人間存在の根本に関するものである。すなわち、魂のふるさとである神との交わりを断絶させている〈罪〉を、である。病気を自覚できなければ医者に行こうとしないように、罪を自覚できなければ神を求めようとはしない。自分の中にある罪を自覚させられるなら、何と幸いなことであろう◆世にしがみついて、世の事柄で何とか満足しようと努力しながらも、生涯を閉じるときには「空の空」と嘆かなければならないとしたら、あわれなことだ。あなたは自分の罪に気付かされただろうか。では罪とは何か。それは、神よりも自分の思いを優先する性質のことだ。『私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、…それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。』(ローマ7:15-20)◆続けてイエスは言われた。『その人は慰められる』(マタイ5:4) 慰められるとはどういうことか。罪の問題に永遠の解決が与えられることである。すなわち犯してきた忌まわしい過去を永遠に赦され、罪の支配から解放され、創造者であられる神との交わりが与えられることである(ローマ6:23)。

■ 2013/09/01 (日)
 [題]
「箴言1-3章− 自分を知恵のあるものと思うな 」
 [みことば]
『心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。』 (箴言3:5-7)
 [ショート・メッセージ]
◆『心を尽くして主に拠り頼め。』(箴3:5)とある。人間的な知恵や直感に頼らず、心を尽くして神から学び、心を尽くして神に従い、喜びと感謝と平安に満ちた人生をスタートするように、と諭しておられるのだ。すべての人が持っている罪ゆえに、人は自分の思いどおりに生きようとする。しかしその結果、どれほど自分の人生を歪め汚し、偽りを重ねて生きていかなければならないことか。ところが罪あるゆえに、これをもまた認めようとしない。気が付けば、自分の良い面だけを切り取ってアピールし、都合の悪い部分は隠してしまう。いつまで欺瞞に満ちた人生を過ごそうとするのか◆イエスは言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。』(ルカ5:31) 罪という病を抱えたまま生涯を閉じ、死後に神のさばきの前に引き出されてもかまわないと言うのか(ヘブ9:37)。そんな一人ひとりをこの地上で罪の支配から解放し、闇の人生から救出してくださる神は、御子の十字架によって永遠の贖いを完成され、無条件の赦しをもって、今もなお招き続けておられる。さらにイエスは言われた。『わたしは…罪人(であるあなた)を招いて、悔い改めさせるために来た』(同32)◆神は、罪という病に陥っていることに気づかせるために、聖書を通して近づいてくださり、招き続けておられる。目覚めよ、自分の知恵に頼らず。罪の病に気付かされ贖い出されて、全く新しい人生をスタートさせていただこうではないか。

■ 2013/08/25 (日)
 [題]
「箴言1-3章− 神を知り、神を信じ、神に従う者となれ 」
 [みことば]
『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』 (ヨハ5:24)
 [ショート・メッセージ]
◆旧約聖書39巻は5つのグループに分類でき、その真ん中に位置するグループは詩歌グループで、その真ん中が箴言である。箴言が聖書に置かれてある目的は、神を信じ委ね礼拝する者たちが、聖書から学び、神の知恵と知識を受け取り、それを日常生活の中でどのように適用すればよいかを教えることである。そのため箴言には、その具体例が豊富に記されてある◆聖書66巻をゆっくりじっくり調べ学んでいくと、まず導かれるのが神への恐れである(箴1:7)。神への恐れは、神の実存に気付かされ、神のご人格に触れた瞬間に生じる反応である。さらに聖書を調べ学び続けることにより、神の聖さと正しさに基づいた計り知れない愛というご性質を知り、ますます神を恐れるようになる。すなわち、神を尊敬し、神に信頼し、神に従う者へと成長させられ、主とくびき(マタ11:29)を負って生きる日常生活のなかに深い平安を体験する。この平安の実感こそが神体験である。やっと、たましいの故郷(ふるさと)に戻った実感を味わったのだ。この時、死んでいたたましいが新しい霊的ないのちに与った瞬間である。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』(ヨハ5:24)◆神を知り、神を信じ、神に従う者となれ、と聖書を通して神はあなたに語り続けておられる。

■ 2013/08/18 (日)
 [題]
「箴言1-3章− 赦されない限り罪からの解放はない 」
 [みことば]
『悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。』 (イザヤ55:7)
 [ショート・メッセージ]
◆7節の『主を恐れることは知識の初めである』とは、みことばを正しく学ぶなら神への尊敬と信頼と服従の思いが必ず生じる、という意味◆10節の『罪人』とは、創造主なる神の存在をどこかで認めていながらあえて否定し、良心によって悪いことであると認識しながらその悪を行なう者、いわゆる確信犯といえる。人の心には良心があり、家庭環境によってはその良心が鈍くなっている者がいるかも知れないが、みな罪悪感を感じる。よって神を信じ救われる以前から、人はみな神の前には確信犯である。神に対する弁解の余地はどこにもない◆ところで聖書を学んで発見する特徴的な事柄は、「赦し」である。「許し」は行なっても良いという許可の意味だが、「赦し」は裁判用語で無罪の宣言である。罪には必ず刑罰が伴うが、神から下る刑罰は死後に味わうゲヘナ(地獄)での永遠の滅び(死)である。「死」とは神との断絶のこと。永遠の滅びとは神との永遠の断絶のことだ。全宇宙を造られ、すべての生物をデザインされて創造し、あなたをも創造して今も生かしておられるお方。人は罪があるためこのお方を認めようとせず、神の愛を分かろうとせず、罪の行為をやめようとしない。罪の奴隷状態である。「赦し」はこれからの解放を意味する。「赦し」を体験しない限り罪の支配からの解放はない、死後の希望も生きる真の喜びも創造者なる神への感謝もない◆さらに聖書から「赦し」を学ぶ必要がある。

■ 2013/08/11 (日)
 [題]
「箴言1-3章− 主を恐れる者と変えられる 」
 [みことば]
『主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。』 (箴1:7)
 [ショート・メッセージ]
◆「箴」は、裁縫で使う竹製のしつけ針、 漢方での治療用の鍼(はり)のことであり、訓読みすると箴(いまし)めとなる。すなわち、神のしもべとして生きる者を矯正するための、神の知恵と知識のことばを集めた書巻であり、「知恵と戒めの書」と言うことができる。車を運転するとき運転手の手は、道から脱輪しないように絶えずハンドルを微調整しているように、神のしもべも絶えず矯正されなければ(Uテモ3:16)、自己流の信仰生活へと気付かぬうちに道を外してしまうものだ。おごることなく、調子に乗ることなく、神の前に謙遜な者とされ、帰るべき天に帰る準備をさせていただこうではないか◆3節に『正義と公義と公正』とあるが、日常生活における正しさと、裁判における正しさ、商売における正しさのことである。『あなたがたはさばきにおいても、ものさしにおいても、はかりにおいても、分量においても、不正をしてはならない』(19:35)。罪人は、救われて神の子とされてもなお、人にはきびしく自分には甘い肉の性質が残っている。この事実を認識し、これと真剣に闘い続けなければ、自己満足クリスチャンとなる。要注意だ◆『主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。』(箴1:7)とあるが、聖書から正しく学んでいる者は必ず主を恐れる者と変えられ、主に信頼して従う者のことを言う。一方愚か者とは、聖書に私的解釈を施し(Uペテ1:20)、学者気取りで隣人を見下す、偽善的教師のことだ(マタ23:13-28)。

■ 2013/08/04 (日)
 [題]
「ザアカイ− 神の招きの声 」
 [みことば]
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』(マタイ11:28)
 [ショート・メッセージ]
◆人はある日ふと、原因不明の不安に気づく。何をしても消えない不安だ。その不安から逃れるため、いつのまにか〈無いものねだり〉が始まる。頑張って努力して、やっと求めていたものを手に入れても、しばらくすると、あの不安がまた顔を出す。そして無いものねだりが再び始まる。空回りの人生、これを繰り返す。この不安は、たましいのふるさと、創造者なる神のふところに帰り着くまで、何をしても消えることはない◆父なる神は、イエスの犠牲の死である十字架を通して、人がご自分のもとに帰れる完全な救いの道を準備してくださった。神のいのちに基づく〈新しい人生への招き〉、〈福音〉である。神はそれを書き記し、人への聖い愛の手紙としてくださった、〈聖書〉である。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハ3:16)◆失敗を繰り返して生きるしかなかった私たちは〈生まれ変わりたい〉と願っても、自分と周りを見て絶望するしかなかった。しかし聖書は言う。『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(Uコリ5:17) ここに自分の熱心さや努力によらない、神から提供されている、神の真実の愛による、無条件の赦しがある。『わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』(マタ11:28)

■ 2013/07/28 (日)
 [題]
「ザアカイ− そうすればたましいに安らぎが来ます 」
 [みことば]
『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。』 (詩篇121:1-2)
 [ショート・メッセージ]
◆夢を叶えて、富も名誉も地位も得たザアカイが味わったのは、空しさでしかなかった(伝2:10-11)。糸の切れた凧、水のない井戸、実を結ばない木のような、空虚な現実。彼の土台は脆くも崩れ去り、跡形もない。まわりから羨望の眼差しで見られているにもかかわらず、夢に裏切られたザアカイは、生きること自体が苦痛であった◆そんな彼の中で、どこかで聞いたイエスの言葉が繰り返し聞こえる。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。』(マタイ11:28,29)◆イエスは言われた。「あなたがたを休ませてあげます」。勝手に思い描いた夢に裏切られた自業自得者への信じがたいあわれみの言葉。その休息とは、「たましい」に来る安らぎである、とイエスは言われた。人間のいのちの本質に触れることばであった。必死になって富・名誉・地位を追い続けた結果、ザアカイの〈たましい〉は人として生きるべき軌道から大きく脱線していたのだ◆彼の中で響き渡るイエスの言葉によって自分の愚かさに気づかされたザアカイは、これまでの身勝手な生き方を反省し、赦しを願い、救いを求めていた。そんな彼にイエスは声を掛けて言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』(ルカ19:5)

■ 2013/07/21 (日)
 [題]
「ザアカイ− 失われていると自覚している人を救われるイエス 」
 [みことば]
『人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』 (ルカ19:10)
 [ショート・メッセージ]
◆イエスはザアカイのことを『失われた人』(ルカ19:10)と言われたが、それは迷子のことである。迷子になった経験者は解る、不安と恐れ。親が現われるまで、どこにも解決はない。お菓子も、テレビも、ゲームも、慰めの言葉も、不安と恐れを消すことはできない。ザアカイは今まさに迷子状態であった。富も地位も賞賛も名声も、この不安から自分を救い出すことはできない◆追い求めて来た頂点に達するまで、全く気づかなかった。到達点にあった勝利の喜びも、充実感も、達成感も、ほんの一瞬で消えた。必死に生きて来た過去を振り返り呆然とした。風を追うようなものであった。彼は、救いを求めた。得体の知れない不安と恐れからの救いを求めた。うわさに聞くナザレのイエスに会いたいと、切実に思うようになった◆そして事態は一変した。ナザレのイエスが彼の町に来たのだ。彼はイエスに会い、イエスの教えを聞こうとした。すると、イエスの方から彼に近づき、声を掛けてくださり、親しく交わってくださった。彼はイエスから教えられ、戒められ、矯正させられた。振り回されてきた世の価値観から解放され、全く新しい天の御国の価値観に、彼の目は開かれた。一変した彼は、自分の犯してきた罪の日々をすなおに認め、告白し、そして悔い改めた◆だれでも聖書を通してイエスに出会うなら、罪が示され、告白へと導かれ、救いに至る信仰を受け、そして人生が変えられる。そう、だれでも。

■ 2013/07/14 (日)
 [題]
「ザアカイ− 人生を変えてください 」
 [みことば]
『しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。』 (伝道者2:11)
 [ショート・メッセージ]
◆ザアカイは、親からもらった「きよい」という意味の名とは裏腹な人生を生きていた。周りから見下されないための「お金」と「地位」を必死に追い求め続けた。まともなやり方ではトップをつかむことは不可能だと思った彼は、誤魔化し騙し、狡賢く行動した。頑張って頑張って、ついに取税人のかしらとなり金持ちになった(ルカ19:2)◆だが、死に物狂いで得た「富と地位」を手にしてした瞬間、思い描いていた幸せは何一つ存在しないことに気付いた。何と空しいことか(伝2:11)。哀れで惨めで腹立たしかった。ぼんやりとではあるが、彼はあることに気付いていた。自分に対して恥じるような不真実な生き方それ自体が重荷となり、自分を疲れさせているのではないかと。しかし彼には自分を変える力も、真実に向かわせる術はなかった。無力と絶望◆だからこそ彼はイエスを見ようとした(ルカ19:3)。イエスに会いたかった。町の人に嫌われ邪魔された彼は、木によじ登ってまでもイエスを見ようとした(4)。「イエス様、私を変えてください。私に教えてください。あなたには真実がある。正義がある。この惨めな私をあわれんでください」。彼はすべてを失ってでも、このお方によって人生を変えていただきたいと切願した◆彼はイエスを知らなくても、イエスは彼を知っていた。イエスはこの時を待っておられた。それでイエスは彼の名を呼ばれた(5)。彼と交わってくださり(6)、教えてくださり、信仰へと導いてくださった。彼は自分の間違いをはっきりと認め(8)、悔い改めてこれまでの呪われたような罪深い生き方から救われた(9)。

■ 2013/07/07 (日)
 [題]
「質疑応答− マタイ6:13とルカ5:23について 」
 [みことば]
『だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』 (ヤコブ1:13-15)
 [ショート・メッセージ]
◆Q:『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』(マタイ6:13)の意味を教えてください。A:「試み」とは悪魔の誘惑のことであって、神が与えてくださる試練ではない。試練は信者を悔い改めへと導き、聖め、訓練し、成長させ、神の栄光を現わすものであるので、聖書の他の箇所では「賜物」であると記されてある(ピリ1:29)。『合わせないで』とは、忌み嫌われるような汚れた場所に引きずられることがないように誘惑から守り助けてくださいという切なる願いである。『悪からお救いください』の悪とは、聖書の欄外にあるように「悪い者」、すなわち悪魔のことである。悪魔は罪人の欲望を刺激し誘導し、神のことばを否定させ、ねたませ、高ぶらせ、だまし、命令する。神の国とその義とを何よりも優先する歩みを意識しなければ、信者も日々失敗を繰り返す。神を意識することが大切である。『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。』(箴4:23)◆Q:『「あなたの罪は赦された。」と言うのと、「起きて歩け。」と言うのと、どちらがやさしいか。』(ルカ5:23)で難しいのはどちらですか。A:罪の赦しの奥義を学んで知っている真の信者にとって難しいのは前者であり、それを知らない未信者にとっては不思議な現象である後者となる。真の贖いを学び続けなければならない。

■ 2013/06/30 (日)
 [題]
「罪人に対するイエス− 悔い改めへと導く聖書に耳を傾けよ 」
 [みことば]
『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』 (ルカ16:31)
 [ショート・メッセージ]
◆『不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。』(箴30:8) 罪人の特徴の一つに「貪欲」がある。必要以上を求める思いだ。その罠にはまると思い煩いが増える。不必要な自家用車を10台購入したらどうなるか、と想像すれば理解できる◆イエス様はある時、ぜいたくに遊び暮らした一人の金持ちの死後の様子を話をされた(ルカ16:19-31)。彼は生前、高価な着物で身を包み(19)、物乞いに来る貧乏人を無視していた。貧乏人は全身を栄養失調性の吹き出物で覆われ、金持ちの門前で物乞いをしていたが放置され(20)、その家の飼い犬を追い払う力もないほどに衰弱していた(21)。ラザロは死に、金持ちも死んだ(22)◆死後金持ちの魂は神の前に出ることを拒んだ(23)。清算されていない生前の悪い行ないが明るみに出されることを恐れたのだ(ヨハ3:20)。それで彼はハデス(あわれみ深い神の存在しない霊的世界)で苦しんだ(ルカ16:23)。彼はまだ地上にいる自分の身内が、こんな場所に来ないようにラザロを生き返らせて彼らに言い聞かせてくださいと願った(28)。すると答えがあった。「彼らには聖書がある。聖書を調べる以外にない。」(29)◆すると彼は、不思議が起きれば彼らはきっと『悔い改める』に違いないと訴えた(30)。彼がハデスに落ちた理由がここにある。「悔い改め」を拒んだことだ。神を認め、すなおになれ。

■ 2013/06/23 (日)
 [題]
「罪人に対するイエス− 苦しむ者を一方的に責めることをなさらないイエス 」
 [みことば]
『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』 (ヨハネ9:3)
 [ショート・メッセージ]
◆「自分は何も悪いことはしていないのに、なぜこんな目に合わなければならないのか」。予期しない苦悩に遭遇したとき人は良く口にする。因果応報の考え方である。それは不幸のどん底に落ちたヨブを見舞いに来た三人の友もそうであった(ヨブ2:11〜)。彼らはヨブを責め始めた。隠している罪があるはずだ、正直に告白せよと。『主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな』(ヨブ1:21)と神への信仰に立ち続けていたヨブに、因果応報の理屈から出る毒の言葉を矢のごとく放ち続けたのである◆罪人は、隠している自分の罪を知るがゆえに、因果応報の考え方に繋がっていくのだ。同じことをイエスの弟子たちが口にした。ヨハネ9章である。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。』(2) しかしイエスは次のように答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』(3) 苦悩の中にいる人をイエスは、初めから一方的に決めつけて責めることはなさらない◆確かに刈取りの苦しみもある。しかし試練としての苦しみもある。試練の苦しみは神からのプレゼントだ。「神のわざ」に導くための苦しみだ。『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』(詩119:71) 生まれつきの盲人はこのあと、神のわざを体験しイエスの弟子となり、人生を全く新しくされたのである(ヨハ9:35-38)。

■ 2013/06/16 (日)
 [題]
「罪人に対するイエス− 最高の人生を準備しておられる 」
 [みことば]
『わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。』 (マタイ11:29)
 [ショート・メッセージ]
◆精一杯働き、人から羨望の眼差しで見られるほど活躍し、社会のトップの座に着いても、魂のふるさとである神との交わりが回復していないなら、いかに空虚なことか。『私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんとすべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。』(伝2:11) 自分で決めた到達点に達した途端に人は疲れを覚えるものだ。神を認めようとしない罪人の人生は空回りし続ける◆しかしそんな人生に終止符を打たれた人物がいる。ザアカイだ(ルカ19章)。だれにも劣等感はあるが、彼は異常に背が低かった(3)。その劣等感に対する自己防衛から、彼は莫大な富を得て優越感を得ようと努めたが裏目に出て孤独となる。ところが人生のどん底で彼はイエスに出会う(1-5)◆『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』(5) だれからも相手にされなくなった自分に、全ユダヤ人注目のあのお方から声を掛けられたのだ。「あなたと親しく交わりたい。」 彼は何と返事をしただろう。「ザアカイは急いで降りて来て、大喜びでイエスを迎えた」(6)◆そして彼は蓄えていた全財産を売り払い、貧しい人々への施しとだまし取った者への弁済(8)で無一文となった。その上で彼はイエスの弟子となる。神はザアカイに最高の人生を準備しておられた。

■ 2013/06/09(日)
 [題]
「罪人に対するイエス− 罪人を見つめ救出してくださるお方 」
 [みことば]
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』 (マタイ11:28)
 [ショート・メッセージ]
◆ローマの属州のどこででも嫌われていた取税人の職に就いていたマタイに、主イエスは言われた。「わたしについて来なさい。」(マタ9:9)。すでに心の準備ができていた彼は、すぐに従った◆当時、取税人はローマ帝国に収める税金(租税や関税)を同胞ユダヤ人から取り集めていたため、嫌われ憎まれ、異邦人や遊女と同じ範疇に入れられ、汚れた者、罪人呼ばわりされてユダヤ人社会から追放されていた◆しかしイエスはそんな取税人を聖い愛のまなざしで見つめられ、ご自分の元へと招かれた。マタイはイエスの招きのことばに応答し、イエスとその弟子たち、さらに仕事仲間やその他の友人を自宅に集め、退職と弟子としての出発の記念の晩餐会を催した。取税人との食事会に出向いたイエスを非難する宗教指導者たちの声を聞かれたイエスは彼らに言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人である。わたしは自分の正しさ・強さ・優秀さを誇る偽善者たちを招くためにではなく、神の前に自分の愚かさを認めへりくだる者たちを招いて、悔い改めさせるために来たのだ。」(同12-13)◆罪人に対しイエスは、見下し拒絶される方ではなく、その苦しみ・悩み・葛藤を見つめ、そこから救出してくださるお方である。あなたの過去にどんな過ちがあろうと、このお方に背を向けてはならない。このお方だけが、あなたの心労をいやし、あなたから肩に食い込んでいる重荷を取り降ろしてくださるお方であるから。

■ 2013/06/02 (日)
 [題]
「マタイ13章− 血をもって買い取られた神の教会 」
 [みことば]
『天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。』 (マタイ13:44)
 [ショート・メッセージ]
◆「天の御国」は、「持ち物全部を売り払って買い取る」ほどに価値のある(使20:28)、神の「宝」である、と主は教えられた。御国とは新生した信者たちの交わり(キリストのからだなる教会/コロ1:24)のことであり、「持ち物全部を売り払って」とはキリストのいのちによってという意味である。この御国は聖霊降臨によってエルサレムに産声を上げた(使2章)◆エデンの園でアダムとエバが罪を犯し、人間が「サタンの支配下」(Tヨハ5:19)に堕ちて以来、神はこの宝の誕生をどれほど待ち続けられたことか。それは、人類を支配下に引き込んだ蛇(サタン)へのことばの中に明らかにされた。『おまえと女との間に、またおまえの子孫と女の子孫との間に敵意を置く。』(創3:15) 原福音である。「敵意」とは、サタンと罪を拒絶する「霊のいのち」であり、神のかたちが回復する約束のことだ◆サタンは、創造主であられる神の上に立とうと、愚かにも挑戦し続けたが(ヨブ1:9-11、2:4-5)、神は秩序を守りながら緻密に歴史を導かれ、救いのご計画を進められた。歴史の中で神は預言者を用いて、選びの民(イスラエル)を励まし続け、「見よ。その日が来る」と声を掛け続けられたのであった◆そしてついに処女マリヤによってメシヤを遣わされ、この方を私たちの代わりに罪とされた。この方にあって悔い改める者を義とするため(Uコリ5:21)、この方を「贖い(買い取り)の代価」(Tテモ2:6)とされたのである(ロマ8:3)。すべての罪人の前に、この救いが準備されているのである。

■ 2013/05/26 (日)
 [題]
「マタイ13章− ほんとうに実を結ぶ者となる 」
 [みことば]
『ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。』 (マタイ13:23)
 [ショート・メッセージ]
◆「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけ、異邦人の中にあってりっぱにふるまっている真のクリスチャンたちよ」(Tペテ2:11-12)。「神を知らない世の人々が、あなたがたがいっしょに度を過ごした放蕩に走らないからといって悪口を言うことがあっても」(Tペテ4:4)、「来たるべき時が来れば、あなたがたのそのりっぱな行ないを思い出して、神をほめたたえるようになるのですから」(Tペテ2:12)、「あなたにとって時が良くても悪くても、しっかりとみことばを宣べ伝え、みことばを証し続けなさい」(Uテモ4:2)。「刈り取りの時が来たら、あなたがたは、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶようになるのです」(マタ13:23)◆この「実」とは、Tコリ3:12では、「金、銀、宝石」として表現されている、「神のみこころにかなった働き」のことである。神は、求める者にこの「実を結ぶ働きの人生」を備えておられるのだ。一人でも多くの方に知らせよう。みことばに隠されてある福音の奥義を届けよう。一人でも多くの方が、まことの羊飼いであられる主(エゼ34:11-16)のもとに引き出され、残された短い地上生涯を天の御国を目指して大胆に生きる者へと変えられるよう、微力ながらそのお手伝いをさせていただこうではないか◆「世の心づかいと富の惑わしによってみことばがふさがれ、実を結ばないクリスチャン」(マタ13:22)になることのないように、細心の注意を払おうではないか。招いてくださった主が言っておられる。『わたしから学びなさい。』(同11:29)

■ 2013/05/19 (日)
 [題]
「マタイ13章− 天の御国の奥義を知ること 」
 [みことば]
『すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。』 (マタイ13:10-11)
 [ショート・メッセージ]
◆群衆にたとえでお話しなさったのはなぜですか、と弟子たちから質問された時のイエスのことばに注目。「あなたがた」(11)とはもうすぐ新生させられるキリストの弟子のことであり、「彼ら」は未信者を指す。この時点では、弟子たちはまだだれひとりとして新生はしていない。なぜなら聖霊降臨は使徒2章まで待たなければならないからだ◆聖霊による新生をまだ体験していなかった弟子たちにとっては、イエスから聞いた奥義も一般知識として聞くだけで、霊的奥義として受け入れることはできなかったが、それでもイエスは弟子たちに奥義を話された。やがて訪れる聖霊降臨の時、「聖霊がわたしのすべてのことばを思い起こさせ」(ヨハ14:26)、その後「さらに多くの真理に導き入れてくださる」ことを知っておられたからであった(同16:13)◆聖書のみことばを学び続けておられるみなさんも同じである。今はまだ霊的に理解できない事柄も、聖霊なる神が取り扱ってくださる時が来たなら、『水(みことば)と御霊によって生まれ…神の国にはいる』(ヨハ3:5)という約束が一人ひとりの上に成就するのである◆その時まず最初に自覚させられるのは「神を拒んで生きて来た過去の罪深い人生」であり、その後、「罪の赦しを求める思い」が引き出され、「イエスの十字架のみわざによって自分の罪も神の御前に完全に赦されている事実」を心から信じ受け入れ、神との交わりの中で残された人生を送りたいと切望するようになるのだ。

■ 2013/05/12 (日)
 [題]
「マタイ13章− 種蒔きのたとえ話/4つの種 」
 [みことば]
『種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。』 (マタイ13:3-6)
 [ショート・メッセージ]
◆1-2節。イエス様は湖のほとりおられたが、大ぜいの群衆が集まって来たので、押し寄せる群衆によって湖の中に人々が落ちないように、舟に乗って群衆との間に距離を置いた。実は人間関係にも距離が必要である。ベタベタした人間関係はいつか破綻する。馴れ合いになり、互いに支配し合うからだ。夫婦間にも、親子間にも、適度な距離が必要である。赤ちゃんは人格あるひとりの人間であって物言わぬ人形ではない。赤ちゃんを支配しないこと、操り人形にしないこと、おもちゃにしないこと。思春期が来るまで教え諭し躾け、自立する訓練を導くことが肝要である◆3節。イエス様は多くのことをたとえで教えられた。それは、人が見たことも聞いたこともない霊的な事柄を、理解しやすいように世の事柄を用いて説明するためであった。求める者はさらに真理へと導かれ、求めない者は霊的な真理から遠ざかっていく◆3-9節。種が蒔かれた4つの場所が語られた。道ばた、岩地、いばらの中、良い地である。これらは聞く者の心の状態である。「道ばた」は集会に来ようとしない未信者を指しており、「岩地」は集会に集ってはいるが新生していない自称クリスチャンを指し(Tコリ2:14)、「いばらの中」は集会に集っている新生した者ではあるが肉に属したクリスチャンのことで(同3:1)、最後の「良い地」は集会に集っている御霊に属したクリスチャンのことだ(同)。4つのうち前半の2つの種には「根がない」、新生していないのだ。後半の2つには「根がある」、新生しているのだ。

■ 2013/05/05 (日)
 [題]
「ペテロ− 立ち直らされたペテロ 」
 [みことば]
『シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかしわたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい。』 (ルカ22:31-32)
 [ショート・メッセージ]
◆別れの食事会(最後の晩餐)を終え、弟子たちがイエスと共にオリーブ山に行った時のこと。「ペテロよ、あなたはわたしのゆえにつまずきます。しかしわたしは、あなたの信仰がなくならないように祈りました。だから立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」しかしペテロは、「私は決してつまずきません」と豪語した。そんなペテロにイエスは言われた。「今夜、鶏が鳴く前にあなたは3度わたしを知らないと言います。」 それでもペテロは自信たっぷりに、「どんなことがあっても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません」と断言した◆ところが逮捕後大祭司の家に連行されたイエスのあとをついて行った時のこと、女中から「あなたはイエスの弟子ですよね」と聞かれた瞬間、「いいえ、イエスなんて知らない」と打ち消し、さらに「お前のそのガリラヤなまりで分かるんだよ」と言われた時も強く否認した。そして鶏が鳴いた◆ペテロはイエスのことばを思い出して激しく泣いたが(ルカ22:62)、ユダのように自滅せず、イエスとの個人的な交わりを待ち続け、その時を迎えた。復活されたイエスからガリラヤ湖で尋ねられたのだ。「ペテロよ、あなたはこの人たち以上にわたしを愛しますか。」ペテロは即答した。「はい主よ。私があなたを愛することはあなたがご存じです。」 イエスはこの質問を3度繰り返してペテロを立ち直らせてくださったのだ(ヨハ21:15-17)◆私たちもまた失敗を繰り返す者たちだが、あわれみ深い主はそのすべてを働かせて益に変えてくださるお方であることを、決して忘れてはならない。

■ 2013/04/28 (日)
 [題]
「ペテロ− 罪に気付かされたペテロ 」
 [みことば]
『その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。』 (ヨハネ16:8)
 [ショート・メッセージ]
◆『イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」』(マタ16:23) あれほど柔和だったイエスが、厳しいことばをペテロに投げかけられた。罪を指摘するためであった。罪に気付かせるためであった。それはペテロを罪の赦しへと導くためであった◆罪とは、神のみこころを無視すること、神のご計画を邪魔すること、神の上に自分の考えを置くことだ。ペテロはイエスを励ましている〈つもり〉であった。自分は良いことをしていると〈思い込んで〉いた。しかしそれは、「神の(贖いによる)救いのご計画」(Tテモ1:4)を邪魔する発言であった。まず神に聞き、神から教えられ、神から学ばなければ(マタ6:33)、神に従うことはできない(マタ16:24)。ペテロは大きな失敗をしたが、聖霊降臨によって新生の奇蹟に与る(使2:1-4)、その準備を受けていたのである。罪を認め、罪を自覚させられない限り、神を恐れることも、罪の赦しを懇願することも、心から悔い改めることも不可能だからだ◆このあともう一度ペテロは、振り向いて自分を見つめるイエスの眼差しを体験することになる。『主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは…主のおことばを思い出した。彼は外に出て激しく泣いた。』(ルカ22:61-62)◆あなたは主のあわれみに満ちた眼差しに気付いたであろうか。主の愛に満ちたおこころに触れたであろうか。激しく泣いたペテロのように。

■ 2013/04/21 (日)
 [題]
「ペテロ− 人間的になったペテロ 」
 [みことば]
『神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。…あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。』 (ヤコブ4:8-10)
 [ショート・メッセージ]
◆ガリラヤ湖の北にあるピリポ・カイザリヤ地方に行かれた時、イエスは弟子たちに尋ねられた。「人々はわたしのことをだれだと言っていますか」(マタ16:13)。そこは皇帝崇拝のための神殿がヘロデ大王によって建てられた場所であった。弟子たちが答えると、「ではあなたがたはわたしをだれだと言いますか」と問われた(同15)。その時、弟子たちを代表して最年長者ペテロが答えた。「あなたは生ける神の御子キリストです」◆あなたこそイスラエル人がずっと待ち続けてきたメシヤですとの告白を聞かれたイエスは、ペテロをほめて言われた。「ペテロよ。その通り、あなたの答えは正しい。あなたは幸いだ。しかしそれは人間の知恵によったのではなく、父なる神があなたに啓示されたことです。」(16) そして言われた。「あなたと同じように神から啓示を受け、同じ信仰告白をする者たちの集まりが教会となります。そしてわたしの権威に与る教会を通してわたしの働きは継続されます。」(18-19)◆さらに言われた。「これから上るエルサレムで、わたしは長老、祭司長、律法学者たちによって捕縛され、苦しを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければなりません。」(22) するとペテロは血相を変え、「主よ。そんなことがあなたに起こるはずはないですよ。」とイエスをいさめた(23)。イエスは振り向いてペテロに言われた。「ペテロよ、下がりなさい。あなたは父なる神の救いのご計画を邪魔する者だ。」◆人間的になると神の邪魔をしやすい私たちである。要注意だ。

■ 2013/04/14 (日)
 [題]
「ペテロ− イエスの中に神性を見たペテロ 」
 [みことば]
『するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。』 (ルカ5:5-6)
 [ショート・メッセージ]
◆悔い改めを説いていたバプテスマのヨハネ(マコ1:4)の弟子のひとりアンデレの兄であったペテロ(ヨハ1:35-42)。彼にはいくつかの呼び名があった。本来の名はヘブル語読みで「シメオン」(使15:14)、ギリシャ語読みすると「シモン」(ヨハ1:42)であった。「ペテロ」という名は、初対面の時にイエスからつけられたアラム語の「ケパ」(ヨハ1:42)のギリシャ語読みである◆ペテロの父の名は「ヨナ」(マタ16:17)、あるいは「ヨハネ」(ヨハ2:42)で、ペテロには妻がいた(マコ1:29、Tコリ9:5)。ペテロとアンデレはともに漁師で(マタ4:18、マコ1:16)、ベツサイダの出身であり(ヨハ1:44)、のちにカペナウムに移り住んでいた(マコ1:21,29、ルカ4:31,38)。ベツサイダもカペナウムもガリラヤ湖の北岸にある町◆ある日、ゲネサレ湖(ルカ5:1)とも呼ばれるガリラヤ湖で、漁を終えて帰り支度をしていたペテロは(同2-3)、「沖へ漕ぎ出して網を降ろして魚をとりなさい」とイエスから命じられた(4)。もう魚の取れる時間帯ではなかったのでペテロはいったん断ったが、イエスの眼差しを見て半信半疑ではあったが言われる通りにした。すると、網めがけて魚が飛び込んできたのだ(6)。この魚をも支配する権威をお持ちのイエスの中に、はっきりと神性を認めたペテロは自分の中の汚れた罪を思い、ひれ伏して叫んだ。『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから』(8)。神の聖なるさばきを受けて死ななければならないと思ったのだ◆真実、神に出会う時、人は良心に逆らって生きて来た己の罪を見せられ、罪の告白へと導かれるのである(同18:13)。

■ 2013/04/07 (日)
 [題]
「質疑応答− サタンに関する2つの質問 」
 [みことば]
『暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。…あなたは心の中で言った。「私は天に上ろう。…いと高き方のようになろう。」しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。』 (イザ14:12-15)
 [ショート・メッセージ]
◆Q:なぜ神はサタンを造ったのですか。A:神がサタンを造ったのではない。サタンは元は御使いのかしらであったが、「神のようになろう」として高慢になり堕落して神への敵対者となった(イザ14:12-15、エゼ28:2,12-17)。彼は、悪魔(マタ4:1)、試みる者(同4:3)、誘惑者(Tテサ3:5)、悪い者(マタ13:19)、告発者(黙12:10),敵(マタ13:39)、悪霊どものかしら(マタ9:34)と呼ばれ、この世を支配する者(ヨハ12:31)、空中の権威を持つ支配者(エペ2:2)、ベルゼブル(マタ10:25)とも表現されている。神のかたちに創造され神との交わりを楽しむ人間と神に彼は嫉妬し、神の代理人として世の管理を任された人間(創1:26-28)を自分の配下に置くため誘惑した(同3:1-7)。自由意思を与えられていた人間は、神のことば(2:16-17)を捨てサタンの言葉を受け入れた結果、サタンと同じように神に逆らう存在となった(ヨハ8:41-44)。『神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めた』(伝7:29)◆Q:なぜ神は世界をサタンに支配させたのですか。A:神が世界をサタンに支配させたのではない。世界を管理する人間を自分の支配下に置いたため、一時的に世界を管理する存在となったに過ぎない(ルカ4:6、Tヨハ5:19)。キリストが来られたのは、まさにこの「悪魔のしわざを打ちこわすため」(Tヨハ3:8)。また受肉されたキリストが死なれたのは『その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるため』(ヘブ2:14-15)であった。

■ 2013/03/31 (日)
 [題]
「十字架の周りの人々− ほふり場に引かれていく小羊のように 」
 [みことば]
『彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。』 (イザ53:7-8)
 [ショート・メッセージ]
◆イエスの十字架の両側で十字架に付けられた犯罪人のうちの一人は、良いことのほか何も悪いことをしていないイエスの苦難を目の当たりにして深く動揺し、汚れきった自分の人生を思い起こした。罪をすなおに認め悔い改めた犯罪人は、イエスが神の子であることを認めて言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには私を思い出してください。』(ルカ23:42) 罪の赦しを願ったのだ◆十字架による処刑の現場監督であった百人隊長もまた、間近でイエスの苦しみを目撃していた一人であった。総督ピラトがイエスの無実を訴えているにもかかわらず「十字架につけろ」とこぶしを上げる群衆の前で、まるでほふり場に引かれていく羊のように黙って行動され死に至ったイエスを見て、百人隊長は非常な恐れを抱き、『この方はまことに神の子であった』と言った(同54)◆徹夜で尋問を受け疲労困憊し、むち打たれて肉が裂け血を流していたイエスの背に重くのしかかる十字架を、むりやり担がされた異邦人のシモンもまた(マタ27:32)、残忍な十字架刑を受けたイエスを間近で目撃し関わった一人であった。その後、彼と彼の妻、そして子どもたちもみなイエスを信じてクリスチャンとされたのである(マル15:21、ロマ16:13)◆このむごい十字架刑に架けられたイエスを見よ。血にまみれたイエスを見よ。罪を持つゆえに(詩51:5)、年を取るたびに不本意な生き方を繰り返すしかなった私たちのために、身代わりとなられたイエスを、あなたも聖書の中に目撃せよ。

■ 2013/03/24 (日)
 [題]
「十字架の周りの人々− 行ないによって勝ち取る救いはない 」
 [みことば]
『イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」』 (ルカ23:43)
 [ショート・メッセージ]
◆イエスとともに十字架につけられた犯罪人のひとり(ルカ23:33)は、息遣いが聞こえるほど間近でイエスのことばと行動を目撃した。そして心底驚嘆して言った。「この方は何も悪いことはしていない」(同41)。彼は続けた。「われわれは自分のしたことで報いを受けているのだから刑を受けるのは当然だ」(同)。彼は自分の罪の現実を認め告白した。さらに彼はイエスがメシヤであることを信じあわれみを求めた。「あなたが天に戻られ、さばきの座にお着きになる時には、この罪深い私をあわれみ赦してください」(42)。十字架に釘づけられ、死の直前にいた彼に、イエスは明言された。「あなたは今日わたしとともにパラダイスにいる」(43)。心からあわれみを求めた彼に、イエスは罪の赦しを宣言されたのである。彼の何をもってイエスは罪の赦しを宣言されたのだろうか。ポイントが3つある。@自分の罪を正当化せず認めたこと、A一方的なあわれみを求め心から赦しを願ったこと、B自分と同じ人となられた神キリストを認めさばきを委ねたこと◆彼は、「医者を必要としている病人」(マタ9:12)にすぎない自分を認めたのである。あわれみを求めて近づく者を主は拒むことをされない(ルカ15:18-24、18:13-14)。罪に汚染され霊的に死んでいる者たちに神が求めておられるのは、自分の力を誇示する「行ない」ではないのだ。『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』(マタ11:28)。

■ 2013/03/17 (日)
 [題]
「十字架の周りの人々− 十字架につけられた犯罪人のひとり 」
 [みことば]
そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」』 (ルカ23:42-43)
 [ショート・メッセージ]
◆兵士たちはどくろと呼ばれる処刑場に着くとイエスと犯罪人を十字架につけた。イエスをまんなかに、ひとりは右に、ひとりは左に。十字架刑ほど忌まわしくおぞましい処刑法はなかった。太い釘で両腕を横木に釘づけにし、足は縦木に打ち付け、死ぬまで吊るされ、神に呪われた者として見世物にされた。かつてイスラエル人は石で打ち殺された者の亡き骸を『神にのろわれた者』として木に吊るしていた(申21:22-23)◆さて処刑場に集まった群衆はそれぞれ複雑な思いで見入っていた。「なぜあの正しい方があんな残虐な十字架につけられなければならないのか。」「いや奴は自分のことをメシヤだと言っていた、ここに至っても何もできないくせに。がっかりだぜ。」「それにしてもなぜ祭司長たちは、あんなにむきになって十字架につけさせたのだろう、ただのやっかみじゃないのか。」「ピラトだって彼に罪を認めることはできないと言っていた。」◆激しい痛みの中でイエスの声が響いた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。』(ルカ23:34) 自分を十字架につけた兵士や、死に追いやったユダヤの指導者たち、野次馬となって傍観している群衆、恐れて逃げた弟子たちを怨むことなく、天を見つめて彼らの赦しを請い、執り成されたイエス。それを間近で見た犯罪人のひとりは言った。『われわれは自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は悪いことは何もしなかったのだ。』(同41)

■ 2013/03/10 (日)
 [題]
「十字架の周りの人々− 祭司長や長老たちに扇動された群衆 」
 [みことば]
『ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」』 (マタイ27:22)
 [ショート・メッセージ]
◆過越しの祭りを祝うために全世界から帰省したユダヤ人でびっしと埋め尽くされたエルサレムで、群衆がこぶしを上げて大声で叫んでいた。「イエスを十字架につけろ! バラバをゆるせ!」 異様な光景であった。祭司長や長老たちはローマ総督ピラトのかたわらに立つイエスをじっと見つめている。繰り返される群衆の怒号◆1週間前の日曜日には、シュロの葉を振り自分の上着を道に敷いて、「ダビデの子よ!私たちを救ってください!」と笑顔でイエスに叫んでいたあの群衆、「イエス様!私たちの王になってください!」と彼らは熱狂的にイエスの周りで叫んでいたのだ。しかし彼らは今、祭司長や長老たちに扇動されるがままイエスに罵声を浴びせている。「イエスよ。お前にはがっかりしたぜ。何が神の子だ、おれたちをだましやがって。何にもできない弱虫野郎!」◆『彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。』(イザ53:7) 預言者のことば通りの光景が繰り広げられている。罪の支配下から抜け出せずもがき苦しんでいる罪人のために、イエスはまさにこの時に至ったのであった(ヨハ12:27)。御父のご計画に身をゆだね、黙して語らぬイエスの上に、苦しむ御父の眼差しがあった。『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(Tヨハ4:10)

■ 2013/03/03 (日)
 [題]
「神の愛− 霊的な神の愛 」
 [みことば]
『神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』 (ヨハネ4:24)
 [ショート・メッセージ]
◆アダムとエバが罪を犯して以来すべての人は霊的に死に、私たちもまた霊的に死んだ状態で母の胎内に宿り、霊的に死んだ状態で世に生まれてきたのだ。『私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました』(詩51:5)。実に私たちは身体的には生きていても霊的には『罪過の中に死んでいた』(エペ2:5)者たちだったのだ。聖書は言っている、『あなたは生きているとされているが、実は死んでいる』(黙3:1)と◆そんな私たちが初めて集会(教会)に導かれて聖書の話しを聞いたころ、霊的な神の愛を、人間の愛に置き換えて理解するしかなかったため、いつか壁にぶつかり、ヨハネ3章のニコデモのように先に進めなくなった。そんなニコデモに対し、人となられたキリストは教えて言われた、『人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません』(ヨハ3:3) 「霊的な新生」を体験しなければ、神の愛を味わうことも、神のご支配の中で生きることも不可能だと。この「霊的な新生」、の体験を後回しにしたままバプテスマを受けてはならないのだ◆「霊的な新生」への道筋をイエスが明らかにされた。すなわち、『水と御霊によって』(同5)しか霊的に新生することはできないと。「水」とは、ヨハネ4章で展開される「みことば」のことであり(4:14、41)、「御霊」とはみことばの真理を説き明かし(16:13)、罪・義・さばきについて私たちに誤りを認めさせて悔い改めへと導いてくださるお方のことである(同5)。

■ 2013/02/24 (日)
 [題]
「神の愛− 人の愛情と神の愛の違い 」
 [みことば]
『愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。』 (Tヨハネ4:8-9)
 [ショート・メッセージ]
◆聖書の中に神の霊的な愛を知り学ぶまで、人は人間的な愛情しか知らない。愛情は神の愛とは全く異なるものであるが、似ているために混乱をきたす。人間的に愛情深く振る舞い愛情で満足している人は、神の愛を深く学ぼうとはせず、実行も出来ない。人間的な優しさ・思いやり・親切・謙虚さ・積極性・がまん強さ・寛容さで満足してきた人は、霊的ないのちへの関心がない。ではどこがどう違うのか◆人間的な愛情は人が基準であり人の目が気になり人に調子を合わせ、人に喜んでもらうことに終始する(Tテサ2:4)。いっぽう神の霊的な愛は神を恐れ神を意識し神の聖さと正しさを基準として行動する(同4:3)。それゆえ絶えず聖書から教えられ戒められることを追求し、聖と義に基づいた行動へと軌道修正されていく(Uテモ3:16)◆愛情は自己流を楽しみ、愛は聖なる行動を学ぼうとする。愛情は人との交わりを求め、愛は神との交わりを求める。愛情は高ぶりやすく、愛は高ぶりから離れる。愛情は人からの称賛を求め、愛は神の栄光のために行動する。愛情は人のためには犠牲を払うが、神のために犠牲を払う意味が分からない。愛情は神とのくびきを拒否し、愛は神とのくびきの中で成長する。聖霊降臨前の弟子たちは愛情で行動していたが、聖霊降臨後は霊的な愛で行動するようになった。愛情は肉に属し、神の愛は御霊に属している(Tコリ3:1)。霊的な神の愛を追い求めよ。

■ 2013/02/17 (日)
 [題]
「神の愛− ひとり子の神をとおして 」
 [みことば]
『しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』 (ロマ5:8)
 [ショート・メッセージ]
◆ひとりの律法学者がイエスに近づき、ためそうとして、「律法の中でたいせつな戒めはどれですか」と質問してきたとき(マタ22:35-36)、イエスは、「神への誠実な愛(申6:5)」と、「隣人への真実の愛(レビ19:18)」を示され、この2つの組み合わせによって律法全体を要約された(マタ22:37-40)。この答えに律法学者たちは圧倒され、黙り込んでしまった(マコ12:34)◆神への愛という縦の関係性を表わす重要な柱と、隣人への愛という横の関係性を表わす柱を組み合わせると、十字架が形づくられ、その中心にイエスが浮かび上がってくる。イエスこそ、目で見ることのできない神の愛を、罪深い私たち全人類の前に明らかとしてくださったお方である。『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。』(Tヨハ4:9)◆愛について論じ合うことしかできず、真実の愛を見たことも実行したこともない罪人に、神は、受肉されたキリストの地上生涯を通してご自身の愛を明らかにしてくださったのだ(ロマ5:8)。そしてこのお方を間近で見、間近で聞き、教えを受けた弟子たちによってイエス・キリストが正しく紹介され(ヨハ15:26)、神のいのちを受けて一変した弟子たちを通して、神の愛が実践され、そして証明された(Tヨハ4:12)◆それは今に至るまで教会に受け継がれ、世に証され続けている。人が聖書の中にこの愛を知り学び体験するとき、悔い改めへと導かれ、新生させられるのである(Uコリ5:7)。

■ 2013/02/10 (日)
 [題]
「神の愛− 神の愛を聖書から学ぶ 」
 [みことば]
『わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。』 (マタイ11:29)
 [ショート・メッセージ]
◆神の愛を定義付けてくださいと全員に聞くと様々な答えが返ってきた。赦しです、救いです、贖いです、寛容です、慰めです、十字架です、癒しです、忍耐です、恵みです、祝福です…。中には、聖霊降臨ですと言う答えもあった。なるほど何でも神の愛と結びつけることは可能だ。しかしその答えのほとんどが主観的な見方からのもので、聖書を通して神ご自身が啓示しておられる定義、すなわち神のご性質に関する答えはなかった。そこで「ご性質」という観点から神の愛を考えた◆神のご性質、と言うとすぐに「愛」を思い浮かべるのではないだろうか。しかし神の本質的なご性質はむしろ「聖」(分離)であり、神のすべてのご性質はこの「聖」に基づいているのである。『主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。』(レビ19:2) 『神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。』(Tテサ4:3)◆聖とは罪・汚れとのかかわりが一切ないことを言う。この「聖」ゆえに神は「義」であられ、これに基づいた罪人への対応が「愛」として現われていると言える。すなわちサタンによって罪に堕ちた人間を、サタンの支配下から引き離す(聖)ために、御父は罪を持たないキリストにからだを与え(ヘブ10:5)、キリストのからだによる贖いを計画され、導き(義)、悔い改めた者の上に救いを成就しておられるのである(愛)◆神の愛には欲情なく打算なく偽りがない。人間の肉の思いから生じる「愛情」とは全く異なるもの。ゆえに、神の愛は神から学ぶまで知ることはできないのだ。

■ 2013/02/02 (土)
 [題]
「創世記1-3章− 原福音 」
 [みことば]
『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。』 (創世記3:15)
 [ショート・メッセージ]
◆神のことばを退けてサタンのことばに従ったアダムの上に神の約束は成就し、霊(神のかたち)は損なわれ、神の代理人としてのすべてのものの支配権(創1:26-28)は失われ、その支配権はサタンに渡った。サタンが荒野でイエスに次のように囁いている。『…国々のいっさいの権力と栄光…は私に任されている』(ルカ4:6)◆エバの過ちとアダムの違反によって全ての人は罪に定められることとなり(ロマ5:18)、罪によって全人類に死が広がり(同12)、狡猾なサタンの完全な勝利と思われたが、神はすぐに「恵みの契約」を明らかにされた。創世記3:15に記された原福音がそれだ(前掲のみことば)。◆この中から2つの言葉に注目しよう。「女の子孫」と「敵意を置く」である。この「子孫」は男性名詞・単数形であり、創世記22:18の『(アブラハムの)子孫』に受け継がれ、イザヤ9:6の『ひとりの男の子』の誕生へと発展し、具体的にはメシヤ(救い主・キリスト)を指していることが判る。愛なる神はアダムが違反を犯してすぐに、永遠の救いのご計画を明らかにしてくださったのだ。また「敵意」とはサタンに対する敵意であり、永遠のいのちを指している。イエスが言っておられる。『わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。』(同12:50) 『わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち…死からいのちに移っているのです。』(ヨハ5:24) ひとりでも多くの方に、この神のご計画を知らせなければならない。

■ 2013/01/27 (日)
 [題]
「創世記1-3章− 神のかたち 」
 [みことば]
『そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。』 (創世記1:26)
 [ショート・メッセージ]
◆神が天地創造の最後に造られたのは人間であった(創1:26-28)。それまでに神は人間以外のすべてのものを完璧に創造され準備万端整った上で、天地創造の理由であり目的であった人間を最後に創造されたのである。『そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。』(同31) 万象が完成されたので神は第7日目に創造のわざの完成を告げ、すべてのわざを休まれた(2:2)◆ところで神は人間にだけ『ご自身のかたち』(1:27)を特別に与えておられる。これは「霊」のことであり、全被造物の中で人間だけが霊的な存在として造られ、「霊であられる神」(ヨハ4:24)との交わりを可能とされ、神に代わって『すべてのもの』を支配させる使命が与えられたのである(1:27)◆しかし、サタンの誘惑に負けたエバと、そのエバによって神との契約を破ったアダムにより(3:6)、『それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ』と示されていた不服従による罰則が成就して、人間の代表である彼らの霊は損なわれ、霊的に死んでしまったのだ(ロマ5:12)。しかし神は、すぐに恵みの契約を明らかにしてくださった。『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。』(3:15)

■ 2013/01/20 (日)
 [題]
「創世記1-3章− 創造主なる神の存在を否定することは難しい 」
 [みことば]
『初めに、神が天と地を創造した。』 (創世記1:1)
 [ショート・メッセージ]
◆「初めに」(創1:1)は、すべての被造物(全宇宙)が創造主なる神によって誕生した決定的なスタートラインを指す言葉らしい。私たちが若く健康で病気知らずの頃は自分が被造物であるとの認識はなかったが、身体に小さな変化が生じてさえ異常を感知できるのは、私たちの身体が神によって完璧に造られている確かな証拠である。自分の身体の不思議だけではない。自然界に存在する植物や昆虫、爬虫類・両生類・魚類・鳥類・哺乳類、また宇宙に存在する太陽・月・星を見ても、その中にある秩序や調和に創造主なる神の存在を認めざるを得ない。秩序は偶然の世界には見られないからだ◆ところでこの聖書は実に不思議な書物である。地球を宇宙から見なければ決して表現できない言葉がところどころにあるのからだ。紀元前2千年のアブラハムと同時代に生きていたヨブを通して語られた言葉がある。『神は北を虚空に張り』(26:7)の「張り」(ヘ/ナーター)には、「傾ける」(創24:14)の意味がある。地球の地軸が傾いていることを指している。この傾きを一定にするために神は地球の周りを回る月を置かれた。また同じ聖書個所に『地を何もない上に掛けられる』という記述もある。地球が宇宙空間に浮いているというのだ。この描写は神によってしか明らかにされることはないだろう。神の存在を否定することの方が実は難しい。科学者たちが力を注いで熱心に追及しているのは、神の存在の裏付けであると言うことができる。

■ 2013/01/13 (日)
 [題]
「新年交わり会− キリストのからだなる集会の土台を固める 」
 [みことば]
『あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。』 (エペソ2:20)
 [ショート・メッセージ]
◆『使徒と預言者』(エペ2:20)を土台として建てられる『あなたがた』とは、キリストのからだなる集会(教会)のこと。「使徒」と「新約の預言者たち」を通して、「御子」にあって明らかにされた「真理/奥義」(ロマ16:25)を土台として集会は建て上げられなければならないのであって、「偽りの教え」(マタ16:12)や「自己解釈」(Uペテ1:20)がその土台に混ざり込んではならないのだ◆「使徒と預言者」は、「健全なことば」「健全な教え」(Uテモ1:13、テト1:9,2:1)とも表現されており、正統的な教理のことであるが、これはイエス様が弟子たちに明らかにされた『岩』(マタ16:18)のことである。イエス様は「この岩の上にわたしの教会を建てます」、と御国の誕生とその成長を明らかにしておられた◆真の悔い改めと受肉された救い主イエスを信じる信仰によって新生の恵みに与った兄弟たちによって、その真理の土台が固められ続けなければならない(Uテモ2:15)。その使命は兄弟たちに託されているのだから、聞いたメッセージを鵜呑みにすることなく、はたしてその通りであるかどうかと聖書を丹念に調べる姿勢が肝要である(使17:11)◆真理の土台を固める教理の使命は姉妹たちには託されておらず(Tテモ2:9-15)、他の大切な使命が託されている。『善い行ない』(同10)、『信仰と愛と聖さとを保つ』(同15)、『柔和で穏やかな霊という…心の中の隠れた人がら』(Tペテ3:3-4)と表現されており、「もてなし」「振る舞い」「養育」などの集会を飾る大切な仕える使命である。

■ 2013/01/06 (日)
 [題]
「年末感謝会− 主が望んでおられる集会の組織化とは 」
 [みことば]
『神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。』 (マルコ4:26-28)
 [ショート・メッセージ]
◆2012年に主が導いてくださったのは、「集会の組織化」について聖書から学ぶことであった。学んだことの第1は、形を作って人を埋めていくこの世の方法ではなく、「キリストによって成長して愛のうちに建てられていく神の方法」(エペ4:16)であった。すなわち外側からではなく内側から形づくられていくものであり、それはちょうど単純な一個の細胞から複雑な個体が形成されていくようなもの(発生)であるということだ。上記のみことばにあるように「人手によらず」、主の手によるということである◆この主による集会の組織化が進められるために必要な条件が3つあるようだ。@各自が神のいのちに与っていること(ヨハ3:5)、A各自が主とのくびきを負い(マタ16:24)神の国とその義を最優先していること(マタ6:33)、Bみことばを自己解釈せず(Uペテ1:20-21)みことばの奥義を絶えず学び続けていることだ(詩119:130)◆みことばの奥義こそが集会の土台であることを強く認識していなければならない(エペ2:20)。このことはピリポ・カイザリヤ地方でイエス様が弟子たちに明らかにしておられたことである(マタ16:16-18)。そのために集会の兄弟たちは、『熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励』まなければならない(Uテモ2:15)◆先輩から聞いたことを鵜呑みにせず、『はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べ』る姿勢が肝要である(使17:11)。

■ 2012/12/30 (日)
 [題]
「ヨセフとマリヤ− すべての点で兄弟たちと同じようになられた主 」
 [みことば]
『…主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。』 (ヘブル2:17)
 [ショート・メッセージ]
◆イスラエルの民が古(いにしえ)の昔から待ち続けていた「約束のメシヤ」が世に現われようとしていた時、神が自分たちを用いてくださることを知ったマリヤ(ルカ1:31)もヨセフ(マタ1:20)も、喜びと使命感に満ちていたが、それは同時に、身内・友人・同郷の者たちから、婚礼を挙げる前に子を宿していたという理解を超えた事実への不信の眼差しを受け、あれこれと悪口雑言を言われること(マタ5:11)をも覚悟しなければならないことであった◆そんな中ふたりは、ローマ皇帝アウグストから出た勅令に従って住民登録をするために先祖の町ベツレヘムに行くことになったが、臨月を迎えていたマリヤが好奇の目にさらされる宿屋ではなく、まわりにだれもいない家畜小屋を身を休める部屋として導かれたことは主のあわれみであった◆家畜小屋での出産後8日目に、ヨセフは幼子に割礼を施し「イエス」と命名した(ルカ2:21)。御使いから命じられていた名前であった。その後モーセの律法に基づいてきよめの期間(男子の場合さらに33日間/レビ12:3-4)が満ちた時、ふたりは幼子を主にささげるためにエルサレムに連れて行った(同22)。幼子はふたりを通して守られ、「律法に下にある者」とされてモーセの律法を遵守した(ガラ4:4)。このことによって「主はすべての点で兄弟たちと同じように」なり、「罪のためのなだめがなされる」ひとつひとつの準備が完璧に進められていったのであった(ヘブ2:17)。主の良くしてくださったことに目をみはるばかりである(詩103:2)。

■ 2012/12/23 (日)
 [題]
「ヨセフとマリヤ− ご介入なさる神 」
 [みことば]
『私のたましいは、ちりに打ち伏しています。あなたのみことばのとおりに私を生かしてください。』 (詩篇119:25)
 [ショート・メッセージ]
◆人となられた神イエスは処女の胎内に宿られたが(ルカ1:27,31)、そのことは紀元前8世紀に預言されていた。『主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。』(イザ7:14) この神の約束がナザレのマリヤの上に成就するために、神は御使いを遣わしてマリヤに介入された◆さらに幼な子イエスを養育する父親としての働きに与らせるために、マリヤと婚約していた夫ヨセフに神は介入された。御使いが夢でヨセフに現われ神の救いのご計画を明らかにされ、使命がヨセフに与えられたのだ。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。』(マタ1:20)◆さらに、「幼な子が成長し、強くなり、知恵に満ちて行く」までの間(ルカ2:40)、ヨセフの力強い守りが必要であった。狡猾な悪魔のしわざがあったからだ。そのため繰り返し夢でヨセフに介入された。『エジプトへ逃げなさい。』(13)、『イスラエルの地に行きなさい。』(同20)◆さて教会時代の中にある私たちに対してはどうだろうか。神はサタンの支配下にある罪人を、『サタンの支配から神に立ち返らせる』(使26:18)ために、みことばで聖徒に介入なさり、導き用いておられるのだ。『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』(詩119:105)◆「神が御子においてあらかじめお立てになったご計画」(エペ1:9)が進められ携挙の時を迎えるために(Uペテ3:12)、みことばに聞き従がおうではないか。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。』(イザ6:8)

■ 2012/12/16 (日)
 [題]
「ヨセフとマリヤ− 確信を得てから行動したヨセフ 」
 [みことば]
『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』 (詩篇37:5)
 [ショート・メッセージ]
◆マリヤの妊娠について理解できずに悩み続けたヨセフであった。彼は愛するマリヤが不貞を働くことは決してないと信じてはいたが、マリヤから聞いた「聖霊による妊娠」(マタ1:18)という説明だけはどうしても理解できなかった。だから、待った。確信を得るまで待った。軽々しい行動は取らず、悩みながら待ち続けた。しかし限界が来た。彼はマリヤを思い、「内密に離縁するしかない」という自分なりの結論に達して床に就いた(同19)◆その夜のこと、神が御使いを遣わし夢の中で彼に対し直接介入されたのだ(20)。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。』 ヨセフの苦悩は終わった。彼は神による導きを感謝とともに受け入れ、確信を持ってマリヤを妻として迎えた。『もしおそくなっても、それ(神の時)を待て。それは必ず来る。遅れることはない。』(ハバ2:3) 『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』(伝3:11)◆私たち神のしもべが失敗するとき、それは神の時を待たずに自分の判断で行動してしまうときではないだろうか。「主とくびきを負う」ことの中には、神の時を待つことも含まれるのだ。ヨセフはそれからあとも、神の時を確信して行動をとったことが、『そこで』ということばとともに記録されている(同2:14,21,23)。私たちもまた、確信を得てから行動できるように、一日24時間、主を思って生きようではないか。

■ 12/12/09 (日)
 [題]
「ヨセフとマリヤ− おことばどおりこの身に 」
 [みことば]
『わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。』 (ヨハネ12:26)
 [ショート・メッセージ]
◆マリヤ(ミリヤムの名に由来)はヨセフ(「加える」の意)と婚約していた。ユダヤ人の婚約期間は1年であり、婚約時に籍を同じくするため二人は公には夫婦であったが、婚約期間は別居して互いのからだの純潔を守る中で、新しい家庭と育児のための準備期間としなければならなかった。好きであれば式を挙げなくても同居してもいいではないかという昨今の自己中心的結婚観とはかなり異なっていた◆その婚約期間中のマリヤに御使いが現われ受胎が告知された(ルカ1:31)。処女の状態で妊娠すると言うのである。マリヤは理解に苦しんだが、神の力による妊娠であり、不妊の親戚エリサベツの妊娠が明かされ『神にとって不可能なことは一つもありません』(同37)との御使いのことばを通してマリヤに信仰が与えられ、献身の決断が導かれた。『あなたのおことばどおりこの身になりますように』(38)。このとき、イザヤを通して明かされていた『見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける』(7:14)の預言のことばが成就されたのであった◆信仰は自分から出るものではなく、みことばを通して上から与えられるものであり(エペ2:8、ロマ10:17)、献身の決断もまた人間的に促されるものではなく主から導かれるものである(使9:8-9)。神は私たちクリスチャンを更なる真理へと導いて信仰を成長させ(詩119:130)、更なる献身へと導いてくださるお方なのだ(ヨハ12:26)。

■ 2012/12/02 (日)
 [題]
「十字架上の7つのことば− 父よ。わが霊を御手にゆだねます 」
 [みことば]
『イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。』 (ルカ23:46)
 [ショート・メッセージ]
◆十字架上で語られたイエス様の最期のことばは、『父よ。わが霊を御手にゆだねます』(ルカ23:46)であった。父の御前に有罪とされ太陽が光を失った3時間イエス様は地獄(神との断絶)を体験され、「父よ」と呼びかけることができなかったが、罪に対する神のさばきが完了したことを知られたイエス様は、再び「父よ」と呼びかけられた◆「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」私たちの模範者であられるイエス様の足跡を辿って、私たちもまたいずれ天に帰る時が来る。その時、義と認められ(無罪とされ)た私たちも「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言うことが許されているのだ。かつてソロモンは『ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る』(伝12:7)と書き記した。もしも私たちが聖書に出会っていなかったなら、自分の罪を認めることを拒んでいたなら、受肉された神なるイエス様を信じることができなかったなら、イエス様の死と復活によって永遠に罪が赦されていることを信じることができなかったなら、私たちは神に帰ることを恐れ、自ら永遠の滅び(地獄)に逃げ込まなければならなかった◆今死ななければならないとしたらあなたには天に帰る喜びと確信があるか。「神を愛する愛には刑罰に対する恐れはない。今なお死後の刑罰を恐れているなら、神に対するあなたの愛は全きものではない」(Tヨハ4:18)と記されてある。いろいろな角度から自分の信仰を吟味しなければならない(Uコリ13:5)。

■ 2012/11/25 (日)
 [題]
「十字架上の7つのことば− 完了した 」
 [みことば]
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』 (マタイ11:28)
 [ショート・メッセージ]
◆今回は第6番目のことば『完了した』に目を留めたい。何が完了したのか。それは何よりも御父の贖いのご計画であり、具体的には詩篇69:12の預言のことばであり、結果として全人類が支払うべき罪の代価の返済が完全に終了したのである。口語訳では「すべてが終った」である◆御父が御子を世に遣わされたのは、『神が御子においてあらかじめお立てになった(贖いの)ご計画』を完全に成し遂げるためであった(エペ1:9)。神の愛の対象として創造されながらサタンの支配下に堕ちた人類を本来あるべき立場に引き上げてくださるご計画が成就したのである(ヨハ3:16)。イエス様が昇天される直前に弟子たちに教えられたように、罪人が救われるためには、『わたし(イエス)についてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就』(ルカ24:44)しなければならなかったのだ◆具体的には3時間にも及ぶ御父との断絶による霊的な渇き『わたしは渇く』の中で酸いぶどう酒を受けられるという預言『彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました』(詩69:21)が成就したのである。このことによって罪が支払うべき『死』(ロマ6:23)が、『傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血(いのち)』(Tペテ1:19)によって完全に成就し、罪を認めて悔い改め救いを切望するすべての者の上に、『永遠のいのち』が備えられたのであった(ロマ6:23)。罪の性質によって疲れているすべての者よ、イエス様のもとに急げ。

■ 2012/11/18 (日)
 [題]
「十字架上の7つのことば− わたしは渇く 」
 [みことば]
『肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。』 (ローマ8:3)
 [ショート・メッセージ]
◆十字架上の7つのことばは、時間的に3つに大別できる。前半3つ(有罪と宣告される前)と中1つ(有罪と宣告された時)と後半3つ(処刑される死の直前)である。前半3つのことばは@とりなしA予告B勧めのことばであり、中1つのことばはC断末魔の叫びであり、後半3つのことばはD懇願E勝利宣言F刑に服することばである◆ところでDの『わたしは渇く』(ヨハ19:28)は、「すべてのことが完了したのを知って」と前置きされているので、肉体的身体的な渇きのことではないことが判る。御父との3時間にも及ぶ断絶による苦悩のゆえに、父との交わりを切実に求めての渇きであり(詩42:2)、同時に、罪から来る報酬である死の実現を切実に願う渇きである。『さあ、わたしは来ました。…神よ、あなたのみこころを行なうために』(ヘブ10:7)。『わたしが天から下って来たのは、…わたしを遣わした方のみこころを行なうためです』(ヨハ6:38)。『…このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです』(同12:27)◆罪人を罪から贖い、サタンの支配下から神の尊いご支配の中へと救出する方法は、「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの身代わりの死」(Tペテ1:18-19)による贖罪以外にはどこにもない(ロマ8:3)。アダムとエバの一度の失敗により全人類に広がった「罪と死の原理」(ロマ5:12、8:2)はキリストの死と復活によって無力となり、罪を認めて悔い改め御子による贖いを信じる者を、「いのちの御霊の原理」に与らせてくださったのである。あなたはこれを日々自覚しているだろうか。

■ 2012/11/11 (日)
 [題]
「十字架上の7つのことば− 父のみこころを成し遂げられたイエス 」
 [みことば]
『わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。』 (ヨハネ6:38)
 [ショート・メッセージ]
◆十字架上でイエスが語られた7つのことばとは、@ルカ23:34『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです』、Aルカ23:43『あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます』、Bヨハ19:26『女の方。そこに、あなたの息子がいます』、Cマタ27:46『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』、Dヨハ19:28『わたしは渇く』、E同30節『完了した』、Fルカ23:46『父よ。わが霊を御手にゆだねます』、の7つである。◆さて、ユダヤ人が過越しのいけにえをささげる日の朝9時にイエスは十字架につけられ(マコ15:25/@ABのことば)、昼12時に太陽は光を失い暗くなり亡くなるまで続き(マタ27:45)、夕方3時にイエスは息を引き取られた(マタ27:46-50/CDEのことば)。その後墓に葬られ、その3日後によみがえられ、その40日後に昇天され父の右の座に着座されたのである(ヘブ1:3)。すべて御父のご計画に基づいて歩まれ(ヨハ6:38)、ご自分に与えられた使命を完全に成し遂げられた(『完了した』)◆ところで昼12時に全地が暗くなったが、これはイエスが全人類の罪を負って神の御前に有罪とされた事実を表わす。それから息を引き取られるまでの3時間、罪人の代表として神の審判を受け、御父との交わりが完全に断たれたのであった。その『激しい苦しみ』(イザ53:11)の中からイエスは断末魔の叫び声を上げられた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』である。そして夕方3時に息を引き取られたが、それはちょうど過越しのいけにえをほふる時間であった(出12:6)。

■ 12/11/04 (日)
 [題]
「伝道者の書− 真理はあなたがたを自由にする 」
 [みことば]
『そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』 (ヨハネ8:32)
 [ショート・メッセージ]
◆伝道者の書4章1節でソロモンは、『見よ、しいたげられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。しいたげる者が権力をふるう。しかし彼らには慰める者がいない』と語った。言い換えると「慰めてくださる神を知らない」ということだ。人の世は何と生きづらいものか。互いの価値観を持って意見をぶつけ合うことに問題はないが、エスカレートしてケンカとなり、争いへと発展し、意地の張り合いから戦争となり、殺戮の応酬となったら大問題だ。その争いに巻き込まれる老人や婦女子など、虐げられている弱者がもしも「慰めてくださる神を知らない」としたら、どんなに悲惨なことか◆私たちは時に苦悩の中にいる人々を慰めようとするが、中途半端で終わることが多い。人間の思いやりや優しさには限界があるからだ。もちろん『ふたりはひとりよりもまさっている』のは確かだが(同9)、ソロモンは言う。『三つ撚りの糸は簡単には切れない』(12)、神が加わることだ。神を知り、人生の中に入っていただくことだ。真の慰めは神から来る。『神は、どのような苦しみのときにも私たちを慰めてくださいます。』(Uコリ1:4)◆神は「真理」によって私たちを慰めてくださる。真理を知らされた時、人は休息を得、解決を味わい、癒され、思い煩いから解き放たれる。だからこそ『主を知ることを切に追い求め』続けなければならない(ホセア6:3)。全宇宙を創造された神を無視してはならない。このお方を知り、このお方を恐れて、御声である聖書を学び続けなければならない(伝12:13)。

■ 2012/10/28 (日)
 [題]
「伝道者の書− みことばの戸が開く 」
 [みことば]
『みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。』 (詩篇119:130)
 [ショート・メッセージ]
◆最初に詩篇119:130に注目しよう。「わきまえのない者」とは、自分の欲が叶えられることを優先し、何でも自分の都合のいいように解釈し、神の命令に従おうとせず、気ままに生きようとする者のこと。それでも、その者の前にみことばの戸が開くと悟りが与えられるというのだ。それは、みことばに隠されてある奥義が説き明かされることによって、神の御人格に触れることができるからだ◆ギブオン(U歴1:3)で神に知恵を求め、それを得たソロモンであったが、神の知恵によってどんなに熱心に活動しても最終的には不完全燃焼に陥ってしまった(伝2:11)。死という現実を前に絶望しかなかったからだ(同15)。しかし彼は絶望しようとも、神への信仰を捨てなかった。中東和平を熱望するあまり大きな過ちを犯してしまった彼ではあったが(T列11章)、「神から離れたら人生を楽しむことはできない」と明言した(伝2:25)◆彼は聴衆に向かって語っている。「神が行なわれるみわざを初めから終わりまで見きわめることは不可能だが、神のなさることはすべて時にかなって美しい」(伝3:11)。だから思い煩いをゆだねて、神が明らかにしてくださる時を待ち続けようではないかと。ソロモンは聖徒の祈りの言葉、「神は私のたましいをよみの手から買い戻される」(詩49:15)を通して、死後に何らかの解決があるに違いないと思ったことだろう。だからこそ彼は、最後に次のように記した。「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(伝12:13)と。

■ 2012/10/21 (日)
 [題]
「伝道者の書− 風を追うようなもの 」
 [みことば]
『ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。』 (Tコリント15:58)
 [ショート・メッセージ]
◆ソロモンは王としての統治を始めるにあたり、ギブオンの高き所で主を礼拝した。そこにモーセが造った神の幕屋があったからだ(U歴1:3)。千頭の全焼のいけにえをささげて主を礼拝したその夜、夢のうちに神が現われソロモンに知恵と知識を賜った(同6-13)。知恵に満ちたソロモンは集会を召集し伝道者として民衆に語った。「伝道者の書」という本書の名前の由来である◆彼は知恵によって正しく国民を裁き、神殿を建て、王としての働きに従事したが、仕事が成功するたびに彼は違和感を覚えた。この書の中に8回も繰り返されている彼の言葉がある。「風を追うようなものだ」(1:14、17、2:11、17、26、4:4、16、6:9)。目標に到達した瞬間、燃え尽き症候群のような虚無感に襲われた。『日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。』(1:2) 『私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんとすべてがむなしいことよ。』(2:11)◆彼は一つの事実に心を奪われ徒労感にさいなまれた。『私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。』(同15) 同じ結末とは死である。すべてが死に向かい、死によって何もかもが終わるとしたら、これこそ「絶望」だと彼は思ったのだ(1:20)◆しかし新約時代に生きる私たちは知っている。死で終わることのない永遠の約束がイエスによって成就していることを。『わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』(ヨハ11:25) 死は勝利に飲まれているのだ(Tコリ15:54)。

■ 2012/10/14 (日)
 [題]
「伝道者の書− 神のなさることは時にかなって美しい 」
 [みことば]
『なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。』 (コロサイ1:19-20)
 [ショート・メッセージ]
◆伝道者の書の著者が叫ぶ。『空の空。すべては空』。自然界に目を向けたが、ただ同じことが永遠と繰り返されているだけだ。見極めようとしたが、『日の下には新しいものは一つもない』(9)。ならばと世にあるすべての知恵を結集して一心に尋ね求め、探り出そうと労苦したが(伝1:13)、何の結果も得られず、益もなかった。風を追うようなものだ(14)。人の世の狂ったうねりを正そうとしたがまっすぐには出来ず、理想の社会を生み出そうとしたが不可能だった(15)。それでも向きになって知恵と知識を掻き集めたが、悩みや悲しみが増すだけだ(18)、と著者は嘆いた◆この書の著者はダビデ王の子ソロモンと思われる(1,12)。平和を意味するソロモンという名が独り歩きしたのか、彼は中東和平に執着し、近隣諸国から多くの女を迎えた。政略結婚という世の知恵を安易に用いた結果(T列11:3)、彼は神のみこころを踏みにじったのであった(9-12)。知恵と知識に溺れたソロモンは、まさに『空の空』を味わったのである。彼が記した『神のなさることは、すべて時にかなって美しい』(3:11)のことば通り、神の時の成就をひたすら待ち続ける謙遜さが彼には必要であった◆それから千年の年月が流れ、ついに罪によって曲がった世が、神によってまっすぐにされる時が来た。その時イエスは宣言された。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい』(マコ1:15)。中東和平ではなく、神との和平こそが、神の立てておられたご計画であったのだ(ロマ5:11)。

■ 2012/10/07 (日)
 [題]
「質疑応答− キリストが律法を終わらせられたの意味 」
 [みことば]
『…彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。』 (ロマ10:3-4)
 [ショート・メッセージ]
◆Q:『キリストが律法を終わらせられた』(ロマ10:4)の意味を教えてください。A:旧約の律法時代が終わり新約時代となった今は恵みの時・救いの日なのだから(Uコリ6:2)、律法を守る必要はないという律法不要論を教えているのではない。さらに、クリスチャンは何をしても赦されるのだから、自分の思い通りに行動してもかまわないという放縦を認めるものでもない。「罪とは律法に逆らうこと」なのだから(Tヨハ3:4)、律法に逆らうならクリスチャンでも断罪されるのだ(Uコリ5:10)。公然と律法に違反する自称クリスチャンが初代教会の中にすでに現われていたようだ(Tコリ5:1-2、Uテサ3:11-15、使20:30)。そのため聖霊はパウロを通して厳しく警告された(Tコリ6:9)。ところで旧約聖書の律法は宗教にあるしきたりではない。神が命じるいのちの道である(ヨハ15:14)。良きサマリヤ人のたとえ話でイエス様が言われた。「それを実行しなさい。そうすればいのちを得ます…あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:27,37) 3つに大別できる律法(道徳律法・祭儀律法・司法律法)のうち十戒は道徳律法の基本で、「キリストの律法」(ガラ6:2)、「完全な律法」「自由の律法」(ヤコ1:25)とも呼ばれ、『愛』(ロマ13:10)が自己流にならないためのクリスチャンが守るべき行動指針である。ところで『キリストが律法を終わらせられた』のもう一つの意味は、天から来られたキリストの贖いの死(ロマ8:3)により、御父の目標であった「信仰による義」が成し遂げられたことである(マタイ5:17、ロマ6:23)。

■ 2012/09/30 (日)
 [題]
「異邦人− 福音の真理と異邦人 」
 [みことば]
『人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。』 (ガラテヤ2:16)
 [ショート・メッセージ]
◆『律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫(メシヤ)が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもの(なのです)』と、パウロは聖霊に導かれて、律法の目的が明確にしたのであった(ガラ3:19)。神が望んでおられることは第1に、律法に自分を映して違反を認め、自分の中にある罪と、罪悪を犯してきた半生を心から反省することである。生まれつきの、霊的に死んだままの状態で、律法を全うしようと力(リキ)むことではない◆神が望まれる第2は、自浄不可である私たち罪人の身代わりとして(ロマ8:3)、罪のさばきを受けるために天より来られたメシヤ(ヘブ10:5-7)に向きを変え、救われて新しいいのちを得ることである(ヨハ5:24)。そのためにこそ、人となられた神なるメシヤが身代わりに死なれたのだから(ピリ2:6-8)◆この神のみこころを踏みにじったのがユダヤ人クリスチャンであった。彼らは、異邦人クリスチャンに割礼という儀式律法を要求し、ユダヤ人として生きなければ真に救われないと、おどしたのであった(使15:1)。この儀式律法の強制こそが律法主義の教えである。パウロは福音の真理から異邦人を引きずり出そうとする者たちにに激しく抗議し、行ないによる義認は存在しないことを明らかにした。ユダヤ人であろうと異邦人であろうとすべての人は、メシヤによる贖いのゆえに価なしに義と認められるのである◆ただし、新生した者には義の行ないが準備されていることを忘れてはならない(ヤコ2:14-26)。

■ 2012/09/23 (日)
 [題]
「異邦人− 純粋に神の約束を信じて救いに与った異邦人 」
 [みことば]
『…義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。…』 (ロマ9:30-32)
 [ショート・メッセージ]
◆上記のみことばの内容を、イエス様はすでにたとえで教えておられた。今回はそのたとえの個所から。マタイ20:1-16、ぶどう園の主人は1日1デナリの約束で労務者たちを雇った(2)。朝9時と昼12時と夕方3時と、さらに5時の4回に分けて集めた。1日の最後に雇われて少ししか働いていない「最後に来た者たち(あとの者)」(8)に1デナリが支給されるのを見た「最初に来た者たち(先の者)」(8)は、自分たちは彼らの何倍も働いたのだからもっと多くもらえると期待したが、賃金は同じ1デナリであった(10)◆これでは不公平だ、と先の者たちは文句を言ったが(10)、主人は答えた。「1日1デナリの約束だったのだから、自分の分を受け取りなさい。」(14) 先の者たちが、あとの者たちをねたんで腹を立て主人と喜びを共有できなかったのは、『信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたから』である◆『天の御国(教会)』(1)の交わりに加えられたユダヤ人クリスチャンたちも律法主義を引きずっては、異邦人クリスチャンたちに儀式律法を守るようにと要求し、教会を混乱させていた(ガラ5:1-10)。律法を知らなかった異邦人は、純粋に神の約束を信じて救いに与り、豊かな恵みを受け味わうことができた。神の恵みは信仰によってしか受け取ることができないのだ◆しかし義と認められた者には、新しく「完全な律法」を実行しながら聖められることが命じられていることを忘れてはならない(ヤコ1:25)。

■ 2012/09/16 (日)
 [題]
「異邦人− 異邦人に神の祝福を注ぐ管 」
 [みことば]
『あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』 (創世記22:18)
 [ショート・メッセージ]
◆サタンによって罪に汚染され霊的いのちを失った人類を贖うご計画を、神は明らかにされて言われた。『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。』(創3:15) この「敵意」こそ、永遠のいのちであり、罪とその所有者であるサタンに背を向ける新しい性質のことだ。そして、それを齎(もたら)す者が女の子孫(男性名詞・単数形)、すなわちメシヤである◆この子孫を地上に送り出す管として、神はイスラエル民族を選び導かれた。その初めがアブラハムである。神はアブラハムの信仰を試され、ユーフラテス川下流のウルから上流のカランへ引き出され(創11:27-32)、さらにそこからカナンの地へと導かれたのであった(同12:1-5)。この間アブラハムに要求されたのは信仰のみであったが(ヘブ11:8)、カナンに移ってから約60年が過ぎた時、神はアブラハムに人生最大の試練を与えられた。イサクを燔祭としてささげよとのご命令である◆彼は神に一切をお任せし、命じられた山で愛するひとり子イサクをほふろうとしたまさにその寸前に、神はアブラハムを制止された。『あなたの手をその子に下してはならない。…今わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。』(創22:12) 「神を恐れる信仰」、これをアブラハムの行動の中に確認された神は、メシヤ(女の子孫)を送り出して全人類に神の祝福を注ぐという約束を、ついに彼に渡されたのである(同17-18)◆信仰は行ないによって全うされた(ヤコ2:22)。

■ 2012/09/09 (日)
 [題]
「異邦人− 真の悔い改めが求められている 」
 [みことば]
『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。』 (マタイ18:3)
 [ショート・メッセージ]
◆エペソ人への手紙2章から考える。パウロはエペソ人クリスチャンに、『あなたがた(異邦人クリスチャン)は自分の罪過と罪との中に死んでいた者』であったが(1)、同じように『私たち(ユダヤ人クリスチャン)もみな、かつては不従順の子らの中にあって』、生まれながら神の御怒りを受けるべき罪人であった(3)、と書き送った。『戒めの律法』(15)を持っていようが持っていまいが、『あわれみ豊かな神…の大きな愛』(4)に導かれて、『キリストともに生かし』(5)ていただかなければ、みな等しく滅びゆくたましいでしかなかったことを明らかにしたのだ◆ところで4節に『あわれみ』とあるが、放蕩息子が帰って来た時の父のあわれみは、いったい彼の何に対して現われたのか。それは、彼の『砕かれた、悔いた心』(詩51:17)に対してではなかったのか。父と神の前に罪を認め、自分の人生を狂わせていた罪を憎み、父と神の御前に悔い改める切実な思いが伴っていなかったなら、父のあわれみを受けることはできなかったであろう(ルカ18:13-14)◆ユダヤ人が『われわれの先祖はアブラハムだ』(マタ3:9)、と選民であることを訴えても、それがあわれみを受ける条件ではなかった。同じように私たちも、イエスの十字架による赦しへの信仰を訴えても、砕かれた悔いた心による真の悔い改めが伴っていなかったのなら、救いの確信も平安もどこにも見出させないのだ。

■ 2012/09/02 (日)
 [題]
「再臨− 地上再臨の前兆 」
 [みことば]
『イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」』 (マタイ24:3)
 [ショート・メッセージ]
◆弟子たちがイエス様に聞いた「あなたの来られる時や世の終わりにはどんな前兆が」、に対する答えには二千年間続いている教会時代は入っていない。なぜなら、イエス様が語られた時点では「教会時代は隠された奥義」であったからだ。それゆえ、4節から始まる「再臨」(27、30、31、36、37-51)についての教えは携挙ではなく、地上再臨(ゼカ14:3-4)についてである◆となると、5、11、24節の「にせキリスト・にせ預言者の登場」は患難時代に頻繁に見られる現象であろう。もちろん教会時代にも起きている「戦争や内戦、ききんや地震」(6-7)なども来るべき時の予兆と言える。15節の内容は患難時代に信仰を持つ者たちへの大虐殺(黙13:14-)が始まる引き金となる特徴的な出来事だ(ダニ9:27)。『死体のある所には、はげたかが集まります』(28)とは、黙示録19:17-21の預言内容のことであり、ハルマゲドンの戦い(黙16:16)を意味するものと思われる◆再臨されるイエス様を見る人々が十字架で死なれた方がメシヤであった事実を確認して、深い嘆きと悲しみの中で真の悔い改めへと導かれる者たちのことだろう(ゼカ12:9-14)◆今なお福音を無視している多くの方々が、患難時代の中にあって真の悔い改めへと導かれるように、諦めることなくさらに福音宣教のわざに励もうではないか。

■ 2012/08/26 (日)
 [題]
「再臨− 大きな白い御座 」
 [みことば]
『立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。』 (黙示録20:12)
 [ショート・メッセージ]
◆キリストの再臨は2回に分けて行なわれ、1回目の空中再臨と2回目の地上再臨の地上での間隔はわずか7年。真のクリスチャンを迎えるための空中再臨(携挙)後すぐに7年間の患難時代が始まり、その前半はお祭りさわぎで後半はおどろおどろしい残虐で悲惨な状態。その患難時代を終わらせるためにキリストは、栄化され天に引き上げられ「キリストのさばきの座」(Uコリ5:10)で花嫁としての用意(黙19:7)を済ませた真のクリスチャンを伴って(同14)地上に再臨されるのである。それから千年間の、キリストによって正しく統治される千年王国がスタートする(20:4)。これが聖書に明らかにされた終末の神のご計画だ◆サタンの惑わしによって人類に入った罪が、徐々に除去されていく時代の流れが良く理解できて感謝だ。ちなみに千年王国とは、人類を惑わし続けてきたサタンが底知れぬ所に閉じ込められ人類を惑わすことのないようにされる時代のことだが(20:2-3)、千年王国が終了する時サタンは再び牢から解き放され(7)、栄化されないまま患難時代から移された人類を誘惑することが許可される(7-8)。そしてその後、サタン側に着いた者たちが一掃され(9-10)、さばきの座に出される(11-12)◆神は私たちのすべてを見ておられるお方である。主を畏れて、日々を生きよう。

■ 2012/08/19 (日)
 [題]
「再臨− 再臨のキリストを迎えるイスラエル人たち 」
 [みことば]
『天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。』 (マタイ25:1-2)
 [ショート・メッセージ]
◆「天の御国は」とありますが、御国は3段階に分かれて進められます。@キリストのからだなる教会→A千年王国→B永遠の御国です。今回の箇所でイエス様が教えられたのは地上再臨によって始まるA千年王国のことで、前24章で警告された患難時代に体験するユダヤ人への「ひどい苦難」(同21)を終わらせる形で地上再臨されるキリストをどう迎えるべきか、を教えておられます。患難時代が半分過ぎた時点で、反キリストが自分の像を造り、自分を神として礼拝させるために神殿に安置させてから(マタ24:15)、自分に従わない者への虐殺が繰り広げられます(黙13:14-15)。その極度の混乱状態の後半に「選民をも惑わそう」とする者が出現し(マタ24:24)、信仰が問われます◆その患難を終わらせるために「花婿」なるキリストが地上に来られるのですが(マタ25:1)、花嫁なる教会はその後ろに続きます(黙19:14、ゼカ14:5)。「出迎える10人の娘」(マタ25:1)とは患難をくぐり抜け生き残ったユダヤ人たちで、「5人は愚かで、5人は賢かった」(同2)とは、クリスチャンたちから聞いていた福音の受け止め方の違いを表わしています◆「婚礼の祝宴」(同10)とは千年王国の交わりのことで、「戸がしめられた」とは千年王国に入れなかったことを意味しています。マタイ7:21-23の警告内容と同じです。

■ 2012/08/12 (日)
 [題]
「再臨− 患難時代を終わらせる形で訪れる地上再臨 」
 [みことば]
『また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。』 (黙19:11)
 [ショート・メッセージ]
◆イエス様の地上でのご生涯とこれからの予告について聖書を調べ順番通りに並べると、初臨→公生涯→死→復活→昇天(着座)→再臨(空中携挙→地上再臨)→千年王国の主→さばきの座→永遠の御国の主、となります。ちなみに、旧約の預言者たちに隠されていた「奥義」(ロマ16:25-26)としての二千年間の「教会時代」は(エペ3:5-6)、昇天(イザ53:10-12、ヘブ1:3)と再臨(Tテサ4:16-17、Uテサ2:6-7)の間に地上に突如として登場し、明らかとなり、歴史に刻まれます。これは、異邦人への招きの二千年間です(ロマ11:25)。旧約の預言者たちにはこの教会時代の幻は隠されていました。すなわち、ダニエル書の9章26節と27節の間に、教会時代が隠されてあります。預言者ダニエルが幻の中で見たのは、メシヤの死(ダニ9:26)の次には最後の7年間の患難時代だったのです◆地上再臨は、この患難時代を終わらせる形で訪れるのです(黙19:11-16)。『主が出て来られる。決戦の日に戦うように…その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。…主は地のすべての王となられる。』とゼカリヤ書の14章3,4,9節に記されてありますが、預言者ゼカリヤもまたダニエルと同じように教会時代は見えないまま、地上再臨の「その日」を預言していることが判ります。

■ 2012/08/05 (日)
 [題]
「質疑応答− イエス様がご自分を神の子と認識された経緯について教えてください 」
 [みことば]
『どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。』 (ルカ2:49)
 [ショート・メッセージ]
◆Q:受肉されたイエス様がご自分のことを神の子と認識するに至った経緯を教えてください。A:この答えはルカの福音書2章にのみ記されてある。『幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。』(40) 私たちと同じように幼子イエスのからだは徐々に大きく強くなり、知恵もついていった。幼子の時点ではまだはっきりとご自分のことを認識することはできなかったであろう。なぜなら知能は言葉の習得とともに発達するからだ。聞いた言葉を習得し理解し、さらに実践することを通して知恵は満ちていく。イエス様もまたそのようにして成長していかれたと思われるが、私たち罪人との決定的な違いがある。それはアダムより全人類に受け継がれている罪が、イエス様には存在しないという点である(Tペテ2:22)。罪のないイエス様が、ご自分のことをはっきりと認識された時のことばが記録されてある。『どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。』(ルカ2:49) ユダヤ人にとって成人となる13歳の、その前年の12歳の時イエス様はそう言われたのだ。同年齢の思春期の子どもたちの中に生じる忌まわしい罪の思いが、イエス様の中にはなかったのだ。この時こそイエス様が、ご自分のことを神の子であると明確に認識された時であろう。

■ 2012/07/29 (日)
 [題]
「ルカ15章− 過去の罪のすべてを嫌悪し放棄した 」
 [みことば]
『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』 (Tヨハネ1:9)
 [ショート・メッセージ]
◆弟息子は、財産の分け前をもらうと、そのお金で放蕩して無駄に金銭を使い果たした(ルカ15:13)。人は、労苦して得た報酬としての金銭ならば大事に大切に使うが、楽(ラク)して得た金銭に対しては何の愛着もなく、湯水のように使うものである。そこに深い感謝がないからだ◆神に出会う以前の私たちもまた同じであった。神への深い感謝がないため与えられたすばらしい財産である身体を、大事に大切に使おうとしなかったのだ。また、神から預かっている自然に対しても同じだった。何と恥知らずな生き方だったことか◆弟息子は餓死寸前にまで追い込まれてやっと我に返り、失ったものの大きさを思い、欲望のままに行動した過去を深く反省し悔い改めた。「私は天に対し罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました」(同18)。神を無視し、聖も義も踏みにじった生活の中では、隣人に対しても身勝手な態度を取る。神への聖く正しい愛の中でしか、隣人を誠実に愛することはできない◆悔い改めの言葉を準備して帰って来た息子を見た父は、彼が嫌悪し放棄した過去の罪のすべてを赦し、喜んで迎えた(20)。神もまた、私たちが心から深く罪を認識し、過去の罪を嫌悪し放棄した時、救い主の十字架の死のみわざによる永遠の赦しを適用し(Tヨハ1:9)、復活による永遠のいのちに与らせてくださったのである。

■ 2012/07/22 (日)
 [題]
「ルカ15章− 滅亡寸前で我に返って父の赦しを得た果報者 」
 [みことば]
『立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 (ルカ15:18-19)
 [ショート・メッセージ]
◆ふたりの息子を持つ父のたとえ話。兄は働き者であると自負していた。「ことにこの取税人のようではないことを感謝します」と自慢したパリサイ人のようだ(ルカ18:11)。弟は要領者で無鉄砲、大きな過ちを犯しては後悔し、滅亡寸前で我に返って父の赦しを得た。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と心低くした取税人のようだ(同13)◆事の発端は次男坊の厚顔無恥な要求から始まった。ユダヤの国では有り得ない生前贈与を要求したのだ(ルカ15:12)。このたとえ話を聞いたユダヤ人たちは呆れてものが言えなかっただろう。ところで父は気前よく(マタ20:15)その要求に応じた。兄には全財産の2/3、弟には1/3。生前贈与はその財産管理権は父親にあるため、弟はすぐ換金し、家出して国外に行った。好きにしたかったからだ◆苦労して得たのではない金銭に対しては、人は湯水のように浪費する。金はすぐに消え、さらに日照りが続き、豚の餌を口にしたいほどの極度の飢えの中で弟は我に返り、父以外に頼るべき者がいないことを認め、捨て身の思いで帰路に着いた◆一方、父はわが子の帰りを待っていた。悔い改めて、自分の意志で帰って来るのを待っていた。『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』(マタイ11:28)

■ 2012/07/15 (日)
 [題]
「ルカ15章− 自称義人のパリサイ人や律法学者 」
 [みことば]
『そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。…」』 (ルカ15:3-4)
 [ショート・メッセージ]
◆3節の初めに「そこで」という接続詞がある。イエス様が『たとえを話された』理由が前節にあるということだ。『パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」』(2) すなわち、パリサイ人や律法学者たちは、自分たちを「義人」と思い込んでいたため、取税人や罪人など一般民衆を見下し、彼らと交わっているイエス様を軽蔑していたのだ。そこでイエス様はパリサイ人たちの心が閉ざされないように、まっすぐなことばではなく、たとえをもってお話しされ、彼らに間違いを悟らせようとされたのである◆たとえ話は3つだ。「迷子の羊」と「失くした銀貨」、「二人の子を持つ親」のたとえであり、それぞれに共通した鍵語(キーワード)がある。「なくした」(4,8,24)と「見つけ」(5,9,20)と「喜び」(5,9,32)である。ところで、迷子になった1匹の羊を捜すたとえの中で野原に残された99匹とは誰を指しているのだろうか。これは『悔い改める必要のない99人の正しい人』と説明されている◆実は、「正しい人」とはパリサイ人や律法学者たちのことだ。イエス様が言われた「正しい人」とは、ルカ5章32節の『正しい人』のことであり、『人前で自分を正しいとする者』(ルカ16:15)、『自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たち』(ルカ18:9)のことである。罪の自覚がなければ、救いに至ることはない。

■ 2012/07/08 (日)
 [題]
「ルカ15章− 聞く耳を持って聞く 」
 [みことば]
『聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。』 (Uテモテ3:16)
 [ショート・メッセージ]
◆ルカ15章は本福音書の中心である。失われた者を受け入れる神の深い愛を明らかにしているからだ。ここには放蕩息子のたとえ話が記されてあるが、正しくは「二人の息子のたとえ話」である。この二人は、1節の人たちと、2節の人たちをそれぞれたとえており、「取税人と罪人たち」は自分の愚かさを認める、聞く耳のある者たちのグループで、「パリサイ人と律法学者たち」は自分たちを義人だと思いこんでいる、聞く耳を持たぬ者たちのグループである。前者はイエスの話しを聞こうとして近寄って来たが(1)、後者はイエスのあげあしを取るために近づいて来たのだ。彼らがどんなにみことばを聞いても、救われることはむずかしい。聖書学者の中にいる神を認めようとしない者たちは、何とあわれなことか。『いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たち』(Uテモ3:7)だ◆私たちは一を聞いて十を知ろうと意気込む必要はない。そういう者たちは自己解釈を楽しんでいるにすぎない。十を聞いて一を学ぶことができれば幸いである。聖霊なる神の働きかけをいただきながら、みことばをゆっくり学び、じっくり教えられ、少しずつ軌道修正され続け、みことばを日常生活の中で実行する者になろうではないか(ヤコ1:22)。キリストが歩まれたように日々を歩む者でありたい(Tヨハ2:6)。

■ 2012/07/01 (日)
 [題]
「アブラハム− 主は約束し実行されるお方 」
 [みことば]
『このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。』(エゼキエル37:14)
 [ショート・メッセージ]
◆神はアブラハムに《約束》を与えて、罪人を罪から贖う「永遠の救いのご計画」(Tテモ1:4)の道へ招かれた(創12章)。そのご計画の中心は、原福音(創3:15)で啓示された「女の子孫」すなわちメシヤの誕生であった。人類存亡の危機が迫った時代があったが、神はノアを選ばれ危機から回避された(創6-9章)◆ノアから千年が経った時、神は信仰を保っていたアブラハムに目を留めカナンの地へと導かれたが、10年近く過ぎても子は与えられなかった。そこでアブラハムが「奴隷の子エリエゼルが跡取りになるのでしょうか」と尋ねると、「その子ではない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者があなたの跡を継ぐ」と仰せられた(創15章)。『あなた自身』とは二人で一人であるアブラハム夫婦のことでだ◆にもかかわらず年老いたサラは人間的になり、女奴隷によって夫の子を得る。しかしこれにより家庭内の秩序は崩壊し13年が空しく過ぎた(創16章)。アブラハムが99歳になった時、決定的な約束が与えられ、二人とも改名させられ、契約のしるしとしての割礼が命じられ(創17章)、翌年、主は約束されたとおりサラになさり、年老いたアブラハムにサラによって男の子が産まれた(創21章)。主は約束し実行されるお方。そのとき人は、語られたお方が神であられることを知る◆「女の子孫」の約束はアブラハムを通して更新された(創22:18)。

■ 2012/06/24 (日)
 [題]
「アブラハム− アブラハムとサラの失敗 」
 [みことば]
『それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」』 (マタイ16:24)
 [ショート・メッセージ]
◆カナンの地に入ってから10年が過ぎても、アブラハムとサラに子は与えられなかった。そこでサラは、エバがアダムを支配したように(創3:6『いっしょにいた夫にも与えた』)夫アブラハムを支配し、女奴隷ハガルによって子をもうけさせた(創16:2)。アブラハムもまた、あの時のアダムと同じように、祈りなしにサラに従ってしまった。聖書にはサラの言葉、「たぶん彼女によって」(2)が残されている。憶測であり人間的な軽はずみな言葉である。神の約束の成就を待てなかったのだ。主は言われる。『もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。』(ハバ2:3)◆その後、身ごもった女奴隷ハガルは女主人サラを見下げるようになった(4)。秩序の崩壊だ。神の栄光は、神のみこころが成就することによってのみ現わされる。人間的な方法で良い成果を得ても、それは神の栄光とはならない。優しさや思いやりという人間的な「愛情」もまた不倫にまで発展する危険性に満ちている。しかし神の「愛」はルール内にとどまるので神の栄光を現わす◆この時のアブラハムは、神のしもべではなく人間として行動したに過ぎなかったことを見落としてはならない。私たちもまた、いつでもどこでもキリスト者として行動し言葉を発しなければならない。キリストとくびきを負って日々を歩むために、自分を捨て、自分の十字架を負い続けようではないか。

■ 2012/06/17 (日)
 [題]
「アブラハム− 神の約束は神の方法でしか成就しない 」
 [みことば]
『…あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』 (マタイ16:23)
 [ショート・メッセージ]
◆創世記16章。アブラハムとサラが神のみことばに聞き従ってカナンに入ってから10年が過ぎた。しかし子が与えられなかったため、サラ(75歳)は自分の女奴隷ハガルを主人アブラハム(85歳)に第2夫人として与えて言った。『主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。』(2節)◆サラは「たぶん」と言った。確信のないまま、当時の人々のやり方を真似て人間的な思いで子をもうけさせたのであったが、女奴隷ハガルは『自分がみごもったのを知って、自分の女主人(サラ)を見下げるようになった』(4)と記されてある。神の約束が成就するためには人間の努力も必要なんだ、というもっともらしい考えが二人を支配したのであるが、その結果は秩序の崩壊であった◆ここで私たちは、神の約束は神の方法でしか成就しないのである、ということを学ばなければならない。神のみわざが実現されるためには、人間の側の知恵や努力も必要だ、といううがった考え方では、神の栄光を現わすことは不可能なのだ。ピリポ・カイザリヤ地方でのペテロの失敗も同じである(マタ16:21-23)◆後に、この人間的な思いからの聖別のために、神はアブラハムに最大の試練を導かれたのであった(創22章)。

■ 2012/06/10 (日)
 [題]
「アブラハム− 信仰がますます強くなったアブラハム 」
 [みことば]
『彼(アブラハム)は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。』(ローマ4:20-21)
 [ショート・メッセージ]
◆アダムから10代目にノアが生まれ、20代目にアブラハムが生まれた。西暦でいうと、BC4千年にアダム、BC3千年にノア、BC2千年にアブラハムが登場している。さらに、カランから出たときアブラハムは75歳(創12:4)だったが、このちょうど100年後の175歳(25:7)の時に使命を果たして死んだ◆ところで神がアブラハムに介入されたのはカラン滞在中であったと、創世記12章では知らされるが、実はこれは2回目で、これ以前メソポタミヤのウルに住んでいた時にも主が語っておられたのだ(使7:2)。これは創世記15:7とネヘミヤ記9:7に記されてある◆偶像発祥の地ウルから離れよ、が最初の召しで「生まれ故郷」から引き出され、続いて偶像礼拝者の父テラ(ヨシ24:2)から離れよ、が2回目で父の死後に「父の家」から引き出されたのだ。神が1回目の召しの後にしばらく猶予されたのは、老父テラを扶養する期間を十分に与えるためであった。神は老父テラへの愛をアブラハムに全うさせてくだったのである。『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』(伝3:11)◆神は、アブラハムをカランから引き出される時、子孫を与えると約束され、『わたしはあなたを大いなる国民と(する)』と語られた(創12:2)。しかしその後25年、子は与えられず彼の信仰は試され続けた(ロマ4:19)。しかし彼は、主を信じ続けた。

■ 2012/06/03 (日)
 [題]
「律法と約束− わたしの目にあなたは高価で尊い 」
 [みことば]
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』 (マタイ11:28)
 [ショート・メッセージ]
◆体調不良になると、自分が被造物であるという現実に引き戻されます。自分の力ではどうすることも出来ない想定外の苦悩の中にある時はなおさらのこと。そうです、私たちは被造物であって、自分の意志で生まれて来たのでも、自分の力で生きているのでもなく、創造者なる神によって両親を通してこの世に誕生させられ、今に至るまで生かされているのです◆そんなことを考えもせず、高慢になって自己満足の人生を突っ走ろうとしている私たちに、神は時々ご介入くださり、立ち止まらせてくださるのです。それは、神との正しい関係を保つことなしに、喜びと感謝と平安に満ちた人生を送ることができないことを、ご存知だからです◆『さあ、来たれ。論じ合おう。と主は仰せられる』(イザ1:18)。神はあなたに声をかけ、招いておられます。ですから聖書を開いて、神のことばを学んでください。あなたがずっと探し続けていた神が、そこにおられます。あなたがこれまで待ち望み続けていた真実の教えが、そこにあります。あなたが過去に犯した全ての過ちを、このお方はご存知です。あなたの醜さも、ずるさも、隠れて行なった行為の全てを知っておられます。それでもなお、このお方はあなたに向かって言っておられるのです。『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』(イザ43:4)と。

■ 2012/05/27 (日)
 [題]
「律法と約束− 神との正しい関係の確立を求めよ 」
 [みことば]
『神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。』 (使徒10:34-35)
 [ショート・メッセージ]
◆神は、エジプトでの奴隷生活から解放され約束の地カナンに戻って行くイスラエルの民に、約束の地で道徳的な人間関係を生きることができるために、「十戒」(出20章)を与え道徳律法の基本とされたのであった。罪ゆえに、悪を拒み善を行なうことに対して無力となっている民たちが、神によって創造された人間として、聖く正しく生きるために、十戒は不可欠な戒めであると同時に、守るべき神との約束であった◆十戒の前半(1-4戒)では、導き支え守っておられる神への感謝を表わすための4つの戒めが、後半(5-10戒)では仕え助け合うべき隣人との正しい関係を保つための6つの戒めが示されている。さらに、前半の神との関係が正されなければ、後半の隣人との関係は正されることはなく、争いと呪いの中に落ちてしまうという意味も隠されてある。すなわち道徳律法は、神との正しい関係の確立がなければ成立しないのだ◆聖書を知らないゆえに創造者なる神という概念がない異邦人のように偶像に思いを寄せるなら、もはや前半の戒めは無意味となり、神の民としての輝きは失われてしまう。逆に、異邦人であっても聖書を通して神を知り、悔い改めて神に立ち返り、戒めを学んで神のみこころを悟り、神の喜ばれる人生を求める決断をするなら、創造者なる神は私たちを真の神の民として新しく造り変えてくださるのである。

■ 2012/05/20 (日)
 [題]
「律法と約束− 律法の役割 」
 [みことば]
『では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。』 (ガラテヤ3:19)
 [ショート・メッセージ]
◆上記のみことばを通してパウロは、律法の役割を明らかにしている。すなわち律法には、神の前にすべての人が罪人であるという事実に気付かせる役割があるのである。『私は善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです』(ロマ7:21)、とパウロが自分の中にある罪をはっきりと認識させられたことによって、自分のみじめさに直面し、そこからキリストによる救いへと導かれたように(24-25)、自分の罪を認めることができれば、救いに至る道を見い出すこともできるのである◆ところが罪人は、神の目を恐れることができないゆえに人の目を恐れ、自分の正しさを人の間にアピールすることによって安心を得ようとしているのだ。『あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です』(ルカ16:15)とイエス様が言っておられるように◆しかし、もし真剣に律法によって自分を点検するなら、律法を行なって神の要求に応えることのできるいのちが、自分のうちには存在していないことをはっきりと認めることができるのである。『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです』(ロマ3:23-24)。そして神の恵みを悟らされるのだ。すなわち、あなたを義とするためにこそキリストは天から来られ、あなたの代わりに十字架の道を歩まれたのだということを。

■ 2012/05/13 (日)
 [題]
「律法と約束− 影と本体 」
 [みことば]
『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』 (ヘブル10:7)
 [ショート・メッセージ]
◆モーセを通して与えられた律法全体を分類すると、道徳律法・祭儀律法・イスラエル社会の律法、に分けることができる。この中で祭儀律法を調べると、イエス様のご生涯が影のように映し出されていて興味深い◆まず、過越しの祭りを調べる。アダルの月すなわち第1月の14日(金)の夕暮れに過ぎ越しのいけにえとして羊をほふれ、と命じられている(レビ23:5)。この影の本体は十字架上のキリストである。『私たちの過越の小羊キリストがすでにほふられた』(Tコリ5:7)。出12:9によると、ほふられる羊は頭も足も内臓も火で焼かれなければならなかった。キリストがすべてのさばきを受けてくださることの暗示だ。『彼を砕いて痛めることは主のみこころであった』(イザ53:10)。さらにまた、「その骨を一本でも折ってはならない。すべて過越のいけにえのおきてに従ってそれをささげなければならない」(民9:12)と命じられていた。その通りにイエス様のすねは折られなかった(ヨハ19:23)。このイエスこそ預言者を通して予告されていたメシヤである、と聖書が解き明かし、歴史が証言しているのである◆この過越のいけにえの羊こそ、全人類を罪から贖い出し、永遠の滅びから救い出してくださるキリストの影であったのだ。『こういうわけですから、食べ物と飲み物について…批評させてはなりません。これらは次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです』(コロ2:16-17)と書かれてある通りである。

■ 2012/05/06 (日)
 [題]
「質疑応答− 神のねたみについて 」
 [みことば]
『気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、主の命令にそむいて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。』 (申命記4:24)
 [ショート・メッセージ]
◆Q:神のねたみについて教えてください。A:ねたみには2種類ある。劣等感から来るねたみと、結婚という契約関係から来るねたみである。前者は他人の幸福を見て自分を不幸に思い、その人が失敗することや不幸になることを願う悪魔的な捻じ曲げられた感情である。カイン(創4章)やサウル王(Tサム18:8)やヨセフの兄たち(創37章)がそれであり、クリスチャンとされていても神への信頼が弱くなると再び引きずり込まれる罪の世界だから要注意(ガラ5:26)。後者は結婚という正しい契約関係の確立を熱望する意思に基づくものであり、これを麻痺させ、いい加減にしてはならない。旧約聖書で宣言されている「神のねたみ」はイスラエルとの間に結ばれた契約関係に基づくものであり、神はイスラエルをご自分の妻のように愛しておられる、と表現されている。その契約関係の確立を熱望されるがゆえに、その関係が破られた時、神のねたみが現れるのである。その関係を破る原因は偶像礼拝(霊的姦淫)である。神が熱望された契約関係は、『ご自身の血をもって買い取られた神の教会』(使20:28)が誕生したことによって完成された。『「人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私はキリストと教会とをさして言っているのです』(エペ5:31-32)、とある通りだ。ねたむほど愛される神は、ご自分の御子を身代わりとされることによって、その愛を明らかにしてくださった(ロマ5:8)。

■ 2012/04/29 (日)
 [題]
「復活− 受肉された神イエス 」
 [みことば]
『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』 (ロマ10:9-10)
 [ショート・メッセージ]
◆エルサレムを出てエマオに向かって逃げて行く二人の弟子。彼らはイエスの弟子ということで捕えられることを恐れながらも、空っぽの墓(22-24)について論じ合っていた。そこに復活されたイエスが現われたのだが、信仰の目が閉じたままの彼らにはイエスだとは判らなかった(16)。あなたがたは何を論じ合っているのかとイエスから尋ねられると、彼らは「預言者のことだ」と答えた(19)◆これまでイエスがなされた多くの奇蹟を目撃し、その教えにも驚嘆していたはずなのに、イエスが受肉された神である(マタ16:16)と告白できなかった。『見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また悟ることもしない』(マタ13:13)とのイエスのおことば通り、人間の知恵よっては悟れないのである◆旧約聖書には繰り返し、メシヤとは受肉にされる神であることが予告されている。「ひとりの男の子が生まれる。その方は力ある神と呼ばれる」(イザ9:60)、「わたしは来る。彼らはわたしの栄光を見る」(イザ66:18)、「わたしは失われた者をさがし、連れ戻し、力づける」(エゼ34:16)、「人の子のような方が来られる」(ダニ7:13)、「わたしは来てあなたのただ中に住む」(ゼカ2:10)、「彼らは自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、嘆く」(ゼカ12:10)◆ところがついにその日が来た。イエスが昇天されて10日後に、弟子たちは皆、聖霊の取り扱いを受けて信仰の目が開かれ(使2章)、受肉された神なるイエスを告白するに至った(ロマ10:9-10)。

■ 2012/04/22 (日)
 [題]
「復活− 女たちはイエスのみことばを思い出した 」
 [みことば]
『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。』 (ルカ24:5-6)
 [ショート・メッセージ]
◆イエス様が十字架につけられてから3日目の週の初めの明け方早く(1)、女たちはイエス様の亡き骸に香油を塗るために墓に急いだ。ところがイエス様の亡き骸がなかったので女たちは途方にくれ不安になった(4)。そのとき御使いが現われたのだ◆「思い出しなさい」(6)。御使いをとおして神が、女たちを信仰の回復へと導かれたのである。みことばに戻らなければならない。主の約束のみことばを思い出さなければならない。自分の考えや思い込みによる行動は、主にある平安を失わせる。女たちはみことばを思い出し(8)、大喜びで弟子たちに知らせに走った(マタ28:8)。みことばに戻ることによって、女たちの信仰が回復したのである◆イエス様は約束しておられた。「十字架ののち3日目にわたしはよみがえります」と。悲しみに沈んでいた女たちがその「3日目」に捜していたのは、主の約束は正反対の、亡き骸であった。救われてクリスチャンとされた私たちも、時おりみことばを見失うことがある。自分勝手な願い事や、自分勝手に立てた人生設計の進み具合が気になっている間、主が見えず、信仰は眠り、主にある平安は消えている◆主の約束のみことばにとどまらなければ枝だけでは実を結ぶことはできない、とイエス様は教えておられた(ヨハ15:5)。絶えずみことばに戻らなければならない。そこにしか平安を豊かに味わう道はない(ヨハ10:10)。

■ 2012/04/15 (日)
 [題]
「復活− みことばに戻らなければ信仰の回復はない 」
 [みことば]
『また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。』 (Uペテ1:19)
 [ショート・メッセージ]
◆安息日が明けた週の初めの日(日曜日)の明け方、女弟子たちは墓に急いだ。イエス様の亡き骸に良い香りのする香油を塗り、死臭を和らげるためであった。女たちが目指していたのは、大きな石の扉の中に横たわるイエス様の亡き骸であった。墓を閉ざす石を取り除ける策はないまま、しかも弟子たちがイエス様の体を盗み出すことがないようにと墓の番を命じられた屈強なローマ兵もいるであろう(マタ27:62-66)、そんな不安な気持ちのまま墓に近づいたそのとき、何と奇跡が起きていた。石は脇に転がされており、兵士も見当たらなかったのだ◆墓をのぞくとイエス様の体はなく、途方にくれていると、御使いが現われた。怖くて地面に顔を伏せていると、御使いが話してきた。「あなたがたはなぜ死なれたイエス様を捜すのか。よみがえられたのだ。イエス様が語られたことばを覚えていないのか。3日目によみがえらなければならないと言われたではないか。」◆女たちはイエス様が語られたみことばを思い出し、大喜びで弟子たちの元に戻り一部始終を知らせた(マタ28:8)。しかし弟子たちはその報告を信用しなかった。ユダヤ人への恐怖に包まれたままで、みことばに目を留めなる余裕などなかったからだ。主から与えられたみことばに戻らなければ信仰の回復はない(Uペテ1:19)。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。』(ヨハ8:31)

■ 2012/04/08 (日)
 [題]
「復活− 弟子たちに強調された神の約束とその成就 」
 [みことば]
『それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。』 (ルカ24:50-53)
 [ショート・メッセージ]
◆ルカ24章には、イエスのよみがえりと、生きていることの確かな証拠としての弟子たちとの交わりと、昇天の様子が記されているが、イエスを天に見送ったあとの弟子たちは、ユダヤ人への恐れは残っていても、非常な喜びを抱いて父の約束を待ったのであった◆その喜びは、自分たちの師のよみがえりの事実によるものだが、聖霊なる神の来臨によって体験する新生(使2:1-4)に至るまでの重要な準備期間となった。弟子たちは、信仰を持って「父の約束」(使1:4)を待つことができたのである(同14)◆ちなみに、イエスは繰り返し弟子たちに同じことを語っておられた。『預言者たちの言ったすべて』(ルカ24:25)、『キリストは必ず…はずではなかったのですか』(同26)、『聖書全体…説き明かされた』(27)、『モーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは必ず全部成就する』(44)。神のご計画の書である旧約聖書は、必ず全部成就するということをイエスは強調されたのである。神の約束を決して軽んじてはならない。『まことに神である主は、そのはかりごとをご自分のしもべ預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。』(アモ3:7)◆信仰とは神の約束への絶対信頼であり、希望とは約束の成就を待ち望むことであり、愛とは約束に基づいた神の誠実であり、栄光とは神の約束が成就することに他ならない。信仰の創始者であられる主なる神に感謝。

■ 2012/04/01 (日)
 [題]
「復活− よみがえりのいのちによる成長 」
 [みことば]
『わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。…わたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。』 (エゼキエル11:19-20)
 [ショート・メッセージ]
◆クリスチャン生活のスタートは《罪の赦し》である。主は言われる。『さあ、来たれ。論じ合おう。…たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。』(イザヤ1:18) みことばを通して神と向き合うことなくして罪の自覚と、悔い改めと、罪の赦しを受けることはできない。罪の赦しは人間の努力によって達成できるものではなく、神のあわれみによって与えられるものだからだ◆クリスチャン生活の次の段階は《軌道修正》である。『陶器師は粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。』(エレミヤ18:4) クリスチャンとなっても初めのうちは、古い肉の性質99パーセントで考え、話し、行動している。そのため右の極端から左の極端へと振り子のように揺れ動く。陶器師であられる神によって軌道修正されなければならない◆次の段階は《霊的成長》である。『しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』(イザヤ40:31) 衰えることなく疲れることのない霊的成長を目指さなければならない。主の懲らしめを甘受するとき(ヘブル12:5-8)、苦しみを通して主から教えられ、神の国に入る準備がなされ(使徒14:22)、逆境の中でも主に期待する逞しい信者となれるのだ。そしてこれらの訓練は、よみがえりのいのち(霊的いのち)によって忍耐し、成長を遂げる者とされるのである(ヤコブ1:2-4)。

■ 2012/03/25 (日)
 [題]
「復活− イエスのよみがえり 」
 [みことば]
『弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」』 (ヨハネ20:19)
 [ショート・メッセージ]
◆十字架上で死なれ墓に葬られた主イエスが週の初めの日(日曜日)によみがえられたことを、その日の明け方に目撃した女弟子たちは(ヨハ20:1-18)、隠れ家に急ぎ帰り、興奮したおももちで弟子たちにその一部始終を知らせたのだが、使徒たちはその話をたわごとと思い女たちを信用しなかった(マタ24:10)◆みなユダヤ人を恐れて窓を閉め戸を閉めじっと隠れ家で息をひそめていたその日の夕方のこと、なんと、よみがえられたイエスが石塀をすりぬけて入って来られ彼らの中に立たれたのである。そして弟子たちに「平安があなたがたにあるように…もうすぐ来られる聖霊を受けなさい」と話された(ヨハ20:19)◆それから50日後の五旬節の日に、約束どおり聖霊が来られ、霊的に生まれ変わった弟子たちは、恐れることなくエルサレム中のユダヤ人に、イエスの復活を力強く証した。「私たちはみな、イエスがよみがえられたことの証人です」(使2:32)。栄光のからだによみがえられた主イエスを、彼らは目で見、手でさわり、目撃者となったので(Tヨハ1:1-3)、命がけで人々に証言する証人となれたのであった◆後に、パウロを通して復活の奥義が次のように明らかとされた。『死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、…血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。』(Tコリ15:42-44)。私たちもまた、この約束を受けているのである。

■ 2012/03/18 (日)
 [題]
「復活− 第1の復活と、第2の復活 」
 [みことば]
『地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。』 (ダニエル12:2)
 [ショート・メッセージ]
◆新約が教える重要な教理の1つが復活である。初代教会において使徒たちが語ったメッセージが13回使徒の働きに記されているが、その内の11までがイエス・キリストの復活についてである。「キリストは復活された。私たちはみなそのことの証人です」と主の復活の事実が証言されている◆では旧約において復活はどのように語られているのだろうか。実を言うと、旧約においては復活の教えは突出していない。数ヵ所だけ見ると、詩16:10『あなたは私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません』、詩49:15『神は私のたましいをよみの手から買い戻される』、イザ26:19『あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります』とある程度だ。ところで今回は冒頭に書き記したダニ12:2を中心に学び合いたい◆そこには『ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに』と記されてあり、復活が2つのグループに分けて行われることが明記されている。すなわち「第1の復活」(黙20:6)と、「第2の復活」である。第1の復活は永遠の御国に入るための復活であり、第2の復活は永遠の刑罰を受けるための復活だ(黙20:4)。これは実に厳粛なことである。キリスト者がこの真実を聖書から詳細に学ぶなら、福音宣教の働きにいい加減になることはできない◆イエスもまたこのことを、最後の晩餐の席上で弟子たちに語っておられた。マタイ25:31-46である。

■ 2012/03/11 (日)
 [題]
「復活− よみがえりのいのち 」
 [みことば]
『イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。』 (ヨハネ3:5-6)
 [ショート・メッセージ]
◆主イエスが3人の死体を生き返らせた奇蹟が3つの福音書に記録されている。マルコ5章とルカ7章、そしてヨハネ11章だ。マルコにはヤイロの娘が、ルカにはやもめの一人息子が、そしてヨハネにはベタニヤ村のラザロが記録されている。彼らは元の状態にもどらされたのだが、十字架で死なれ、葬られ、よみがえられた主イエスのからだは、彼らとは異なっていた。主イエスは、霊体(御霊に属するからだ)によみがえられたのである(Tコリ15:44)。父なる神が立てられた救いのご計画の最終段階は、このからだへのよみがえりであった。『事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。』(ヨハネ6:40)◆ここで主イエスが明言されたのは、終わりの日に御霊のからだによみがえらされるのは、永遠のいのちを持っている者だけであるということだ。このことは54節でも繰り返し明らかにされている。単に集会(教会)に通っているからとか、聖歌隊で歌っているからとか、奉仕に与っているからとか、信者の交わりに加わっているからとか言っても、それ自身がよみがえりの条件なのではないのだ。よみがえりのいのちを持っていることが、唯一無二の条件なのである(ヨハネ3:5)。私たちは常に、自分が新生しているかどうかを吟味していなければならない。

■ 2012/03/04 (日)
 [題]
「箴言− 謙遜であれ 」
 [みことば]
『よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける。』 (箴言18:13)
 [ショート・メッセージ]
◆聖書を通して神に出会う以前に、私たちは世から多くの知恵・知識を受け入れ蓄えてきた。新生させていただいた後も、人間的な考え方を受け入れることがある。だから、主から十分に教えていただかないうちに軽はずみな行動を取らないように注意しなければならない◆この失敗をした人物としてペテロを見ることができる。『するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」』 彼の高慢さが暴露された瞬間だ。「主よ、それはどういう意味ですか、教えてください」と彼は主に尋ね、主から学ぶべきであった。しかし彼は上から目線で主をいさめたのである◆私たちも大いに自己反省しなければならない。聖書はそう言っているかも知れないが、私はこの生き方を変えないと意地を張ってはいけない。主に尋ね、主から学び続けようではないか。高慢の先にあるのは破滅だと警告されているからだ。もっと謙遜になろう(12)◆絶えず、避難所である神のみこころの中に生き続けよう(10)。『正しい者はその中に走って行って安全である』とあるが、この正しい者とは道徳的に正しい者という意味ではない。神との関係が、正しい者、という意味である。主とくびきを負って生きることだ。主が行けと言えば行くことであり、主が行くなと言えば行かないことである。主によって軌道修正させられ続けよう。

■ 2012/02/26 (日)
 [題]
「箴言− 主を尋ね求め続ける 」
 [みことば]
『若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。』 (詩篇34:10)
 [ショート・メッセージ]
◆箴言の中では、主を恐れる者の姿と、主の知恵と訓戒をさげすむ者の姿が比較され、これを読む者への警告としている。さらに、神の知恵を軽んじる理由も明らかにされており、大別すると3つある。殺人(箴1:16-18)と金銭欲(同19)と不倫(5章)である◆殺人は自分勝手な計画に支配されているからであり(ヤコ4:2)、金銭欲はぜいたくを求めるからであり(ヤコ5:1-6)、不倫は自分の妻だけを愛せないからだ(箴5:15-23)。「彼らは、そのようなことを行なえば死罪に当たるという神の定めを知りながら、それを行ない、それを行なう者に同意している」のだ(ロマ1:32)◆アダムから受け継いだ罪の性質が自分の中になおも存在していることを常に認め、へりくだって主を尋ね求めながら、地上での日々の生活を送らなければならない(詩34:10)。絶えず主を尋ね求めるなら、良いものに何一つ欠けることがないとは、なんという喜びであろう◆『心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。』(箴3:5-7) いいかげんにならず、心を尽くそうではないか。自分を知恵ある者と思わず、常に主から学び、みこころを実行しようではないか。

■ 2012/02/19 (日)
 [題]
「箴言− 聖められ、悪から離れよ 」
 [みことば]
『自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。』 (箴言3:7)
 [ショート・メッセージ]
◆主を恐れること(敬うこと)が真の知恵の出発点であるが(箴1:7、9:10、詩111:10)、主を恐れることが分からない愚か者は、聖書にある神の知恵を理解できないため、これを軽蔑する(箴1:7)。救われる以前の私たちがそうであった。すなわち「愚か者」とは新生していない者のことだ。新生とは、霊的ないのちを受けることで(ヨハ3:6)、空中携挙の時、そのいのちのゆえに一瞬のうちに血肉のからだから御霊のからだに変えられると約束されている(Tコリ15:45,52)◆聖徒のうちに与えられた霊のいのちを住まいとして聖霊は宿られ、「神の知恵」(Tコリ2:7)、「霊的な知恵」(コロ1:9)を教えてくださる。「教師」であられる聖霊は(マタ23:8)、聖徒を教えるためにみことばを思い起こさせ(ヨハ14:26)、みことばを用いて主イエスを証され(同15:26)、みことばの真理に導き入れてくださる(同16:13)。一方、新生していない者は、世の知恵によって主を知ろうとするが、それは不可能である(Tコリ1:21)◆聖霊はみことばを用いて聖徒の心を探り、絶えず悔い改めへと導き、さらに聖めてくださり、神のみこころを生きる者へと変えてくださる(詩139:23-24)。聖徒が聖められる道はここにしかなく、聖霊がみことばを用いて聖徒を取り扱ってくださる以外に、悪から完全に離れることはできない(箴3:7)。

■ 2012/02/11 (土)
 [題]
「箴言− 主への恐れなしに知恵を得ることはできない 」
 [みことば]
『主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。』 (箴言1:7)
 [ショート・メッセージ]
◆箴言はイスラエルの民に暗記させるため、語り継がれてきたことわざや格言を収録したものである。それが編纂されたのはBC700年ころから前3世紀ころまでの間だ。BC700年ころとは、25:1の「ユダの王ヒゼキヤの人々が書き写した」という記述から推測できる。また前3世紀ころとは、旧約聖書をギリシャ語訳した70人訳が完成した前3世紀ころに、箴言が翻訳されていたことから推測できる。また暗記するためとは、日本の「いろはかるた」を思い出すと理解できる◆ところで箴言の筆者はほとんどがソロモン王(1:1,10:1,25:1、T列4:32)。彼は王としての歩み半ばから主のみこころに反したが(T列11章)、彼を通して主は豊かに語っておられたのである。それ以外の著者としてアグル(30:1)とレムエル(31:1)の名が記されているが、神が彼らを通しても語られたのだと知ることができる◆さて、聖徒たちにとって箴言とはどんな書物であると言えるか。まず1章から調べたい。「神を恐れる信仰」がなければ、箴言から知恵を得ることはできない(7)。神を恐れるとは神を敬うことであり(11:9)、新生なくして真に神を恐れるという新しい性質を得ることは不可能である(エゼ36:26-28)。新生させられていることを常に確認させられながら、信仰生活を送ろうではないか。

■ 2012/02/05 (日)
 [題]
「質疑応答− "忌むべき物"(エレ4:1)とは何ですか 」
 [みことば]
『イスラエルよ。もし帰るのなら、―主の御告げ。―わたしのところに帰って来い。もし、あなたが忌むべき物をわたしの前から除くなら、あなたは迷うことはない。』 (エレ4:1)
 [ショート・メッセージ]
◆「忌むべき物」とは、偶像礼拝に用いるすべての物であり、さらに偶像礼拝で行なわれる不道徳なあらゆる行為を指している。聖であられ義であられる神を無視したイスラエルは、集団で行動を共にした時、隠れようともせず隠そうともせず、楽しんで当然だと言わんばかりに振る舞い、良心を麻痺させながら、ますます不信仰に落ちて行った◆彼らは、「すわっては飲み食いし、立っては戯れ」(出32:6)、「神を知らない異邦人のように情欲におぼれ」(Tテサ4:5)、「道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼ」ったのである(エペ4:19)◆しかしそれでも神は、彼らに赦しのチャンスを与え、自分の罪をすなおに認めて悔い改めよと命じ、その上で「わたしのところに帰って来」なさい(エレ4:1)と語りかけたのであった。イスラエルがどんなに汚れようと、どんなに間違えようと、心から悔い改めて神に帰ろうと決断するなら、その信仰を認めて受け入れてくださると言われるのである(ホセア3:1)◆ところで悔い改めとはどういうことなのか。それは単なる謝罪ではない。もう二度と同じ過ちは犯しませんと明確に誓い、決断することである(同3)。忌むべきものと決別しなければならない。

■ 2012/01/29 (日)
 [題]
「サマリヤ人− あなたも行って同じようにしなさい 」
 [みことば]
『彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』 (ルカ10:37)
 [ショート・メッセージ]
◆隣人についてイエスに質問した「律法の専門家」(ルカ10:25)とは、マタイ23章で繰り返し糾弾されている「律法学者」のことで、イエスから「あなたがたは偽善者だ」と責められている(13,14,15,23,25,27,29)。彼らに罪を認めさせ、悔い改めへと導くためだ(エゼ18:30-32)。神は罪人の自滅を深く悲しんでおられる◆イエスは、彼ら宗教の指導者たちを指して「あなたがたは言うことは言うが実行しない」と言われる(マタ23:3)。先生先生と呼ばれおだてられているうちに高慢になり、人前では敬虔そうに語り振る舞う彼らは、人が見ていない所では神のみこころの『反対側』(ルカ10:31,32)を生きていたのだ◆律法学者が問うた「私の隣人とはだれのことですか」(29)という知識的な質問をイエスは退けられ、「だれの隣人になるか」という実践的な答えを引き出されている(36)。その答えを引き出すために、たとえ話の中にイエスが登場させたサマリヤ人(33)とはユダヤ人が最も軽蔑する人種であったが、イエスご自身をも指していた(ヨハ8:48)。イエスは彼に言われた。「あなたも行ってあのサマリヤ人と同じように行ないなさい」◆『みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』 (ヤコ1:22)

■ 2012/01/22 (日)
 [題]
「サマリヤ人− だれが隣人になったか 」
 [みことば]
『みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』 (ヤコブ1:22)
 [ショート・メッセージ]
◆優越感に酔う律法の専門家すなわち律法学者は、イエスをテストして言った。「何をしたら、永遠のいのちを得ることができるか」(ルカ10:25)。永遠のいのちとは、「約束の地を受け継ぐ」(詩25:13)ことであり、天の御国に入るという意味で、ラビ達の間でなされていた永世問答であった。彼は律法学者として、行ないによる救いという考えからテストしたのだ◆この問答の結論としてイエスは、『あなたも行って(サマリヤ人と)同じように行なえばよい』(ルカ10:37)と語られたのだが、それを行なうための「新しいいのち」(エゼ36:26-28)を得ることが先決であることを諭されたのであった◆ところでイエスが「良いサマリヤ人」のたとえ話をされたのは、律法学者が自分の正しさをひけらかそうとして得意顔で質問した「隣人とはだれを指すのか」への答えとしてであった。このたと話に登場しているのは、強盗に襲われた者・強盗・祭司・レビ人・サマリヤ人・宿屋の主人であり、イエスは話の最後に彼に聞かれた。『強盗に襲われた者の隣人になったのはだれか。』◆「だれが隣人であるか」ではなく、「だれが隣人になったか」を問われたのである。これこそ、神が人間に問うているテーマだ。律法の知識があり、それを民に教える立場にいたとしても、それを実行しなければ何の意味もない。

■ 2012/01/14 (土)
 [題]
「サマリヤ人− 混合宗教礼拝者となったサマリヤ人たち 」
 [みことば]
『彼ら(サマリヤ人)は主を礼拝しながら、同時に、自分たちがそこから移された諸国の民のならわしに従って、自分たちの神々にも仕えていた。』 (U列王記17:33)
 [ショート・メッセージ]
◆北イスラエルの首都はサマリヤだが、それは北王国6人目の王オムリによる(T列16:25)。オムリは、その山の持ち主シェメルの名にちなんでサマリヤと名づけ、国民に偶像礼拝を行なわせたが(26)、彼の子アハブとその妻イゼベルによってそれはエスカレートし、バアル礼拝が定着した(31-33)◆偶像礼拝の罪は、信仰のない形式主義者たちによってエスカレートする。彼らは真実の神を無視するので、その結果、己の肉欲を神とし汚れをむさぼるようになるのだ(ピリ3:19)。『あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や汚れた者やむさぼる者―これが偶像礼拝者』である(エペ5:5)◆サマリヤのバアル礼拝は、エフーによるアハブ家全滅の時まで続いた。『バアルの石の柱をこわし、バアルの宮もこわし、これを公衆便所とし…このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにした。』(U列10:27-28) さらにこの後、アッシリヤ帝国によって北王国がBC721に滅亡する直前に、アッシリヤの王サルゴン2世は、サマリヤの住民と引き換えに外国人を住まわせて雑婚させ(U列17:23-41)、血の純潔を失わせて民族的プライドを取り除いた。これによりサマリヤの住民は混合宗教者となったため、ユダヤ人はサマリヤ人を激しく軽蔑するようになった。イエス様の時代も、ユダヤ人はサマリヤ人を嫌い、付き合いをしなかった(ヨハ4:9)。

■ 2012/01/08 (日)
 [題]
「新年交わり会− 主によって変えられる 」
 [みことば]
『自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。』 (ルカ14:27)
 [ショート・メッセージ]
◆Y兄…『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』(Tテサ5:16-18) 「神があなたがたに望んでおられること」とあります。それなのに時々、喜びが消え、祈りも簡単な食前の祈りだけで終わってしまい、さらに逆境を喜べない時がありました。神が私に望んでおられることなのだから、どのような時もこのみことばに生きることができるように、神の訓練を受けたいと強く思いました◆M兄…『陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。』(エレ18:4) 陶器師は、ろくろの上でくるくる回る器をいろんな角度から見つめているのです。『造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。』(ヘブ4:13) 驕り高ぶることなく、調子に乗ることなく、駄々をこねることなく、陶器師の御手に一切を任せて歩み続けたいと願います。主よわれを 用いたまえや ご自由に。選り好みすることなく、主が命じられるどんなことをも為し、主が命じられるどんな所へも行き、主が命じられるどんな働きをもする、そのような器に徹したい。

■ 2011/12/31 (土)
 [題]
「クリスマス− 主に仕える 」
 [みことば]
『わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。』 (ヨハ12:26)
 [ショート・メッセージ]
◆A姉…『愛を追い求めなさい』(Tコリ14:1)のみことばを受け取ってスタートした1年でしたが、主から気付かされたのは愛のない醜い自分でした。反省と悔い改めと軌道修正の1年間でした◆N姉…毎月『いつも喜べ、絶えず祈れ、すべての事に感謝せよ。これが主にあって神があなたに望んでおられること』(Tテサ5:6-8)のみことばが示され、主に委ねて生きる平安を体験させられました◆H姉…日常生活の中で主のご隣在を確認させられ、主のみこころを最優先せよと命じられました。近所の人との人間関係の中で隣人を愛する訓練が導かれました◆K姉…『新しい心を与え、わたしのおきてに従って歩ませる』(エゼ36:26-27)とのみことばに導かれるように、会社から正社員にならないかとの打診を受けたが、即答しませんでした。肉の思いに引きずられないように、主のみこころを受け止める訓練をいただきました◆Y兄…心からすぐに湧き出ていた醜い思いやイライラが少なくなっていきました。主が自分を変えてくださっておられることに感謝しています◆M兄…経済的な危機と、これまでにない体調不良、さらに老健施設伝道継続の可否を決めなければならない中で、慌てず焦らず主の御手にゆだね続ける訓練を受けています。

■ 2011/12/25 (日)
 [題]
「クリスマス− みことばによって確信を得たヨセフ 」
 [みことば]
『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』 (伝道者3:11)
 [ショート・メッセージ]
◆ヨセフは、妊娠しているマリヤのために悩んだ。いったい誰の子を宿しているのか。婚約している自分の子ではないのは確かだ。とは言え、マリヤが語る聖霊による受胎の話はどうしても信じ難い。それはヨセフの理解を越えていた。悩み続けた末、信仰深いヨセフが出した結論は、マリヤを愛するがゆえのものであった◆『内密に去らせよう』(マタ1:19)。それ以外に方法はない。法廷で多くの人の前にマリヤをさらるのはかわいそうだ。2,3人の証人の前でマリヤに離婚状を渡してそっと離縁しよう。お腹が大きくなって目立つ前に◆そのことを実行に移す前夜、眠れぬヨセフがやっと浅い眠りにつこうとしたその時、御使いがヨセフに語りかけた。『恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』(同20-21) この神のご介入によってヨセフの疑いは消え、悩みから解放された。待ち続けていたメシヤがこういう形で世に来られるのか。なんと不思議な方法なのだ。しかも愛するマリヤの胎を借りて◆ヨセフは眠りからさめ、御使いを通して語られた神のご計画に身をゆだね、妻マリヤを迎え入れた(同24)。ヨセフの心は、信仰によって確信を得、平安を得た。

■ 2011/12/18 (日)
 [題]
「クリスマス− 神の子イエス様 」
 [みことば]
『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』 (ヘブル10:7)
 [ショート・メッセージ]
◆イエス様は『わたしは来ました』って言っておられるね。ふつう私たちは「生まれた」って言うのにね。私たちはお母さんのお腹の中に宿る前はどこにもいなかったから来ましたとは言わないのです。でもイエス様はこの世に来られるずうっと前から、宇宙が創造される前から、天にいました。『父よ、…世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください』(ヨハ17:5)と祈られましたが、イエス様は父なる神とともにおられたのです◆そのイエス様が、『みこころを行なうため』に私たちと同じからだを持ってこの世に現われてくださったのです。マリヤのお腹に宿られる直前に、御使いガブリエルは『神の子と呼ばれます』(ルカ1:35)って言いました。ヨセフの子ではないんだよ、ってマリヤに教えてくれたんだ◆ところでヨハネさんは福音書に、イエス様のことを『ことば』って表現して、聖霊に導かれるまま『ことばは神であった』って書きました(ヨハ1:1)。地上に誕生した数えきれないほど多くの人間の中で、イエス様だけが「人となられた神」です◆ではイエス様が来られた目的の「みこころ」って何でしょう。『悪い人々の身代わり』となることでした(Tペテ3:18)。そのことは、イザヤ53:10やそれ以外の多くの箇所に約束されています。「悪い人々」ってだれのこと?、「身代わり」って何? 続けて聖書を調べていきましょう。

■ 2011/12/11 (日)
 [題]
「クリスマス− 救い主誕生と仮庵の祭り 」
 [みことば]
『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』 (伝3:11)
 [ショート・メッセージ]
◆"クリスマス"とはどんな意味か。英語で書くとChristmas。これは"キリスト"(救い主)と"ミサ"(礼拝)からなる。救い主を礼拝するという意味で、最初に礼拝したのは羊飼いたちだ(ルカ2:8-20)。ところで、イエス様の誕生はいつなのだろう。太陽暦12月の冬というは本当なのか。聖書を調べる◆最初に調べるのはルカ1:26だ。『ところで、その6か月目に御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。』 御使いガブリエルが祭司ザカリヤに現われ(ルカ1:11)、老妻エリサベツの妊娠を告知してから半年後であるが、その告知はいつか。アビヤの組であるザカリヤが祭司の務めをしていた時である(同5-8)。これはT歴代誌24:7-19からユダヤ歴の第何の月に当たるかを調べる。神殿では、1年を24の組に祭司を分け、1つの組は半月を担当していた。アビヤの組(T歴24:10)は第4の月の後半となる◆それから半年後にマリヤが受胎したのだから第10の月の後半。その9か月後に救い主が誕生ということは、第7の月の後半だ。ユダヤ歴の第7の月とは、太陽暦の9月ということで秋の収穫祭のころだ。それはちょうど第7の月の15日から始まる仮庵の祭りと一致する。ちなみに、ヨハネ1:14の『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた』の『住まわれた』は、「仮庵となる」という意味である。

■ 2011/12/04 (日)
 [題]
「ヨハネ18,19章− 献身 」
 [みことば]
『イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」』 (マタイ16:24)
 [ショート・メッセージ]
◆アリマタヤのヨセフは金持ちであり、サンヘドリンの議員の一人であった。彼はイエスの弟子として教えを受けていたが(マタ27:57)、イエスの十字架の死が実現した時、ユダヤ人を恐れず多くの群衆が見守る中、『イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願』い、自分の墓に納めたのであった(マタ27:57-60、ルカ23:50-53)。ユダヤ人社会からの迫害を恐れることなく、自分がイエスの弟子であることを公に告白したのである。神はこのことを求めておられる。『だれでもわたしを人の前で認める者は、人の子もまたその人を神の御使いたちの前で認めます』(ルカ12:8)◆ニコデモが自分の墓にイエスの亡骸をおさめたこの瞬間、イザヤを通して示された神の預言のことばが成就した(イザ53:9)。メシヤに関する神のご計画の一コマ一コマが、確実に成就していったのである。『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』(伝3:11)◆夜こっそりイエスを訪問し神の国について教えを乞うたもう一人のサンヘドリンの議員ニコデモもまた、同じように自分が弟子であることを公にした(ヨハ19:39)。彼はパリサイ人であり、ユダヤ人の指導者であったため、宗教指導者たちを敵に回すことを恐れて、これまでイエスの弟子であることを隠し続けていたのだ。神はあなたにも、献身の場を導いておられる。

■ 2011/11/27 (日)
 [題]
「ヨハネ18,19章− 罪状書き 」
 [みことば]
『ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。』 (ヨハネ19:19)
 [ショート・メッセージ]
◆預言者ゼカリヤはロバに乗ってエルサレムに入城するメシヤを預言した。『エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で救いを賜わり、柔和でろばに乗られる。』(ゼカ9:9) しかし、「イスラエルの王としてご自分の国に来られたイエスを、ご自分の民は受け入れ」なかった(同1:11)。その経緯がヨハネ18-19章に詳しく記されてある◆過越しの祭りを祝うため全世界から帰郷していたユダヤ人の群れは、ロバに乗られたイエスを『イスラエルの王』としてエルサレムに迎え入れていたにもかかわらず(ヨハ12章)、ねたみに駆られたユダヤの宗教指導者たちによって逮捕され(18章前半)、ローマの総督ピラトに引き渡されても(18章後半)、何の政治的革命も起こさないイエスに失望した。そして宗教指導者たちに扇動されるままイエスを十字架へと追いやったのである(19:15)◆この一部始終を知るピラトは、命乞いをしないイエスを不思議に思い質問した(18:33-38)。「あなたはこの国の王なのか」「わたしの国はローマ帝国と対峙する性質のものではない。わたしは神の真理を証するために来たのであり、真理に属する者がわたしに従う」◆そこでピラトは罪状書きに『ユダヤ人の王ナザレ人イエス』と書いた。ユダヤ当局者たちが訴え出たような政治的革命者としての王ではなく、「ユダヤ人の信じる神の真理を証するために来た王」と認めたのだ。そのためピラトは『自称した』(19:21)という言葉を退けたのであった。

■ 2011/11/20 (日)
 [題]
「ヨハネ18,19章− 新生したペテロ 」
 [みことば]
『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。』 (使徒4:29)
 [ショート・メッセージ]
◆福音書の中の弟子たちはまだ新生していない。イエスの死と葬りと復活と昇天と着座によって身代わりの死が成し遂げられ(ロマ8:3)、贖いのための主の使命が全うされなければ、新生に至らせる聖霊の来臨はないからだ。神の救いのご計画には緻密な順序が定められており、秩序に満ちていた。行き当たりばったりではないのだ(ヨハ16:7)◆新生していなかったにもかかわらず、ペテロをはじめ弟子たちはうぬぼれていた。『彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった』(ルカ22:24)。『シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」』(同33) その舌の根も乾かないうちにペテロはイエスを3度否認し(ヨハ18:15-27)、弟子たちはイエスを見捨てて逃げた(マタ26:56)◆その弟子たちが激変したのだ。命を賭して主の福音を証し(使2:22-24)、死を恐れずして復活の主を宣べ伝えはじめたのである(同4:33)。別人となった弟子たちの姿にユダヤの宗教指導者たちは驚愕し(同4:13-16)、取り扱いに困窮した(同17-18)。彼らの中に霊の命が入ったのである(ヨハ3:5-6)。新生したのだ。『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(Uコリ5:17)◆聖霊によるこの新生のわざを軽んじてクリスチャンと呼ばれてはならない。

■ 2011/11/13 (日)
 [題]
「ヨハネ18,19章− ペテロの失敗 」
 [みことば]
『イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」』 (ヨハネ18:11)
 [ショート・メッセージ]
◆最後の晩餐での告別の説教を終え、途中退席したイスカリオテ・ユダを除く11名の弟子と共に、イエスは夜、エルサレムから出て東の方角へ下られた。エルサレムとオリーブ山に挟まれた谷間にあるゲツセマネの園(マタ26:36)に入られたが、そこは弟子たちとよく会合された場所であった(2)◆そこにイエス一行が行かれることを察知していたユダは、600名のローマ兵と祭司長、千人隊長、ユダヤ人から送られた役人たちを引き連れ(ヨハ18:3,12)、たいまつと武器を持ってやって来た。一人のためにこれだけの人数を要したことは異常であったが、銀貨30枚を得ていたユダ(マタ26:15)には失敗が許されなかったのであろう◆それにしてもなぜ夜の急襲なのか。イエスをメシヤと期待している民衆の間に暴動を起こさないため、宗教指導者たちは民衆に気付かれぬようイエスを逮捕し裁判にかけ有罪を確定し、ローマに引き渡す計画だったのだ。計画は順調に進み、無力なメシヤを見て失望する民衆を扇動して、ついに「十字架に付けろ」と叫ばせるに至ったのであった(マコ15:13-14)◆民衆が期待していたのは強いメシヤであり、自分たちの願い(欲望)を叶えてくれる頼もしいメシヤであったからだ。弟子ペテロも同じであった(10)。そのペテロにイエスは言われた。「剣をさやに収めよ。父から受けた杯をどうして飲まずにいられよう」(11)。かつてイエスから戒められていたペテロ(マタ16:23)の同じ過ちであった。

■ 2011/11/06 (日)
 [題]
「質疑応答− 悪者・罪人・あざける者 の違いは何ですか 」
 [みことば]
『幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。』 (詩篇1:1)
 [ショート・メッセージ]
◆「悪者・罪人・あざける者」は同じ意味を持つことばで、「正しい者」(5,6節) に対比されて使われているが、それぞれのことばに隠された意味がある◆「悪者」とは故意の罪を犯す者のこと。人として恥ずべきことであるという認識がありながら罪を犯す者のことで、悪質である。交通法規を無視して運転するドライバーのようなもの。自制心の欠如による◆「罪人」とは神を知ることを拒む者のこと。ファッション、グルメ、トラベルや趣味、遊興娯楽、飲酒、占い、偶像礼拝の世界にのめり込んでいる者は、自分の行動を規制されたくないので、真実の神を知ることを拒絶する◆「あざける者」とは神のみこころを馬鹿にする者のこと。聖・義・愛に関する聖書の教えや人としての正しい生き方についての勧めの言葉を聞くと、軽んじたり嘲ったり馬鹿にしたりする。自分流の生き方を変えたくない者で、究極の自分勝手な生き方をしている者のことだ◆聖書を通して神は、人間はみな罪人であり、そのため神の存在を認めようとせず神に近づこうとしないと教えておられる。この罪の存在に気付かせるために神はイスラエル人をはじめ全人類に律法を与え(ロマ3:20、5:13、7:7、ガラ3:19)、律法が記されてある聖書を全世界に届けるようにクリスチャンに命じられた。それは罪人をさばくためではなく、救い主キリストへ導き(ガラ3:24)、キリストによる赦しを与えるためである(Tペテ1:18,19)。神の愛は真実である。

■ 2011/10/30 (日)
 [題]
「ヨナ− 神から矯正され続ける必要 」
 [みことば]
『私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。』 (ロマ7:24)
 [ショート・メッセージ]
◆4章で神はヨナを教育される。事の次第はこうだ。1章で神の命令を拒んだヨナは2章で悔い改め、3章で預言者としての使命を果たし神のメッセージをニネベに届けた。しかしそのことでヨナは制御不能となり、神に対して腹を立てる。神がニネベへのわざわいを撤回されたからだ(3:10)。神がそうなさるに違いないと分かっていても(4:2)、イスラエルの敵ニネベが一つの制裁も受けないまま、丸ごとゆるされた現実に納得できなかったのだ◆すると神はヨナの前に、一本のとうごま(瓢箪のようなもの)と、一匹の虫と、焼けつような東風(砂漠からの熱風)を備え(6,7,8節)、自分を楽しませ喜ばせてくれた者が自滅していくことへの惜別の思いを教えた。創造者なる神によって世に生まれたニネベの住民の中には、かつて道徳的な善い行ないをした者たちもいたであろう。そればかりか、彼らの元に神のことば(律法)が届かなかったがゆえに「右も左もわきまえ」られず(11節)、見よう見まねで罪を行なうしかなかった者たち。神はその事実を(ルカ23:34)ヨナに気付かせようとされたのだ◆反省し律法を生きる生活を行なうようになっても、なかなか消えないのが敵への憎しみである。ヨナは新生未経験だったため仕方ないとしても、新生したパウロですら叫んだのだ。「私はみじめな人間です。自分でしたくないことをしている」(ロマ7:24,20)。新生しても神から矯正され続けなければ、肉に属してしまう(Tコリ3:1-3)。

■ 2011/10/23 (日)
 [題]
「ヨナ− 主のことばのとおりに 」
 [みことば]
『ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。』 (ヨナ3:3)
 [ショート・メッセージ]
◆神がヨナに望んでおられたのは、同胞から賞賛を受けることではなかった。名を上げることでもなければ、英雄になることでもなかった。悔い改めて神と苦しみを共有し、神のみこころを実行し、自滅寸前となっていたニネベの住民を滅びから救う働きに与ってくれることであった◆クリスチャンとされた私たちのうちにも肉は存在する。それゆえ、肉に属したクリスチャン(Tコリ3:1)になる弱さは誰もが持っている。信者の数を増やすことや、教会堂を荘厳にすることを目指し、大切な霊的状態をおろそかにしたまま、人の目に自分たちがどう映るかを気にした哀れな活動に精を出す教会が後を絶たない◆これらの肉的な思いを、ヨナは『むなしい偶像』と表現した(ヨナ2:8)。神の望みではなく、自分の願いを優先するところには数えきれない罠が多方面から提供される。神はその愚かさに気付かせるために嵐を送った。それでも向きを変えようとしなかったヨナを次には海に投げ込ませた。ヨナは海底まで沈んでいき(2:2-6a)、その絶体絶命の危機の中で自分の愚かさを認め、そしてやっと悔い改めた(同6b-9)◆そんなヨナを神は喜ばれ、陸地に吐き出させ(10)、再度ご自分のみこころへと招いた(3:2)。するとヨナは『主のことば』に服従し(3)、ニネベに走ったのである。ノアのように(創6:22、7:5)、アブラハムのように(創4)、モーセとアロンのように(出7:6)、ダビデのように(T歴14:16)主に従ったのだ。

■ 2011/10/16 (日)
 [題]
「ヨナ− 主を恐れた乗船者 」
 [みことば]
『彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ。すると、海は激しい怒りをやめて静かになった。人々は非常に主を恐れ、主にいけにえをささげ、誓願を立てた。』 (ヨナ1:15-16)
 [ショート・メッセージ]
◆荒れ狂う激しい暴風の中で、船の水夫たちは難破を恐れて叫び声を上げ、船を軽くするために積み荷を海に投げ捨て、嵐を引き起こしている者見つけるため乗船者全員にくじを引かせた。そしてそのくじはヨナに当たった◆彼らがヨナを問い詰めるとヨナは言った。「私にまちがいはない。私は、私が信じ仕えている神の命令を無視してタルシシュへ逃れようとしたからだ。私を海に投げ込めば海は静かになろう。」 彼らは船を陸地に戻そうと努力したがだめだったので、仕方なく激しく揺れる船の甲板からヨナを海に投げ込んだ◆すると同時に海は凪いだ。いまだかつて誰も体験したことのない自然界の激変を見て人々は非常な怖れに包まれた。ヨナというイスラエルの預言者が信じ仕えている神が、世界中どこにもいない特別な神であることを体験を通して知った彼らは、嵐が静まったことへの感謝とヨナの命のために自分たちに報いが来ないようにといけにえをささげた。彼らの驚き様は尋常ではなかった◆この時の主への恐れこそが、3章のニネベの町全体の悔い改めへを引き起こしたのである。私たちもまた、家庭や職場で「キリスト者」として主の栄光の器とされていることを常に自覚し、地の塩としての言葉づかいと、世の光としての行動を、主に自由に用いていただこうではないか。あなたの隣人が主の御前に悔い改める時が一日も早く来るために。

■ 2011/10/09 (日)
 [題]
「ヨナ− 全人類を愛し招いておられる神 」
 [みことば]
『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』 (マルコ16:15)
 [ショート・メッセージ]
◆ヨナ書は他の預言書と異なり、神から預かった言葉を記録するではなく、ヨナ自身の体験談を書き記すだけに留めている。1章は海が荒れ狂う描写であり、2章は大きな魚の中で悔い改める描写であり、3章は禍から回避されたニネベの町の描写であり、4章はニネベの町の東側で抗議するヨナの描写である◆ヨナ書というとどうしても、大きな魚に飲み込まれた出来事が中心のように考えてしまうが、この預言書の中心は、《異邦人の救い》である。神はイスラエル人だけを愛する神ではなく、全人類を愛しておられる神なのである◆人間の内にある肉の性質の中に偏愛が根深く残っており(ルカ9:49-50)、聖書から学んでいるクリスチャンでも例外ではない。仲間は愛し救うが、敵は愛し救う必要はないという考え方だ。ヨナの中にあるこの考え方を砕くために、神はヨナに試練を与え訓練されたのだ(ヨナ書全体)◆ニネベの町の人々が「悪の道から立ち返るために努力している」姿を喜ばれわざわいを思い直された神に対し、ヨナはあからさまに不満を訴え、神への抗議行動を起こした(4章)。そのようなヨナを諭して神は言われた。『この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない12万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。』◆神から、真実の愛を学び続けなければならない。

■ 2011/10/02 (日)
 [題]
「終わりの時代− 忍耐深いあわれみの神 」
 [みことば]
『主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。』 (Uペテ3:9)
 [ショート・メッセージ]
◆エデンの園で蛇(サタン)に騙され、軽い気持ちで行なったアダムとエバの契約違反(創3:6)は、その後深刻な霊的死という暗黒の歴史へと突入した(ロマ5:12)。神の創造物がサタンの支配下に移され(Tヨハ5:19)、世代交代によって新しい生命が誕生しても、人は同じことを繰り返す。軽い気持ちで罪を行ない、取り返しのつかない泥沼の中へと引きずり込まれているのだ。真に悔い改めて神に立ち返るまで◆自分の間違いを認め自分の罪を認め、自分の責任を認めて謝罪し、神の御前に悔い改めて立ち返ろうとする者を受け入れて霊的に誕生させてくださる不思議なご計画を、神は立ててくださった(創3:15)。罪に汚染されている罪人が、全く新しく造り変えられる奇跡のご計画である(Uコリ5:17、イザ25:1,8)◆それを実現させるために神は御子を世に遣わされ、罪なき御子の死によって贖いを成し遂げられ、立ち返って来る者を再創造するための聖霊を遣わされた(エゼ36:26-28、使1:4-5)。聖霊は、罪赦されて心きよめられ罪の支配から救出させられた者の心に宿り、その者をますます新しくし、変え続けてくださるのである(コロ3:10)◆神は罪の世を終わらせる前にあなたを救い、あなたを待ち続けておられる忍耐深いあわれみの神である(Uペテ3:9、ヨエ2:13)。

■ 2011/09/25 (日)
 [題]
「終わりの時代− 聖霊なる神の尊い使命 」
 [みことば]
『御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。』 (ヨハネ16:14)
 [ショート・メッセージ]
◆『それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』(創2:17)というアダム契約が結ばれていたにもかかわらず、蛇(サタン)の誘惑にマインドコントロールされたアダムとエバによって、罪がはいり死がはいり死が全人類に広がった(ロマ5:12)。このようにして「神のかたち(霊のいのち)」(創1:27)が死に、神との交わりが断絶し神の栄光を現わせなくなった人類に対し、神は即座に救いのご計画を立て明らかにされた。『わたしは、おまえ(サタン)と女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼(メシヤ)は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。』(創3:15) これが原福音である◆このご計画に沿って御父は人類の歴史を導かれ、ご自身の聖と義に背くことなく、気の遠くなるような年月を用いて御子を遣わされたのであった。御子は受肉され、罪人の身代わりに『罪から来る報酬である死』(ロマ6:23)を味わわれ(ヘブ2:9)、信じ受け入れる者に罪の赦しと永遠のいのちを備えてくださった。これこそが聖霊降臨の準備であった◆聖霊は謙遜の霊であられる。イエスは最後の晩餐の席上で弟子たちに次のように語っておられた。『御霊はわたしの栄光を現わします。』(ヨハ16:14) 神と人との唯一の仲介者は受肉されたキリストであり(Tテモ2:5)、聖霊はこの仲介者を明らかにされるお方であってご自分の栄光を現わされることを望まれるお方ではない。これが聖霊なる神の尊い使命である。

■ 2011/09/18 (日)
 [題]
「終わりの時代− 終わりの時代の幕開けであった聖霊降臨 」
 [みことば]
『彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。…」』 (使徒1:4)
 [ショート・メッセージ]
◆終わりの時代は、《聖霊降臨》によって幕が開く。預言者ヨエルを通して約束されていた。『わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。』(2:28-29) 奴隷であろうと女奴隷であろうと、真に悔い改める者に、分け隔てなく無条件で、聖霊(わたしの霊)を注ぎ新生させる(ヨハ3:5-6)、という約束であった。それがついに果たされたのだ(使2:17-21)。それは五旬節の日であった(同1)。聖霊を受けて新生させられたペテロは、その日聴衆に語った。『神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。』同33)◆エデンの園で失われた「神のかたち」の再創造の歴史が、人類においてこうして始動した。その日から約二千年が過ぎ多くの罪人が再創造され、教会の交わりに加えられた。教会は地上に誕生した御国の交わりである。『「そら、ここにある。」とか、「あそこにある。」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』(ルカ17:21) そしてこの地上の御国(教会)が天に引き上げられる時もまた定められている。そのとき聖霊も使命を全うされて天に帰って行かれる(Uテサ2:7)。その日が患難時代の始まりだ。

■ 2011/09/11 (日)
 [題]
「終わりの時代− 罪の世の終わり 」
 [みことば]
『今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。』 (Uペテ3:7)
 [ショート・メッセージ]
◆近年大きな地震が世界各地で頻発している。今を生きる地球上のだれもが心のどこかで思っている地球最後の日。その日が本当に来るのではないかと、ぬぐいきれない不安を抱いている傍らで、地震速報ニュースが頻繁に流れる◆聖書は言う。確かに今のこの地球この宇宙は永遠の存続ではないと。『主の日は盗人のようにやって来ます。その日には天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。』(Uペテ3:10) 主の日とは主が計画された日のことだが、では終わりとは何の終わりを指しているのであろうか◆「罪の世」の終わりのことである(Uペテ3:7)。アダムがサタンの言葉を受け入れた瞬間から神の国は消えサタンの支配化となった世が続いている(ルカ4:6,Tヨハ5:19)。人は、願う善が行えず悪を行なうみじめな存在となり(ロマ7:19-20)、罪悪感に打ちひしがれ、消えない良心の呵責で苦しんでいる(同24)◆罪の奴隷(ロマ6:17)と化したみじめな人間をその泥沼から救出し(同18、コロ1:13)、本来あるべき姿に再創造するためにキリストは来られ(ヨハ10:10,28)、罪によって汚された「いろいろなわざを焼き尽く」し、『正義の住む新しい天と新しい地』(Uペテ3:13)を創造するために、このお方は、十字架の死と復活をとおして、御父が計画された贖いのわざを完成してくださったのである。

■ 2011/09/04 (日)
 [題]
「イザヤ53章− 贖われてメシヤの子孫とされる 」
 [みことば]
『イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』 (ヘブル12:2)
 [ショート・メッセージ]
◆イザヤ53章には、メシヤの贖罪的死(5-9)だけが預言されているのではない。死後の復活と昇天着座(10-12)までもが預言されているのである。すなわち、『子孫』とはメシヤのいのちに与った(ヨハ1:13,3:16,Tヨハ3:9)クリスチャンのことであり、そのクリスチャンを『見る』とはメシヤの復活を意味している。さらに『末長く』は永遠の存在であることまで指しているのだ。ところでこの『見る』という言葉は11節にも繰り返されており、この喜びを見るために十字架を忍ばれたという新約のみことば(ヘブ12:2)と一致する。神のみこころは罪人が贖われてキリストの子孫とされた新しい人生を、不平不満愚痴の消え、喜び感謝賛美に満ちた全く新しい人生(Uコリ5:17)をスタートすることである。神はこの祝福の中へ全人類を招いておられるのである◆『その知識』(11)とは救いに至らせる知識、すなわち福音のみことばである(ロマ10:17)。その知識は滅びに至る人々には愚かに思われ(Tコリ1:18)、ユダヤ人にとってはつまづき、異邦人にとっては愚かである(同23)が、あなたが救われるとき爆発的な力となるのである(ロマ1:16)◆さらに、『とりなしをする』(12)とあるが、メシヤの贖罪的死によって自分の罪が永遠に赦されている事実を信じメシヤの子孫とされた者を、父の右に着座されたメシヤが(ヘブ1:3)、とりなし続けておられることを指している。『キリスト・イエスが神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。』(ロマ8:34)

■ 2011/08/28 (日)
 [題]
「イザヤ53章− 人生の荷を下ろそうではないか 」
 [みことば]
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』 (マタイ11:28)
 [ショート・メッセージ]
◆『私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。』(4) イザヤはメシヤ(救い主)の死の幻を見せられたのだが、メシヤがなぜ殺されなければならないのかその真意が理解できなかった。しばらくしてその真意が神によって明らかとされた◆『私たちのそむきの罪のために…私たちの咎のために』(5)、代償の死を遂げたのだと知らされたのである。私たち罪人が"永遠の死(地獄)"に向かうことがないための、あわれみに満ちた神のご計画であったのだ。イザヤに明らかにされたこのご計画は、その後750年経てからエルサレムで成就することになり、その顛末は新約聖書の福音書に詳しく記録され、そこに隠された奥義は新約聖書の使徒の働き・使徒書簡・黙示録に啓示されている◆紀元前の預言者たちを通して神が人類に示された約束(預言)は、それぞれの時代に聖書に記録され、歴史の中で確実に成就されてきた。それは、先祖代々教えられている神に背を向け身勝手に歴史を生きたイスラエル人と、神も神の戒めも知らないために人目を恐れ周りに調子を合わせて生きてきた異邦人を罪の力から救出し、新しい人生を与える(プレゼントする)ためであった。プレゼントは受け取るまで贈り手の中にある。神の御前に罪人であることを認め、この救いを受け取り、人生の荷を下ろそうではないか。

■ 2011/08/21 (日)
 [題]
「イザヤ53章− イスラエルのつまずきは神のご計画」
 [みことば]
『では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。』 (ローマ11:11)
 [ショート・メッセージ]
◆1-3節に、『私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ』、とのイザヤが見た幻が記されてある。この、ユダヤ人によって拒絶されるメシヤこそが、『神が…あらかじめお立てになったご計画』(エペ1:9)であった。イスラエルを奴隷状態から救出された出エジプト時の神の力強い御腕(51:9-10)が、将来どのようにして現れるかを幻として見せられたイザヤは、これはいったいどうしたことか、このようなメシヤをいったいだれが信じ受け入れることができよう、と思ったのだろう。そこには見とれるような姿も、輝きも、慕うような見ばえもなく、期待外れなあわれな姿であった◆しかしこのしもべこそが、イスラエルをはじめ全人類を罪の牢屋から救い出すメシヤであり(コロ1:13)、神のご計画であった。神は、「あらゆる知恵と思慮深さをもって」(エペ1:8)、このご計画を推し進め、ローマ帝国による圧政下で、預言書の研究より律法遵守が要求される時代に神は御子を遣わされたのだ。『彼ら(イスラエル)がつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。』(ロマ11:11)

■ 2011/08/14 (日)
 [題]
「イザヤ53章− 神の不思議なご計画」
 [みことば]
『この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。』 (Tコリ2:8)
 [ショート・メッセージ]
◆紀元前750年ごろに記されたイザヤ書は、全部で66の章から成り立ち、内容から見ると全体は2分でき、前半は39章まで後半は残りの27つの章となる。あたかも聖書66巻全体を予表していたかのようだ。しかも、前半は罪の告発で始まり新時代への待望で終わり、後半は捕囚からの帰還予告で始まり新天新地の待望で終わっている。それぞれが旧約聖書と新約聖書の構造に酷似している◆ところで今月学び合う53章は、後半27つの章のちょうど真ん中に位置しており、新約の中心がメシヤによる贖いのわざ(十字架)でありことを示しているかのようだ。今回の53章の初めに『私たちの聞いたことを、だれが信じたか』(1)とあるが、預言のことばを取り次いだイザヤの戸惑いが表現されている。なぜならイザヤに明らかにされた神の救いのご計画は、世に登場するメシヤが苦しみを受け(3-4)、殺され(5-8)、葬られ(9)、よみがえり(11)、大祭司としてとりなす(12)という受難と死が定められていたからである。これらこそ福音の中心であり(Tコリ15:1-4)、御座の右に着座することも暗示されていたのだ(ロマ8:34)◆しかしユダヤ人はこのイザヤ53章にある神の不思議なご計画(贖い)を、だれも悟っていなかった(Tコリ2:8)。それで彼らはイエスに冒とく罪を適用して、死刑判決を下したのだ(マタ26:64-66)。しかしそれもまた神のご計画であった(ロマ11:8)。

■ 2011/08/07 (日)
 [題]
「質疑応答− サタンについて教えてください」
 [みことば]
『…すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇…』 (黙12:9)
 [ショート・メッセージ]
◆サタンとは「敵対者」という意味。サタンは天使のひとりであった。ヨブ記1-2章で他の天使と同じように神の御前に出てヨブをつまづかせるための策略を練り、不遜にも神をだまそうとしてヨブを訴えている。サタンは実に不遜な存在である(Tヨハ3:8)。またダビデを誘惑して人口調査へといざない、自己満足と自分の力の誇示へと向かわせ罪を犯させた(T歴21:1)。サタンの標的は全人類であり、全人類を惑わす存在であって、常に神に敵対している◆本来のあるべき人間は『霊、たましい、からだ』から成っているが(Tテサ5:23)、アダムがエデンの園で神との契約を破った瞬間(創3:6-8)、約束どおり刑罰としての死が与えられたのだが(創2:17)、それによって霊が死に、神との交わりが不可能な存在となったのである。神と交わる器官である霊が死んだため、霊の働きかけを受けられなくなったたましいはサタンとしか交わることのできない不完全な器官となった◆『肉に属する人(クリスチャン)』(Tコリ3:1)という表現があるが、新生して霊を受けていながら(Tコリ2:15)、神の国とその義とを第1にしようとしないクリスチャンは、感情(たましい・肉)に支配され、『ただの人』と同じような行動をとるようになる(Tコリ3:3)。サタンによって汚された罪の世の人々の行動の影響にさらされている私たちは、常に聖さを求めなければならない(Tペテ1:14-16)。

■ 2011/07/31 (日)
 [題]
「パウロ− とげのついた棒をける」
 [みことば]
『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』 (使徒26:14)
 [ショート・メッセージ]
◆主はパウロに現われた時、『とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ』と言われた(使26:14)。すなわち、「あなたはわたしに逆らい続けているのだよ」と諭されたのである。自分では良かれと思って取っていた行動が、実は神に逆らう愚かな行為であった、とパウロは知らされた◆きっすいのヘブル人であり、パリサイ派に属していたパウロは(ピリ3:5)、ナザレ人イエスが誰であるかを知らぬまま(Tテモ1:13)、イエスをねたむ指導者らの言葉に盲従していたのだ。マインドコントロールとは怖いものである。それでパウロは真っ先に尋ねた。『主よ。あなたはどなたですか』と。すると答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』(使26:15)◆ユダヤ教社会において「先祖からの伝承に人一倍熱心」(ガラ1:14)であったパウロの落とし穴がここにあったのだ。パウロは真実を知らぬまま、自分の意思であるかのように積極的にクリスチャン狩りの活動に専念していたのである(使26:11)◆私たちもまた時には立ち止まり、聖書は何と言っているか、はたしてその通りかどうかと、聖書を調べ続けなければならない(使17:11)。ペテロ(マタ16:22)やユダ(ヨハ13:30)の行動も反面教師として聖書に記録されている。彼らと同じ過ちを繰り返すことがないように、気をつけなければならない。

■ 2011/07/24 (日)
 [題]
「パウロ− 福音のために苦しみを共有してください」
 [みことば]
『ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。』 (Uテモテ1:8)
 [ショート・メッセージ]
◆パウロはテモテに勧める。「ですから…福音のために私と苦しみをともにしてください。」◆「ですから」とは、「力と愛と慎みとの霊」(7)をすでに受けていること(聖霊の内住)を指し、新生の恵みを受けていることを再確認した上で話を進めている。私たちもまた、新生させられている事実を常に確信させていただかなければ、主とのくびきを負って大胆に信仰生活を送ることはできない。それゆえ週の初め毎に導かれている聖餐式(パン裂き礼拝)がいかに重要であるかを認識させられる◆「福音のために」とは、@福音の真理が保たれるために(ガラ2:5)、A福音宣教のために(マコ16:15)、の2つの意味がある。福音の真理は保たれなければならない。異端の教え(偽預言者・偽教師)は教会の中から出て行ったからである(Uヨハ7、Tヨハ4:1)。士師時代のように神の秩序を無視したり(士21:25)、聖書に私的解釈を施すことがあってはならないからだ(Uペテ1:20)。福音宣教は、教会という霊的共同体としての働きであり、個人プレイであってはならない。この個人プレイのスタイルから異端は発生し独り歩きし始めたのである。イエス様もまた、弟子たちに福音宣教の予行練習をされた時、2人ずつ組にして遣わされた(マコ6:7、ルカ10:1)◆福音とは何か。それはTコリント15章1-5節に記されており、受肉されたキリストの「死と葬りと復活の事実」であり、「それによってもたらされる神の恵み(無条件の祝福)の知らせ」のことである。

■ 2011/07/17 (日)
 [題]
「パウロ− いのちがけで福音を宣べ伝えたパウロ」
 [みことば]
『けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。』 (使20:24)
 [ショート・メッセージ]
◆ダマスコ途上で主イエスと出会い(使26:12-17)、新生し(Uコリ5:17)、バプテスマを受けて献身したパウロ(使9:18-19)の人生は全く新しく変えられ(Tコリ15:10)、キリストと苦しみを共有する(ピリ1:29、3:10)道のりを走り続けることが(Uテモ4:7)、彼の喜びとなりました(ピリ1:20-21)。新しくされた人生を彼は喜び、どのような境遇の中でも絶えず祈り、すべてのことについて感謝し(Tテサ5:16-18)、主との苦しみの共有を通して主との喜びの共有(マタ25:21)を味わいました(Uコリ12:9)◆かつてユダヤ教徒であったころの彼は、イエスを「ナザレ人」と呼んで侮辱しその名に強硬に敵対し(使26:9)、イエスをメシヤと信じて礼拝するクリスチャンたちに対しては、神を冒涜する者として激しく怒り(同11)、彼らを縛っては牢に入れ死にまでも至らせていました(使22:4)。教会を滅ぼすことは(ガラ1:13)、神を喜ばせることであると彼は本気で思っていたのです(ピリ3:5-6、Tテモ1:13)◆しかし彼にとって大きな誇りであったそのような生き方を彼はキリストのゆえに捨ててちりあくたとし(同8)、自分の義を打ち立てる人生から、死んでよみがえられたキリスト(Tコリ15:3-4)を信じて与えられる「信仰による義(ピリ3:9)」を、いのちがけで宣べ伝える人生へと変えられたのです。『福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。』

■ 2011/07/10 (日)
 [題]
「パウロ− 自分の誇りを捨ててキリストに従った」
 [みことば]
『しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。』(ピリピ3:7)
 [ショート・メッセージ]
◆「主よ。あなたはどなたですか。」(使9:5) 教会から恐れられていた迫害者サウロ(後のパウロ)は、ダマスコ途上で、光の中から自分に語りかける存在者に向かって言った。すでに、目は開いていても何も見えない状態だった(8)◆ところで"サウロ"はヘブル名で「望まれた者」の意味、その名はローマ名では"パウロ"となり「小さい者」という意味になる。彼をはじめ私たちもまた望まれて生まれて来た一人一人であるが、罪ゆえに自分中心の考え方に捕らわれ、意固地となり、神のご計画から遠く離れた人生を彷徨う。人生において自分が大きな存在(神)になってしまうからである◆サウロも同じであった。当時最大のラビであるガマリエルのもとで学び(使22:3)エリートコースをひた走っていた彼は(ピリ3:6)、のろいの木である十字架にかけられ殺されたイエスを神として礼拝し、公然と神殿批判をする教会の信者たちは、神への冒?の罪を犯している結論付け、激しくこれを迫害し、徹底的に滅ぼそうとした(ガラ1:13)。そんなサウロに、神はダマスコ途上で直接介入されたのである◆復活の主に出会い、名を呼ばれ、声を掛けられたサウロは、初めて神との人格的な交わりを体験した。彼は自分の小ささを知り、心の貧しい者とされ、それまで自分の誇りであったすべてを捨てて(ピリ3:7-8)、キリストに従った。このとき彼は、パウロ(小さい者/Tコリ15:9)とされたのであった。

■ 2011/07/03 (日)
 [題]
「いつまでも残るもの− あなたがたの実」
 [みことば]
『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、…』 (ヨハネ15:16)
 [ショート・メッセージ]
◆救われて神の家族(エペ2:19)に加えられ、キリストのからだなる教会に属する者(Tコリ7:22)となった信者全員に、福音宣教の使命はすでに与えられている(マタ28:19)。それは、すべての人を罪の支配と破滅から救うことが神のご計画だったからである(テト2:11-13、Uペテ3:9)。そのために神は御子を遣わされ、私たちを導いてくださり、福音を宣教する者として任命しておられるのである(ヨハ15:16)◆イエス様によって任命された私たちは実を結ばなければならないのである。実を結ぶとは、新しい人格が形成されることであり(ガラ5:22-23)、私たちを通して宣教の結果としての回心者が起こされることである(ロマ1:13)◆未信者の方々は、私たちが以前そうであったように、聖書は読まずともクリスチャンを見、クリスチャンの行動を見つめ、クリスチャンを通して神の存在を知ろうとするのである(Tペテ3:2、Tヨハ4:12)。新しい人格すなわち御霊の実は、新しいいのちによってしか結ばれない◆実を結ぶというもうひとつの意味は、福音宣教の結果としての回心者である。神は、あなたを通して救われる者を誕生させてくださる。『あなたがたは行って、あらゆる国の人々を(キリストの)弟子としなさい』(マタ28:19)。教会に対する迫害の歴史の中で、神はクリスチャンを通してクリスチャンを誕生させ、その群れを今も導いておられる。

■ 2011/06/26 (日)
 [題]
「いつまでも残るもの− 愛」
 [みことば]
『しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』 (ロマ5:8)
 [ショート・メッセージ]
◆第3回目は「愛」。愛は旧新約聖書全体を貫く中心主題。イエスは次のように言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めもそれと同じようにたいせつです。」(マタ22:37-40) 神を愛することと人を愛すること、この愛を聖書から学び実践できなければ、人として生きている確信に到達できず、人生に平安はなく、喜びも味わえない◆では愛の本質とは何か。愛はヘブル語で「ヘセドゥ」と言い、結ばれた契約を守ること(Tサム20:8)を意味している。すなわち愛とは「裏切らない」こと。ゆえに契約を守るという行動によってのみ愛は実証される。言葉で愛を表現しても、契約を守り続けるという行動がなければ、愛の実証は不可能だ(Tヨハ3:18)◆では愛の大きさは何によって計れるか。それは支払われた犠牲の大きさである。『キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。』(ピリ2:8) 私たち罪人を救うために命を捨てて下った御子によって(ヨハ15:13)、私たちに対する神の愛の大きさを知ることができる。キリストを模範として生きていこう(Tペテ2:21)。

■ 2011/06/19 (日)
 [題]
「いつまでも残るもの− 希望」
 [みことば]
『御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。』(ロマ8:23)
 [ショート・メッセージ]
◆神が聖書を通して示しておられる希望は"永遠"に関するもので、この世に執着したものではない(Tコリ15:19、ロマ8:24)。すなわち"栄化"されることへの希望である◆アダムとエバが悪魔の言葉に服従し世が悪魔の支配下に移った時、神はただちに計画を立てられた。すなわち、火によって世と天の万象を焼き尽くし(Uペテ3:12)、正義の住む"新しい天と新しい地"を創造するご計画である(同13、エペ1:9-11)。その新しい天と新しい地で生きる体こそ、栄化されて与えられる新しい"からだ"だ(Tコリ15:44)。ユダヤ人がずっと待ち望んでいた"永遠のいのち"(ルカ10:25、18:18、ヨハ6:27、ロマ6:22)とはこのことである◆新生させられ永遠のいのちをいただいた者には、必然的に御霊のからだが着せられる(Uコリ5:1-5)。ちなみに、この栄化の計画が実行に移されるのは空中携挙の時だ。『終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。』(Tコリ15:52)◆前回学び合った"信仰"から、この"栄化への希望"は生まれる(ピリ3:9-11、ロマ5:2)。そしてこの"希望に対する確信"から、大洪水のように"愛"があふれ出すのである(ロマ5:5、コロ1:4-5)。あなたから、神へ、そしてあなたの周りにいる人々へ。

■ 2011/06/12 (日)
 [題]
「いつまでも残るもの− 信仰」
 [みことば]
『信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる』 (ローマ10:17)
 [ショート・メッセージ]
◆『いつまでも残るものは信仰と希望と愛です』(Tコリ13:13)とパウロは信仰と希望と愛の永遠性を明らかにした。この永遠性は、前述の不完全なもの(預言・異言・異言を解き明かす知識/同8-10節)にある一時性と比較した形で論じられている。不完全なものとは、神のことばである聖書を完成させるために与えられた賜物のことである。旧約だけでは欠けがあったので(ヘブ8:7)、新約の完成によって「完全な聖書」となったのである。第1回目の今回はこの「信仰」について学び合いたい◆信仰とは、信じ委ねることである。人間が考えた人間以下の知識ではなく、人間を創造された方の真実なることばが、その対象である。世には溢れるばかりの情報があるが、人生を委ねきれるアーメンなることばは聖書以外に存在しない。アーメンとは「真実その通り」という意味であり、聖書ほど長い歴史の中でその真実性が試された書物はない。信仰の対象は、漠然とした概念としての神であってはならない。ワラにすがりながら、沈んでいくようなものだ◆信仰の真実性は、信じる者の行動によって明らかになる。罪に支配されていた人生が消え、人の立場に立てなかった人生が遠のき、敵を赦せなかった人生が赦せる人生に変えられる。みことばを学び続け、信仰を日々体感する者であれ。

■ 2011/06/05 (日)
 [題]
「質疑応答− 神の国・サタン」
 [みことば]
『あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。』 (ルカ8:10)
 [ショート・メッセージ]
◆Q.「永遠の神の国」について聖書はどのように語っているのでしょうか?…A.神の国は3つの段階で示されている。教会時代・千年王国時代・永遠の御国の3つ。1と2は今の天地の上に登場するが、3は新しい天地として現われる。1)の教会時代はダニエル書2:44に予告されている。『この王たちの時代に』とはローマ帝国時代のこと。聖霊降臨によって『一つの国』がすでに現実となったのである。2)の千年王国時代はイザヤ65:17-25に予告されている。『わたしの民の寿命は木の寿命に等しく』とは、なお期間限定の神の国が今の地上に起こることを意味している。3)の永遠の御国はUペテロ3:7、12-13に教えられている。『今の天と地は…火によって焼かれ…焼け溶けてしまい…正義の住む新しい天と新しい地』が創造される。それは千年王国の後に成就する(黙示20:11)◆Q.ヨブが災いを受けたとき神がサタンに許可を与えているとはどういう意味ですか?…A.サタンは神の許可がなければ行動できない存在であるということ。サタンは神の立場を乗っ取ることを目標として今もなお行動している(イザ14:14)。しかし神の支配下にあり(ヨブ1:12,2:6)、神が人に罪を自覚させたり、信仰を成長させたり、聖めるために、サタンの申し出の一部に許可を与えておられる。

■ 2011/05/29 (日)
 [題]
「ルカ18章− 神に近付く方法」
 [みことば]
『わたしに何をしてほしいのか』 (ルカ18:41)
 [ショート・メッセージ]
◆私たちのことをご存知であられ、私たちを正しく導いてくださる神に近付く方法4つが、この章に示されている。@1-8節/祈り続けることによって、A9-17節/へりくだることによって、B18-30節/手放すことによって、C35-43節/叫び続けることによって。これらはすべて「神を第一にすること」に他ならない◆@の祈り続けることとは、神の国とその義とを何よりも第一に優先することである(マタ6:33)。すなわち、神の喜ばれること神の望んでおられることを最優先して生きることだ。Aのへりくだることとは、自分のまちがい誤り愚かさをごまかすことなくすなおに認め、神に助けを乞うことである。自分の力を誇り自慢することによって、人はますます神から遠ざかってしまうのである◆Bの手放すこととは、方向転換の決断を指す。この決断がなされた時、目の前の障害物が取り除かれ、神にぐんと近づくことができるのだ。私たちは生まれ育った環境からくる依存性が幾つかある。それを手放すことに不安を感じるためにずっと依存して来たのだが、それを手放しなさいと主から命じられたなら、決断して向きを変えなければならない。Cの叫び続けることとは、神に求め続けることである。諦めることなく主の取り扱いを受け続けようではないか。

■ 2011/05/22 (日)
 [題]
「ルカ18章− ますます神を信頼して祈る」
 [みことば]
『いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。』 (ルカ18:1)
 [ショート・メッセージ]
◆この世では時に不正な裁判がなされ、まちがった判決が下ることがあります。人間が人間をさばくのですから仕方ないのかもしれません。しかし最終的な裁判が残っていることを忘れてはいけません。天の法廷です。そこでは、文字通りすべてが明らかにされます。ごまかしは利きません。地上の法廷で得しても損しても、天の法廷で公正なさばきがなされ、最終的な判決が下るのです。人は神を恐れなければなりません(伝12:13)◆さて、イエス様はたとえの中で、一人のやもめが公正なさばきを求めて裁判官にしつこく訴えたお話をされました(ルカ18:3)。しばらく取り合わないでいた世の裁判官も、うるさくて仕方がないという理由で女のために裁判をしてやったというのです(同5)。ましてや、愛に満ちた義なる神が、ご自分を信頼して、夜昼しつこく神を呼び求めている者たちのために、さばきをつけないで、いつまでも放っておくことがあるでしょうか、と言っておられます◆神はあなたのことを、見ておられ聞いておられ知っておられるお方です。神を見失って疲れ果て、失望することがありませんように。いよいよ神を信頼して祈るために、聖書から神ご自身について学び続けようではありませんか。『わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。』(マタイ11:29)

■ 2011/05/15 (日)
 [題]
「ルカ18章− 神のみこころにかなう願いをするなら」
 [みことば]
『主よ。目が見えるようになることです。』 (ルカ18:41)
 [ショート・メッセージ]
◆ルカ18章の最後に「盲人のいやし」の記事がある(同18:35-43)。マタイの福音書15章の「カナン人の女の娘のいやし」(同21-28)の時と同じように、イエス様は盲人の信仰を引き出すために叫ぶ盲人の声にすぐには応答されなかった。信仰は苦しみの中で練りきよめられるのである(Tペテロ1:7)◆盲人が諦めないで「ますます」イエス様に訴えたその時、イエスは盲人を呼び「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられた。すると盲人は「目が見えるようになることです」と即座に答えた。「目が見えるようになること」、すなわち霊的な真理を学ぶようになるまで人は世の情報に翻弄され、不安定なまま自己流の生き方を続ける。『みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。』(詩119:130)◆目が開けられた盲人は物ごいの生き方を捨ててイエス様に従った(ルカ18:43)。もし目が開かれることが彼の身勝手で不純な思いから出た願いであったなら、叶えられた時点で彼は自己満足しイエス様との関係は終了したであろう。しかし彼の願いが神のみこころにかなったものであったため(Tヨハネ5:14)、叶えられた時点で盲人は古い生き方を捨て、イエス様に従う新しい人生を始めたのである。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』(マタイ16:24)

■ 2011/05/08 (日)
 [題]
「ルカ18章− まだ一つだけ欠けたものがある」
 [みことば]
『あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』 (ルカ18:22)
 [ショート・メッセージ]
◆ある若い(マタ19:20)役人(18)がイエスに質問した。イエスは彼の偽善を見抜いて言われた。「なぜわたしを『尊い』と言うのか。尊いと呼ばれるべき方は神だけである」(19)。そう言って神に目を向けるよう促してから彼の質問(18)に答えられた。「永遠のいのちを得たいのなら、まず神の戒めによって自分を探り、罪を認めて悔い改めることだ(20)」◆すると彼は自分の弱さ罪深さに気付こうとせず、自分の表面的な正しさを強調して「神の戒めは小さいころから守っております」と胸を張った。自分の弱さ罪深さに気付こうとしないこと、それが最大の罪であり(Tヨハ1:8)、非常に危険なことだ(Tペテ5:8)◆しかしイエスはそんな彼を拒否せず非難せず侮らず、彼が自分の罪に気付くように、「あなたにはまだ一つだけ欠けたものがある。無一文になってわたしについて来なさい。そうすれば永遠のいのちを得ることができよう」と諭された(22)。しかし彼は悲しんで去って行った。大変な金持ちだったからである(マタ19:23)◆人は裕福な中で暮らしていると、自分の力を過信しやすく、自分には不可能はない、どんな困難も乗り越えられる、他よりもまさっていると思い込み、自分の惨めで哀れな現実に対し盲目となりやすい(黙3:17)。『貧しい者は幸いです』(ルカ6:20)、『心の貧しい者は幸いです』(マタ5:3)。

■ 2011/05/01 (日)
 [題]
「ノア− 不義に引き込まれることのないようにせよ」
 [みことば]
『悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。』 (エデキエル18:30)
 [ショート・メッセージ]
◆神は私たち人間に自由意志を与えてくださった。私たちに対して神は無理強いをなさらないのだ。私たちを傀儡(かいらい/操り人形)のように支配されることはない。時間をかけて教えさとし、脇道にそれて自分勝手に生きやすい私たちを、常に悔い改めへと導いておられる◆人祖アダムとエバがサタンから罪を受け入れ、エデンから追放されるまでの《無垢の時代》を神は注意深く見つめられ、ご自分の聖・義・愛に基づいて彼らを教育されたのであった。そして、「罪からの贖いの完成」(創3:15)へと向って園から追放されたのだ。人類が神から与えられた自由意志を正しく用いることができるかを試される《良心の時代》がスタートした◆しかし罪に汚染された人類が、神に背を向けたままの状態で自由意志を正しく用いることは不可能であった。『神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していた』(創6:12)。神はノアに語られた。『肉なるものの終わりがわたしの前に来ている』(13) このままでは人類が自己破滅し全滅する。神は、洪水を起こし、向きを変えて生きようと決心する者たちを救うご計画を明らかにされた。と同時に、悔い改める者たちを救うための箱舟を作ようにと、ノアに命じてくださったのである。

■ 2011/04/24 (日)
 [題]
「ノア−神が望んでおられること」
 [みことば]
『「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』 (マタイ9:13)
 [ショート・メッセージ]
◆『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』(イザ43:4) それゆえ神は、人を創造された時、自由意志を与えてくださった。人間をロボットにしなかったのである。それはピレモンに書き送ったパウロの手紙に書き表わされている。『あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。』(14)◆アダムが創造されてから現在に至るまで、神はどれほど忍耐し続けてくださったことであろう。『主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のこと(天地の滅び)を遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。』(Uペテ3:9) 神はひとり一人を今も待ち続けておられるのだ◆罪に汚染されている人間に対して神が望んでおられるのは、犯してしまった罪をすなおに認め、へりくだって心から神に悔い改める信仰である。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。』(マタ18:3) 自己義を捨て、信仰による義を神から受け取ってください。

■ 2011/04/17 (日)
 [題]
「ノア−信仰は聞くことから始まる」
 [みことば]
『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』 (ロマ10:17)
 [ショート・メッセージ]
◆アダムから数えて10代目にノアが生まれた。それはアダムが生まれてから1,056年後のことだ。このころすでに、暗雲が漂い始めていた。『主がこの地をのろわれた』(創5:29)とは、主の祝福が届かなくなったことを意味しているが、アダムの罪ゆえにのろわれたのは自然界だけ(3:17)ではなかったことが、明らかとなる。その暗雲は、アベルの代わりに与えられたセツ(4:24)、そしてその子エノシュから再スタートした祈りによる信仰復興の家系をも覆い尽くし、内側が罪で蝕まれて行ったのである。人類はとうとう自然消滅する危機に直面したのだ。ノア 500歳の頃のことであった◆その原因は"罪"であるが、その要因は信仰者(アダムの子孫)と不信仰者(カインの子孫)との雑婚(6:2)である。これにより祈りの習慣が消え、信仰による歩みが消え、『地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ち』てしまったのである(6:11)◆この自力回避不能の危機から人類を救うためのご計画を神は立てられ、信仰者として一人残されていたノア(6:9)に告げられた。彼は主のみこころを生き(6:8-9)、その家族もノアとともに信仰によって生きていた。神はノアに語り、ノアは神に従った(6:22)。信仰は『聞くこと』からしか始まらない(ロマ10:17)。キリストに関する正しい知識(聖書教理)を学ぶことなくして、信仰は始まらず、成長もしない。

■ 2011/04/10 (日)
 [題]
「ノア−すべて神が命じられたとおりにした」
 [みことば]
『ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。』 (創6:22)
 [ショート・メッセージ]
◆神がノアに造るように命じたのは、とてつもなく大きな「箱」だった。長さ132m、高さ13.2m、幅22mの細長い防水性の箱で、積載重量は5千トン級である。「箱舟」は英語ではArk(アーク)であり、モーセが入れられた「かご」(出2:3)も、幕屋の至聖所にあった「契約の箱」(民3:31)も、同じArkである。この箱をゴフェルの木で造るようにとノアは命じられ、命じられたとおりにノアは行動した(創6:22,7:5)◆当時の社会には信仰は見られず、暴虐と不道徳が蔓延し(創6:11-12)、もはや秩序回復不可の状態となり、全人類滅亡の危機に瀕していた。神は人類滅亡の危機を回避させるための計画をノアに啓示し、民に警告を与えさせた(創6:13)。神を信じ、悔い改めて箱舟に入るようにと◆しかし、神の計画を信じ行動したのはノアとその家族8人だけだった。民は神を無視し、『ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりして』いた(マタ24:38)◆サタンから罪を受け入れた人間が過ちを犯してしまうのは仕方のないことだが、自分の愚かさと犯した罪を認めて、悔い改めて神に立ち返ることを神は望んでおられる。『神である主の御告げ。― 悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。』(エゼ18:30)

■ 2011/04/03 (日)
 [題]
「十字架の周りの人々−百人隊長」
 [みことば]
『キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。』 (Tペテロ3:18)
 [ショート・メッセージ]
◆イエスが十字架で死なれた時、その警備を担当していた百人隊長は、もろもろの出来事を目撃して心から恐れ、『ほんとうにこの人は正しい方(神の子)であった』と告白した(ルカ23:47、マコ15:39)。彼は、以前、イエスによって自分のしもべをいやされた敬虔な百人隊長から(マタ8:5-13)、イエスの言動や人格なりについて聞いていたに違いない。さらに、イエスを尋問した総督ピラトが、イエスを訴えたユダヤの宗教指導者たちに対して、『見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません』と無罪宣言した時のこと(ルカ23:15)を思い出したに違いない。宗教指導者たちと民衆から憎まれ、罵られ、『除け。除け。十字架につけろ』と激しく叫ばれたイエス(ヨハ19:15)が、その生涯の中で何一つ悪いことをされなかったことを、思い出していたに違いない。だからこそ彼は、「ほんとうに」と、心をこめて告白したのだ◆聖書は言う。『しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(ロマ5:8) 私たち罪人を永遠の滅びに向かわせないために、イエスは人となって来られ、私たちの身代わりとなって、私たちが受けるべき罪のさばき受けてくださったのである。

■ 2011/03/27 (日)
 [題]
「十字架の周りの人々−クレネ人シモン」
 [みことば]
『神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。』 (Tペテロ1:3)
 [ショート・メッセージ]
◆過越しの祭りを祝うために北アフリカのクレネから帰省したシモンは、女たちの泣き叫ぶ声や、こぶしを振り上げて騒ぐ男たちの罵声を聞いた。何事だろうと身を乗り出した時、ローマ兵に捕まった。「ちょうどいい、おまえがこいつの十字架を担げ!」 妻に荷物を渡し、言われるままにイエスという男が担いでいた十字架を受け取った。想像以上に重い。処刑場ゴルゴタまでの道のりを、血で真っ赤に染まったイエスの背中を見つめながら歩いた◆イエスの十字架を背負って歩いたシモンはイエスから目を離せなくなった。処刑場でのイエスを見つめ、母マリヤと弟子ヨハネとの会話を聞き、墓に葬られるイエスの亡骸を見、嘆き悲しむ女たちの姿を目で追った。3日後に空っぽとなった墓も見た。エルサレムの町でイエスについての情報を集めた◆彼はエルサレムに留まり続け、五旬節の日を迎えた。イエスの弟子たちが他国の言葉で神の大きなみわざを語るのを聞いた。そしてイエスを知り、信じ、家族全員が救われた◆のちにパウロは、この家族から証を聞くこととなったようだ。パウロは手紙の中で、シモンの子のルポスの名を挙げ(マコ15:21)、シモンの妻を親しみを込めて「私の母」と呼んだ(ロマ16:13)。あなたもイエス様を見つめ、イエス様について聖書を調べ、イエス様に出会ってください。イエス様があなたの人生を新しくしてくださいます。

■ 2011/03/20 (日)
 [題]
「十字架の周りの人々−弟子」
 [みことば]
『自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。』 (ルカ14:27)
 [ショート・メッセージ]
◆「弟子」とは、師から学ぶ者、のことです。私たちにとって師はお一人だけ。『あなたがたの師はただひとり、キリストだからです』(マタ23:10)。そして師から学ぶ弟子は、師に似る者となり、師のように生き、人々に師のすばらしさを証するのです。『キリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着た』(ガラ3:27)とあるとおりです。それは人間的な知恵や熱心さによってではなく、聖霊のお働きによって成し遂げられます。『聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受け・・・わたしの証人となります』(使1:8)◆恐怖を味わい逃げまどった弟子たちでしたが、実は、十字架の周りで真の弟子となるための取り扱いを受けていたのです。それは、神に敵対し主から学ぶことを拒ませる「肉」の存在を認識させるためでした(ロマ7:18)。肉を捨てなければ、主の弟子になれないからです。『自分の十字架を負って(古い自分に死んで)わたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません』(ルカ14:27)◆さらに、主が「受難と死と復活」を繰り返し予告されたのは(マタ12:40、16:21、17:9、22-23、20:18-19)、主に信頼させるためでした。『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、・・・あなたがたが思い出すためです』(ヨハ16:4)。

■ 2011/03/13 (日)
 [題]
「十字架の周りの人々−民衆」
 [みことば]
『あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。』 (マタイ11:29)
 [ショート・メッセージ]
◆あれほどまでも喜んでいた民衆がなぜキリストを見限り、「十字架に付けろ」と叫んだのか(ルカ23:18-23)。かつて民衆はキリストの周りに群れをなし(マタ4:23-25、ヨハ6:2)、喜んで教えに耳を傾け(ルカ5:1)、5日前には「ホサナ(主よどうぞ救ってください/詩118:25)」と叫んでキリストのエルサレム入場を歓迎していたのに(マタ21:9)。しかし彼らは今、十字架に架けられたキリストの周りで群れをなして、唾を吐き、睨みつけ、拳を振り上げながら嘲り、侮り、罵って言う。『あれは他人を救った。もし神のキリストで選ばれた者なら、自分を救ってみろ。』(ルカ23:35)◆彼らの豹変ぶりには呆れてものが言えない。所詮、彼らのキリストに対する称賛と盛り上がりは、表面だけの行動だったのだ。それは彼らが聖書を詳しく学んでいなかったためで、自分たちの都合の良いようにキリストを利用し騒いでいたに過ぎなかったのだ◆彼らは"キリスト"を"政治的救世主"と思い込み、ローマ帝国の圧制から自分たちを救ってくださる方、と勝手に期待していた。ところが祭司長や律法学者に屈服し異邦人のようにローマ帝国の法で裁かれたキリストを見たとき、彼らの勝手な思い込みと期待はいとも簡単に崩壊し、彼らは手のひらを返すようにキリストを軽蔑し始めたのだ。キリストとはどういうお方なのか、聖書からさらに詳しく学び、正しく認識しなければ、神の喜ばれる信仰とは言えない。

■ 2011/03/06 (日)
 [題]
「生きておられる主−天におられる主を見つめたステパノ」
 [みことば]
『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。』 (使徒7:56)
 [ショート・メッセージ]
◆信仰と聖霊に満ち(使6:5)、恵みと力に満ち(同7)、不思議なわざとしるしを行ない(同8)、12使徒を助けるために選ばれた7名(同5)の一人に選ばれたステパノと議論したユダヤ人たちは(同9)、知恵を御霊によって語るステパノを打ち負かすことはできなかった(同10)。議論に負けたユダヤ人たちは卑劣な方法でステパノをサンヘドリンの議会に訴えた(同10-15)。その時のステパノの弁明が8章に記録されている◆彼の弁明の要点は、イスラエルの歴史は神の約束に基づいていること(使7:5,7)、歴史の中でイスラエルを守り導くために神が用いたモーセと律法とに逆らったイスラエルの現実(同35,39)、神殿第1主義のユダヤ人の間違い(同44-50)、自己流の律法第1主義の間違い(同51-53)であった◆ステパノは一人でも多くのユダヤ人が間違いに気付いて永遠の救いを受け取ることを願った。彼の切実な願いは、最後に語った「先祖たちと同様に聖霊に逆らい続けているあなたがたは、神の約束に基づいて遣わされたキリストを裏切り、十字架に付けて殺す者となりました」という言葉に表われている(同51-53)。しかし人々は反省するどころかはらわたを煮え返らせ、ステパノを殺害したのだ(同54-59)。ステパノは天におられる主を見て叫んだ。「この罪を彼らに負わせないでください」(同60)。主は、使命を全うしたステパノを天に迎えてくださった。

■ 2011/02/27 (日)
 [題]
「生きておられる主−主は私たちを迎えに来てくださる」
 [みことば]
『わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。』 (ヨハネ14:3)
 [ショート・メッセージ]
◆贖いを完成され御父の右に着座しておられる主イエスが(ヘブ1:3)、もう一度天から来てくださる(ヨハ14:3)。罪を認め、罪を悔い改め、罪の赦しを信じ、新生させられ、主に人生をゆだねて生きている私たちを天に迎えるために来てくださるのである。私たちは、主にあって『御国を受け継ぐ者』とされているのだ(エペ1:11)◆では、罪に汚染され(創3:17)サタンの支配下にあるこの世は(Tヨハ5:19)どうなるのであろう。罪にまみれたまま自然消滅するのを待つのであろうか。いや、罪の世を終わらせサタンによる支配を終わらせるために、神によってさばかれ滅ぼされるのである(Uペテ3:10-11)。そしてそのあと、『見よ。わたしはすべてを新しくする』(黙21:5)と言われる主によって、まったく新しくされるのだ◆このお方は、私たちを見ておられ(マタ6:4)聞いておられ(詩4:3)知っておられる(Tサム2:3)。だから私たちは、人を恐れる必要はない、たじろぐ必要もない。強く雄々しく、確信をもって歩めばよい(ヘブ3:14)。私たちを迎えに来てくださる主が言われる。『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから』(イザ41:10)。私たちの未来は、生きておられる主の御手の中にある(詩31:14-15)。

■ 2011/02/20 (日)
 [題]
「生きておられる主−キリストが私のうちに生きておられる」
 [みことば]
『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』 (ガラテヤ2:20)
 [ショート・メッセージ]
◆「父の約束」であった聖霊を受けたとき、弟子たちは新しく生まれました(使徒2:1-3)。理屈抜きに聖霊の内住を体験し永遠のいのちを味わったのです。コードをコンセントに差し込み電気を流すことによって、取扱説明書通りの機能を体験できるように、イエス様から教えられていたことが弟子たち一人一人の内に現実のものとなり、神の力を体験したのです(同8)。パウロは言います。『もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです』(ガラ2:20)◆主はその確かな証拠として、異言を体験させましたが(使2:4)、これは他国の言葉でなされ主の福音が「地の果てにまで」届けられることを象徴していました。さらに異言は「完全なもの」としての聖書(旧約と新約が揃うこと)を完成させるために用いられた道具にすぎず(Tコリ13:10)、それ以降は「解き明かす者」が不在となって(同14:28)止む時が来ると予告されていました(同13:8)◆聖霊降臨はヨエルによって語られていた預言の成就であり(使2:17-21)、キリストの死と復活によって「永遠の贖い」(ヘブ9:12)が完成された後に起きるべき出来事でした(ヨハ16:7)。今キリストは、聖霊によって信者の内に生きておられるのです。

■ 2011/02/13 (日)
 [題]
「生きておられる主−だれも信じることができなかった」
 [みことば]
『・・・その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。』 (ルカ24:22-23)
 [ショート・メッセージ]
◆だれも信じることができませんでした。全世界から集まった数えきれないユダヤ人や、イエス様を死に追いやった宗教家、処刑にいたローマ兵の目の前で、息を引き取られ(ヨハ19:33)、さらに兵士の槍で心臓を突き刺され(同34)、墓に葬られたお方が(同38-42)、死で終わることなく(使徒2:24)よみがえられて生きておられる(ルカ24:6)、ということが◆使徒たちはイエス様のよみがえりを報告した女たちの言葉を「たわごと」(同11)と思いました。ラザロの復活という奇跡を目撃していたにもかかわらず指導者を失い絶望に沈んでいた彼らには、信仰によって立ち上がる力はどこにも残っていませんでした◆そんな彼らの前にイエス様が現われなさったのは、その日の夕方のことでした(ヨハ20:19)。『平安があなたがたにあるように。』 そう言われてイエス様はご自分の手とわき腹を示されました(同19-20)。彼らは主を見て喜びますが、まだ不安が消えたわけではありません。その事実は確認できたのですが、まだ信仰によって受け入れるには至ってなかったのです。まるで幻を見ているような思いでした(ルカ24:37)。父の約束である聖霊を受けるまでは(同22、使徒1:4)。

■ 2011/02/06 (日)
 [題]
「質疑応答−十戒について教えてください」
 [みことば]
『それ(律法)は約束をお受けになったこの子孫(イエス)が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者(モーセ)の手で定められたのです。』 (ガラ3:19)
 [ショート・メッセージ]
◆律法は、それを制定された方のご性質を表わしている。律法を制定された神は、聖であられ義であられる(ロマ7:12)。それで、聖であり義である律法に自分を映すまで、人は己がいかに神の基準から遠く離れた存在であるかを明確に認識することができない(ロマ3:23)。律法という基準を学ばなければ、自分の罪深さを明瞭に自覚することはできないのだ(ロマ5:13)。『「私は罪を犯さなかった」と言うから、今わたしはあなたをさばく。』(エレ2:35)◆律法は大きく「道徳律法」と「儀式律法」に分かれる。道徳律法は世界の法律の基準となり、儀式律法はイスラエル国の礼拝を導くものである◆さらに十戒は道徳律法の基本であり、前半4(神を愛する)と後半6(人を愛する)に分けることができる。イエスは次のように語られた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マコ12:29-31)◆神を知らなければ信じることはできない。信じなければ従うことはできない。さらに主を知ろうではないか(ホセ6:3)。

■ 2011/01/30 (日)
 [題]
「ルカ16章−聖書の言うことを聞くべきです」
 [みことば]
『しかしアブラハムは言った。「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。」』 (ルカ16:29)
 [ショート・メッセージ]
◆死後、肉体から離れたたましいの行方を具体的に見た者は誰もいません。しかしこの章の後半で、イエス様は、路上生活をしていた貧乏人ラザロと、一切れの食べ物すら施そうとしなかった金持ちの、それぞれの死をとおして、死後のたましいの行方とそのたましいが願っていることについて話してくださいました◆ラザロ(「神が助け」)は金持ちの屋敷の門前で施しを求めて寝ていましたが(ルカ16:20)、金持ちは有り余るほどのお金を使って毎日ぜいたくに遊び暮らしていました(19)。全身を栄養失調性の湿疹が覆うほどに衰弱していたラザロはとうとう死にますが、御使いたちが現われてラザロのたましいを神の恵みの霊的世界へと連れて行かれます(22)。一方金持ちも死んで盛大な葬式が営まれますが、そのたましいは「苦しみもだえる」ハデスに落ちて行きます(24-25)◆金持ちは願います。地上に残されている身内の者たちまでもこんな苦しみの場所に来ることがないように、彼らに伝えてくださいと(27-28)。しかしその願いは却下されます(29,31)。『モーセと預言者との教え』(聖書のこと)を信じようとしない者は、どんな不思議が起ころうと変わることはないと◆「完成された神のことばなる聖書」(Tコリ10)を無視する者は、神の招きを軽んじ無視する者です。

■ 2011/01/23 (日)
 [題]
「ルカ16章−お金を正しく管理する」
 [みことば]
『それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。』(Tペテ4:10)
 [ショート・メッセージ]
◆お金依存症になってはいけない、と主は教えておられます(ルカ16:9-13)。お金に支配されてはならず、独り占めしてはならず、不正を働かせてはならず、苦しんでいる人を見過ごしてはなりません。お金は自分を楽しませるためにあるのではなく、隣人を助けるためにあるのです。良いサマリヤ人のたとえ話の中でイエス様は話されました。『次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」』(ルカ10:35) 隣人とはあなたの助けを必要としている人のことです◆お金は神から与えられている賜物であることを認識しなければなりません。神はそれを正しく管理するよう命じておられます。『それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。』(Tペテ4:10) 仕えるとは犠牲を払って隣人を助けるという意味です。そのようにして神の律法を全うし平和を実現しなければなりません◆地上の富を乱用していた不正な管理人は、解雇されるという宣告を受けて目覚め、お金を神からの賜物として認識し正しく管理して隣人を助けたのです(ルカ16:9)。私たちもまたお金に支配されるのではなく、正しく管理しようではありませんか。

■ 2011/01/16 (日)
 [題]
「ルカ16章−不正な管理人のたとえ」
 [みことば]
『そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。』 (ルカ16:9)
 [ショート・メッセージ]
◆15章の放蕩息子のたとえ話は「取税人・罪人たち」に向けて語られ、人知を超えた神の深いあわれみが教えられましたが(ルカ15:1)、この16章前半の不正な管理人の話は「弟子たち」に向けて語られ(1)、富の用い方が教えられています(9)◆ところでこの管理人は最終的に主人からほめられましたが、どこがほめられたのでしょう。それは自分の富の使い方です。彼は債務者を呼んで証文(借用書)を書き換えさせますが(6,7)、これはごまかしではなく、自分のお金を用いて債務者たちの負債の一部を正式に支払ったのです。苦しむ者たちを自らの犠牲によって助けたことによってそこに信頼関係が生じた、ここからイエス様は富の用い方を示されたのです◆富は自分を楽しませるためにだけあるのではなく、互いに助け合うためにあるのです。『今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまたあなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして平等になるのです。「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。』(Uコリ8:14-15)◆互いに助け合い仕え合うことによって、完全な律法、自由の律法を実行しましょう(ヤコ1:25)。

■ 2011/01/09 (日)
 [題]
「新年交わり会−みことばは足のともしび」
 [みことば]
『あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられるように、私を生かしてください。』 (詩篇119:156)
 [ショート・メッセージ]
◆@どのように状況が変化しても、すべてを益に変えてくださる神から離れない。ヨハネ15:4『枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。』◆A隣人を責める前に自分自身を省みる。マタイ7:5『偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。』◆B与えられている新しい命に基づいて、新しくされた人生を生き、主のみこころを守り行なう。エゼキエル36:26-27『あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。…わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。』◆C神の愛を持って語っているか、神の愛を持って行動しているかを絶えず自分に問う。Tコリント12:31、13:4-7、14:1『あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。…すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。…愛を追い求めなさい。』◆神を信じながら咎を犯している自分がいる。神の真実を生きる者に変えられたい。詩篇51篇『神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。』

■ 2011/01/02 (日)
 [題]
「年末感謝会−みことばは私の足のともしび」
 [みことば]
『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』 (イザヤ41:10)
 [ショート・メッセージ]
◆@ばいぶる・チャペル、建徳の学び、福音集会、水曜夜の学び会で教えられたみことばを通し軌道修正させられた。みことばを学んでも家庭や職場で実行しなければ無意味だと教えられた◆A充実した1年だった。学びを通して職場での人間関係が守られ、みこころを第一にして生きる信仰生活の基本を実践させていただいた。また、できる範囲で集会の奉仕にも与れ感謝だった◆B「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」というみことばを何度も体験させられた。集会に出席できなかった頃は空しかったが、1年程前から再び集会に出席するようになり、馴れ合いになっていた世との関わりに線を引いたとたん、爆発した義父母の怒りを買ったが、主からいただいた信仰による決断によって対処でき感謝だった◆C少しずつみことばに沿って生活できるようになった。義父の葬儀の時は皆の前で非難されたが平安があった。信仰ってこんなことなんだなあと思った◆D箴言17:1によって導かれた1年だったが、振り返ってみると、争わないようにという訓練を導かれていたことに気づかされた。主はすばらしい◆E今年は、「主よ。あなたはどなたですか」と主のご人格を認識させられた。また、自分の高慢を気付かされ反省した。

■ 2010/12/26 (日)
 [題]
「クリスマス−上からあなたを招いておられる」
 [みことば]
『御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。・・・」』 (ルカ2:10)
 [ショート・メッセージ]
◆「神とって不可能なことは一つもありません」との御使いのことばを聞き、神にゆだねきったマリヤを通して、メシヤはこの世に誕生された。時のローマ皇帝アウグストの勅令による人口調査を受けるため出かけたベツレヘムで、幼子イエスは生まれたのである。これはミカ5:2の預言が成就するため。『あなた(ベツレヘム)のうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者(メシヤ)が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。』 生けるまことの神であられる証拠は、預言と成就による。聖書を調べて神の存在と、神の真実を知ってください◆幼子が生まれた夜、その知らせは真っ先に野原で羊を見守っていた羊飼いたちに届けられた。当時の羊飼いはユダヤ人の血を引きながらも、ユダヤ社会から除外され市民権を持っていなかったが、救いを待ち焦がれていた彼らに、民全体の喜びの知らせは届けられたのである。悩み・迫害・苦難の中を歩んでいるなら、主に期待できる。八方ふさがりになっている者は、上を見上げればよい。神は上からあなたを招いておられるのだから。『地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。』(イザヤ45:22)

■ 2010/12/19 (日)
 [題]
「祭司−永遠の大祭司イエス」
 [みことば]
『神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。』 (Tテモテ2:5)
 [ショート・メッセージ]
◆神はエレミヤを通して南ユダ王国の民に命じました。「あなたがたが捕囚の民となってバビロンに連行されたら、その町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄はあなたがたの繁栄になるのだから。」(エレ29:7) 同じことが、新約時代を生きるクリスチャンにも命じられました(Tテモ2:1)。価値観が違うことを理由に、世といたずらに争うようなことがあってはならないと教えられたのです。それは一人でも多くの人がクリスチャンの無言の振る舞いによって神を認め、サタンの手より救われて聖書から真理を学び(同4)、新しくされた人生が聖められるためです。そのためにこそ、神はキリストを遣わし救いのご計画を立てられました◆旧約時代、いけにえをささげるために神によって祭司が任命されたのは、全人類を贖うために遣わされるキリストの、祭司としての尊い使命(ヘブ7:24)を予告するためにほかなりませんでした。神と人との間の真の仲介者は、人となられた神イエスです(Tテモ2:5)◆キリストなるイエスはすべての人の贖いの代価としてご自身を与えてくださり(同6)、約束通り3日後によみがえられて天に帰られ、私たちのためにとりなし続けておられます(ロマ8:34)。キリスト・イエスは、私たち弱い者たちのための永遠の大祭司です(ヘブ7:25)。

■ 2010/12/12 (日)
 [題]
「祭司−神と人との間に立つ」
 [みことば]
『その人は主の前で、その若い牛をほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。』 (レビ1:5)
 [ショート・メッセージ]
◆祭司には大きく2つの働きがあります。いけにえをささげること(レビ1-7章)と、契約の律法を民に教えること(マラ2:7)です。神の民として世から選ばれ聖別されたイスラエルが、神の御前に常に聖なるものであるため、神は祭司を任命し、いけにえをささげさせたのです◆いけにえの中で第1のものは、全焼のいけにえ(レビ1章)です。これは神への全き献身を信仰告白する者のために定められました。神と人との間の障害物となっていた罪を取り除いていただくために罪を告白し、自分の身代わりとするための家畜の頭の上に手を置いて罪をその家畜に転嫁させます(レビ1:4)。そのいけにえが自分の身代わりとなるために、本人がその家畜をほふり(同5)、皮をはぎ(6)、いけにえを部分に分け(6)、内臓と足を水で洗わなければなりませんでした(9)。罪がどれほど忌まわしいものであるかを強く実感しなければならなかったのです◆その後、血と肉を受け取った祭司が、規定に従っていけにえの血をふりかけ、受け取ったいけにえの肉を祭壇の火の上で焼いて煙とし、神の前にとりなしました(8)◆このようにして祭司は、神の御前に全き献身の信仰を告白をする者を助けたのです。祭司は神と人との間に立ち、仲介の務めを果たしました。

■ 2010/12/05 (日)
 [題]
「神の御子−御子の昇天と聖霊降臨」
 [みことば]
『神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。』 (Uコリント1:20)
 [ショート・メッセージ]
◆旧約聖書に記された数えきれないほどの約束は、メシヤである御子によって百パーセント成就した。アダム誕生からメシヤ登場までの四千年の間に、御父が明らかにされた一つ一つの約束は、御子の生涯をあらかじめ完璧に予告していたのだ。それはただただ、神のもとから離れて落ちぶれていった人類が、迷うことなく疑うことなく、天の御国の門に辿り着くための完全な救いの道を造るためであった。御父のもとに帰った者たちは口々に言う。『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です』(詩119:105)◆ところで御子イエスは、贖罪のための身代わりの死で終わったのではなかった。よみがえられ昇天されて、天の右の座に着かれたイエスは、「みことばを通して人類に働きかけてくださる聖霊」を遣わされたのである。『わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。』(ヨハ16:7) イエスによって人類が贖われたことによって、聖霊が足を降ろす場所が完成したのである。聖霊は五旬節の日に降臨されたが(使2:1-2)、このことも旧約聖書に予告されていた(レビ23:15-16)。

■ 2010/11/28 (日)
 [題]
「神の御子−私たちの罪の身代わりとなられた御子」
 [みことば]
『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』 (イザヤ53:5)
 [ショート・メッセージ]
◆御子が肉体をまとわれたのは、罪からくる報酬である死を、私たちに代わって実現させ(ロマ6:23)、私たちを罪の呪いと罪の力から完全に救い出すためであった。罪は命によってしか償うことができない(Tペテ1:18)。創造者であられる神を裏切り背き続け、繰り返された咎によって自分の人生を汚したという事実は、命を差し出す以外に消すことはできないのだ。レビ20章には『必ず殺されなければならない』という言葉が繰り返されているが(レビ20:9-16)、その警告がなされているにもかかわらず自分の罪を『軽く見て』(エレ3:9)、良心の呵責と罪責感を麻痺させようとする。しかしどんなに自分の行為を正当化しても、罪は消えず、良心はうずき、罪責感に悩み続ける◆約束の御子が世に現れたのは、そんなみじめな私たちをあわれみ、救出するために他ならない。御子は私たちのそむきの罪のために十字架上で刑罰を受け、私たちの咎のために死なれた。御子への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって私たちの心の傷はいやされるのである。ここにしか私たちが新しく生まれ変わる奇跡はない◆罪の性質によって無力になった私たちのために、神は御子にからだを与えて遣わされ、御子において罪を処罰してくださったのである(ロマ8:3)。

■ 2010/11/21 (日)
 [題]
「神の御子−処女降誕」
 [みことば]
『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』 (ヘブル10:7)
 [ショート・メッセージ]
◆約束の御子が世に来られるとき、御父は『主』(マラ3:1)にからだを造ってくださった(ヘブ10:5)。からだを与えられた主は、世に御父を現わす(ヨハ14:9)御子となられた(マタ3:17、12:18、17:5)。人類の身代わりとなって罪の刑罰を受け、罪からくる報酬としての死を実現させ(ロマ6:23)、人類の前に御父のご計画を証しするために生身の人間となられたのである。それが御父のみこころであった(同7)。罪に汚染された人類には、みずからの救いを自己達成する聖さも、義しさも皆無だったため(詩53:1-3)、主が人となって贖いを成就するこの方法以外に、救いの道はなかったためである。『わたしは来ました。…神よ、あなたのみこころを行なうために』◆約束の御子として主が世に登場するまでに、実に4千年の年月が必要とされた。その期間に、数えきれないほどの御子に関する約束が、真の預言者たちを通して数多く与えられてきたが、そのうちの一つが処女降誕であった(イザ7:14)。神は、ナザレという寒村に住むマリヤを選ばれて、聖霊によって受胎させ、この世に御子を登場させられた(ルカ1:35)。あなたを暗やみの圧制、罪の支配下から救出し(コロ1:13)、神の家族の交わりの中に迎え入れてくださるためだ(ロマ2:19)。

■ 2010/11/14 (日)
 [題]
「神の御子−新しい創造の始まり」
 [みことば]
『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。』(ルカ1:35)
 [ショート・メッセージ]
◆神が愛の対象として創造されたアダムとエバが、サタンにだまされて罪に汚染された時、神は人類を永遠の死に至る罪の力から贖い出すためのご計画を明らかにされました。それは『女の子孫』の誕生によるものでした(創3:15)。この『子孫』という言葉には、単数形・男性名詞が使われており、「ひとりの男の子」と訳せる単語でした。この「男の子」の誕生の約束は、イスラエルの歴史の中で預言者たちを通して更新され続けましたが、預言者イザヤの時、『処女』から生まれるという一つのしるしが明らかにされました(イザ7:14)。さらに同じ預言者を通して、闇に閉ざされた『ガリラヤ』の地に、神の栄光を輝かせる大きな光として登場することが予告されました(同9章)◆ガリラヤの町ナザレに住むひとりの処女のもとに、御使いガブリエルが現れたのは預言者イザヤから750年ほど経ってからのことでした(ルカ1:26)。処女マリヤはすでにヨセフのいいなずけとなっていましたが、その婚約期間中に受胎することになったのです。イスラエルでは婚約してから1年間、同居の準備期間として聖い交際をしなければなりませんでした。マリヤは戸惑いますが(同34)、御使いは言いました。「聖霊が臨み、神の力があなたをおおいます」と(35)。これは創世記1:2の創造を思わせる言葉です。

■ 2010/11/07 (日)
 [題]
「神の御子−とりなしの祈りについて」
 [みことば]
『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』 (ルカ23:34)
 [ショート・メッセージ]
◆Q…とりなしの祈りについて教えてください。A…イエス様は十字架の上でとりなされましたが(ルカ23:34)、それは自分をむち打ち着物をはぎ取り十字架にくぎ付けにしたローマの兵士たちのために、また自分を殺す計画を立て不正な裁判を行ないローマ帝国に引き渡して十字架刑に付けさせたユダヤの宗教指導者たちのために、自分に罵声を浴びせ侮辱する群衆たちのためのとりなしでした。モーセもまた罪を犯したイスラエルのためにとりなしました(出32:31-32)。イエス様が私たちに教えておられるとりなしの祈りは、だれのためにささげる祈りであるかという観点から見ていきましょう。イエス様は弟子たちに言われました。『あなたを侮辱する者のために祈りなさい』(ルカ6:28)と。「敵を愛し、あなたを憎む者に善を行ない、あなたをのろう者を祝福しなさい」とも言われました(同27-28)◆福音を伝える前に私たちがしなければならないのがとりなしの祈りです。とりなしの祈りなしの福音宣教は、自己満足でありパフォーマンスにすぎません。あなたに罪を犯した者が悔い改めへと導かれて、神のさばきに会うことがないようにととりなすのです。とりなしの祈りの基本はここにあります。

■ 2010/10/31 (日)
 [題]
「伝道者の書−神にあなたの人生をゆだねてください」
 [みことば]
『曲がっているものを、まっすぐにはできない。なくなっているものを、数えることはできない。』 (伝道者1:15)
 [ショート・メッセージ]
◆自分にどんなにすばらしい知恵があると誇っても、人間の力には限界があります。曲がってしまった人間の悪を、人間的な知恵と努力でまっすぐにすることはできません。また過ぎ去って存在しなくなったものを、過去に戻って数えることもできないのです。アダムとエバが罪を犯す以前の時代に戻って人類の歴史をやり直すことはできないのです◆しかしソロモンはその不可能に挑戦しました。本当に不可能なのか彼は知りたかったのでしょう。並外れた知恵と知識と巨万の富を持っていた彼は、それを確かめようと思ったのです。そしてその結果は、『空の空。すべては空』(1:2)だったというのです。神によって定められたものを人間の力と熱心さでどうにかして、自分の願望を叶えさせるということは、不可能であり無意味なことである、と彼は証言しているのがこの書です。『いま持っているもので満足しなさい。』(ヘブル13:5)と聖書は言っています◆これが創造者なる神への信仰です。信仰とは神のことばを受け入れるこであり、神のことばに従うことを言います。『私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。』(民22:18) 神にあなたの人生をゆだねてください。

■ 2010/10/24 (日)
 [題]
「伝道者の書−すべては神の賜物」
 [みことば]
『実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。』 (伝道者5:19)
 [ショート・メッセージ]
◆『すべての事について感謝しなさい』(Tテサ5:18)、これは神の命令である。にもかかわらず、何と不平や不満の多いことか。主権者なる神に目を向けず、周りの人間に焦点を合わせ、自分を基準にしてさばくからだ。南ユダを聖めるために神は異教徒のバビロニヤ帝国を用いられたではないか。『順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。』(7:14) 私たちに必要として神がなさっておられるすべての事について感謝しなければならない◆『いつも喜んでいなさい』(Tテサ5:16)と神は言われる。しかし何と否定的な言葉が出やすいことか。神がその信仰を喜ばれたヨブは全財産を失った時どう祈ったか。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな』(ヨブ1:21)。すべてのものを賜っておられる神を喜び続けたではないか◆私たちの周りにあるすべては神からの賜物である。私物化してはならない。すべてのものは神からの賜物であり、それを正しく管理することが私たちに求められている。富も財宝も、仕事も能力も、知恵も信仰も、自分の肉体も妻も子も、すべてが神からの賜物であることをいつも認めようではないか。

■ 2010/10/17 (日)
 [題]
「伝道者の書−信仰生活の初心に戻れ」
 [みことば]
『結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。』 (伝道者12:13)
 [ショート・メッセージ]
◆クリスチャンホームの中で生まれ育った真面目な子どもがときどき脱線してしまうことがあるように、ソロモンもまた近隣諸国の姿に興味関心が湧き、追求し脱線した。『何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた』(伝2:3)◆「愚かさ」とは世は愛すること。エバがサタンから誘惑されたように、「未信者の世界を体験することによって目が開け、もっと広い視野で周りを見ることができるようになれるのではないか」と思ったソロモンは、2:4-10の愚かさに労苦し、熱心に探求した◆しかし結果は惨憺たるものだった。彼は嘆いて言った。『私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。』(同11)◆彼は言う。神が与えてくださる仕事こそが(3:10)、しあわせに至る労苦であり(13)、この労苦を楽しむよりほかに人生に良いものはない(22)。自分で探した理想的と思う仕事ではなく、祈りのうちに神から導かれた仕事は、神との苦しみの共有と喜びの共有を味わうことができる(マタ25:21,23)◆もうすべてが聖書を通して明らかにされていることだ。神の教えを第1にし、神の命令を守れとソロモンは言う(伝12:13)。信仰生活の初心に戻り続けようではないか(黙2:4-5)。

■ 2010/10/10 (日)
 [題]
「伝道者の書−空の空。すべては空」
 [みことば]
『私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。』 (伝道者1:14)
 [ショート・メッセージ]
◆伝道者の書の著者は、ダビデの子ソロモン(1:1、12)。ソロモンは「平和」という意味で、ヘブル語のシャロームに由来している。彼は平和を愛したが、神のみこころではない平和を成し遂げようとして、近隣諸国から偶像を導入してしまった(T列11:1-13)。それがいかに神のみこころに反していたかを明らかにするために、神はイスラエルを分裂させた(同11)。彼は深く反省し、神の御前に悔い改め(同13-14)、老境に至ってから(伝12:1-8)、この書を御霊に導かれて書いた。実に彼の悔い改めの書であり、若い同胞への諭しの書である(1:15、3:14、7:13)◆この世でどんなに労苦してもすべては空、の『空』とはすぐに消え去るものを表わす言葉で、「息」「水蒸気」を意味するヘブル語の「ヘベル」が使われており、「完全にむなしいこと」を表現している。彼はその原因を明確にする。『実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。』(2:25) 神を拒絶し、神を無視した自己流の人生は、どんなに熱心でも、努力しても、骨折っても、振り返ってみるとすべてがむなしく風を追うようなものであると彼は言う(2:11)。被造物である人間が創造者を無視して生きることが、すべての不幸の原因であることを若者(12:1)に教えようとしているのだ。

■ 2010/10/03 (日)
 [題]
「バプテスマのヨハネ−悔い改めにふさわしい実」
 [みことば]
『悔い改めにふさわしい実を結びなさい。』 (マタイ3:8)
 [ショート・メッセージ]
◆バプテスマのヨハネの教えを聞くために各地から集まってきたイスラエルの民に、彼は厳しく言った。『悔い改めにふさわしい実を結びなさい。』(マタ3:8) 真実(アーメン)なる神は偽りを憎まれる。真実がなければ関係修復はありえないからだ◆群衆がヨハネに尋ねた。「私たちはどうすればよいのでしょう。」 ヨハネは答えた。「衣類や食物を貧しい者に分け与えなさい。」自己中心性を捨てて隣人を愛する具体的な生活をせよと命じた。取税人たちには「決められたもの以上には取り立ててはならない」と教え、不正を捨て正義を貫けと命じた。兵士たちには「ゆすったり責めたりせずに自分の給料で満足しなさい」と教え、権力の乱用を捨てて誠実に勤務し、知足をめざせよと説いた◆口先だけの悔い改めは無意味である。すなおに自分の罪を認め、罪を憎み、切実に神に救いを求めない限り、救いに至る信仰を神から受けることはできない。悔い改めの真偽はその後の行ないによって証明される。いい加減であってはならい。『みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』(ヤコ1:22)

■ 2010/09/26 (日)
 [題]
「バプテスマのヨハネ−絶えず軌道修正されなければならない」
 [みことば]
『ヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」』 (マタイ11:3)
 [ショート・メッセージ]
◆バプテスマのヨハネが投獄された後、イエス様の宣教はスタートしました(マコ1:14)。『あの方は盛んになり私は衰えなければなりません』(ヨハ3:30)というヨハネ自身に導かれた言葉通りに、道備えの使命(マタ3:11)を全うしたヨハネは獄中で静かにイエス様のお働きを見守っていました◆しかし彼の弟子たちは違ったのです。師ヨハネがいつまでも獄中から救出されないことに不満を覚え、「あの方がメシヤでしたらあなたを救出し、イスラエルのために国を再興させてくださるはずです」とヨハネに問うていたのでしょう。ヨハネは弟子たちにイエス様がメシヤである事実を確認させるために遣わしました◆イエス様はヨハネの弟子たちに対し、旧約聖書に記されてあるメシヤ預言のすべてがご自分の上に成就していることを証され、『わたしにつまづかない者は幸いです』(マタ11:6)と教えられました。当時のイスラエル人が描いていたメシヤ像は政治的救世主であり(使徒1:6)、霊的な御国については無知でしたから不満を覚えたのは無理もないことでした。私たちもまた、絶えず軌道修正されなければならないのです。

■ 2010/09/19 (日)
 [題]
「バプテスマのヨハネ−悔い改めなしのまま神は赦されない」
 [みことば]
『そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」』 (マタイ3:1-2)
 [ショート・メッセージ]
◆「ごめんなさい」と心からあやまらないうちに、困った顔をしてるだけで子どもをゆるす《しつけ》は、正しいでしょうか。子どもに対する《しつけ》の基本は何でしょう。それは、子どもに自分の間違いを気付かせることです。これには自制と忍耐が必要で、根気強く子どもの目を見ながら教え諭さなければなりません。いとも簡単に「もういいから、反省しなさい」の本末転倒の簡略した注意では、子どもは自分を見つめることができず、要領のいい性格が形作られ、自分が間違っても責任転嫁をして、自分の責任を回避する子に育つでしょう◆イエス様も次のように教えておられます。『気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい(教え諭しなさい)。そして悔い改めれば、赦しなさい。』(ルカ17:3-4)◆バプテスマのヨハネは、民の前にメシヤへの道備えをするために登場し、民たちを悔い改めへと導くために、荒野で神からの訓練を受けていました(マタ3:3-6)。神は、悔い改めないまま赦すお方ではありません。

■ 2010/09/12 (日)
 [題]
「バプテスマのヨハネ−悔い改めのバプテスマを説いた」
 [みことば]
『ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。』 (マタ3:7-8)
 [ショート・メッセージ]
◆バプテスマのヨハネは、父ザカリヤ(祭司)と母エリサベツの老年に神の奇跡によってみごもり、使命を帯びて生れてきました。旧約のイスラエルが90歳のサラが受胎し出産するという神の直接介入からスタートしたように、新しいイスラエルの幕開け(ルカ1:16-17)もまた老齢のエリサベツの受胎出産から始まりました。神の直接介入なしに人の人生も世界の歴史も、変わることはないのです◆ヨハネの使命はメシヤの道を用意することであり(マコ1:2-3)、民の前にメシヤへの道を整えることでした(マラ4:5-6)。彼はそのために《悔い改めのバプテスマを説いた》のです(マコ1:4)。神が備えてくださる《救い》を受け取るためには《悔い改め》が必須です。悔い改めとは、罪の認識からくる罪を捨てる決断のことです。罪の認識は、人間的な知恵によるものではなく、聖霊なる神の働きかけによるものです(ヨハ16:8)。悔い改めがない「許し」は同じ罪を繰り返しますが、悔い改めて受ける「赦し」は、犯した罪を嫌悪するようになります(エゼ11:19-20)◆神のことばと聖霊の働きかけを受けて悔い改めへと導かれ、聖められ続けましょう。

■ 2010/09/05 (日)
 [題]
「質疑応答−天地創造についての質問」
 [みことば]
『初めに、神が天と地を創造した。』 (創世記1:1)
 [ショート・メッセージ]
◆@聖書の冒頭に、『初めに、神が天と地を創造した。』と書かれてありますが、この「天」とは宇宙のことですか?・・・創世記は宇宙を含む全被造物の創造を前提として描かれてあり、1章に記録されている創造の1週間の記述は、地球と人の創造について書かれてあります。「天」(ヘ:シャーマイム/ギ:ウーラノス)は宇宙のことではなく地球を取り巻く大空のことを言います(創1:8)。聖書全体を調べると、霊的天と物質的天が説き明かされていることに気づきますが、物質的天は、サタンや人間の罪によって汚され、やがて滅び去らなければならないと書かれてあります(マタ24:35、Uペテ3:10、黙20:11)◆A1週間で地球が創造されたと書かれてありますが、その1日とう単位は24時間ですか、それともUペテ3:8のような長い期間を指すのでしょうか?・・・クリスチャンの地質学者・考古学者・生物学者たちによる論文がまとめれた本を読みますと、24時間であると結論付けられています。それは、生物で最初に創造された植物(創1:11)が繁殖するためには昆虫の存在が必須であり、植物だけで千年も存続することは不可能だからです。

■ 2010/08/29 (日)
 [題]
「再臨−福音を宣べ伝えよ」
 [みことば]
『それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)』 (マタイ24:15)
 [ショート・メッセージ]
◆『聖なる所』とはエルサレム神殿のことです。AD70年に破壊されたままの神殿が再建されるというのです。ある人物が言葉巧みにイスラエルに働きかけ、神殿を再建させ、中東和平を完成させる時が来るのでしょう。その人物こそ《反キリスト》◆7年間(1週/ダニ9:27)続く彼の帝国は、スタートから3年半後(半週/ダニ9:27)に大きく変化します。神殿の中に自分の座を設け、自分こそ神であると宣言するからです(Uテサ2:4)。彼は独裁者となり、流血の惨事が帝国内に広がり、いまだかつてない恐怖政治が繰り広げられます(黙示 13:11-18)。しかし、キリストが地上再臨し彼は滅ぼされます(Uテサ2:8)◆神を無視した世界では、何が起こるか予測できません。22年前の平成元年に中国で起きた「天安門事件」の惨事は、TVで全世界に報道され衝撃を与えました。しかし報道規制されて放送されなかった戦慄の事実が山とあるのです◆神はサタンが支配する今の世を終わらせるご計画を、御子においてあらかじめお立てになりました(エペ1:9)。そのご計画は聖書に記され、罪を捨てる決断をした者に明らかにし、これを全世界に知らせよと命じ続けておられるのです(マコ16:15)。

■ 2010/08/22 (日)
 [題]
「再臨−教会に関する携挙とイスラエルに関する地上再臨」
 [みことば]
『その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。』 (ロマ11:25-26)
 [ショート・メッセージ]
◆福音書の中で語られている再臨(マタ24章・マコ13章・ルカ21章)はみな地上再臨のことである。空中再臨(携挙)が明らかにされたのは、初代教会がスタートしてから。教会の奥義を明らかにしたパウロを通して神は明らかにされた。なぜなら、携挙は《教会》に関することだからだ◆教会が携挙されるまでは患難時代は始まらない。世の光である教会が天に帰り霊的暗黒時代が到来したとき反キリストが盗人(Tテサ5章)のように登場し(Uテサ2章)、イエス様の時代に興ったローマ帝国の最後の部分である復興ローマ帝国が突如ヨーロッパに誕生する。人手によらず天から切り出された『一つの石(キリスト)』(ダニ2章)によって分断されていたローマ帝国の残りの部分なので復興と呼ばれる。この分断された期間に奥義としての《教会時代》が2千年間現われたのであった◆復興ローマ帝国(患難時代)の寿命は1週間すなわち7年間であり(ダニ9章)、キリストの地上再臨で幕引きとなる(Uテサ2:8)。この7年間に起きる様子が福音書の中に予告されていたのである(前掲)。地上再臨はイスラエルに関することである(ロマ11:25-27、マタ24:31)。

■ 2010/08/15 (日)
 [題]
「再臨−たちまち一瞬のうちに」
 [みことば]
『終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。』 (Tコリント15:52)
 [ショート・メッセージ]
◆再臨は2回に分けて行なわれる、と聖書は教えている。空中再臨(携挙)と地上再臨だ。携挙の目的は完成された教会を御国に移すこと。『このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。』(Tテサ4:17) 地上再臨の目的は患難時代を終わらせ千年王国をスタートさせることである(マタ24:15-31、ルカ21:27,31)◆この2回の再臨の間に、地上では7年間の患難時代が来る(ダニ9:27)。患難時代はノアの洪水の時と同じような、さばきと救いの時、である(マタ24:39)。罪にまみれたこの世は、ついに終わりの日を迎えることになる。『この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。』(同14)◆このさばきの7年間(患難時代)が始まる直前に、霊的共同体である《キリストのからだなる教会》は、天に引き上げられると約束されているが(Tテサ5:9)、その時の様子を聖書は語っている。まずすでに亡くなったクリスチャンたちが栄光のからだによみがえり、次に、生き残っているクリスチャンたちが、たちまち一瞬のうちに栄化され、地上を離れるのである(同4:16-17、Tコリ15:51-52)。

■ 2010/08/08 (日)
 [題]
「再臨−異邦人の完成のなる時」
 [みことば]
『御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。』 (黙22:17)
 [ショート・メッセージ]
◆「再臨」はギリシャ語ではバルーシア。この言葉には再びという意味はなく、「到着」「到来」の意味であり、普通「来臨」と訳されている。イエスの来臨は計3回行われると聖書は示している。マリヤから生まれた時の「初臨」(ルカ2:6-7)、教会を迎えに空中まで来られる時の「空中携挙」(Tテサ4:16-17)、患難時代を終わらせ千年王国を始めるために来られる「地上再臨」(黙19:11-14)、である◆旧約では「主の日」「その日」という言葉を用いて、メシヤが登場してすべての人をさばく日が必ず来ることを予告している。罪にまみれた人間社会に対し神が直接介入される日である◆空中携挙はいつ起きるのか。聖書は次のように語る。『実が熟すると、人はすぐに かまを入れます。収穫の時が来たからです。』(マコ4:29)。ここにある「実が熟する」とは、キリストのからだなる教会が完成する時、すなわち最後の一人のクリスチャンが救われる時のことであり、この完成の時を早めるために全世界で福音宣教が続けられているのだ(Uペテ3:12)。この最後の一人が加えられる日のことを聖書は、『異邦人の完成のなる時』と語っている(ロマ11:25)。

■ 2010/08/01(日)
 [題]
「ローマ7-8章−栄化のご計画に基づいて」
 [みことば]
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』 (ローマ8:28)
 [ショート・メッセージ]
◆『神のご計画に従って召された人々』のご計画とは、《栄化のご計画》のことである。実に、神がアダムとエバを追放する直前に明らかにされた《原福音》(創3:15)の中にはすでにこのご計画が準備されていたのであり、創2:17の契約違反により霊的に死んだ人間を「栄光のからだ」に変えてくださるのである(Tコリ15:20-58)。このことにより名実ともに「神の子ども」とされる約束(ヨハ1:12)が成就されるのだ◆御父は、完璧な贖いと永遠の救いを完成させるために、御子を処女より誕生させ(イザ7:14)、『罪深い肉と同じような形』(ロマ8:3)を与えて、過越しの祭りのために世界各国からエルサレムに集まった全世界の人々が注目する中、御子の上に罪に対する刑罰を下し、人類の身代わりとされたのである(ロマ8:3、ピリ2:6-8、ロマ5:8-9)◆一方、『すべてのことを働かせて益としてくださる』と記されてあるように、すべての「患難、迫害、飢え、裸、危険、剣」(ロマ8:35)を通して信者の信仰をためし訓練し成長させ、ついには「栄光のからだ(御子のかたちと同じ姿/29節)」に変えてくださるのである◆この「からだの贖い」(23)を思って歓喜し待ち望むことができる者こそ、真に救われているクリスチャンである(24)。

■ 2010/07/25(日)
 [題]
「ローマ7-8章−律法依存症」
 [みことば]
『しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。』 (ロマ7:6)
 [ショート・メッセージ]
◆人は何かに執着する性質を持っている。パリサイ派に属していたころのパウロは、律法の《文字》に拘り、執着していた。パウロは言う。「私は今、自分を捕えていた律法に死に、解放されている」(ロマ7:6)。自分がかつては律法依存症であったことを告白しているのである◆そもそも律法は、モーセを通して神が啓示されたものであり(ガラ3:19)、それゆえそれ自体は「聖なるものであり、良いもの」(ロマ7:12)であり、「霊的なもの」(14)であるが、新生して御霊によって仕える存在とならなければ、律法に隠されている神のみこころも知らぬまま、自覚した罪の支配下に閉じ込められ続けることになる(14)。新生を体験しなければすべては無意味だと知ったのである(10)◆だからこそパウロは喜びをもってローマのクリスチャンたちに語っている。「新生を体験した今は、律法依存症から解放されて」(6)、「死者の中からよみがえられたキリストと結ばれ、霊的な実を結ぶ者とされている」(4)ではないかと◆この事実に目を留め続けるとき、「自分を過信して肉に基づいて行動するのではなく、肉の無力さを認めて御霊に従う生活」を求めるのである(8:4-6)。

■ 2010/07/18(日)
 [題]
「ローマ7-8章−肉のうちには善は住んでいない」
 [みことば]
『もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。』 (ローマ7:20)
 [ショート・メッセージ]
◆パウロを通して神は丁寧に説き明かされます。新生しても、なぜクリスチャンは時として罪を犯してしまうのか、心底したくない悪をなぜ行なってしまうのか。《罪》の存在に光を当てて、漠然としやすい罪の現実を明らかにされるのです◆『もはや私ではなく』という言葉が2度も繰り返されています(ロマ7:17,20)。《私》とは《新生したパウロの新しい人格》のことであり、新生したにもかかわらずパウロの肉体の中には、なおも古い悪の性質が残されていたのです(18)。それゆえ私たちは、肉を刺激する世界を避けなければなりません(Tペテ4:1-2)◆ところで新生の恵みを拒み続けることはどんなに惨めなことでしょう。罪の支配下から抜け出せず、永遠に罪のくびきを負わなければならないのです(コロ1:13『暗やみの圧制』、Tペテ1:18『先祖から伝わったむなしい生き方』)◆パウロは目覚めて歓喜します。主イエス・キリストのゆえにただただ神に感謝します(ロマ7:25)と。たとえこの世を去る時まで、罪の影響を受けなければならない肉体を持っていたとしても、与えられた新しいいのちの中に住んでおられる聖霊によって、キリスト者は勝利者となれるのです(ロマ8:37)。

■ 2010/07/11(日)
 [題]
「ローマ7-8章−罪と死の原理からの解放」
 [みことば]
『私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。』 (ローマ7:24)
 [ショート・メッセージ]
◆「私はほんとうにみじめな人間だ」(7:24)、とパウロは叫ばざるを得なかった。分っている、判っている、解っている、しかしどうにもならない、どうしようもない。これが罪人の現実だ、これが罪人の限界だ。「いったいだれが、この死のからだから、私を解放してくれるのか。」パウロはもがいた。蛹(さなぎ)のままで終わるのか。だれか脱皮させてくれと◆私は自分のしていることがわからない。私は自分がしたいと願うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからだ(15)。主イエスに出会い、福音を理解し新生も体験した。にもかかわらず、したくない悪を行なっている自分(19)。『内なる人(=新しいいのち)』(22)はみこころを行なうことと願っているのに、それを実行できない(18)。ああ、肉(=死のからだ)のうちには善は住んでいない(18)。肉は罪の支配下にあり(21)、罪を自覚しても脱出ができない。しかしパウロは、神に取り扱われながら、徐々に奥義の深みへと導かれて行ったのである◆新生した者は必ずこの過程を歩ませられる。『主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します』(25)。新生した者が主に絶対信頼する瞬間である。

■ 2010/07/04(日)
 [題]
「エリシャ−臨在しておられる神」
 [みことば]
『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。』 (イザヤ41:10)
 [ショート・メッセージ]
◆アラムの王ベン・ハダデ(U列6:8,24)は、自分の戦略がことごとくイスラエルに筒抜けになっていることに困惑し、アラム内に内通者の存在を疑った。イスラエルの預言者エリシャによることです、との家来の報告を聞くと、さっそくドタン(サマリヤの北16q)に住んでいるエリシャを捕まえよとの命令を下した(13)。馬と戦車と大軍が送り込まれ、夜のうちにドタンは包囲された◆エリシャのもとにいた若い預言者が翌朝早くその大軍に気付き、わなわなおびえていると(15)、エリシャは霊的な世界が若者に見えるようにと神に執り成した。若い者の目は開け、数えきれないほどの天の軍勢(=御使い)がエリシャを取り巻いて山に満ちているのが見えた(17)◆何も恐れる必要はない(イザ41:10)。神に人生を明け渡した者に対し、神は常に万全を尽くしてご自身の臨在を証され、最善をもって守り導いてくださるからだ。神のなさることはすべて時にかなってすばらしく(伝道3:11)、たとえどのような状況に変化しようとも、神はすべてを働かせて益に変えてくださるお方である(ロマ8:28)。古い肉性を十字架につけて(マタ16:24、ロマ6:6)、主のみこころを生き抜きましょう。

■ 2010/06/27(日)
 [題]
「エリシャ−からの器の奇蹟」
 [みことば]
『家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。』 (U列王記4:4)
 [ショート・メッセージ]
◆『預言者のともがら』(U列4:1)とは、エリヤの後継者エリシャを中心に集まっていた預言者グループの存在を暗示。律法を学びイスラエルのために祈っていたのだろう。この中の一人の妻がエリシャに叫んだ。「信仰深い夫が死に、貸し主が借金のかたに2人の子どもを奴隷にしようとしている。」 イスラエルでは貧しくなっても身内を奴隷としてはならないという律法があったが(レビ25:39)、それに反することが行なわれるほど社会が不信仰に陥っていたことを示す●エリシャは、信仰深い女のために祈り、家に残っている油のつぼの存在を聞くと、主のみこころを伝えた。隣家から空の器を多く集めて、その油を注ぐように。「空の器」は、神の奇蹟を明確にするため。また注ぐ間、「家のうしろの戸を閉じる」とは、集中するためと、人間的関与を断つため●すると奇蹟が起きた。残っていた油のつぼから注いだ油は、すべての器を満たして止まった。油を売ったお金で借金を完済したあと、家族3人で暮らすに十分なお金が残った(7)。神の奇蹟は信仰者の生活に密着しており、証人(2人の子)の前で行なわれた。神は公にことを成すお方である。ご自身の存在を知らせ救うために。

■ 2010/06/20(日)
 [題]
「エリシャ−エリヤの後継者に導かれた」
 [みことば]
『また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。』 (T列王記19:16)
 [ショート・メッセージ]
◆エリシャはエリヤの正式な後継者となりましたが、それは主権者であられる神がご計画されたことでした(T列19:16)。主がエリヤをたつまきに乗せて天に引き上げられた時(U列2:1-18)、エリコの預言者のともがらのうちの50人はエリヤ(同8)と同じようにエリシャもヨルダン川の水を分けた奇蹟を見て、彼がエリヤの正式な後継者であることを認めました。『エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている。』(14-15) すべてのことは神から発し、神によって成り、神に至るのです(ロマ11:36)◆エリシャに、エリヤに代わる預言者としての大きな使命が与えられたのです。そして使命を全うするための賜物『あなたの霊の二つの分け前』(U列2:9)も与えられ、その証明がこの後に繰り返される奇蹟として記されています◆イスラエルを守り導くために、神はご自身の主権によって働き人を立て、使命を与え、それを全うするために霊的な賜物をも与えておられます(Tコリ4-11)。賜物は世的な能力とは異なりますから、自分を誇ったり高慢にならず、かえって主を恐れ謙遜とされ、主に栄光を帰す者となります(使14:9-15)。これらの基準に照らして各自、吟味しながら奉仕に与りましょう。

■ 2010/06/13(日)
 [題]
「エリシャ−ナアマンに神のことばを取り次ぐ」
 [みことば]
『みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』 (ヤコブ1:22)
 [ショート・メッセージ]
◆アラムの国に神はご自身を示すために、将軍ナアマンをイスラエルの国に引き出された(U列5:4)。彼が預言者エリシャの家の入り口に導かれた時、神はエリシャに《神のことば》だけを手渡された(10)。エリシャという人間にではなく、イスラエルを導いて来られた《主なる神》に注目させるためであった(16)。預言者は神を取次ぐ者であって、自分をアピールする者ではない。人間はとかく自分をアピールし、自分に注目させようとする。金品をかき集めることに主眼を置いた世の宗教はその最たるものである(ルカ16:13、使8:20)◆ナアマンは、エリシャに届けさせた『ヨルダン川へ行って7たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります』という単純なことばに最初は戸惑ったが(U列5:11)、しもべらに促されてそのことばに従った。半信半疑であったにもかかわらず、奇跡が起きた(14)◆プライドを捨てた時、彼ナアマンは《自分中心に考える空しさ/思っていた》(11)から、《神を実感する喜び/今…知りました》(15)に移された。神があなたに語りかけることばに耳を傾け、生活の中でみことばを実行する人にならなければならない(ヤコ1:22)。

■ 2010/06/06(日)
 [題]
「質疑応答―自制することの大切さ」
 [みことば]
『その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。』 (Tコリント8:11)
 [ショート・メッセージ]
◆Q・・・Tコリント8:11の『その弱い人は、あなたの知識よって、滅びることになるのです。』の意味を教えてください。A・・・「弱い人」とは、救われて間もないクリスチャンのことです(ロマ14:1)。「あなたの知識」とは、律法主義クリスチャンが得ている律法的な知識のこと。「滅びることになる」とは、正しい判断ができなくなり、自分を必要以上に責め、霊的に病んでしまうことを言います。永遠の滅びのことではありません。私たちもまた、救われて間もないクリスチャンに、多くのことを要求したり、難しいことを強制してはいけません。神は、ひとつの段階を訓練され、そのあと次ぎの段階へと導かれるお方ですから、生まれたばかりのクリスチャンがゆっくり少しずつ成長できるように、見守ってあげなければなりません。と同時に、神が命じていない事柄を強要しないように十分に注意し、自制しなければ、集会全体が崩壊してしまいます。互いに注意しようではありませんか。と同時に、年数の分だけ成長できるように、主から教えられ、主のご命令に従って生活できるように、訓練されようではありませんか。

■ 2010/05/30(日)
 [題]
「幸いなるかな―聖別される者」
 [みことば]
『幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。』 (詩篇1:1)
 [ショート・メッセージ]
◆詩篇1篇は詩篇全体を要約。聖別され、神と関係を正しくし、神に取り扱われて生涯を送る者は幸いだと言っています。偶像にだまされ快楽におぼれる者、富に仕え金品をかき集める者、怒りと高慢に支配され隣人を傷つけあざける者は、神を無視して自滅の道を走る者。それでも神は、待ち続け招き続けておられます(イザ57:17〜18)◆ルカ19章のザアカイ物語の前の18章に、金持ちの役人の姿が記されてあります(18:18〜23)。この役人はニコデモと同じように(ヨハ3:1〜)、永遠のいのちを受ける方法を尋ねますが、イエス様は彼に全財産を売り払って貧しい人に施し、無一文になってわたしについて来なさいと諭します。ところが彼は、人生の向きを変えず、悲しんで立ち去ります(マタ19:22)。イエス様は弟子たちに言われました。金持ちのままで神の国にはいることは不可能だと。金銭を愛する生活を続ける者は神に敵対しているのです(ヘブ13:5)。『いま持っているもので満足しなさい』◆一方ザアカイは、イエス様の教えを子どものように受け入れ(ルカ18:17)、金銭を愛する生活を終了し、これまでの無意味な重荷を降ろして聖別され、イエス様に従って一切を神に委ねる生活をスタートしました(ルカ19:8)。

■ 2010/05/23(日)
 [題]
「幸いなるかな―神のかたちの回復」
 [みことば]
『人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』 (ルカ19:10)
 [ショート・メッセージ]
◆悪魔の誘惑に負けて神との契約を破り、《神のかたち》を損なったアダムとエバの子孫である私たち。《神のかたち》とは神の霊的なご性質(聖・義・愛)のこと。この霊的命を損なった状態で生まれてきた私たちは、聖書が言うとおり、神に戻るまで人生を楽しむことができないのです(伝2:25)。どんなに頑張っても糸の切れた凧のように空しく人生を彷徨うだけです(伝2:11)◆神に戻り、神との霊的ないのちの交わりが回復するなら、人は《心に安らぎ》と覚え、《人生をエンジョイ》することができるのです。ご馳走がなくても、家族が平和であるほうが、心に幸せを感じることができるように(箴17:1)。人間としてのあるべき状態(神との正しい関係)に戻れるなら、理屈抜きに人生を楽しむことができるのです◆悪魔にさらわれ、神から引き離されたため何をやってもちぐはぐな生き方しかできない私たちを、《捜して救うために》御子はキリスト(救い主)としてこの世に遣わされ(ルカ19:10)、今もなお聖書を通して一人ひとりに呼びかけておられます◆恐れ恥じ入ることはありません。すでに犯してしまった罪と過ちのすべてを赦し、罪の原動力から私たちを救い出すために、キリストは十字架で死なれ、3日後によみがえられたのですから。

■ 2010/05/16(日)
 [題]
「幸いなるかな―人生が変えられたザアカイ」
 [みことば]
『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』 (ルカ19:8)
 [ショート・メッセージ]
◆エリコの町にザアカイという名の金持ちがいた(ルカ19:1-2)。「きよい」という意味の名とは裏腹に、彼の金満人生は汚れを物語っていた。病的なほどの背の低さ(3)が彼に劣等感を植え付け、それを払拭するために金満による優越感を目指したのだろう。しかし、金持ちになればなるほど彼の人生から幸いは消えていった。彼は取税人という職種を利用して巧みに税額を上乗せし、町民から多額のお金を詐取して金を掻き集めた(8)◆不正を行なって幸いを得ることはできない。神のかたちによって造られた人間が持つ『良心』(ロマ2:15)は、それを許可しない。ザアカイは、自分のために金を騙し取られ泣く町民を見ながら、自己嫌悪と良心の呵責という2本の剣で自分の心を傷つけた◆ザアカイはキリストと呼ばれるイエスにどうしても会いたかった。疼いている彼の心がイエスを求めたのだ。『すべて疲れた人重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』(マタ11:28)と言って招いておられるイエスの元に彼は急いだ。町民に邪魔されても彼はめげなかった(ルカ19:3)◆そしてついに彼は幸いを得ることができた。金に対する執着を捨て、『神の国とその義とをまず第一に求めること』(マタ6:33)によって。

■ 2010/05/09(日)
 [題]
「幸いなるかな―神のことばを聞いて守る人たち」
 [みことば]
『いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。』 (ルカ11:28)
 [ショート・メッセージ]
◆聖書は神のことばであり、暗中模索しながら不安定な生き方をしている者に、自分が何者なのかを教え、どこに向かっているかを明らかにし、戻るべき正しい位置に移ることができることを理解させ、人生を再出発させるために、神が多くの預言者を用いて書き送って下さった真実の手紙です。これを学び人生を新しくさせられた者は平安と喜びと確信を得ることができますが、これを拒み無視する者はこれまでの手探りの人生を再び生き続けなければなりません◆幸いとは、神から新しい命を受け人生を新しくさせられ、御国に向かう人生を生きることであり、神に出会う前に犯した忌まわしい罪の思い出を、赦されることによって断ち切り、悪を行なうことによって付けた心の傷を、赦されることによって癒され、敵に対する怒りと憤りから解放させられ、敵を赦せる人生の中に平和を味わい、人に犠牲を強いて自己満足する人生から解放させられ、仕える人生の中に喜びを見い出し、身勝手な生き方と決別してみこころを生きる人生に確信を体験することなのです◆古い価値観は富と名声と快楽を追求しながらも渇き続けますが、新しい価値観は聖さと義しさと愛の中で安らぐことができます。神が教えておられる幸いをあなたも味わうことができますように。

■ 2010/05/02 (日)
 [題]
「創世記1〜3章―労働の苦しみ」
 [みことば]
『食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。』 (創世記3:17)
 [ショート・メッセージ]
◆創世記3:17〜19には、神との契約を破ったアダムへの刑罰が宣告されています。それは『ついにあなたは土に帰る』(19)というものでした。すなわち罪から来る報酬としての《死の宣告》です。これはすでにアダム契約が結ばれたとき約束されていたもので(2:17)、弁解の余地はありません。罪のゆえに汚れた体は御国に留まることはできません。霊は神のもとに帰って神のさばきの法廷に出廷し、汚れた体は土に帰らなければならないのです/『ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る』(伝12:7)◆地上生涯の最後である死を迎える直前までに、人が自分の罪を認めて悔い改めて向きを変えることができるように、神は《労働の苦しみ》を宣言しました(創3:17)/女へは《出産の苦しみ》(16)。神との交わりを楽しんでいたときは喜び祝福であった労働が(2:15)、罪ゆえに神と交わることができなってからは苦痛となるのです(伝2:11)◆ところで、救われて神との交わりが回復した聖徒にも、新たな苦しみが与えられています/『私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない』(使14:22)。すなわち自分の肉を捨てる苦しみ、《聖化のための苦しみ》です(Uテサ1:5、ヘブ12:14、テト2:14)。労働の苦しみはこれにつながっているのです。

■ 2010/04/25 (日)
 [題]
「創世記1〜3章―聖なる日」
 [みことば]
『神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。』 (創世記2:3)
 [ショート・メッセージ]
◆6日間で全宇宙と地球と、愛の交わりの対象としての人を創造された神は、7日目を休まれて『この日を聖とされ』ました(2:3)。聖とされたとは、人のためにご自身を礼拝する聖別された1日を設けられたということです。子が実の親との交わりの中で精神的に安定し教えられ守られ訓練されながら成長するように、創造者なる神はご自分との交わの中で私たち人間が正常に成長し、人生を楽しめるようにと導かれたのです◆ところで神は、人に土地を耕すという《労働》の祝福と、土地と生き物を《管理》するという祝福を与えてくださいました(2:15)。さらにご自身が天地を創造されたときと同じように、6日間働いて1日休ませ、創造主なるご自分との交わりの日を設け、ご自分を礼拝させて安息できる日を定めてくださったのです。このことは、荒野の旅路の中でモーセを通して与えられた律法によって確認され、契約の民イスラエルのしるしとされました(出20:8〜11)◆ところでこの《古い契約のしるし》土曜安息の律法は、キリストによって成就された《新しい契約のしるし》日曜礼拝の祝福へと昇華されました。今私たちは、神との公の交わりを通して聖められ、いやされ、強められ、祝福されて、喜びと感謝と賛美に満ちた6日間の労働をスタートすることができるのです。

■ 2010/04/18 (日)
 [題]
「創世記1〜3章―秩序の回復」
 [みことば]
『もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。』 (ローマ5:10)
 [ショート・メッセージ]
◆神は3次元の世界を6日間段階を追って造っていかれました。ご自分のイメージ通りに誕生する世界をご覧になるたびに、《見てそれをよしとされ》(4,10,12,18,21,25節),そこに調和と秩序と一致を確認されたのです。すべての創造が終わられた時、神はそのすべてをご覧になって『それは非常によかった』(31)と満足されました。調和が整い、秩序に満ち、完全な一致が見られる完璧な世界が、そこに誕生していたからです。悪魔がアダムとエバを誘惑し神に対して不従順にならせるまでは◆しかし神は、その人の失敗をむだになさらずさらなる完璧な世界、《新しい天と新しい地》を計画され(イザ65:17)、その時を導かれました(ロマ8:28)◆神の秩序は、『種類に従って』(11,12,21,24,25節)ということばで明らかにされている通り、生物繁殖界で証明されています。人工的に種類を越えさせようとしても、その瞬間死滅するのです(牛と豚をかけ合わせることは不可能)。遺伝子の数が異なるからです。秩序の崩壊、これがすなわち《罪》です。それは家庭・学校・職場・道路上で見られるたびに、悲しみ・不安・怒り・傷・が生じ体や心から血を流すです。秩序の回復こそ聖書が言う救いであり、《御子による神との交わりの回復》こそがそのスタートです(ロマ5:10)。

■ 2010/04/11 (日)
 [題]
「創世記1〜3章―神の全知とご配慮」
 [みことば]
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』 (ローマ8:28)
 [ショート・メッセージ]
◆4月の福音集会のテーマは「創世記1〜3章」です。創世記全体は2つに大別できます。初めから11章までは人類誕生と各地への拡散、12章から最後まではイスラエル民族の誕生です。今回の箇所を分けますと1:1〜2:4は天地の創造、2:5〜25は人間の創造、3章は悪魔の誘惑とエデンからの追放となります◆まず2:21に目を留めたいと思います。ここには女の創造が記録されていますが、ここから神の全知とご配慮を知ることができます。すなわち《人祖アダムの不従順》(ロマ5:19)による失楽園の予知と、再創造のご配慮です。ここにはエデンの園から追放される人類を贖い、神との交わりを回復させてくださる神のご配慮が暗示されています◆『深い眠り』は、「最後のアダム」(Tコリ15:45)・「第2の人」(同47)として天から遣わされるキリストの身代わりの死を暗示しており(ルカ23:46)、あばら骨の一つから造られた女はイエス様の『わきばら』(ヨハ19:34)から流れ出た血によって誕生する(使徒20:28)キリストの花嫁である教会(Uコリ11:2)を暗示しています◆クリスチャンとされた私たちも温存している肉性のゆえにアダムと同じように罪を犯す弱さがありますが、悔い改めて主に向きを変えて歩むなら主は過去のすべて働かせて益に変えてくださるお方です。その尊いご配慮を覚えて感謝するばかりです(ロマ8:28)。

■ 2010/04/04 (日)
 [題]
「預言者たち―最後の預言者ヨハネ」
 [みことば]
『御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。』 (黙示録22:17)
 [ショート・メッセージ]
◆新約聖書を完成させるために神が用いてくださった預言者の最後は使徒ヨハネ。聖霊は彼を用いて福音書を書かせ主の神性を明確にし、当時蔓延していた異端の間違いから教会を守らせました。さらにヨハネの手紙1・2・3を書き送らせ、汚れた行為をむさぼる異端の過ちを指摘し、混乱していた信者を正しい教理へと導きました。その後ローマ帝国の迫害によって小島パトモスに流されたヨハネに主が顕現され、後に起こることを幻として示され、その内容が黙示録として書きまとめられました◆帝国の迫害を受けていた教会に、神が計画している後の時代を明らかにして勇気づけ、忍耐して主の再臨を待ち望むように勧めるためヨハネが用いられたのです。しかし黙示録は当時の信者たちだけに送られた手紙(1:11)ではなく、主の昇天後誕生したキリストのからだなる教会に属する全ての信者に書き送られたものでした◆主は言われます。『大淫婦へのさばきを見せましょう』。大淫婦とは、旧約でも預言されていた復興ローマ帝国のことで(ダニエル2:33、40-43、7:7-8、9:27)、教会の成長とともに歴史から消したように見せかけたローマ帝国の再登場です。それによって「全世界を惑わしたサタン」(12:9)への最終的なさばきを、全人類に確認させるために神が導かれるのです。

■ 2010/03/28
 [題]
「預言者たち―贖われたイザヤの献身」
 [みことば]
『私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」』 (イザヤ6:8)
 [ショート・メッセージ]
◆イザヤ(ヘ/イェシャヤーフー)は「主の救い」という意味で、第5福音書と呼ばれるイザヤ書の著者としてふさわしい名です。彼の父はアモツ(イザ1:1)で伝承によれば南ユダの王アマツヤの兄弟で、そうなるとイザヤはウジヤ王の従兄弟ということになります。それで彼が王宮に出入りしていたこと(38〜39章、U列20章、U歴32:20)もうなずけます。彼はウジヤ王の死んだ年(BC742)に預言者として召され、続くヨタム王(16年間統治)、アハズ(16年)、ヒゼキヤ(29年)の時代に活躍しました(イザ1:1)。約60年間預言者として働いたのです。力強いですね◆彼が召命を受けた時の様子は6章に記録されています。それはウジヤ王が死んだ年のこと、彼は霊的に引き上げられ神の御座の前に立ち(1)、自分の汚れを深く認識させられます(5)。神に出会って初めて自分の真の姿に気づかされるのです。すると御使いが遣わされ燃えさかる炭が彼の口に触れ、「不義は取り去られ罪も贖われた」と告げられます(6〜7)。この炭は木炭でも石炭でもなく、祭壇で焼かれたいけにえの燃える骨を指していました。罪人は自分で自分を聖めることはできないのです(ロマ8:3)。贖われて預言者に召された彼は即座に自分を差し出します(8)。今も神は贖われたあなたの献身を待っておられます。

■ 2010/03/21
 [題]
「預言者たち―みことばをまっすぐに説き明かす」
 [みことば]
『あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。』 (Uテモテ2:15)
 [ショート・メッセージ]
◆イスラエルの預言者はサムエルから始まりました(使3:24)。彼の母は信仰深いハンナ。不妊の女であったが神のあわれみにより奇跡的にサムエルを出産。乳離れする3歳まで手元で信仰教育を行ない、乳離れと同時に祭司エリに預けます(Tサム1:24〜28)。母から教えられた信仰を土台としてサムエルは主のみこころにかなって成長(同2:26)。彼が預言者に任命される直前、1人の神の人がエリに現われ、2人の息子の悪行ゆえに神のさばきが下ると告げますが(2:27〜36)、エリは息子たちを戒めようとしませんでした(3:13)◆預言者としてサムエルが任命されたのはこの時でした。主の宮で寝ていた少年サムエルの名を繰り返し呼ばれた神は、信仰によって応答した彼に主人エリ家の断絶を告げさせたのです。告げることを躊躇していましたが、主のことばは隠せませんでした。彼はすべてを話し(3:18)、それらは成就します。そのことによって彼が主の預言者に任じられたことを全イスラエルが知ったのです(20)◆神の名を使って自分の思いを告げる者は死ななければならず(申18:20〜22)、神から示されたことばは包み隠さず取り次がなければなりません(アモ3:8)◆私たちキリスト者もまた自分の思いではなく神のことばをまっすぐに伝えなければなりません。

■ 2010/03/14
 [題]
「預言者たち―聖書を完成させた預言者たち」
 [みことば]
『完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。』 (Tコリ13:10)
 [ショート・メッセージ]
◆預言者たちについて学び合う第1回目です◆預言者(ヘ:ナービー)は「代言者」の意味。神のメッセージを人間に取り次ぐ奉仕をする人のことです。さらに、「1吹き出す者」「2宣言する者」「3召された者」の意味があります。1神から与えられたメッセージは語らずにはおれないものであり(アモス3:8)、2神のメッセージの中心はいのちと死、祝福とのろいの宣言であり(申30:19)、3自主的に携わるのではなく神から召されて与る奉仕なのです◆聖書全体は約40名の著者で書き記されましたが、この著者たちが預言者です。実に完成された「聖書」(旧・新約)は、神によって立てられた預言者たちによるものであり、旧約時代の預言者と新約時代の預言者を神は選び用いました◆いずれの時代にも、真の預言者ばかりではなく、偽預言者も存在しサタンの妨害がありましたが、神の約束どおり「完全なもの」(Tコリ13:10)である聖書が完成され、真の聖徒たちは、聖書を通して神のご人格に触れ地上にあっても天の御国の生涯を送ることが可能となりました。聖書が66巻で良いことは、イザヤ書(全66章)を通して神が証明しておられます◆これ以上の聖書を付け加える必要がないため、預言の賜物はすたれると宣言されています(Tコリ13:8)。

■ 2010/03/07
 [題]
「神のご性質―神の忍耐」
 [みことば]
『神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。』 (ローマ3:25)
 [ショート・メッセージ]
◆聖・義・愛こそが、聖書を通して証しておられる神のご性質であることを、3回の福音集会でご一緒に覚えてきました。今回は、罪人に対して現してくださった神のご性質に目を留めて、ご一緒に考えたいと思います。それは、神の忍耐です◆ヨナは神に申し上げました。「あなたは怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直される方である」(ヨナ4:2)と。神はひたすらに、罪人の悔い改めを望んでおられます。さばきを宣告されるのは、悔い改めへと導くためです。「わたしはだれが死ぬのも喜ばない。だから、悔い改めて生きよ」(エゼ18:32)と、聖書の中から叫んでおられます◆聖と義と愛に満ちた神の家族の交わりに帰ってきなさいと招いておられる神の忍耐のメッセージは、放蕩息子のたとえ話の中にも、ザアカイ物語の中にも、そして十字架上の7つのことばの中にもはっきりと示されています。あわれみ深い神の忍耐によって、私たちは永遠のさばきから救われ、まだ救われていない私たちの家族親戚をはじめすべての罪人が、今もなお招かれ続けているのです◆救われ神の子とされた私たちも、主との忍耐のくびきを負って、未信者の方々の罪の自覚と悔い改めのために、労苦しようではありませんか。

■ 2010/02/28
 [題]
「神のご性質―第三のご性質である『愛』について」
 [みことば]
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』 (マタイ11:28)
 [ショート・メッセージ]
◆神の第3のご性質は『愛』です。神の愛は聖さに根ざし、公義を伴います。それゆえ神の愛には汚れがなく偽りがありません。私たち人間が扱っている愛とは比べ物になりません。なぜなら人間的な愛は、時に不純で、時に利己的で、時に打算的になるからです。私たちを、喜びと感謝と賛美の生活へと導き、心から赦し合える真の平和を完成させる愛は、聖書を通して神から直接学ぶものでなければなりません。『なぜなら神は愛だからです』(Tヨハネ4:7)◆その神の愛が明確に示されたのが十字架でした。『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです』(同10)。私たちの罪に対して下るべき刑罰という当然の報いをキリストは身代わりに受けることによって、私たち罪深い者たちを罪から救い、罪の力から解放してくださったのです。ここに神の愛をはっきりと認めることができるのです。父なる神は、はかり知ることのできない犠牲を支払うほどに、私たちを愛しておられるのです◆そしてこの愛は、信じ受け入れる者のうちにしか届きません。以前の私たちは、この方を無視し、備えられた救いと解放を拒み続け、惨めな敗北人生を送っていたのです。

■ 2010/02/21
 [題]
「神のご性質―第二のご性質である『義』について」
 [みことば]
『主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。』 (Tコリント6:11)
 [ショート・メッセージ]
◆神の第2のご性質は『義』です。義は正義の義で、「正しい」という意味です。十戒の後半6つの、対人関係のルールを教えている戒めは、神の義のご性質から出ており、これを守るとき生じるのが、「秩序」です。秩序が乱れると、悪と汚れと争いと混乱が生まれ、生きることに疲れを感じるようになります。Tコリント14章33節の『それは神が混乱の神ではなく、平和の神だからです』にある「平和」とは、「義によって生じる秩序」が保たれている時に存在する世界なのです(同40節)。これを壊してはいけません◆イエス様もまた山上の垂訓の中で、『神の国とその義とをまず第一に求めなさい』と教えておられますが(マタイ6:33)、心配によって神を見失い、神を見失うことによって秩序を乱し、秩序を乱すことによって争いと混乱が生じ、争いと混乱の中で自滅していく、そうであってはならないとの警告です◆ところで、イエス様が付けられた十字架の形を思い浮かべてください。その縦の柱に人と神との関係である「聖」のルールを見、横の柱に人と人との関係である「義」のルールを見ることができます。聖が保たれなければ義は落ちるのです。義は聖に依存しているのです。聖を保ち、神の義を守って前進しましょう。

■ 2010/02/14
 [題]
「神のご性質―第一のご性質である『聖』について」
 [みことば]
『神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。』 (Tテサロニケ4:3〜6)
 [ショート・メッセージ]
◆神のご性質の第一は何ですかと尋ねると、律法を知らない異邦人である私たち日本人のほとんどは、『愛』と答えます。やさしい神、思いやりのある神、情け深い神というイメージが強いのです。それは、旧約聖書よりも新約聖書を多く開いているからでしょう。聖書の根本である旧約聖書を学んでいくと、神の聖が第一のご性質であることを教えられます◆では『聖』とは何でしょう。その意味は分離です。区別することです。律法の中心である十戒は2つのグループから成り立っており、その前半、すなわち第1〜4戒は神との関係における戒めで、神の聖なるご性質から出ています。後半の第5〜10戒は対人関係に関する戒めで、義なるご性質から出ています◆聖とは、悪魔の領域と神の領域を区別することです。その第一は、神を偶像の神々と区別し分離することで、ここをごちゃ混ぜにするなら義も愛も真理も、神ご自身をも知ることはできません。ですから神は第1戒で、『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない』(出20:3)と命じられたのです。自分で都合よくイメージする神ではなく、聖書を通してご自身を明らかにしておられる神について、学び続けましょう。

■ 2010/02/07
 [題]
「質疑応答―なぜキリストは日本人ではないのですか?」
 [みことば]
『救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。』 (ヨハネ4:22〜23)
 [ショート・メッセージ]
◆Q)なぜキリストは日本人ではないのですか?◆A)『救い(主)はユダヤ人から出る』と御父が計画しておられたからです。ヨハネ4:22に『救いはユダヤ人から出るのです』と旧約の預言の成就としてキリストが来られたことが記されています。この「救い主(キリスト)誕生」の約束は旧約の預言の中で繰り返されました。最初の約束は創世記3:15にあります。アダムとエバが神のことばを退けてサタンの言葉に従った最初の罪の後の蛇へのさばきの宣告の中で、『女の子孫』ということばで約束されました。続いて創世記22:18の『あなた(アブラハム)の子孫』ということばで約束が更新されましたが、この「子孫」は単数形で表わされひとりを指しておりキリストを意味しています(ガラテヤ3:16)。しかも「あなた」とはイスラエル民族の始まりであるアブラハムのことですから、ここで救い主がイスラエル人として誕生することが明らかになりました。さらに、約束はUサムエル7:12の『あなた(ダビデ)の身から出る世継ぎの子』ということばで更新されました。今度はさらにダビデの子孫として生まれると、その約束の範囲が狭められたのです。そしてこの約束の成就として、ナザレに住んでいた乙女マリヤを通して誕生したと聖書は証言しているのです(マタイ1:1〜16)。

■ 2010/01/31
 [題]
「ダニエル―定められている70週」
 [みことば]
『あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。』 (ダニエル9:24)
 [ショート・メッセージ]
◆イエスの母マリヤに受胎告知をした天使ガブリエルは、その500年前にダニエルのもとにも遣わされていました(ダニエル9:21)。ガブリエルはダニエルに、「幻と預言が確証され」、「イスラエルの罪が贖われる」、すなわち《千年王国》が地上に成就するまでの期間が70週(7×70=490年)であることを告知しました◆「引き揚げてエルサレムを再建せよ」との命令はアルタシャスタ王の第20年のBC445年(ネヘミヤ2:1〜5)であり、「7週(49年)」はヘズラ・ネヘミヤ時代の終わりを指し、「7週と62週」合わせて69週(483年)後は、キリストの十字架刑による贖いの死を意味しています。「油注がれた者は断たれ」(ダニエル9:26)。この69週の終わりはBC445-483年=AD31で、十字架のみわざと初代教会誕生直前までを指しています。「彼には何も残らない」は、キリストが断たれてもイスラエルはキリストによる救いを受け入れないことを指しており、最後の1週(7年)が過ぎなければイスラエルの救い(千年王国)は成就しないのです◆26節2行目の「来たるべき君主」は反キリストのことであり、「1週の間多くの者と堅い契約を結び」(27)は7年間の患難時代(復興ローマ帝国)を指しています。この最後の1週(7年間)は、隠されていた奥義である教会時代の終了後に現われます(Uテサロニケ2:6〜7)。

■ 2010/01/24
 [題]
「ダニエル―王の夢を告げ解き明かしたダニエル」
 [みことば]
『天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。』 (ダニエル2:28)
 [ショート・メッセージ]
◆ダニエルと3人の友にまで命の危険が及びました。バビロンの王が自分の見た夢でうなされたのが原因でした(ダニ2:1)。王はバビロン中の知者たちに、「私の見た夢を告げ、それを解き明かせ」と命じましたが、まずもって王の夢を告げることのできる知者が皆無でした。彼らは「それができる者は神以外にいません。どうぞ夢をお話しください」と願いましたが(11)、これが王の怒りを爆発させ、バビロン中の全知者への抹殺命令を引き出したのです(12)。これこそが権力者の非常識と罪であり、己を神の座に着ける者の狂気です。罪人とは己を神の座に着けて生きている者、と定義付けることができます。高慢・傲慢の極みです◆知らせを受けたダニエルは、すぐに全能の神にあわれみを請い祈ります(18)。しばらくして神はダニエルに知恵と知識を賜り、王の夢とその解き明かしを示してくださいました(19〜23)。ダニエルは知者を滅ぼさないよう、そして自分が王の夢を示し解き明かしますと伝えます(24)。お前にできるのかと王が問うと、ダニエルは答えて言います。「神が終わりの日に起こることを夢で王に示されたのです。あなたは巨大な像を夢で見ましたね」と告げ、解き明かすと、王は驚嘆してダニエルの前にひれ伏します。ダニエルはバビロンの知者たちを指導監督する長官に任命されました(46〜49)。

■ 2010/01/17
 [題]
「ダニエル―神のみこころを第1にして生きる」
 [みことば]
『そのようにして、私たちの顔色と、王さまの食べるごちそうを食べている少年たちの顔色とを見比べて、あなたの見るところに従ってこのしもべたちを扱ってください。』 (ダニエル1:13)
 [ショート・メッセージ]
◆ダニエルは、「神はわがさばき主」という意味です。『神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれる』(伝道者12:14)とあるように、人の隠れた罪をさばく唯一の神を、彼はバビロンの地で証したのです。人の心の奥深くを知っておられ、正しいさばきをなさる神をバビロニヤ帝国で証することにより、全人類を救う神のご計画の一端を、ダニエルは担ったのです◆ダニエルは、エホヤキム王の第3年、すなわちBC605年にバビロン捕囚民として南ユダ王国から連行された少年たちの一人でした。彼は「身に何の欠陥もなく、知恵に秀で、知識に富む者」であり(ダニ1:4)、宮廷に仕える者となるためにふさしいと認められ、3年間の訓練を受けることになりました(5)◆しかし彼は、ネブカデネザル王の食物と同じ物を食べることを拒んで「10日間、野菜だけを与えてしもべたちを試してください」と願い出ます。王の食物は偶像にささげられたのち食卓に出されることになっていたため、偶像礼拝に加担することを避けたのでした(12)◆しかし結果として、神のみこころを第1とした彼らは平安の内に10日間を過ごしたために、顔色は良く、健康でした(15)。神のみこころを第1とする者に神は平安を与え、必要も満たしてくださるのです(マタイ6:33)。ちなみに『野菜』(12)とは、穀物や豆類を意味するヘブル語が使われています。

■ 2010/01/10
 [題]
「新年交わり会―神への願いを告白し合う」
 [みことば]
『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』 (マタイ6:33-34)
 [ショート・メッセージ]
◆新年にあたり、神への希望を告白し合いました。ある者は、肉的な熱心さに留まりやすい自分に気付かされ、みことばから教えられ成長させてくださいと神に願いました(Uテモテ2:15)◆ある者は、人間的な愛情に留まるのではなく、神の愛を学び、行ないと真実をもって愛を実行する者に変えていただきたいと神に願いました(Tヨハネ3:18)。また、たとえ貧しさの中に導かれたとしても、家族が一致して成長できるようにと願いました(箴言17:1)◆またある者は、もっともっと聖められたいと神に願いました。これまでの神を知らなかった人生の中で、世の価値観に染まってしまった自分にさらに気付かされてきたからです(Tテサロニケ4:3-8)◆またある者は、みことばを説き明かす働きに、さらに専念させてくださいと願いました。まだ救われていない家族、親族、知人が数多くいるからです(詩篇119:130)◆『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。』(Tヨハネ5:14-15) 一人ひとりが、主権者なる神に心から願い求めた祈りによって、互いに平安を味わうことができました。

■ 2010/01/03
 [題]
「年末感謝会-主の臨在を体験した1年」
 [みことば]
『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたとともにいます。』 (マタイ28:20)
 [ショート・メッセージ]
◆2009年の一年間を振り返って、みことばに基づいて訓練してくださった主なる神に、一人ひとりが感謝しました。ある聖徒は、鹿児島集会の交わりに加えられ歩んだ1年間を振り返り主に感謝しました。みことばを具体的に学ぶことを通して、臨在される主の臨在を具体的に知ることができ、みこころを生きる喜びを味わうことができたからです。またある聖徒は主への献身に対する確信が強められ、ある聖徒は集会の成長を強く願う思いが与えられ、ある聖徒はみこころにかなった就職への道を主に期待しました。また、ある聖徒は迷いと苦しみの中で主の取り扱いを受け、進むべき道を受け止めることができました。ある聖徒は1年間の歩みのすべてを主が導いてくださったことを悟りました。ある聖徒は主の力強い御力の下にへりくだる訓練を受け、ある聖徒は聖められる人生に導かれていることを実感し、ある聖徒は神の国とその義とをまず第1にして生きることの大切さを教えられました。◆実に、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」(ロマ11:36)という、聖書のみことばどおりであることを、全員で確認して、主に栄光を帰すことができました。感謝。

■ 2009/12/27
 [題]
「福音に登場する異邦人―サマリヤの女」
 [みことば]
『イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」』 (ヨハネ4:26)
 [ショート・メッセージ]
◆ヨハネ4章に、イエスとサマリヤの女との会話が記録されています。イエスは女に、「あなたには夫が5人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないですよね」(ヨハネ4:18)と明らかにしました。女は男の言葉を信じて結婚しては裏切られ、気がつけば5度の結婚を繰り返していました。今さらに1人の男と同棲していますが、失意のどん底で、惰性で生きているに過ぎませんでした◆「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」(同13)。「この水」とはこの世の人間の言葉であり、「飲む」とは信じ受け入れることであり、「渇きます」とは裏切られること。「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」(14)。「わたしが与える水」とは主イエスのことばで、決して渇かないとは新生を意味しています◆会話の中で女は「人間」ではなく「神」のことば、へと導かれ、神を求める思いが引き出されていきました(同19-20)。続けてイエスは言われました。神を礼拝するために重要なのは場所ではなく、「霊とまこと」(23)です。すなわち「新生すること」(ヨハネ3:6-7)ですと。女は核心に触れて尋ねました。「すべてを明らかにするために来られるメシヤとは、あなたなのですか」(ヨハネ4:25)◆イエスはあなたの前にもおられます。聖書を開いて耳を傾けてください。

■ 2009/12/20
 [題]
「福音に登場する異邦人―東方の博士たち」
 [みことば]
『異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。』 (Tペテロ2:12)
 [ショート・メッセージ]
◆クリスマスにちなんで、東方の博士たちに目を留めてみましょう。彼らがメシヤを礼拝するためにベツレヘムにやって来たのは、イエスさまが2歳くらいの頃でした(マタイ2:16)。羊飼いたちが馬小屋に行ったのに対し、博士たちは家に入って礼拝しました(同11節)。マリヤとヨセフは馬小屋から出て、ベツレヘムの借家に住んでいたのでしょう◆ところで、東方の博士たちとはどこから来た人たちだったのでしょう。たぶん、バビロン地方から来た人たちだったと思われます。BC586年のバビロン捕囚で捕え移された南ユダ王国の民たちのすばらしい信仰の証(ダニ2:46-49、3:28-30)によって、預言者を通して啓示された預言のことばを教えられ、研究する人々が起こされたと推測されます。そしてそれが500年以上も受け継がれていたのでしょう◆メシヤ(「ユダヤ人の王」)がベツレヘムに生まれるという預言はミカ5章2節に、さらに、そのしるしとしての「星」については民数記24章17節に、それぞれ記されています。バビロンの地でのユダヤ人のすばらしい信仰の証がなかったなら、この博士たちの訪問もなかったでしょう。福音宣教は、「りっぱなふるまい」(Tペテ2:12)が伴っていなければならないのです。「りっぱなふるまい」とは、みことばの実行です(ヤコ1:22、2:26)。

■ 2009/12/13
 [題]
「福音に登場する異邦人―異邦人を招き続けておられた神」
 [みことば]
『これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。』 (使徒10:34-35)
 [ショート・メッセージ]
◆福音書に登場する最初の"異邦人"といえば、「ラハブ」です(マタイ1:5)。彼女はエリコに住むカナン人で(ヨシュア2:1)、モーセの後継者ヨシュアが率いるイスラエルがカナンに入植する直前、派遣された斥候2名をかくまった遊女です(同1,4)。彼女がイスラエルの斥候をかくまった理由が9節に記録されています。それはイスラエルを守り導いておられる主なる神をうわさで聞き、信じ恐れていたからです。彼女は斥候を前にして信仰告白をしています(同9-11)。40年前に紅海の水を分けてエジプトからイスラエルを脱出させた神。カナンの地をすでにイスラエルの所有地として与えておられた神。ヨルダン川東岸でエモリ人を聖絶されることを許可された神。彼女は「主」(ヤハウェ)という神の名を3度も告白し、天地の創造者であられることを告白し、自滅から救ってくださいと懇願したのです。これは神の招きに応答した信仰者の姿です◆旧約の時代にあっても、神はイスラエルを用いて御自身を証しておられたのです。神は、ご自身が導かれた人類の歴史を通して、御自身を探り求めさせておられるお方です(使徒17:27)。いつの時代においても、『確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられ』ないのです◆心静めて、あなたを待ち続けておられる神を聖書の中に探してください。

■ 2009/12/06
 [題]
「エペソ人への手紙―父と母を離れとは」
 [みことば]
『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。』 (マタイ19:5)
 [ショート・メッセージ]
◆Q)『父と母を離れ』とはどういう意味ですか?◆A)精神的にも経済的にも親離れをするという意味です。そもそも人類は、親子関係ではなく夫婦関係で始まっています(創世記2章)。親子関係は、夫婦関係の一時期に体験するものです。子育てはとても大切な期間ですが、第1の目標は自立です。親離れをさせ、新しい家庭を作らせるためにあるのです。そして子育ての極意は両親の生きざまです。子どもは両親の言葉より行動を真似て成長します。口で立派なことを教えても、両親の普段の態度を真似して育ちます。ママゴトをしている時の子どもの姿は親の生き写しです。親の口癖までそっくりです。親自身が親離れを完全にしていなければ、本腰を入れて子育てに集中することはできません。子どもが祖父母の影響を受けることが多少あても、子どもにとって両親の存在こそが絶大です。律法の中に『 あなたの父と母を敬え』(出20:12)という命令がありますが、この第1の意味は、あなたに信仰を受け継がせてくれた両親だから敬いなさいというものなのです。神を知り、神を信じ、神に従うという人生に導くことがなければ、完全に親離れさせることはできないのです。

■ 2009/11/29
 [題]
「エペソ人への手紙―苦しみを通して神から学ぶ」
 [みことば]
『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』 (詩篇119:71)
 [ショート・メッセージ]
◆私たちが「苦悩」と感じるのは、自分の思い通りにならない時です。そして思い通りにならない時こそ、立ち止まって自分の思いをみことばと照らし合わせて点検する絶好のチャンスです。「苦悩」は神からの賜物であり、人が正しく成長するために神から導かれていることを再認識しなければなりません。神から学ぼうとしていない時の思いは「何よりも陰険」な状態にあると教えられていますから(エレ17:9)、壁にぶつかることは幸いなことなのです◆BC700年代に活躍した預言者ヨナは、嵐に会うという苦悩と(1章)、大きな魚に飲み込まれるという苦悩(1章)、敵国アッシリヤの首都ニネベがさばきから免れるという苦悩(3章)を味わいましたが、このことを通して"神のあわれみ(愛)"を学ぶことになりました◆旧約時代のイスラエルの民は、神のご性質の中の、"聖"と"義"については律法から十分に学んではいましたが、"無条件の愛"の学びは新約時代(メシヤの死)になるまで十分ではありませんでした。そんな旧約時代の中で、ヨナは神から神の無条件の愛を学ばせていただいたのです(4章)◆苦しみを通して、神から豊かに学ばせていただこうではありませんか。

■ 2009/11/22
 [題]
「エペソ人への手紙―神への愛が証明されたヨブ」
 [みことば]
『試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。』 (ヤコブ1:12)
 [ショート・メッセージ]
◆聖書に記録されている聖徒たちはみな、苦悩の中で神と交わり訓練されていることが分かります。その中からヨブに焦点を当てて考えたいと思います◆古く族長時代に生きていたヨブは異邦人でしたが、創造主なる神について知っており、神を恐れみこころにかなった生活を送っていました(ヨブ1:1,8、2:3)。そんな彼を神が褒めていることに嫉妬したサタンは、神に生意気な挑戦状を叩き付けます◆サタンが神に言いました。「ヨブが信仰深そうにあなたを礼拝するのは、あなたが彼の所有物を増やしそれを保っておられるからですよ。持ち物が剥ぎ取られたら、彼だってあなたをのろいますよ。」 サタンは自分の価値観を基準にて毒づきました。神が許可を与えたので、サタンの手によって所有物と10人の子どものすべてが失われました(12-19)。しかしヨブの信仰はぐらつかず神をのろいません(20-22)◆サタンはなおも挑戦しました。「所有物には代替品がありますからね。でも彼が病の床に伏したら、きっとのろいますよ。」 またも神は許可を与え(2:6)、さらに彼の3人の友の猜疑に満ちた言葉によって責めたてられましたが、激しい苦悩の中で最後までヨブは信仰を見失わず、神をのろいませんでした(42:7-8)。ヨブが神を愛していたからです。

■ 09/11/15 (日)
 [題]
「エペソ人への手紙―二人の弟子の違い」
 [みことば]
『主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。』 (ルカ22:61)
 [ショート・メッセージ]
◆苦悩の目的は、第1に罪人を創造者なる神に振り向かせ、第2に成長させ、第3に聖めるためでした。この1番目の目的にしたがって導かれた弟子の代表としてペテロを見ることができます◆前掲の聖句です。ゲツセマネでの祈りのあとにイエス様が逮捕されると、保身のためにすぐさま逃げ去りましたが、その後勇気を出してイエス様のその後の成り行きを見に行ったペテロでした。しかし群集に指摘される度に、弟子であることを3度も否認し主を裏切ったのです。しかし彼は「鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言いいます」との主のことばを思い出し、ふがいない自分を嘆いて激しく泣きました。この涙からスタートしたペテロは、後にエルサレム教会の指導者として成長していきます◆いっぽうイスカリオテのユダは、イエス様を祭司長・長老たちに売り渡したのち後悔しましたが、イエス様のもとには行かず祭司長たちのもとに行って自分の胸の内を明かします。しかし何の解決もなく、彼は自滅を選んでしまいました(マタイ27:3-5)◆二人の行動の違いは、《みことば》が存在したかどうかにありました。ペテロは主のみことばを思い出しましたが、ユダにはそれがありませんでした。人を悔い改めへと導くのはみことばによる神のご人格です。

■ 2009/11/08
 [題]
「エペソ人への手紙―思い煩いをゆだねなさい」
 [みことば]
『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』 (Tペテロ5:7)
 [ショート・メッセージ]
◆苦悩は神さまからの賜物です(ピリピ1:29)。その目的は、私たちをご自分に振り向かせるためで、これが第1目的です(エゼ18:30)。第2は、私たちを訓練して成長させるためです(ヘブル12:7、11)。第3は、私たちを聖くして天に帰る準備をしてくださるためです(同10)◆しかし、この時わなに落とし入れようとしてチャンスをうかがっている者がいますから注意をしなければなりません。かつて、エデンの園でアダムとエバを堕落させた悪魔です(ヘブル5:8)。言葉巧みに聖書のみことばから引き離そうとします。聖書を閉じさせ、人間的で自己中心的な思いの中へ、引きずり込んでいきます。彼は、最終的な段階をちらつかせ、心配させ、不安にさせ、《今なすべきこと》を見失わせます◆イエスさまは山上の垂訓の中で語っておられます。『だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』(マタイ6:34) その日その日に果たすべき労苦を怠けてはなりません。Tペテロ5章7節に、『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』とありますが、神にゆだねなければならないのは、《苦悩の状況の結果》です。結果を心配するあまり、思い煩いという病に陥ってしまうのです。結果は、神がすでに準備しておられます。

■ 2009/11/01
 [題]
「エペソ人への手紙―神にならう者となれ」
 [みことば]
『あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。』 (エペソ5:8)
 [ショート・メッセージ]
◆人はみな、罪の中で母の胎内に宿り、咎ある者としてこの世に生まれて来ました。神のかたちに造られたにもかかわらず、人祖アダムが悪魔から譲り受けた罪ののろいを背負いながら生きているのです。それゆえ、私たちの未信者時代は「暗やみ」だったのです。父なる神が見えないため、たましいの触れ合いもできず、正しい善悪の基準すら判らないまま、手探り状態で生きていたのです◆しかし新生させられてからはまったく変わりました。神のかたち(創1:26-27、コロ3:9-10)が回復させられ、神との交わりが可能となりました。聖書のみことばを通して人生を照らされ、暗中模索の人生ではなく、神のみこころのうちを生きる光の人生に変えられたのです◆5章は、「神にならう者となりなさい」というみことばから始まっています。そして、22-33節には夫婦の関係について、6章1-4節には親子の関係について、続く5-9節には奴隷と主人の関係について、光の子どもらしく生きる人生が具体的に勧められています◆そして10-20節で、その新しい人生を邪魔する「悪魔の策略に対して立ち向かう」ための7つの霊的な武具が、パウロを通して聖霊によって明らかにされました。この武具の中で6つは防具であり、攻撃的な武具は1つだけ示されています。「神のことば」です(17)。みことばを学び、蓄えましょう。

■ 2009/10/25
 [題]
「エペソ人への手紙―明らかにされた教会の奥義」
 [みことば]
『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。』 (エペソ2:14-15)
 [ショート・メッセージ]
◆エペソ2章で、聖霊はパウロを通して《教会の奥義》を明らかにしておられます。すなわち、『福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。』(3:6)◆2:1の『あなたがた』は異邦人を指しており、3節の『私たち』はユダヤ人を意味しています。すなわち、律法を知らない異邦人ばかりか、律法を与えられ、律法によって教えられていたユダヤ人も、ともに『罪過の中に死んでいた』者であり(5)、神のあわれみによる無条件の赦しを受ける以外に、救われる道はどこにもなかったことを明らかにしているのです。5節の『恵み』とは、無条件の赦しを意味することばです(ロマ3:24)◆この恵みを備えるために、神はキリストを人の子として天から遣わされ、罪人の代わりとして十字架の上で罪に対する刑罰を下されました(同8:3)。キリストが私たち罪人の罪を引き受けてくださり、ご自分の永遠にきよいからだをもって、罪の代価を無限に支払ってくださったことにより、神の怒りはなだめられ(Tヨハネ4:10)、信じる者の罪を永遠に赦してくださる恵みが成就した、と聖書は告げます(ヘブル10:17,18)◆キリストが『罪から報酬である死』(ロマ6:23)を完成してくださったことにより律法は成就され(マタイ5:17)、その垣根は廃棄されたのです。

■ 0000/00/00
 [題]
「エペソ人への手紙―天にあるすべての霊的祝福」
 [みことば]
『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。』 (エペソ1:3)
 [ショート・メッセージ]
◆未信者時代の私たちは、霊的なことがらについては全く無知で、『霊的祝福』(1:3)という言葉に何の興味もありませんでした。この事実こそ、霊的に死んでいたことの確かな証拠だったのです。神のかたち(霊的性質)に似せて造られていた私たちでしたから、霊的ないのちを失った不完全な状態で、充実感を味わうことができなかったのは当然のことでした。何をしても、空しさという名のふりだしに逆戻りしていたのです◆しかし聖書を通して神の存在を知り、キリストを知り、贖いを知り、赦しを知り、永遠のいのちを知り、新生を体験し、平安を味わう者とされ、御国と復活の希望に生きる人生に変えられました。霊的祝福、それは新生させられたすべての者が、みことばと祈りによる神との交わりによって味わうことのできる、あふれるばかりの喜びと、揺るぐことのない平安です。この平安を増すために神は、私たちを軌道修正し、聖め、赦しによって罪による傷をいやし続けてくださるのです(同4節)◆この祝福は、『キリストにおいて』(3)、『キリストのうちに』(4)、『イエス・キリストによって』(5)、『愛する方によって』(6)、『御子のうちにあって』(7)、すなわち神と人との唯一の仲介者となってくださったキリストの、贖いのみわざによって神が備えてくださったのです。キリストによって私たちに霊的ないのちを回復してくださった神に感謝します。

■ 2009/10/11
 [題]
「エペソ人への手紙―新しい人生に生まれ変わる」
 [みことば]
『そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。』 (エペソ4:17)
 [ショート・メッセージ]
◆「異邦人」とは、《聖書を通して啓示しておられる神》を知らない人(未信者)のこと。クリスチャンと言えども救われるまでの半生は未信者でしたから、「むなしい心で歩んでいる」はよく理解できます(ロマ1:18-23)◆エペソ4:19にある『道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています』、のその弱さはすべての罪人が持っているものですが、未信者時代はその欲望に支配されたら最後、そこから脱出する出口があることを知りませんでした。神のかたちに似せて造られたにもかかわらず、アダムがサタンから入れた罪により良い性質は死に、神を避け神を無視する性質が受け継がれたからです(創1-3章)。人はみな罪人として母の胎内に宿り、罪人として生まれ生きて来たのです(詩51:3-8)◆そんな私たちに、罪深い生き方から救い出され新しい人生に生まれ変わる道が、キリストによって備えられていることを聖書から教えられました(エペソ4:22-24)。その人生に入るために何をなすべきかも聖書は明示していました。自分の間違い・過ち・罪を、神の前にすなおに認めて悔い改めることでした(マルコ1:15)◆聖書を通して学ばない限り神に出会えず、戒められない限り罪に気付かず、矯正されない限り聖められないのです(Uテモテ3:16)。

■ 2009/09/27
 [題]
「ノア―ノアの信仰」
 [みことば]
『そこで、神はノアに告げて仰せられた。 「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。』 (創世記 8:15〜16)
 [ショート・メッセージ]
◆ノアの信仰は、神に全き信頼を置くものでした。それゆえノアは、『ノアは神とともに歩んだ。』(創6:9)と記録されたのです。ノアはみことばを道しるべとし、たえず神の御声を待ち望み行動しました。彼は『箱舟を造りなさい。』(同14節)の御声を聞いてから箱舟を造り、『箱舟に入りなさい。』(7:1)を聞くまでは箱舟の外におり、『箱舟から出なさい』(8:16)と言われるまで箱舟の中にとどまったのです。これがノアでした。実にノアは神に依存していたのです◆地の上に40日間続いた大洪水により150日間は水が増え続けましたが(7:24)、150日の終わりから減り始め(同3節)、第7の月の17日にはアララテ山上に不時着しました(4)。10の月の1日になると山々の頂が現われ、水が減り始めて40日後にノアはカラスを放ち、その後 鳩を放って水の引き具合を確認しましたが、足を休める場所がなかったため鳩は戻って来ました◆それから『なお』7日待って再び鳩を放ち(8:10)、水が引いたのを知ってからも『なお』7日待って再度鳩を放ち(8:12)、ノアが601歳になった日にはほとんど乾いていましたが、それでもノアはその後2ヶ月待ちました◆そしてついに聞こえました。『箱舟を出なさい。』(8:16)。ノアは、この声を待ち続けていたのです。

■ 2009/09/20
 [題]
「ノア―みことばを宣べ伝え続けたノア」
 [みことば]
『人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。』 (マタイ24:37-38)
 [ショート・メッセージ]
◆「人の子が来るのは」とは、再臨(空中携挙と地上再臨の両方を含む)のことです。「ちょうどノアの日のようだ」とは、全世界に福音による招きと警告が伝えられていながら人々が無視している時に突然、と言う意味です。『この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます』(マタイ24:14)とあるとおりです。これまで多くの地上にある目に見える教会(集会)の働きによって、すでに世界各地の隅々(私たちが住んでいる場所を初め、町・村・離島・発展途上国や未開の地の人々)にまで福音が届けられて来ましたが、この働きが終了する瞬間が、今まさに近づいているのです◆それにもかかわらず人々の関心ごとはノアの時代と同じように、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」する目先の楽しみ事だと聖書は予告します。当時のノアと息子たちの4家族が、長さ132m×幅22m×高さ13.2mの巨大な箱舟を造ることを通して、人々の無理解の声を聞きながらも、100年に及んで神の警告を証し続けたのです。今を生きるクリスチャンの群れである教会(集会)も、忍耐して福音を証し続けなければなりません。

■ 2009/09/13
 [題]
「ノア―箱舟によって世の罪を定めたノア」
 [みことば]
『信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。』 (ヘブル11:7)
 [ショート・メッセージ]
◆信仰によって神と正しい関係にあったノアは(創6:9)、罪の虜となっていた当時の人々に「地とともに彼らを滅ぼす」(同13)という神のことばを告げました(Tペテロ3:19)。イエス様がガリラヤで福音を宣べられたように(マルコ1:15)。神のことばを聞く者は預言せずにはおられないのです(アモス3:8)◆ノア(「休息」)は500歳になってから、長男セム(「名声」)、次男ヤペテ(「広がる」)、末の子ハム(「熱い」)を生みましたが、セツの子孫とカインの子孫との雑婚によって地は堕落し暴虐の中にありました。神はノアに言われました。「罪ゆえに人類の終わりが来た。彼らを地とともに滅ぼす。」(創6:13) 神はノアに自分の信仰の証のために浮くためだけの箱を作るように命じます◆建築する箱の長さ・幅・高さは、それぞれ132m・22m・13.2mの巨大な長方形で5千トン級の船に匹敵しました。ノアは、耐久性が強く樹脂を多く含むゴフェル(糸杉)の木を切り出し、約百年かけて作り上げました。のこぎり、木槌、ノミの音は、人々への悔い改めを迫る神からの警告の音となりました。洪水がすべてを飲み込んだとき、彼が作った箱舟によって世の罪と間違いが明らかとなったのです。

■ 2009/09/06
 [題]
「質疑応答―破れ口とは何ですか」
 [みことば]
『彼が王に反逆するようになった事情はこうである。ソロモンはミロを建て、彼の父ダビデの町の破れ口をふさいでいた。』 (T列王記11:27)
 [ショート・メッセージ]
◆「破れ口」とは、町を守るために建てられた城壁の一部が破壊され、敵の侵入の危険性のある箇所のことです。聖書で使われる独特な言葉です。ところでご質問の箇所は、ヤロブアムがいかに手腕家であったかを示しているところです。敵によって崩されたエルサレムの城壁を塞ぐために、ソロモンの家来ヤロブアムが活躍したのでした◆ところで霊的な破れ口はクリスチャンにもあります。一人ひとり違ったところに破れ口があり、サタンの誘惑の侵入を受け入れ、罪を犯すのです。この破れ口があることを指摘され、それを認め、みことばの学びを通して修復していけるなら幸です◆ソロモンの破れ口が同じ章の前半部に記されてあります。それは外国の多くの女を愛したことでした。ソロモンには700人の王妃と300人のそばめがいました(3)。彼の妻たちが彼の心を転じさせ、偶像礼拝を蔓延させたのです(4〜8)。主はソロモンに怒りを発し、警告したのですが、彼は主の命令を守れませんでした(9〜10)。「あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。」(エゼ13:5)のように◆破れ口を放置していてはいけません。みことばから教えら、修復しましょう。

■ 2009/08/30
 [題]
「祝福とのろい―神との共有を拒んだサウル王」
 [みことば]
『まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。』 (Tサムエル15:23)
 [ショート・メッセージ]
◆士師時代の末期からソロモン王即位までのイスラエルの歴史を扱っているサムエル記の書名となっているサムエルは、最後のさばきつかさとしてイスラエルを治め、最初の公認預言者として活躍しました。ところが彼の後継者となるはずの二人の息子ヨエルとアビヤが不正の罪を犯し続けていため、年老いたサムエルに民は近隣諸国に倣って王を立てるように要求したのです(8章)。すると主はサムエルに、『民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから』(Tサムエル8:7)と語られ、民に譲歩されました◆その結果立てられた王がサウル(10:1)。しかし彼は神のことばに従わず、自分の思いを優先させました。彼はアマレクを聖絶せよとの主から命令に逆らったのです(15:1-9)。主はサムエルに言われました。『わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかった』(同11)◆神との交わりが回復された後に、私たちも多くの点で失敗するものです(ヤコブ3:2)。罪を示され気付かされたなら、素直に認めて悔い改め、二度と同じ罪を犯さないよう(ヨハネ8:11)、神に誓わなければなりません。

■ 2009/08/23
 [題]
「祝福とのろい―神との苦しみの共有を拒んではいけません」
 [みことば]
『もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。』 (申命記28:15)
 [ショート・メッセージ]
◆のろいの定義は《神との共有の拒絶》。すなわち、神の御声を無視することに他なりません。上掲のみことばに明確に記されています。神の御声に対し不服従の態度をとるなら、喜びなし、感謝なし、賛美なしの生活を送ります◆ダビデがまだ少年であった頃、イスラエル人の要求に譲歩された神が立てられた王サウルに、こののろいの人生を見ることができます。彼は、預言者サムエルを通して語られた神の御声を無視し、結果として神の祝福を味わうことができず、のろいの人生を送ってしまいました。彼を導いていた神の霊が彼から離れてしまったのです。『主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた。』(Tサムエル16:14) 彼はダビデに対する嫉妬心でストーカーのように接近し、危害を加えようとしました◆マタイ25章の14〜30節のたとえ話に、主人から預かった1タラントを地の中に隠したしもべが出てきますが、ちょうどこれと同じです。このしもべは主人との苦しみの共有を拒んだのです。苦しみの共有がなければ喜びの共有を味わうことは不可能です。みことばを通して主のみこころを学び、主との苦しみの共有を積極的に求めて生活しましょう。家庭でも、職場でも。

■ 2009/08/16
 [題]
「祝福とのろい―主から戒められることの祝福」
 [みことば]
『主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。』 (詩篇94:12)
 [ショート・メッセージ]
◆祝福の定義は《神との喜びの共有》でしたが、それを実現させるために神は、赦された罪人である私たちクリスチャン(「キリストに従う者」の意味)を繰り返し戒めてくださるのです。それは、先祖を通して「罪」と「苦々しい罪の性質」を受け継いだ私たちが、「罪の思いを暖めたり罪を実行に移すこと」を拒絶する新しい霊的ないのちを育むために必要な《訓練としての戒め》のことです◆アブラハムの孫にあたるヤコブが、ヤボク川の渡しで御使いと格闘した記事が創世記32章22〜32節に記録されていますが、この格闘は神との祈り。たとえ神のご計画の中にあることとはいえ、神にゆだねず、先走って人を押しのけ、ずるい行動を取ることは、決して神のみこころではありません。神はヤコブに悔い改めを導きますが、ヤコブは意地を張り自分の打算的な考えをなおも主張します。最後に神が直接介入されて(25)、ヤコブは自分の考えの醜さ浅はかさを認めて悔い改めました。これが格闘◆私たちが神との祈りによる格闘を避けて行動することは、のろいの道を選択することにほかなりません(申30:19)。自分の考えや先入観に支配される人生から救い出されるための戒めは、大きな祝福です。

■ 2009/08/08
 [題]
「祝福とのろい―祝福の定義と条件」
 [みことば]
『悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。』 (Tペテロ3:9)
 [ショート・メッセージ]
◆「祝福」は、どのように定義付けたらいいでしょう。未信者の方々にとっては、富が増え、食物が確保され、健康が保たれ、災害に会うこともなく、安心して暮らせること、となるのではないでしょうか。聖書から学ぶ祝福とは、《神との喜びの共有》です。創造者なる神は被造物である人間を招いて、『わたしのところに来なさい』と語りかけ、さらに『わたしのくびきを負いなさい』と言っておられるからです(マタイ11:28-29)。人間としての真の祝福は、私たちのルーツである創造者なる神との交わりの中に見出すことができるのです◆この祝福を味わう条件が、山上の説教の最初の部分に記されています(マタイ5:3-12)。3〜6節に4つ、7〜9節に3つ、10節に1つで、合わせて8つになります。最後の1つは、1番目と重なり合っています。『天の御国はその人のものだかです』と書かれてあるからです。『天の御国』とは神の尊いご支配の中に存在することを意味します。ちなみに『心の貧しい者』とは、人間的なものに絶望している人のことです◆8つともそれぞれ隠された意味がありますので、集会に出席されてその意味を学んでください。神はあなたに、富や健康だけでは得ることのできない、あなたのたましいが真実求めておられる祝福を準備しておられます。

■ 2009/08/02
 [題]
「創世記1〜4章―最初の殺人」
 [みことば]
『あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。』 (創世記4:7)
 [ショート・メッセージ]
◆4章です。ここには、人類史上最初の殺人事件が記録されています。アダムとエバがサタンから入れた罪が、無言のうちに子孫に引き継がれていたのです。自分を基準とした身勝手な善悪の基準の中で、兄が弟を殺害するという痛ましい事件が起きてしまいました。サタンがささやいた「善悪を知るようになる」(創3:5)とはこういう事だったのです◆事の始まりは、神への収穫感謝のささげ物をする日のことでした。畑仕事に従事していた兄カインは、地の作物からささげ物を持ってきたのですが、神への感謝の思いはありませんでした(Tヨは3:12)。カインの思いを見ぬかれた神は、それを悟らせるためにカインのささげ物を受け入れませんでした。◆一方、羊飼いの仕事に従事していた弟アベルは、仕事を与えその働きを守り支えてくださった神に心からの感謝のささげ物を持っていきました(創4:4、ヘブ11:4)。神はアベルの心を喜ばれ、喜びを共有するためにアベルのささげ物を受け入れます◆これを見たカインは自分の感情を基準にして行動します。自分を反省することはせず、弟をねたみ、弟の存在をうとましく思ってしまいました。いのちを支配する権威を神から奪い、アベルを殺しました。「神のようになる」(創3:5)とはこういうことだったのです。

■ 2009/07/26
 [題]
「創世記1〜4章―罪の始まり」
 [みことば]
『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。』 (ロマ5:12)
 [ショート・メッセージ]
◆3章に入ります。1〜5節は蛇であるサタンの誘惑。アダムを通して関節的にしか神の命令を受けていないエバを標的にして誘惑するずるいサタンです。集会で学んだ内容を聖書の中に再確認する必要があります(使17:11)。1節、蛇は『園のどんな木からも食べてはならないと神はほんとうに言われたのですか』と囁き、神は人間を束縛していると洗脳を始め、神への悪意を抱かせます。罪の根は自己中心で、幹は悪意です(マコ7:21,エペ4:31,使14:2)。聖徒には悪意の除去作業が必要◆6〜8節はアダムの違反。2人は一体ですから(創2:24)エバの過ちはアダムの過ちであり(ロマ5:12)、アダムに弁解の余地はありません。なぜならエバが誘惑されている間、アダムはそばにいたのです(創3:6)。神のことばを退け蛇の言葉に従った瞬間、彼らの中に罪が入りました。悪の世界に「目が開かれ」(7)、自分の都合で善悪を判断する存在となった2人は『神の(ひとりの)ようになり』(5,22)、神に敵対する者と一瞬で変化しました。サタンと《友好関係》を結んだ彼らの中から神が約束されたとおり神のかたちである霊が『死』にました(2:17)。罪は神と共有できないゆえ、神から隠れる衝動が生じました(10)。悔い改め以外に神と回復する道はありません(マコ1:15,エペ5:11)。

■ 2009/07/19
 [題]
「創世記1〜4章―いのちの息を吹き込まれた」
 [みことば]
『その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。』 (創世記2:7)
 [ショート・メッセージ]
◆今回は創世記2章です。1〜3節の神のみわざの休みは、前章31節の天地創造の完璧さを強調しています。5節の「地」は前章10節にある「かわいた地」を指しています。さらに同節の「土地を耕す人もいなかった」は前章26節を前提としており、神に代わってすべての生き物を管理する使命を人間に与えていたことを明らかにしています◆7節の記述は、進化論の空説を明らかにします。人は人として特別に造られました。鼻から吹き込まれた「いのちの息」は、前章27節の「神のかたち」のことで、神はすべての生き物の中で人間にだけ、ご自分と同じ属性(霊)を賜ったのです。すなわち永遠なる神を思い(伝3:11)、神との交わりを切望する《霊のいのち》です◆8〜14節にはエデンの園の場所が記され、園からティグリス川とユーフラテス川(14節)が分かれ出たと記されています。これは紀元前3千年ごろ栄えたメソポタミア文明の場所と一致しており、人類の始まりがエデンの園であったことが考古学によって証明されているのです◆16,17節には人間に与えられた第1の契約(アダム契約)が記されています。善悪の知識は神の判断に委ねるべきことを学ぶための契約でした。信仰とは神に委ねることです。

■ 2009/07/12
 [題]
「創世記1〜4章―それは非常によかった」
 [みことば]
『そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。』 (創世記1:31)
 [ショート・メッセージ]
◆◆1章は天地宇宙の創造について、2章は人間の創造について、3章は人間の堕落とエデンの園追放について、4章はカインとアベルについて、それぞれ記されています。この4章までに第1段階の人類の歴史が記されてあります。第1段階というのは、洪水でノアの家族8人以外のすべての人が死滅したからです。洪水以後、第2段階の人類の歴史となります◆今回は1章をご一緒に調べようと思います。@万物の創造は三位一体なる神のわざによってなされた…1節の「神」は原語では複数形、「創造した」は単数形です。この父・子・聖霊の三位一体なる神のみわざであることは、神がご自分を指して言われた26節の「われわれ」、ということばにも表れています。A万物は神のイメージ通りに造られた…「仰せられた」ということばが繰り返されています。全能なる神が命じられた通りに形作られたのです。水素・ヘリウム・リチウム・ベリウムなど約100個の元素の組み合わせによって、神はすべての物を造られました。B完全無欠の天地宇宙が完成された…「見よ。それは非常によかった」。小さな虫から巨大な星に至るまで完全な、秩序・調和・一致、の状態であり、神との正しい関係が完成したのです。感謝。

■ 2009年07月05日
 [題]
「イエスに出会った女達―姦淫の現場で捕まえられた女」
 [みことば]
『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』 (ヨハネ8:11)
 [ショート・メッセージ]
◆姦淫の現場で捕まえられ民衆の前に引き出された女は、宗教家たちに利用されていました(ヨハ8:6)。人気急上昇中のイエスをねたんだ宗教家たちが、イエスを告発して逮捕する理由を得るために策略を練っていたのです。どんな理由があろうと姦淫は神の前にさばかれるべき罪でしたので、「こういう女は石打ちの刑で殺害すべきだと律法にありますが、あなたは何と言われいますか」と、執拗にイエスを問い詰めます(6-7)◆しかしイエスは即答はせず、間を置いてからひと言、「あなたがたのうちで罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい」と言われました。その声が神殿の庭に響き渡りしばらくすると、長い人生を振り返って己の罪に気付いた年長者の宗教家たちから立ち去って、ついに全員いなくなりました(9)。まったく罪のない神以外に、罪をさばく権威を持っている者は誰もいないのです◆この問答がなされている間に、女は自分の罪を思い出しては深く反省し神に悔い改めていたのでしょう、イエスはそのことを見抜いて言われました(冒頭のみことば)◆神なるイエスが世に来られたのは、自分の罪を認めて悔い改める者の罪を赦すためでした。それが御父のご計画だったのです(ヘブ10:9)。自分を振り返りましょう。

■ 2009年07月01日
 [題]
「イエスに出会った女達―サマリヤの女」
 [みことば]
『しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。』 (ヨハネ4:14)
 [ショート・メッセージ]
◆イエス様はわざわざサマリヤを通られましたが、それは、一人のサマリヤの女性にご自身を証するためでした。実は、その女性はサマリヤ人たちからは徹底的に嫌われている人物でした。複数の男性との結婚を繰り返し、5人目の男性と離婚した後、今は婚姻の届けは出さずに同棲中だったからです。しかしだれをも分け隔てせずに愛されるイエス様は、ユダヤ人が決して足を踏み入れようとしないサマリヤにも入って行かれたのでした(ヨハ4:4)◆イエス様は、サマリヤ人が共同で使う井戸の傍らに腰を下ろしてその女性を待ちました。神のことばを「生ける水」として説明され(10節)、神のことばに従う祝福を教えるためでした。◆かつてエバは神のことばを捨てサタンの言葉に従い、それをアダムにも強制して、人類に罪を招き入れてしまいました(創3章)。また、イスラエルはモーセを通して、神のことばに聞き従って祝福を得るようにと教えられていました(申28章)。女はイエスに言われました。「この水を飲む者はまた渇きます」(13節)。「この水」とはサタンに支配された人間社会の言葉を指します◆女性はイエスの真意を受け取り、サマリヤ人にイエスを紹介する働きに与りました。再び渇く世の言葉ではなく永遠のいのちに導かれる神のみことばによって養われ続けましょう。

■ 2009年06月21日
 [題]
「イエスに出会った女達―サマリヤの女」
 [みことば]
『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る』 (ヨハネ11:40)
 [ショート・メッセージ]
◆十字架にかかられる1週間前イエス様はベタニヤ村に行かれましたが、ラザロが死んですでに4日たっていました(ヨハ11:17)。マルタとマリヤはラザロが危篤状態のときに使いを出してイエス様に助けを求めていたにもかかわらず(同3)、イエス様の到着が遅れたため失意のどん底にありました。イエス様を迎えたマルタは言います。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(同21) その後マリヤも同じことを言います(同32)◆この姉妹には隠されていました。イエス様がラザロの死を待っておられた事実を(同4)。それはラザロの死を通してイエス様がだれであるのかを明示すためだったのです。姉妹の家に集まった人々はみな、死を前に途方に暮れていました。イエス様は、死と、死によって人間を虜にしている悪魔に対し「霊の憤りを覚え」られます(同33)。悪魔は「罪と死の原理」(ロマ8:2)の中で人間を支配し続けていたのです(ヘブ2:14-15)◆その呪縛を断ち切るために来られたイエス様は、そのことを証明するため、死後4日も経過していたラザロを群衆の前で生き返らせたのです(ヨハ11:43-44)。これが御父のご計画でした。マルタもマリヤも、すべてを働かせて益としてくださるイエス様をはっきりと認めることができたのです。

■ 2009年06月14日
 [題]
「イエスに出会った女達―マルタとマリヤ」
 [みことば]
『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』 (ルカ10:41-42)
 [ショート・メッセージ]
◆イエスがベタニヤ村のマルタとマリヤの姉妹と関わった出来事は、ルカの10章とヨハネ11章に記録されています。今回は、ルカ10章から聖書を調べたいと思います◆38節の村とはベタニヤ村でエルサレム近くにあります。この姉妹にはラザロという弟がいて、両親の記述がないことから、3人姉弟だけで暮らしていたと思われます。彼らはイエスの訪問を楽しみにしていました◆あるときイエスと弟子たちが彼らを訪問すると、姉のマルタは大喜びで食事の準備を始め、妹のマリヤは大喜びでイエスの話を聞きます。姉のマルタのおもてなしの働きは次第に喜びを失い、妹マリヤへの不満を爆発させ、黙っているイエスにまで文句を言います(40節)。これは本末転倒です◆原因はどこにあるのでしょうか。それは信仰なしの行動にあるのです。信仰なしの行ないは、うまくいけば自慢、うまくいかなければ心配と激情です(41節)。『心配するのはやめなさい。…神の国とその義とをまず第一に求めなさい。』(マタ6:31-33)◆何よりも優先しなければならないことはイエスのみことばに耳を傾けることです。これは、「永遠のいのちを受けるために何をなすべきか」(25節)の答えです。

■ 2009年06月07日
 [題]
「質疑応答―罪の法則の中で生きている」
 [みことば]
『私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。』 (ロマ7:15)
 [ショート・メッセージ]
◆私たちはアダムから受け継いだ《罪》の法則の中で生きている、と神はこの章で明らかにしておられます。罪とは神を求めないことで、神を軽んじ、神を無視し、神から学ぶことを拒む意志のことです。創世4:6-8に記録されている、弟殺しのカインの行動の中にはっきりと見られます。アダムとエバの第1子のこの行動によって、罪が自動的に親から子へと受け継がれていたことが確認されました(ロマ5:12)◆罪が人類に入ったと同時に、人類から霊的ないのちが失なわれました。『それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ』(創世2:17)という神の最初の約束が成就したからです。そのため、すべての時代のすべての国の人間は、心のどこかでは神を探し求めながらも、霊的無関心の生活を送り、見えない神から学ぶことより、見える人間社会から学ぶことに慣れ、まわりと調子を合わせることで安心を得ようとしています。これが罪の法則です(『罪と死の原理』ロマ8:2)◆神が人類に望んでおられるのは、神との関係の回復です。人があるべき姿に戻るのはここからです。『今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。』(使徒17:30) 悔い改めとは、自分の間違いをすなおに認め、神に告白し、神との関係を回復して生きることを言います。

■ 2009年05月31日
 [題]
「十字架上の7つのことば―第3、第4のことば」
 [みことば]
『三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。』 (マタイ27:46)
 [ショート・メッセージ]
◆第3のことばはマリヤとヨハネにかけられました(ヨハネ19:25〜27)。「女の方。そこにあなたの息子がいます」、「そこにあなたの母がいます」。この時点ではまだ、イエスのあとに生まれた兄弟たちはイエスを信じていませんでしたから(7:5)、イエスはマリヤの世話を看てくれるようにと愛弟子ヨハネに託したのでした。継続する激痛で気を失うばかりの肉体的な状況の中でも、イエスの不変の愛が証されたひとコマです◆第4のことばは、十字架上の7つのことばの中心です。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」 罪人に代わり、父なる神の御前に、罪をさばかれる《いけにえ》となられた時の祈りです。この叫びは、詩篇22:1ですでに預言されていました。アモス3:7に記されてある通りに、神の救いのご計画はすべて明らかにされていたのです◆受肉されたキリストが、約束どおりに、十字架の上で、罪から来る報酬である死を受けられることによって、永遠の罪の贖いを成就されなかったならば、自分の愚かさに気付いた罪人がどれほどの嘆願を神にささげても、罪の赦しを受け取ることは不可能なのです。《キリストの身代わりの歴史的事実のゆえに》、赦しを乞う罪人の上に罪の赦しが成就されている事実を、見落としてはならないのです(Tヨハネ1:9「正しい方ですから」)。

■ 2009年05月24日
 [題]
「十字架上の7つのことば―第2のことば」
 [みことば]
『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』 (ルカ23:43)
 [ショート・メッセージ]
◆立てられた3本の十字架の真ん中はイエスで、両脇は犯罪人でした。いたたまれない激痛と精神的屈辱の中で、はじめは2人ともイエスをののしっていましたが(マタ27:44)、イエスの態度やとりなしの祈りを見聞きするにつれ、ひとりの犯罪人はののしり続けるもう一人の犯罪人をたしなめました◆「お前も俺も自分の犯した罪悪の報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は悪いことは何もしていないのだ」(ルカ23:40-41)。彼はここで、@自分の罪を認め、Aイエスの無実を告白しました。さらに彼は特別に聖霊の働きを受けたのでしょうか、「あなたの御国の位にお着きになるときには」と告げて、Bイエスの神性を信じ告白しました。そればかりか「私を思い出してください」と言って、C心底から悔い改め無条件の赦しを嘆願したのです◆イエスは彼のこの告白に基づいて、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」とのことばをもって、罪の赦しと、御国への受け入れを宣言されました。彼は、ガラテヤ2:16に記されてある『イエスを信じる信仰によって義と認められる』の、最初の証人となったのです。死に至る数時間前、何の善行も行なう機会のない中で、約束どおり信仰によって義と認められたのでした。

■ 2009年05月17日
 [題]
「愛旗姉のバプテスマ式―求められている具体的な3つのこと」
 [みことば]
『また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』 (ヤコブ1:22)
 [ショート・メッセージ]
◆バプテスマを受けて公にキリスト者として生きる決断をした兄弟姉妹は、みことばを聞くだけの者ではなく実行する者としての訓練の歩みがスタートしたことを強く認識しなければなりません。ヤコブを通して聖霊が語っておられるように、その信仰の生涯は行ないによって全うされなければなりません(ヤコ2:22)。救いに至るために要求される行ないはありませんが、救われた者には永遠のいのちによる《神のみこころにかなった行ない》要求されています。このことによって自他共に、新生の事実を確認することができるのです◆そのために認識しなければならない行ないが3つありますのでご一緒に聖書を調べたいと思います。@収入の十分の一を神にお返しすること。レビ記27:30。もしこれを怠るなら神の物を盗むことと同じだと厳しく警告されています。マラキ3:8-9。人間に献げるのではなく百パーセント神にお返しするのです。A主を中心にして集いみことばを熱心に学ぶこと。マタイ18:20、使徒17:11。みことばを学ぶことを怠ったならば成長はありえません。B他の兄弟姉妹に仕え奉仕すること。Tコリント12:12-14、マルコ10:43-45。私たちはキリストのからだの1器官であるという奥義を軽んじてはなりません。

■ 2009年05月10日
 [題]
「十字架上の7つのことば―第1のことば」
 [みことば]
『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』 (ルカ23:34)
 [ショート・メッセージ]
◆十字架上で主イエスの口から発せられたことばが7つ記録されています。@Aと最後のFのことばはルカの福音書に、BとDEのことばはヨハネの福音書に、そしてちょうど真ん中のCのことばはマタイの福音書に記録されています。今回は@番目のことば、ルカの福音書23:34を調べたいと思います◆イエスは十字架に磔になりました。両腕の手首に打ち込まれた太い釘は、体重によって手首の傷口を広げ続けます。そのため激痛が全身を貫き、止めどなく出血させます。そのような悲惨な状況の中でイエスは祈られました。『父よ。彼らをお赦しください。』◆彼らとはだれでしょうか。それは、ご自分を十字架に付けさせたユダヤ人の宗教指導者たちと、荒々しく十字架に釘付けにしたローマ人の兵士や、「十字架に付けろ」と叫ぶ群衆、さらにご自分を裏切った弟子たちです。しかしイエスは恨み言ひとつも語らず、心底から彼らのために、自分を身代わりとして赦してくださるよう御父に祈られたのです◆では、『彼らは何をしているのか自分で分からないのです』の中の、「何をしているのか」とはどういう意味でしょう。イエスを約束されていたメシヤと認めず、十字架に付けたことです。のちにペテロはそのことを明らかにして、悔い改めを迫りました(使徒3:17)。

■ 2009年05月03日
 [題]
「使徒8-12章―パウロに与えられる苦しみ」
 [みことば]
『彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。』 (使徒9:16)
 [ショート・メッセージ]
◆神はパウロに、《自分を捨てる苦しみ》を与えます。パウロはこれまで自分の思いや考えに支配された行動を続けていました。それは、「主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて」行動し(同9:1)、「(パリサイ人)としての熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者」であった(ピリピ3:6)というみことばで明らかです。自己義認は神に敵対しています。自分本位だからです(ルカ18:9-12)。しかしパウロはそれが分かりませんでした(使徒26:9-11)◆神のみこころに反して生きることによって生じる心の傷に気付かせるために、「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」(同14)ということばを主はかけられてのです◆後にパウロはピリピ人への手紙の中でこう語り真理を明らかにしました。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」(1:29) 自分の肉の思いを捨てることなしに、すなわち自分の肉の性質を十字架に付けてキリストに従わない限り、キリストと喜びを共有することはできないのです◆キリストはあなたにも、自分を捨てる苦しみの中へ招いておられます。あなたの人生をまったく新しくするために。

■ 2009年04月26日
 [題]
「使徒8-12章―キリストに出会ったサウロ」
 [みことば]
『主よ。あなたはどなたですか。』 (使徒9:5)
 [ショート・メッセージ]
◆サウロは人の前に自分がどんなにすぐれた者であるかと認めさせることに必死でした(Tコリ4:7)。彼はピリピ3:5-6で以前の自分の誇りとしていたものを明らかにしています。イスラエル民族に属し、きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、教会を迫害するほど熱心で、律法による義についてはだれからも非難されるところのない者。この事実こそが、彼の誇りでした◆しかし彼は、それがいかにむなしいものであるかを知らされます。復活の主イエスに出会うことによってです。クリスチャンに対するさらなる「脅かしと殺害の意に燃えて」(使途9:1)突っ走ったダマスコ途上で、彼は突然、天からの光に照らされ、神のご介入により、神的な「人格ある存在」に出会い、恐れをもって尋ねます。『主よ。あなたはどなたですか』(同8)◆すると光の中から声が聞こえたのです。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』 彼ははっきりと知ることができました。あのナザレ人イエスこそ、人となられた神であられた事実を。それを知らなかったばかりに(Tテモ1:13)、彼の人生は、とげのついた棒をけり続けていたのでした(使徒26:14)◆あなたも聖書を通して、イエスがどなたなのかを知ってください。そしてあなたの人生が神によって変えられますように。

■ 2009年04月19日
 [題]
「使徒8-12章―エチオピア人の宦官の回心」
 [みことば]
『ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。』 (使徒8:35)
 [ショート・メッセージ]
◆教会の交わりを破壊し続けていた迫害者サウロが、ダマスコ途上で復活の主の顕現に触れる直前のできごとです。エルサレム教会でギリシャ語を話すユダヤ人の苦情を聞くために選ばれた7人の指導者のうちの1人で(6:5)、預言する4人の未婚の娘を持つ伝道者ピリポは(21:8,9)、サマリヤでの福音宣教で大きな成果を上げていましたが、その途中でエルサレムからガザに下る道に出るようにと御使いを通して命じられます◆ピリポが出かけますと、エチオピアの女王カンダケの高官で宦官のエチオピア人へと導かれました。彼はユダヤ教に改宗していたのでしょう、エルサレムで礼拝をすませて帰る途中、馬車の上でイザヤ書53章を朗読していました。聖霊に促されて、宦官にみことばを説き明かし、イエスの受難と死と復活によって神のみことばが成就したことを伝えますと、宦官は心底からそのことを信じ、バプテスマを受けました。この宦官を通してエチオピアは長い間キリスト教国になったと言われています◆あなたも、みことばを通して主イエスに出会ってください。あなたを罪の支配から救出すために、身代わりとなって死なれ、永遠の救いを成就された主を信じ、従う者となってください。

■ 2009年04月12日
 [題]
「使徒8-12章―サウロへの主の直接介入」
 [みことば]
『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』 (使徒26:14)
 [ショート・メッセージ]
◆サウロという名は、新生する前のパウロの名前です。「神を求める」という意味のサウロは、パリサイ派という律法主義の教義の中でしか神を探せなかったため、「ナザレ人イエス」(使徒26:9)という軽蔑した見方しかできず、主イエスの真実を知ることはできませんでした◆そのため彼は、イエスをキリストと信じて宣教活動を繰り広げるキリスト者たちを、神への冒涜、ユダヤ教の敵と思い込み(同24:14)、激しく迫害したのでした(同26:10-11)。それはパリサイ派のエリートサウロには(ピリピ3:5-6)当然の帰結でした。周りの人の目に自分がどう映っているかが最大の関心事であり、さらに良い評価を得るためにエスカレートしたのです(ガラ1:13-14)。彼は誰にも止められないほど熱心になっていました(Tテモ1:13)◆今回学んでいる使徒9章は、そんな彼への主の直接介入の場面です。突然天からの光が彼を巡り照らし(3)、彼は光の中から自分に向けて語り掛けられる神の声を聞いたのです(4)。彼は続けて聞きます(上記のみことば)◆あなたにも聖書を通して語りかけておられます。『とげのついた棒をけるのはあなたにとって痛いことだ』と。悔い改めを求める神の声です。

■ 2009年04月05日
 [題]
「質疑応答―バプテスマは罪が赦されるために行われるの?」
 [みことば]
『そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。…」』 (使徒2:38)
 [ショート・メッセージ]
◆ペテロがこのメッセージを語ったのは初代教会が誕生した当日のことでした。信者も聴衆も聖霊の働きかけを受け始めたばかりで、新約聖書はまだ書かれておらず、従って正統的な聖書教理もまだ明らかになっていませんでした。その時点でのペテロのメッセージが忠実に記録されているところに価値があります。時至って、確立された聖書教理に合わせてペテロのメッセージを書き換えていないことから、聖書の真実さが証明されていることが判ります◆すなわちこの時のペテロは、バプテスマのヨハネのバプテスマしか知らなかったので、「罪を赦していただくために受けなさい」と聴衆に悔い改めにいたるバプテスマを(使徒8:16)勧めたのです。ところで当時のバプテスマは、ユダヤ教への改宗を決断した異邦人に対して行う儀式でしたので、ユダヤ人にとっては徹底して悔い改めることがなければ、異邦人の立場に自分を置くことは屈辱に等しいことでした。同じように「賜物として聖霊を受ける」も、同じ状況の中で語られました◆聖霊によって明らかにされた今は、聖霊の働きかけを受け、罪赦された者だけが、神への全き献身の証としてバプテスマを受けるのです。

■ 2009年03月29日
 [題]
「神の戒め―さばきが神の家から始まる」
 [みことば]
『なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。』 (Tペテロ4:17)
 [ショート・メッセージ]
◆神はメシヤを世に遣わし、メシヤの身代わりによって永遠の贖いを成就する、と旧約聖書を通して救いのご計画を明らかにされました(創3:15他)。旧約聖書の主題は「メシヤ預言」です。ヘブル語のメシヤはギリシャ語でキリスト、日本語では救い主となります。サタンの支配下に閉じ込められてしまった人間を『暗闇の圧制』(コロ1:13)から救い出す方法は、メシヤの身代わりによる贖いのほかにはあり得なかったのです。イエスが『わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません』と言われたとおりです(ヨハ14:6)◆新約聖書の主題は「メシヤ預言の成就の宣言」です。初代教会が誕生してから2千年間、神は全人類を招き続けておられます。それはキリスト教という宗教に入信することではなく、エデンの園で人類が失った《永遠のいのち》を回復することであり、神と霊的に和解することなのです(コロ1:22)。これが救いです。罪から贖われなければ永遠のいのちには与れません。イエスが『人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません』(ヨハ3:3)と言われたとおりです◆神の家に実施されるさばきは、信者の新生の有無が明らかになる《携挙》の時点からスタートします。

■ 2009年03月22日
 [題]
「神の戒め―神の戒めのことばを学ぶ」
 [みことば]
『どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。』 (詩篇119:9)
 [ショート・メッセージ]
◆罪ある者として母の胎内に宿り、咎ある者としてこの世に生まれた私たちは(詩篇51:5)、聖を生きる命も、義を全うする力も、愛を継続する意志もなく、気がつけば悪を思い罪咎を犯して来たのが現実です。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか」と詩篇の記者は神に尋ねます。きよく保てないがゆえに、どんなに仕事に精出しても最終的には空の空すべては空を味わってしまうのです。詩篇の記者は答えをすでに見出していました。「あなたのことばに従ってそれを守ることです」◆聖書を通して全人類に語り続けておられる神のみことばを学び、みことばを日々の生活に適応し、みことばを実行して生きる以外に、喜びと平安を味わう人生はどこにもないのです。この詩篇119編に記されてある「みおしえ」「さとし」「戒め」「おきて」「さばき」「ことば」「仰せ」「御口の決めたこと」などは、神の戒めである律法、すなわち神のことばを同義的に使っている用語です。神はあなたに語りかけておられます。これまでもずっと、そしてこれからも◆神のことばを学んで、神のことばを生きる人生をスタートしてください。集会はみことばを学ぶあなたのために建てられているのです。

■ 2009年03月15日
 [題]
「神の戒め―戒めは罪に気付かせる」
 [みことば]
『わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。』 (黙示録3:19)
 [ショート・メッセージ]
◆私たち人間は、どうも自分に甘いものです。人に対しては罪を責めても、自分が過ちを犯したときは多くの場合正当化し、罪責感から逃れようとします。このように自分の罪を認めようとしないために、同じ過ちを犯す悪循環が繰り返されてしまうのです◆自分の罪を認めるところからしか、罪からの救出は始まりません。『というのは、律法(神の戒め)が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法(神の戒め)がなければ、認められないものです。』(ロマ5:13) 聖書とは無縁で律法を学ばずに生きている異邦人がもし集会に導かれ聖書のみことばを具体的に学ぶことができるなら、それは何とすばらしいことでしょう。罪に気付かずに生きて疲れと重荷を増し加える人生から解放され、善と悪の基準を学び善を愛し悪を退ける人生へと移されるのですから、人知を越えた喜びを味わえるのです。御父がキリスト・イエスによって準備してくださった祝福がここにあるのです◆主は一人ひとりにみことばを用いて働いてくださり、愛するがゆえに叱り、救出するがゆえに懲らしめて下さるのです。罪に気付かされたら、熱心になって悔い改めましょう。

■ 2009年03月08日
 [題]
「神の戒め―十戒」
 [みことば]
『神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。』 (出20:20)
 [ショート・メッセージ]
◆出エジプト20章の十戒を通して、神は道徳律法の基本原理を示されました。これらの戒めは2枚の石板に書かれ、前半4つは神に対する義務、後半6つは隣人に対する義務が命じられています。この二つのグループのつなぎ目に当たるのが5番目の、『あなたの父と母を敬え』という戒めです。この意味するところは、まず第1に主にあって両親の言葉に従うこと(エペ6:1、コロ3:20)であり、神の代理として子どもを養育する務めが両親に与えられているゆえです。第2に年老いた両親の面倒を見ることで、年老いたしゅうとめの面倒をみたルツの生涯の中に美しく証されました(ルツ2:11)◆ところでこの十戒の教えの中で注目しなければならない点が2つあります。ひとつは、『わたしは、あなたの神、主である』(出20:2)というみことばにあります。十戒が神の主権によって定められたもので、人間は何一つ関与していないという点です。ふたつめは「あなたを奴隷の家から連れ出した神」(出20:2)というみことばで、イスラエルがエジプトから解放されたのは、神が約束に基づいて彼らを愛されたゆえであり、彼らの義によるものではなかったという点です。イスラエルは神の恵みへの応答として十戒を守る責任があったのです。

■ 2009年03月01日
 [題]
「取税人マタイとザアカイ―価値観の転換」
 [みことば]
『私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。』 (ピリピ3:8)
 [ショート・メッセージ]
◆富こそ人生の目標、安心の条件であると言わんばかりに、同胞ユダヤ人からお金をだまし取ることを続けていた取税人ザアカイは、富を得れば得るほど空虚さと孤独感にさいなまれていきました。名前はザアカイ(きよい)でも、現実は汚れきった忌まわしい罪人に過ぎませんでした。ザアカイを救いを求めました。隠れたところで見ておられる神を知りたいと思いました。そしていち早く弟子になり、誠実に生き喜びに満ちている取税人仲間のマタイを思い、ユダヤにやっと出現した約束のメシヤであるナザレ人イエスに一目会いたいと、切実に思っていました◆そんなザアカイの家に、何とイエスが宿泊するために来られ、ザアカイに神の国についてお話されたのでした。ザアカイは、権威あるイエスのことばによって自分の罪を示され、悔い、そして生き方を改める決断へと導かれたのでした◆世の価値観に洗脳され続けていた彼はこの日一日で目が開かれ、マタイに続きメシヤなるイエスの弟子となるべく信仰を言い表したのです(ルカ19章8節)。主イエスは、あなたをも招いておられます。聖書のみことばを学ぶなら、あなたの心も、5節の声を聞くに違いありません。

■ 2009年02月22日
 [題]
「取税人マタイとザアカイ―木に登ったザアカイ」
 [みことば]
『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。』 (マタイ7:7-8)
 [ショート・メッセージ]
◆コンプレックスのかたまりザアカイは、難関を突破して国家公務員である取税人になった。だれもがうらやむ金持ちになって、上から目線で人を見下ろしたかったのです。その当時、金持ちになる早道は取税人でした。税金を徴収するとき、住民一人ひとりに上乗せして請求すれば、給料以外にお金が入る、それがたまらない魅力でした。金持ちになりさえすれば、そこに必ず幸せがあると思い込んでいたのです◆取税人になり、しかもかしらにまで上りつめ、念願どおり金持ちになったものの、自分の考えとは裏腹に、そこには『空の空、いっさいは空である』(伝1:2)というみ言葉どおりの空虚感でした。彼が思い描いていた幸せは存在せず、逆に、罪責感と良心の呵責と自己嫌悪で押し潰されそうでした◆イエスの噂を聞いていた彼は、イエスに会いたい、話を聞きたい、人生を変えていただきたいと切望するようになっていました。町中の人の後方で、背の低いザアカイは飛び上がっても見れません。でも彼はあきらめませんでした。彼は木登りを始めたのです◆彼の強い願いをイエスは知っていました。そして彼に何が必要であるかをも、神なるイエスは知っていました。

■ 2009年02月15日
 [題]
「取税人マタイとザアカイ―自分の罪をすなおに認める」
 [みことば]
『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。』 (マタイ9:12)
 [ショート・メッセージ]
◆何もかも捨ててイエスの弟子なる決断をしたマタイは、自分の家に仲間も招待してそのことを証しました(マタ9:10)。9節の『立ち上がって』は、強い決断を表わす言葉です。後で弟子の一人に加えられたザアカイは、このとき同席していたか、この時のことを聞いたのでしょう◆ところでこの時パリサイ人がイエスを非難しました(11)。「われらとは食事はせず、取税人や罪人と食事をするということはイエスが彼らと同じ穴のむじなだということだ」と言わんばかりでした。その時イエスが彼らに語られたことばです。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。…わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです』(12、13)。罪人とは、神の前に自分の罪をすなおに認めた謙遜な人のことであり、山上の垂訓の冒頭に語られた『心の貧しい者』(絶望している者)と同じです◆似ている言葉を親鸞の歎異抄に見出すことができます。悪人正機説と言われる、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」です。これは鎌倉時代に生きた親鸞が京都の太秦寺(イエス・キリスト教会)で漢文聖書を景教から学んだ際に、この箇所のことばに強く教えられたためだと言われています。マタイを招かれたイエスは、あなたをも招いておられるのです。

■ 2009年02月08日
 [題]
「取税人マタイとザアカイ―イエスに従ったマタイ」
 [みことば]
『イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。』 (マタイ9:9)
 [ショート・メッセージ]
◆旧約聖書39巻に新約聖書27巻が加えられて、聖書は66巻で聖典とされました。この数は予告されていました。それはイザヤ書の成り立ちを調べることによって判ります。イザヤ書は聖書の縮図となっているからです。預言内容からイザヤ書は2分されます。前半は39章まで、後半は残り27つの章です。前半には罪への刑罰が語られ、後半にはメシヤによる罪の赦しが語られています。神のことばの完成(Tコリ13:10)である聖書は66巻より多くても少なくてもいけなかったのです。ですから、偽典が入る余地はないことは明らかです◆ところで神は、新約聖書27巻のうちの4巻を福音書枠として定めておられました。エゼキエル1:10に記されてある4つの生き物(10:15ケルビム)の顔で、世に現れるメシヤの4つの姿が暗示されていたのです。しかもその順番が決定したのはAD397年でしたが、その前に黙示録において預言されていました。すなわち、獅子(マタイ)・雄牛(マルコ)・人間(ルカ)・鷲(ヨハネ)です(黙4:7)◆この最初の福音書の枠の中の執筆者としての働きに迎え入れられたのはマタイでした。神に招かれていた多くの聖徒の中からマタイが応答したのです。神が定めておられる聖い働きに、私たちも率先して与る者となりましょう。

■ 2009年02月01日
 [題]
「詩篇―困難な時の平安と確信」
 [みことば]
『私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。』 (詩篇3:5)
 [ショート・メッセージ]
◆ダビデは、信仰を人生の基盤として生涯を駆け抜けた聖徒でした。そんなダビデの信仰者としての生き方に対して、同じ思いになれず、ねたみやそねみによって立ち向かう者たちが現れては消え、消えては現れました。最初に現れたのはサウロでしたが、自分の身内の中からも現れました。『敵』(1)という人たちです◆イエス様もまた同じように、宗教指導者たちから煙たがれ十字架へと追い込まれて行きました。しかしどのような困難な状況に導かれようともイエス様は平安と確信を保ち、ご自分に与えられた使命を全うされました。『身を横たえて眠る』(5)とはそのことを言っています。あるときイエス様は荒れ狂う嵐の中にあって、船のとものほうで眠っておられたことがありました(マコ4:38)◆私たちにはとても無理です。たとえそのような心構えをしていたとしても、実際に木の葉のように揺れる小舟の中にいたら、熟睡することは不可能です。しかしそのことを弟子たちの前で証されたイエス様が、今も生きていてあなたを招いておられます。たとえ人生の荒波に突入することがあっても平安と確信を保つことのできる人生に、あなたを招いておられるのです。

■ 2009年01月25日
 [題]
「詩篇―わたしの愛する子」
 [みことば]
『わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』 (詩篇2:7)
 [ショート・メッセージ]
◆第1のアダムが悪魔の言葉に服従したことによって失ったすべてを取り戻すために、第2のアダムとしてキリストが肉体をもって遣わされる、という神のご計画が聖書に多く予告されていますが、2篇もそのひとつです◆7〜9節に「油注がれた者」(2)すなわち「キリスト」の告白が記されていますが、この中にある『わたしの子』という呼びかけに注目してください(7)。マリヤの胎を用いて世に現れたキリストが30歳になられ、バプテスマを受けられた時と(マタ3:17)、山でイエス様が変貌された時(マタ17:5)の2回、天からこれを告げる声が聞こえ、この預言の成就が明らかにされました◆《神の子》とは、人として世に現れる神、すなわち「受肉される神」を意味することばです。バプテスマを受けられた時からイエス様はご自分がキリストであることを公に宣言されましたが、そのスタートにふさわしい天からの証言だったのです。また変貌の山でもこの声が聞こえ、受肉されたキリストの使命としての「身代わりの死」が3名の弟子の前に明らかとされました。このことをペテロは証言しています(Uペテ1:16-17)◆神はあなたを、第2のアダムとして遣わされたキリストに連なる者となるように招いておられます。キリストはあなたを取り戻すためのわざをすでに完了されました。救いを得てください。

■ 2009年1月18日
 [題]
「詩篇―幸いなことよ」
 [みことば]
『幸いなことよ。…まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。』 (詩篇1:1-3)
 [ショート・メッセージ]
◆詩篇全体は「幸いなことよ」(1:1)で始まっています。昔から全世界の人が捜し求めてきた"幸せ"の定義付けがここになされています。"幸せ"とは「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」ことなのです。すなわち、自分をこの世に誕生させてくださった創造者なる神との交わりの中に、人間が求めている幸福があると教えているのです。これが真理です◆パスカルの原理で有名なパスカルは言いました。「人間には神にしか満たすことのできない空洞がある」。さらに古代キリスト教時代の指導者アウグスティヌスも言いました。「神よ。私たちはあなたのために造られました。ですから私たちの心があなたの中に憩うまで、不安なのです」◆人となられた神イエス・キリストはこの世に来られて約束されました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。人はこのことを聖書から学ばないばかりに、知恵や知識、莫大な富、快楽や笑いや趣味、宗教心などで心の空洞を埋めようとするのですが、決して埋まらない。埋まらないから首をひねりながらもエスカレートして行く◆向きを変えてください。あなたの造り主である神に、立ち返る以外にないのです。

■ 2009年1月11日
 [題]
「新年交わり会―家族伝道」
 [みことば]
『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。/見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。』 (詩篇127:1、3)
 [ショート・メッセージ]
◆「家を建てる」とは家庭を築くことです。家庭は人間関係のつながりを経験する最も基本的な人間界の単位ですから、真剣に取り組まなければなりません。特に幼児期の教育はその子どもの性格の大半を決定付けますから、両親は最善の注意を払って子どもの心を養わなければならないのです◆ところが、たましいの創造者であられる神の関与を拒否して生きて来た親であるなら、勝手気ままに自己流に育てることしかできないのは当然です(ヘブ12:10)。「この子はわがままでしょうがない」と嘆くとき、その責任は親自身にあることを認めなければなりません。学校や社会に責任転嫁をしても的が外れています◆さて、固まってしまった自分の性格を再構築することは人間的には不可能に近いですが、希望はあります。聖書を通して神からの懲らしめに基づいた訓練を受けることができるからです。その際に必要なのは忍耐です(ヤコ1:2-4)。まじめに取り組むなら、新しい霊の父である神が確実にその者の性格を内側から再構築してくださるのです(ヘブ12:10-11)。怠慢になると再び自分勝手な考え方に戻ってしまいますから要注意です◆幼児から老人に至るまでの家族に、クリスチャンとされた自分の身をもって証しをなし、集会の交わりに導こうではありませんか(ルカ5:10)。

■ 2009年01月04日
 [題]
「年末感謝会―すべてを益に変えてくださる主」
 [みことば]
『訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。』 (ヘブル12:7)
 [ショート・メッセージ]
◆一年間を振り返って、みことばを用いて訓練してくださった神にそれぞれが感謝しました。ある者はマタイ5:3から心貧しき者になるべきことを強く教えられ、またある者は士師記8:2-3から自制すべきことを教えられ、ある者はTコリント3:22,23から自分を訓練しておられる神の存在を認識させられ、またある者は詩篇37:5からゆだねきることの大切さを教えられ、ある者はローマ8:28からすべてを益に変えてくださる神の真実を学び、またある者は詩篇51:7から罪にまみれていた自分をすっかり聖めていただきたいと強く願い、ある者はTコリント10:31-33から日常生活のすべてを神に委ねる幸いを教えられました◆主は、ペテロを戒め教育されたように私たち一人ひとりにも、同じように接しておられることを再確認させられました。私たちは多くの点で失敗をするものです。失敗しない人生はどこにもありませんが、主権者なる神がそれらを用いて教え戒め矯正して、みこころにかなった訓練の時間を導いておられますから感謝です。だからこそ、すべてのことについて感謝しなければならないことを確認させられます◆新しい2009年も主に期待し、ますます聖められようではありませんか。苦悩を通して私たちに特別な授業をしてくださる主に感謝します。


■ 2008年12月28日
 [題]
「イエスの誕生― 羊飼いに告げられたキリストの誕生」
 [みことば]
『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』 (マルコ16:15)
 [ショート・メッセージ]
◆神は、羊を養うために安息日を守れないために市民権を剥奪された羊飼いを、キリスト誕生の第1招待者として選んでおられました。彼らはユダヤ人社会からはじき出されていたのですが、神のあわれみのまなざしからははじき出されていませんでした。神は、虐げられ嘲られ苦悩の中に生きる者の前に脱出の道を備え、《一方的な祝福》(恵み)を準備しておられます。神はあなたをもキリストのところへと招いておられるのです。聖書を通して神を知ってください◆御使いは言いました。『私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせにきたのです。』(ルカ2:10) この民とはユダヤ人のこと。救い主の誕生を切望していたユダヤ人の代表としての招待の知らせでした。羊飼いたちはなんという光栄に与ったことでしょう。ところで招待され知らされた者には、その事実を証し人々に知らせるという使命と責任があることを聖書は教えています。『神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。』(アモス3:8) 羊飼いたちは、御使いを通して神から告げられた幼子について、喜びをもって人々に知らせました(ルカ2:17,18)。そしてこの二千年の間ずっと、キリスト誕生の記念祝会が全世界で行なわれ続けています。サンタ・クロースは脇役で、あくまでもキリストが主役なのです。

■ 2008年12月21日
 [題]
「イエスの誕生― クリスマス子ども会」
 [みことば]
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』 (ヨハネ3:16)
 [ショート・メッセージ]
◆@クリスマスはキリスト(救い主)の誕生を記念するために全世界で行なわれています。ちなみに「キリスト」はギリシャ語で、ヘブル語では「メシヤ」、日本語に訳すと「救い主」となります。Aところで何からの救いかというと、神さまを無視して生きる人生からの救いです。B羊飼いが夜に野宿をしていたと聖書に書かれてありますから、キリストの誕生の時期は12月という冬ではないことがわかります。仮庵の祭りを行なう秋の時期だと言われています。Cところでクリスマスを英語で書くと「キリスト+マス」となり、これはキリストを礼拝(感謝)するという意味になります。みなさんも心かキリストを礼拝できるように招かれているのです。Dクリスチャンはお祈りの最後に「アーメン」と言いますが、これは「真実その通りです」と言う意味のヘブル語です。肉眼で見ることのできない神さまにお祈りができるということはなんとすばらしいことでしょう。E人間が自分たちの都合で考え出した神々でのことではありません。日本を含め世界の国々には、社会的なつながりを目的をした神々や、政治的な目的のために利用している神々や、金儲けのために考案された神々など、人造の神が多く存在しますから注意してください。F聖書を学ぶために集会に来てください。

■ 2008年12月14日
 [題]
「イエスの誕生― 死ぬために受肉されたイエス」
 [みことば]
『 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』 (ルカ2:12)
 [ショート・メッセージ]
◆聖霊によって妊娠したことを信じたヨセフは、婚約していたマリヤと離縁しないことにしました。しばらくして同居するようになったある日、全イスラエルを支配していたローマ皇帝アウグストから人口調査をせよとの勅令が発布されました。臨月のマリヤも一緒にエルサレム近くにあるベツレヘムの町に行かなければならなくなりました。こうして、紀元前750年ほど前に預言されていたミカのことばの通り(ミカ5:1)、救い主はベツレヘムで生まれることになったのです。神の約束のことばは、定められた時がくれば、必ず成就するのです◆さて、ベツレヘムに到着したのですがどこの宿屋も、人口調査のために集まった旅人で満員となり、マリヤを休ませる部屋がありません。そのため2人は案内された家畜小屋に宿泊することにし、そこでマリヤは男のことを出産したのでした。ところで当時の旅は命がけでしたので、旅路で死を迎えるであろうことを想定して、死の準備のために亜麻布を持参して旅に臨む習慣があったそうです。そこで遺体を包む亜麻布を産着代わりとして男の子を包み、石造りの飼い葉おけに寝かせました(ルカ2:6-7)◆ところでこの飼い葉おけも、当時の石棺と同じ形をしていたのです。実に羊飼いに示された救い主の2つのしるしとも、死と深いかかわりがあったのです。

■ 2008年12月07日
 [題]
「質疑応答― ふさわしくないとはどういう意味ですか?」
 [みことば]
『もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。』 (Tコリント11:27)
 [ショート・メッセージ]
◆パン裂き礼拝(聖餐式)は、イスラエルが過ぎ越しの祭り(出エジプト12:1-14)でささげていた "いけにえ" の本体であるキリストが預言(イザヤ53章)どおりに世に来られ、ほふられた事実(Tコリント5:7)を記念する、聖なる儀式で(同11:23-26)、キリストご自身が命じられました(マタイ26:26-29)◆『ふさわしくないままで』とは、キリストのからだを象徴するパンと血を象徴する杯の真の意味を理解せず無視したまま、という意味になります。罪人を罪から贖うためにキリストが支払ってくださった尊い償いの代価を、記念することも感謝することもなく、ただの食事のように考えて我先に与るようなことがあってはならないのです◆ここで聖書に調べなければならないことは、ふさわしくないままの人とはどういう人のことかと言うことです。まず第一に信仰告白していない未信者の人のことで、神に人生のすべてをささげますとの誓い(Tペテロ3:21)を立てていない人のことです。さらに別の言い方をするなら、新生していない人のこと(Uコリント13:5)で、不適格であると書かれています◆混乱の神ではなく秩序の神であられる主の前で行なわれる聖なる交わりであることを、私たちは意識しなければならないのです。

■ 2008年11月30日
 [題]
「ロトとアブラハム― 倒錯したロトと娘たちの考え方」
 [みことば]
『その夜、彼女たちは父親に酒を飲ませ、姉がはいって行き、父と寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。』 (創世記19:33)
 [ショート・メッセージ]
◆創世記19章1-5節。2人の御使いがロト一家を救出するために訪ねてきました。するとソドムの町のならず者たちがロトの家を取り囲み、叫んで言いました。「2人の旅人を連れ出せ。彼らを良く知りたいのだ。」 「知る」とは明らかに性的な意味で言っています。性的不道徳な世界が蔓延して自滅寸前の状態にまで腐敗しきっていた町だったのです◆6節。ロトは外に出て彼らに言います。「私には処女の娘が2人いるから好きなようにしてしてくれ。そのかわりあの旅人には何もしないでくれ。」 このロトの考え方は明らかに身勝手で倒錯したものです。彼は神から学ぶことをしていなかったので、神がどんなに悲しまれるかを知りませんでした◆30-38節。倒錯したロトの考え方は娘たちにも深い影響を与えていました。母を失った娘たちは(26節)、男のいない山間部生活の中で種族保存のためにはと、無理やり父に酒を飲ませ、酔わせて関係を持つという誤った方法を取ります。これも、神の存在しないソドムでの生活の結果でした◆聖書を通して神から学び戒められなければ、聖められることは不可能なのです。

■2008年11月23日
 [題]
「ロトとアブラハム― アブラハムの信仰」
 [みことば]
『私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。』 (創世記14:23,23)
 [ショート・メッセージ]
◆男色と罪悪と退廃の町ソドム(創13:13)で信仰を守り通すことは、神の力強い導きと守りがなければ不可能なことであったにもかかわらず、ソドム近くで天幕を張っていたロトは(創13:12)、とうとうソドムの町の中に住むようになりました(創1412)。悪への興味関心は、悪の罠への入り口でした◆ちょうどそのころ、エラム(現イラン地方)の王に反旗を翻した5人の王たちがいましたが(同4)、その中にソドムの王もいました。彼らはエラムの王を含む東方の4人の王連合体に完敗し、ロトの家族も財産も奪われてしまいました(同11,12)◆この知らせを受けたアブラハムは(同13)、自分の家で生まれた奴隷 318人を招集して、ロト救出のために遠征し、ロトを含むソドムの町の国民も財産もすべて取り戻しました(同14-16)。アブラハムのロトに対する愛とあわれみは何も変わっていなかったのです◆ソドムの王はアブラハムのもとに来て「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください」と願いますが、アブラハムは財産を受け取ることをきっぱりと拒みます(同27,28)。アブラハムは生活のすべての面で、信仰を前面に出して行動を取り続けました。

■2008年11月16日
 [題]
「ロトとアブラハム― あなたはいのちを選びなさい」
 [みことば]
『私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。』 (申命記30:19)
 [ショート・メッセージ]
◆自分の父が亡くなったため、おじであるアブラハムに養育されたロトでしたが、アブラハムの信仰をまっすぐに受け継いで生活することはできなかったようです。そのことが明らかになる事件が起きました。創世記13章5-13節を調べようと思います◆「ロトもまた…天幕を所有していた」(5)とは、ロトがすでに家庭を持ち、財産である家畜も奴隷も持っていたことを示しています。そして6節、「持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかった」とあります。富が増すことによってかえって伯父と甥の友好関係が壊れそうになりました。甥が伯父に対して対抗意識を持つようになったのです。信仰による一致は見られませんでした◆信仰の一致があるかどうかは、壁にぶつからなければ見えてきません。対抗意識を燃やすロトは、親類同士で争うことのないように別れて暮らそうと提案するアブラハムに対し、自分の利益と打算を優先して、勧められるがまま自分が先に土地を選んでしまいました(8-11)◆神以外に何も失う恐れがないアブラハムのように、ロトもまた信仰によって謙遜に歩むべきでしたが、彼には目先しか見えませんでした。そのため、暴虐と罪悪に満ちた姦淫の町ソドムに引き寄せられて行ったのです(12-13)。選ぶべきいのちが見えないため自滅への死の道を選んでしまったロトでした。

■2008年11月09日
 [題]
「ロトとアブラハム― アブラハムに与えられた信仰」
 [みことば]
『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。』 (創世記12:1)
 [ショート・メッセージ]
◆アブラハムはメソポタミヤ地方のユーフラテス川下流にあったウルの町(創11:28)で生まれ育ちました。ウルは月神礼拝の盛んな偶像の町だったようです(ヨシュア24:2)。神はアブラハムをこの町から贖われ(イザヤ29:22)、家族の中で一人アブラハムに言われました。「あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしが示す地に行け」(使徒7:3)◆その時すでに亡くなっていた弟ハランの子ロトも伴って、父テラと弟ナホル家族と自分の妻サラといっしょにウルを出発しました。ところが父テラが気に入ったカランで長らく滞在することとなり(創11:31)、父の死後ナホル一家と別れて約束の地カナンへとさらに旅を続けたのです(使7:4)◆まだ子どもがなかったのにカナンの地をアブラハムとその子孫に財産として与えると約束されました(使7:8、創12:7)。そしてその約束が成就して、それから千年後イスラエル国家が形成されたのでした◆ところでアブラハムが神の祝福を受け取ることができたのは、カナンに行ったからではなく、神のことばに従ったからでした。実にアブラハムは、信仰によってどこに行くのかを知らないまま神に従ったのでした。これが信仰です(ヘブル11:8)。『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』(ヘブル11:1)。神がアブラハムに与えた信仰を甥のロトは受け継ぐことができるのでしょうか。

■2008年11月02日
 [題]
「Tヨハネの手紙― 異端の教えに注意しなさい」
 [みことば]
『愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。』 (Tヨハネ4:1)
 [ショート・メッセージ]
◆「私はクリスチャンです」と言ってくる人にはなぜか親しみを感じてしまいますが、異端の信者もそのように自己紹介しますから要注意です。上記のみことばはこのことを教えているのです◆『にせ預言者』とありますが、新約の預言者は新約聖書を完成させることを目的として神が特別に選ばれ特別に用いられました。と言うことは、Tコリント13:10に記されてある通り、新約聖書が完成されたら新約時代の預言者はその使命を終えることになります。新約聖書が完成された後に預言の賜物を持っている者が存在することはないということになります◆この時点で、エホバの証人のラッセルや、モルモン教会のジョセフ・スミスという預言をする者の存在とその内容は神からのものではない、と断言することができます。しかも完成されるべき新約聖書につけ加えてはならないとヨハネを通して厳しく警告されていたのですから(黙22:18)、それらが異端的教えであることはあきらかです◆さらにこの節の中に『ためしなさい』との命令があります。それは、キリストが受肉されたという事実を否定しているかどうかを調べなさいという命令です(同2-3節)。悪霊は受肉されたキリストによる永遠の贖いを否定することに躍起なのです。罪に汚染されていた罪人もまた、自分の力ではこの事実を理解することも受け入れることもできません。聖霊の働きかけによる以外に、信じることは不可能なのです(Tコリント12:3)。

■2008年10月26日
 [題]
「Tヨハネの手紙― 罪とは律法に逆らうこと」
 [みことば]
『罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。』 (Tヨハネ3:4)
 [ショート・メッセージ]
◆3章から、3つのことについて共に考えたいと思います。@罪とは律法に逆らうこと…人は律法という対神関係と対人関係に関するルールに対して無知であるゆえに、人と争い人を支配し人を苦しめ、みずからの心を傷つけ不安におののき思い煩いに沈みます。罪とは創造者なる神が定めた律法(ルール)を無視し逆らうことである、と4節に記されてあります。旧約聖書は律法の書と呼ばれています。旧約聖書を学びましょう●A死からいのちに移ること…死とは、神との関係の断絶を意味すると聖書から教えられます。からだは神から生かされてはいても、心が神を無視しているならそれは「生きてはいても死んでいる状態」なのです(黙3:1)。生まれたことを感謝することも、生きていることを喜ぶことも、死後の希望もないのです。しかし神はすべての罪人の前に、すでにいのちを準備てくださいました。すなわち神との関係の回復の約束です。イエス・キリストの十字架の死と復活の歴史的事実によって、その祝福は証明されました。聖書全体を通して神は、この事実を力強く教えておられます●B行ないと真実をもって愛すること…罪の力と支配から救い出された者に、神は新しい人生を与えておられます。それはアーメン(真実)なる価値観による真実なる愛によって生きる生き方です。口先だけの身勝手な愛ではなく、真実なる愛をもって隣人を愛し、仕え、人生を全うしようではありませんか。

■2008年10月19日
 [題]
「Tヨハネの手紙― 罪を犯さなくなるため」
 [みことば]
『私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。』 (2:1)
 [ショート・メッセージ]
◆『子どもたちよ』(2:1)と声を掛けています。80歳前後の年長のヨハネらしく親しみを込めて呼びかけており、多くのたましいを救いへと導き、今なお養い続けている真の牧者としてふさわしい言葉です。『書き送るのは』という言葉を使って、この手紙の目的を明らかにしています。それは《罪を犯さなくなりなさい》ということです◆罪が「不幸の究極的な原因」であり、「人間関係を崩壊させ」、「教会の交わりを損なわせ」、「喜びを失わせます」。人が心に傷をつけるのは、自分自身の罪のとげが心の内側から付けるもので、罪を犯した後にする責任転嫁などが罪のとげとなり、不幸を感じるようになります。また罪を犯したあと条件反射のごとく生じるごまかそうとする思いが人間関係の中から真実を失わせ、人間関係は悪化します。喜びは次第に消失していくのです◆『罪を犯さないようになる』とあります。霊的な永遠のいのちが与えられて新生し、アダムとエバが失った《神のかたち》(創1:26,27)が再び形造られたクリスチャンの存在はどれほど輝きに満ちていることでしょう。もう不幸を味わうことがなくなる人生に移されたのですから。これが「贖い」です。贖いとは代価を払って買い戻されることをいいます(ルツ3:9)。罪の奴隷から、神の子としての立場に買い戻されるのです。しかし、聖書に記されてある神のことばから遠ざかっていくと、再び古い性質が心を支配して神の恵みがかすんで行きます。そうならないようにとこの手紙は書き送られたのです。

■2008年10月12日
 [題]
「Tヨハネの手紙― 罪の力からの解放」
 [みことば]
『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』 (1:9)
 [ショート・メッセージ]
◆『いのちのことば』(1)とはキリストのこと(ヨハネ1:1)。『じっと見、また手でさわった』(1)とは、キリストの受肉のあかし(ヨハネ1:14)。『このいのちが現われ、私たちはそれを見た』も同じ。この体験に基づいた真実を伝えるためにヨハネは福音書を書き記し、この手紙も書いていると語っているのです◆ヨハネは福音書と3通の手紙と黙示録を書きました。年代順もこれと同じだと言われています。これらは、当時の異端の教えに影響を受けないようにと聖霊によって導かれ、書き送られました(4)◆『神は光であって』(5)とは、神の真実、みことばの真理、神の聖さ、神の義しさを言っている言葉です。『やみの中を歩んでいる』(6)とは、光から離れ、光に背を向けて生活し、罪を犯している信者の現実を表現しています◆7節にある『罪』は単数形ですから、すべての人間が先祖から受け継いでいる原罪を指しています。その罪が自分には存在しないと断言するなら(8節の罪も単数形)、その信者は自分自身を欺いていると戒めます。ここからも異端の教えが誕生してきます。それは聖書の教えに相反している考えです◆9節10節に出てくる3つの罪という言葉はすべて複数形です。具体的な罪の行為をさしています。それを素直に正直に、神に告白して捨てるなら(悔い改め)、神は真実な方ですから、キリストの贖いという歴史的事実に基づいてその罪を赦し罪の力から解放してくださるのです。これは神の約束です。『罪の悔い改め』は、二度と同じ罪を犯しませんという私たちの告白であり、誓いなのです。

■2008/10/05 (日)
 [題]
「赦された喜び―ダビデの悔い改め」
 [みことば]
『私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。』 (詩篇51:4)
 [ショート・メッセージ]
◆多くの人から賞賛され、歴史にその名と業績を刻まれるような人物であっても、人となられた神なるイエスに比べることはできません。イエスは永遠に聖であられ義であられますが、人間には《罪》が存在します。イスラエル王国史の中で彼の右に出る王はいないと言われていたダビデ王の汚点を、神は聖書に記録させました。世の終わりに臨んでいる聖徒たちへの教訓とするためです。ダビデもまた、赦されなければならない罪人だったのです◆ダビデは人妻に子をはらませてしまったのです。しかもその罪を隠すために、彼はその婦人の夫を間接的に殺害させてしまったのです(Uサム11:15)。彼はすべてがうまく運んだと思っていましたが、神は彼に真の悔い改めを導くために、預言者ナタンを遣わして彼の罪を暴かれました(同12:7)。ダビデは幼子のように即座に悔い改めました◆その時のダビデの祈りが、詩篇51篇に記されてあります。『罪ある者として母は私をみごもりました。』(5) 胎児の時点ですでに罪ある者とされていると告白しています。人は、罪を犯して罪人になるのではありません。罪人だから罪を犯すのです。この罪の力からの解放がなければ、罪の奴隷として一生を過ごさなければなりません◆主イエスはあなたを罪から救うために、十字架において、あなたの罪過に下る刑罰を身代わりに受けてくださいました。あなたの前に置かれているこの永遠の救いを、悔い改めと感謝のうちに、ご自分のものとして受け入れられますように。 

■2008/09/28 (日)

  • 「アラムの将軍ナアマン」(テーマ[赦された喜び])
    『私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。』 (U列王記5:15) 
    ◆イスラエル北方の、ダマスコを首都とするアラムの国の将軍ナアマンは主君から信頼され、国の英雄でしたが、立派な軍服の下は、らい病でした(U列5:1)。らい病人は社会から遮断され、山の洞穴などに隔離されなければなりません。英雄とされていた彼も軍服を脱がされ職を追われ、家族から引き離されて洞穴に行かなければならない状況下にありました。主君にも部下にも明らかにしてはいましたが、解決はありませんでした◆そんな中、イスラエルから連行していた若い女奴隷娘から、らい病がきっと直るという情報を得ます(同3)。さっそく主君である王に話し、お礼の品々を準備してもらって預言者エリシャを訪ねますが、彼の意に反して預言者は顔を出さず、彼のしもべが代行して「神のことば」だけを届けました(10)。彼は憤慨して帰途に着こうとしたのですが(11,12)、部下たちの必死の助言によりヨルダン川に7回身を沈めます。するとちょうど7回目に完全に癒され、幼子のようなからだになりました。彼は身勝手な「思い」から(11)、「今知りました」という未知体験をさせられ、偶像の神々の世界では知る由もなかった生ける全能の神の存在を、明確に認識することになりました(15)◆らい病は他の病気と区別されて、直ることを「きよめられる」と表現されていました(10,13,14)。らい病が、サタンからうつされた罪を表していたからです。心の病である罪に対して人間や宗教の力は全く無力です。聖書を通して生ける神に出会ってください。 
  • ■2008/09/21 (日)

  • 「故吉村信義兄の召天記念式」
    『わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』 (マタイ9:13) 
    ◆故信義兄の信仰告白文を中心に聖書に記されてある福音を考えたいと思います◆@「イエス様の救いがどうしても判りませんでしたが、娘が(東京から)帰って来るたびに家に居た時よりも明るくなっているのに気付いたのです。それがなぜなのか判らないで居たのです」 福音は信じ受け入れ従う者を確実に造り変えます。ヨハネ3:16の約束どおり新しいいのちが与えられるからです。これが『御霊に属する人(Tコリ3:1)』です◆A「酒類を呑むたびに体の具合が悪くなりもう口にすまいと思うのですが調子がよくなると又酒類に走るのでした。後ろを振り返ると家族皆に心配を掛けて来ました」 罪の力に対し人間は無力です。学んだみことばに自分を映すことを繰り返すことにより信義兄は、自分の内面が見えてきたのです。「『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です』の言葉が与えられました。そうです。私は病人です」 罪からの救いは自分の罪を認め告白することからスタートします◆B「そんな私の罪の為に神でありながら人の姿を持って来られイエス様は十字架に掛り私の身代わりとなって罪の罰を受けてくださったのです」 死をもって裸となった魂は義なる神を恐れ永遠の滅びに向かおうとしますが、すでに救いは完成し全人類の前に備えられているのです。信義兄はそれを無条件で受けたのです◆C「主に感謝します。私達の国籍は天にあります」 信義兄はこの告白通り天に帰って行かれました。感謝! 
  • ■2008/09/14 (日)

  • 「子よ。あなたの罪は赦されました」(テーマ[パウロ])
    『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』 (マタイ5:3) 
    ◆イエスがペテロの家におられることが町中の人に知れ渡ったとき、多くの人が集まってきて、家の中は戸口まで隙間もないほどになりました。イエスがこの人たちに、天の御国についてみことばを話しておられたとき、ひとりの中風の人が4人の人に担がれて連れて来られました。でも、群集のために家の中に入ることができなかったので、屋根に上りイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて中風の人を床に寝かせたままつり降ろしたのです。イエスは彼らの信仰を見て中風の人に言われました。「子よ。あなたの罪は赦されました」 ◆人生が順風満帆なとき、人は自分を反省することもなく自己流の生き方で満足します。しかし、困難にぶつかったり、病気になったりしますと、自分のこれまでの半生を顧みるチャンスが与えられます。この中風の人もまた、深い反省の中へ導かれ、自分の過去の罪深い生活を、心から悔いたのでしょう。罪の赦しを請う病人の気持ちを察した4人の人が、みな心を合わせて必死の思いで取った行動に、イエスは真の悔い改めを認められ、罪の赦しを宣言されたのでしょう◆イエスは言われます。「心の貧しい者は幸いです」(マタイ5:3)と。「心の貧しい人」とは、神の前にへりくだっている人のことであり、その顕著な現われが《悔い改め》なのです(U歴代33:23)。 
  • ■2008/09/07 (日)

  • 「過越の祭り」(テーマ[質疑応答])
    『あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。』 (出エジプト12:13) 
    ◆マルコ14:1に『過越の祭り』と書かれてありますが、どういう祭りなのでしょうか?・・・過越の祭りが毎年行なわれるようになった最初の出来事は、出エジプト記12章に記録されてあります。一年は何ヶ月でしょうか、そうです12ヶ月です。ですからその12という数の章を開いてください。覚えやすいですね。ここで主がモーセに語っておられる 『この月をあなたがたの年の最初の月とせよ』(2)のことばに注目してください。この月はイスラエルの国のスタートの月となるということで、宗教暦では第1の月とされたのです◆ところでこの時のさばきは、エジプトを脱出するための10番目の災いとしてエジプト中に対して下されました。すなわち神のご命令に従うことせず、羊の血を2本の門柱とかもいに塗らなかった家は、人畜の初子が実際に死んだのです。一方、神に従って塗られた家々の血はしるしとなり、神のさばきが「過ぎ越し」て行く、過越にはそういう意味がありました。すなわち、羊が下るべき神のさばきを前もって身代わりに受けた結果として、さばきが過ぎ越されていったのです◆これはキリストの十字架による身代わりの死を暗示していました。6節に「この月の14日の夕暮れ(午後3時)にそれをほふれ」とありますが、キリストが死なれたのはちょうどこの月のこの日のこの時間でした(ヨヘネ19:31,マタイ27:46)。 
  • ■2008/08/31 (日)

  • 「パウロのさらなる謙遜」(テーマ[パウロ])
    『ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』 (Uコリント12:9) 
    ◆パウロという名前は小さいという意味です。パウロはその名にふさわしく非常に謙遜な後半生を送ることができました。パウロはこう言っています。「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」 聖霊に導かれて書いたこの手紙の宛先は、コリントにある教会でした◆コリントは交通の要衝にあったため商業が発達した大都市で、しかも偶像礼拝も盛んな町でした。経済的繁栄と宗教的堕落行為により、町は道徳的に退廃していました。そのため、コリントの教会は多くの問題に直面していました。賜物を自慢する者(Tコリ4:7、13:8)、分裂分派を引き起こす者(同1:11)、婦人のかぶり物を排除しようとする秩序の崩壊(同11:1-16)、注意するパウロへの抗議(同10章)など、主のみこころに反する教会の実態がありました◆コリントの教会内でかしらになりたがっていた者たちに、パウロは自分のことを証して反省を促すように聖霊に導かれたのです。Uコリ11:16-12:6をお読みください。パウロは伝えました。『私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。』 ◆福音宣教の働きが困難になるような持病『一つのとげ』を持っていたパウロは(Uコリ12:7)、主の訓練によりそれが自分に必要なものであることを教えられ、困難や苦難に甘んじることができるほど謙遜な者になっていったのです。 
  • ■2008/08/24 (日)

  • 「パウロの3つの勧め」(テーマ[パウロ])
    『しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。』 (Uテモテ4:5) 
    ◆パウロの勧めを3箇所に絞って、調べて行きたいと思います◆@〈キリストのよみがえりの事実を思っていなさい。Uテモテ2:8〉…パリサイ人であったパウロは、人間のよみがえりについての教えは受けてはいましたが、ダマスコ途上で体験した復活の主イエスとの人格的な出会いに強い衝撃を受けました(使9章、26章)。この経験の中で彼の高慢は砕かれ、開かれた心に信仰が与えられたのでした。そればかりか、そのときの主イエスの顕現と主との人格的な交わりが、彼のそれから後の献身の生涯の支えとなっていったのでした。主がよみがえられたように、この罪に汚染された世もよみがえるのです◆A〈行ないによる義の道へもどることなく、信仰による義の道を歩き続けなさい。ガラテヤ2:16〉…行ないによる義の道は自分中心となり、神への信仰を軽んじ、自分を誇らせ他を見下します。一方、信仰による義の道は神中心であり、主権者なる神の前にへりくだって他に仕える者となります。新生したクリスチャンでも肉に属してしまうと(Tコリ3:1-3)、律法の道へと逆戻りしてしまいますから要注意です◆B<信仰を全うしなさい。Uテモテ4:5>…パウロはテモテに言いました。信仰を放棄しないこと、集会を建て上げる困難に耐えること、福音宣教の生涯を生き、自分に与えられた使命を全うすること◆聖書に耳を傾け続けましょう。 
  • ■2008/08/17 (日)

  • 「すべてが新しくなる」(テーマ[パウロ])
    『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』 (Uコリント5:17) 
    ◆かつての迫害者が、迫害されていた者たちの真実に気付かされ、彼らの交わりに加わり、今度は自分がかつて所属していた者たちから迫害される側にまわった。しかし彼は非暴力を貫き、神の愛によって迫害する者たちを愛し赦した。パウロのことである◆パウロはかつて、ユダヤ教の中で最も厳格な律法主義の教えの中にあったパリサイ派に属していた(使26:5)。パリサイ派に属していたユダヤ人は、徹底してキリスト者を苦しめ、敵対視していた。その当時のパウロの様子を、本人が次のように証言している。『以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。』(使26:9-11)◆このパウロが、変えられたのである。復活の主に出会った時に、彼の人間的な考えが、宗教の世界の身勝手な教えが、完全に打ち砕かれたのである。キリストにあって、新しくされる幸いを感謝します。 
  • ■2008/08/10 (日)

  • 「しらないでしたことなので」(テーマ[パウロ])
    『私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。』 (Tテモテ1:13) 
    ◆パウロは繰り返し忌まわしい行動を取っていた自分の過去を告白しています。表面では正義感ぶっていても、内側は『愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活』していたと告白しています(テトス3:3)◆十字架の形を見てください。タテの線は神と自分との個人的な関係を表わし、それによって地上から離れているヨコの線は人間関係を表わしています。タテの線がないなら、ヨコの線は、神を拒んでいる人間社会の汚れにまみれっぱなしとなります◆私たちは影響を受けやすい存在です。この世と距離を保つことができなかったゆえに、知らないうちに、内に持つ罪を刺激され、悪に慣れて行き、その結果自分を傷つけていたのです。神との関係の回復、それが人間的な熱心さや努力に優先して、まず第一に求めなければならないことだったのです◆パウロも同じでした。それで主は、クリスチャン迫害に拍車をかけていたパウロに、『とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ』と言われたのです(使徒26:14)。パウロはとげのついた棒をけることを止める道へと導かれたのです◆後にパウロは言いました。『信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。』 あなたも神のあわれみを受け取ってください。 
  • ■08/08/03 (日)

  • 「ヨナの悔い改めと宣教」(テーマ[ヨナ書])
    『ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。』 (3:3) 
    ◆@『よみの腹の中』(2:2)。 これは「海の真中の深み」(3)、「深淵」(5)のこと。そこでは潮の流れがヨナを囲み(3)、水圧でのどが締めつけられ(5)、「山々の根元」(6)まで沈み、絶体絶命の状態になった。そのとき神は「大きな魚を備えて、ヨナをのみこませ」(1:17)、「(死の)穴から引き上げて」(2:6)くださったのである。ヨナは一命を取りとめ、魚の腹の中で「(献身の)誓い」(9)をします。その後神は、「魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させ」(10)ます。神の譲歩(1:3)と介入(1:4,17)による訓練の中で、ヨナは自分を見つめ神への再献身を決断したのでした◆A『もう40日すると、ニネベは滅ぼされる』(3:4)。 ヨナに叫ばせたこの警告は、悔い改めさせることが目的でした。それはバプテスマのヨハネの叫んだ警告(マタイ3:10)と同じです。ヨナの宣教にニネベの市民は過剰反応します。それは、船に乗船していた者たちの驚愕した目撃談が、またたくまにニネベの町にも届いていたからでしょう。海に投げ込まれた途端に大暴風がなぎた事実を通して、預言者ヨナの信じるイスラエルの神への恐れが、ニネベの人々の中でピークに達していたと思われます。そのため、町に現れたヨナの姿を見たとたんに恐怖に包まれ、ヨナの叫んだ警告の言葉に強く反応したのでしょう(5)。世の光、地の塩となれ! 
  • ■08/07/27 (日)

  • 「間違った愛国心ゆえに」(テーマ[ヨナ書])
    『わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。』 (エゼキエル33:11) 
    ◆@『これに向かって叫べ』(1:2)。 これとはニネベの住民、叫べとは神のさばきを告げて悔い改めへと導きなさいという意味。罪を悪魔から受け取ってしまった人間は、「わたし(神)が少ししか怒らないでいると、ほしいままに悪事を行なう(ゼカリヤ1:15)」存在であり、警告しなければ自滅への道を突き進んでしまう盲目の民である。それはちょうど善悪を知らないゆえに調子づいて身勝手な振る舞いをしやすい幼ない子どものようだ。そのため預言者には神から次のような使命を与えられていた。エゼキエル3:17,18、「わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。」 ◆しかしヨナはこれを拒否してしまった。『主の御顔を避けて(1:3,3,10)』。すなわち自分に与えられている使命を放棄し神の命令に逆らったのである。これはヨナの持つ間違った愛国心の故であった。私たちもまた自分の心を点検させられ、軌道修正させていただこうではありませんか。 
  • ■08/07/20 (日)

  • 「悔い改めを命じておられる神」(テーマ[ヨナ書])
    『神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。』(使徒17:30) 
    ◆『主の御顔を避けて(1:3)』。これが罪と死の原理です(ロマ8:2)。罪は神を拒絶し神に逆らいます。預言者としての働きに与ってはいても、ヨナの中には依然として肉の性質が残っていました。未信者時代には野放し状態で、罪と死の原理に完全支配されていました。神を知る唯一の知識の書、聖書を通して神の真理を具体的に学ぶことによって、少しずつその原理と距離を置けるように導かれました。しかしそれでもなお信仰者の中に肉の性質が継続して残されている、と聖書は教えています(ロマ7:22-23)。この忌まわしい肉の性質が、なぜ信仰者の中に継続して残されているかについては士師記3:1-4に記されてあります。ヨナはかたよった愛国心によって、万民を愛される神のみこころをかたくなに拒んでしまったのです◆『わかっています(同12)』。神に逆らっている自分が間違っていることをヨナは知っていました。知りながらも自分ではどうすることもできなかったのです。自己制御不能の状態に陥っていたのです。だからこそ、神の直接介入です。自滅寸前のニネベの人々の救いと、分かっていながら神に逆らっているヨナのために、神は暴風(ユーラクロン使徒27:14)を起こされました(ヨナ1:4、12)。神の愛のみわざです◆神のことばである聖書を鏡として自分を写し出し、悔い改めて神に立ち返りましょう。 
  • ■08/07/13 (日)

  • 「ヨナ書全体」(テーマ[ヨナ書])
    『再びヨナに次のような主のことばがあった。 「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」』 (ヨナ3:1,2) 
    ◆ヨナ書の流れについて。1章は「ヨナの逃避」、2章は「ヨナの悔い改め」、3章は「ヨナの宣教」、4章は「ヨナの不満」です。アッシリヤ帝国はイスラエルとユダにとって敵国であるとはいえ、そこの住民は神にとっては愛すべき人間◆「彼らの悪がわたしの前に上って来たから」(1:1)とは、アッシリヤの首都であるニネベの人々が自分たちの悪によって自滅寸前になってきたから、という意味で、さばきの宣言によって彼らに悔い改めを導くようにと、ヨナに命じられたのです。しかし敵国の滅びを願っていたヨナは、この命令に逆らってタルシシュ行きの船に乗り込みます。神は自然を支配する権威をもって奇跡を起こします。嵐によって貿易船は先へ進めず、くじを引き合った結果ヨナは海の中。これが1章です◆神は大きな魚に命じてヨナを飲み込ませ、クジラと思われる魚のお腹の中でヨナに休息を与え、そして悔い改めへと導かれます。ヨナは砕かれて、神を無視した自分の不信仰を認めて悔い改め、浜辺に吐き出されます。これが2章です◆再び神の命令がヨナに語られ、素直になったヨナは神に従ってニネベの町へ。そして町の人々は神のさばきを恐れて悔い改めます。これが3章◆さばきから免れたニネベを見て、再びヨナは不愉快になります。そんなヨナを取り扱ってくださる神の愛で4章は閉じます。神の愛による忍耐を教えられます。 
  • ■08/07/06 (日)

  • 「叱り方について」(テーマ[質疑応答])
    『あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。』 (マルコ10:43,44) 
    ◆幼い子どもを叱ることについて注意すべき2つの点について。@「子どもをおこらせてはいけません」(エペソ6:4)。 A「仕える者になりなさい」(マルコ10:43) ◆@についてですが、これは子どもを裏切ってはいけないことを教えています。大人の身勝手な振る舞いで多くの子どもが傷ついています。簡単に約束し、それを簡単に破ることによって、子どもは失望し怒ります。人格が形成されている証拠です。そのような時大人は、約束を破っても自分には正当な理由があり、子どもは我慢すべきだと無理やり子どもを納得させるケースが多く見られます。あまりにも理不尽です。このような中で泣きじゃくる子どもを叱るのはもってのほかです。誠意を持って子どもに謝罪すべきであって、叱る資格はありません。裏切り行為をしている自分に気付いてください。神は約束されたことは必ず果たされます。「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(イザヤ9:7)◆A子どもを叱ることは育てることです。このことを認識しなければなりません。子どもを育てるためには、子どもに仕えることが基本です。強い者は弱い者に仕えるべきであって、支配してはいけないとイエスさまは教えておられます(上記のみことば)。叱るときは、子どもに反省する場と時間を十分に与える工夫が必要です。主も私たちに対してそのように訓練しておられます。 
  • ■08/06/29 (日)

  • 「ダビデをすでに選んでおられた神」(テーマ[神の評価と人の評価])
    『人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る』 (Tサムエル16:7) 
    ◆Tサムエル記17章に巨人ゴリヤテと少年ダビデの戦いの時のようすが記録されています。ゴリヤテは訓練されたペリシテ軍の兵士で当時の名の知れた剣の名手。一方ダビデは一介の羊飼いの少年でした。ゴリヤテが自分の力と技を豪語するあまりイスラエルの生ける神を公に侮辱した言葉を、直接耳にしたダビデが激怒します。この聖なる怒りがゴリヤテとの戦いへとダビデを駆り立てたのでした◆ダビデにとってゴリヤテとの戦いは、神対ゴリヤテ、の戦いに過ぎませんでしたから、自分を使ってくださいとの祈りの中で行動します。まず川原に下ってなめらかな5個の石を選んで羊飼いが使う投石袋に入れます。そして羊飼いの杖とと石投げを手に、ペリシテ人ゴリヤテに向かいました。よろいかぶとに身を固めたゴリヤテは盾持ちを先に立て、投げ槍と剣を持ってダビデにじりじりと近づいていきました◆ゴリヤテはペリシテの偶像の神々によってダビデをさげすみイスラエルの神をのろいました。仁王立ちする巨人の前に立つ少年ダビデは宣言します。「おまえは剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私はおまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって立ち向かう。この戦いは主の戦いだ。.」 ダビデは自分を誇らず、神の御名によって戦いました◆神はすでにこのダビデをイスラエルの王として選んでおられました(16:7-13)。神の評価は完璧です。 
  • ■08/06/22 (日)

  • 「放蕩息子を迎え入れた父」(テーマ[神の評価と人の評価])
    『まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。』 (ルカ15:20) 
    ◆あつかましくも生存中の父から財産を無理やり分けてもらい、自分で計画を立てた道へと突っ走っては取り返しのつかない大失敗をしてしまいました。空しさと恥に包まれながら、彼は自己嫌悪に陥っていきましたが、「どんな仕打ちを受けてもいい、父のそばで暮らしたい」と彼は強く思いました。「神に対し罪を犯したのは自分だ。父に対しても失礼な態度を取ったのは自分だ。自分がいけなかったんだ」と彼は自己反省をしながら、家路に着きました◆やっと家の門にたどり着いたとき、自分のほうへ大喜びで駆け寄ってくる父を見ました。彼はしどろもどろに罪をわびると、父は「よく帰って来た」と彼を抱きしめ、家に招き入れて祝宴を始めました。ところが、放蕩息子の兄はそれを見て怒りました。まじめにやって来た自分のことが認められなかったと思い腹を立ててしまったのでした。父は兄をなだめましたが、ねたみにかられた兄は最後まで当たり前のようにふてくされ続けました◆父は、ボロボロになっても自分の元に帰って来た放蕩息子のくずおれた心を見、へりくだった彼を評価したのです。ですから喜んで迎え入れたのでした。ところが兄は弟の外見を見、彼についてのうわさをもって彼を評価し、軽蔑したのです。あなたを誕生させてくださった父なる神は、この父のようです。あなたの過去をすべてご存知の上であなたを待っておられるのです。 
  • ■08/06/15 (日)

  • 「わたしについて来なさい」(テーマ[神の評価と人の評価])
    『収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。』 (マタイ9:9) 
    ◆マタイの福音書の9章に記録されているマタイという人物は、この福音書を書き残すために聖霊によって用いられたマタイ本人でした。彼自身が体験したイエス様との出会いと、イエス様の愛に満ちた言動を、包み隠すことなく真実をもって記録したのでした◆人間関係の中に真実がないなら、その関係はいつか崩壊します。偽りは信頼関係を築くことが不可能なばかりか、その関係を根底から破壊していくだからです。マタイは、人生で出会った真実なるお方との感動的な瞬間瞬間を書きとめる作業を通して、多くの人に同じ体験をしてくださいと懇願しているのです◆マタイは自分の仕事に満足していませんでした。自分の仕事に喜びを見出していませんでした。その原因は仕事内容や賃金の額にあるのではなく、自分自身が帰るべきお方の元に帰っていなかったからだと悟りました。それは、イエス様についてのうわさを聞き、イエス様の語られた教えを通り行く人々から聞いていたからでした◆そしてある時イエス様ご自身が自分の目の前に現われてくださいました。マタイの胸は高鳴り、これまで聞いていたイエス様の教えが心の中に満ちていました。その時です。マタイをじっと見つめておられたイエス様が言われました。「わたしについて来なさい」 ◆マタイは、帰るべきところへ帰って行くように、決断してイエスに従いました。 
  • ■08/06/08 (日)

  • 「あなたの心を見てくださる神」(テーマ[神の評価と人の評価])
    『人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る』 (Tサムエル16:7) 
    ◆人はなぜ他人をうわべで評価してしまうのでしょうか。相手の心の中を見ることができないからです。しかし神はすべてを見ておられます。まるでガラスケースの中にあるものをご覧になるように私たちの心の中をすっかり見ておられます。ですから神の前に虚栄心で立つことはできません。神の前にはどんなに小さな偽りも持って出ることはできません。ですからクリスチャンはお祈りの最後に、「アーメン」と言うのです。「アーメン」とは真実その通りですという意味のヘブル語です。今お祈りした内容に嘘はありませんと、信仰によって神にお知らせするのです。偽りのない交わりこそが、平安と喜びの源です◆イエスさまは放蕩息子のたとえを話されました。きまじめな兄息子とは対照的に、弟息子は夢見る者であり多くの事柄に興味がありました。それで、父から無理やり分けてもらった財産を換金して遠い町に出かけ、罪に罪を重ねて無一文となり、錦を飾るどころか失格者となって家路につきました。帰って来た息子を見た父は大喜びしましたが、兄息子は弟を非難しました◆父は、くずおれ悔い改めた弟息子の心の中を見、兄は、失敗してボロボロになった弟の外見を見てがっくりしたのです。神は、無力な私たちを父が見るように見ておられるお方です。聖書をお調べくださり、神があなたに準備しておられる祝福をお受け取りください。 
  • ■08/06/01 (日)

  • 「神の介入」(テーマ[ユダの王たち])
    『その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』 (イザヤ9:7) 
    ◆ユダの王たちの記録の書である列王記TUと歴代誌TUを調べていくと、そこに神の二つの異なった取り扱いがあることに気付かされます。「譲歩」と「介入」です。この二つはそれぞれ、王の考えと神のみこころと異なるときの、王に対する神の取り扱い方の違いです◆「譲歩」とは相手の歩みに譲るという意味で、王たちに自己反省を促すという目的のためにあえてご自分の主張をひっこめられるという取り扱いです。 一方、「介入」とは分けて入るという意味で、王たちの行動に割り込んで人類滅亡の危機から回避されるための取り扱いです。エホシェバによる甥ヨアシュの保護は、ヨアシュの祖母アタルヤの謀反に対する神の介入によるものだったのです。『万軍の主の熱心がこれを成し遂げる』という上記のみことばの成就です◆神はイスラエルとユダヤの国にされたように、あなたの人生においても時に譲歩され、時には介入なさっておられます。その神のみわざに気付いて生きることができれば何と幸いなことでしょう。神との悲しみと喜びの共有を味わうことができるのです。この神の「譲歩」と「介入」に鋭く気付き、神の臨在を体験するためには、それだけ深く広くみことばを聖徒ともに学び合い、自分の後生涯を神に明け渡し、主のくびきを負うことです。あなたの人生を主に明け渡し、万軍の主なる神の熱心を体験してください。 
  • ■08/05/25 (日)

  • 「ヨアシュ王の背後に神の御手」(テーマ[ユダの王たち])
    『…わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。』 (Uサムエル7:12) 
    ◆南ユダの王は、ヨシャパテ王→ヨラム王→アハズヤ王と替わったが、ヨラムは北イスラエルから妻を得ていた。アハブの娘アタルヤである(U列8:16-18)。アタルヤは、自分の子アハズヤが死んだと知るや(同9:27、11:1)、アハズヤの一族を皆殺しにした。自分が王位に着くためであった◆ところがこの時、不思議な主の御手が伸ばされていた。アハズヤの姉妹エホシェバがアハズヤの子ヨアシュをアタルヤの凶刃から救ったのである。『殺される王の子たちの中から、アハズヤの子ヨアシュを盗み出し、彼とそのうばとを寝具をしまう小部屋に入れて、彼をアタルヤから隠した。それで、彼は殺されなかった。』(同11:2)◆この時、乳飲み子ヨアシュは唯一残されたダビデの家系であった。ダビデの身から出る世継ぎの子によって『一つの家を建てる』と預言されていた神の約束は(Uサム7:13)、神ご自身の熱心によって力強く守られていたのである。ちなみにこの一つの家という預言は、ダニエル書で更新され『一つの国』(2:44)、『国』(7:14,22)、『その御国は永遠の国』(同27節)と呼ばれ、新約では『神の家族』(エペソ2:19)と言われている。御子によって成就したキリストの体なる教会のことである◆「アダムによって失われた神の祝福(失楽園)」の回復である「教会」の誕生こそが、御父のご計画であられた。『ダビデの子にホサナ』(マタイ21:9)、『われらの父ダビデの国に。ホサナ』(マルコ11:10)、『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』(ヨハネ12:13)である。 
  • ■08/05/18 (日)

  • 「真理をあかしするために来られた王」(テーマ[ユダの王たち])
    『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』 (ヨハネ8:32) 
    ◆ヘブル語「アーメン」の意味は、「真実その通り」です。神は真実なお方で、私たちの心の中のすべてをガラスケースの中の物を見るように見ておられますのに、人間が隠そうとする都合の悪いすべての事柄をも神は見ておられますのに、愛するわが子を見るように深いあわれみをもって一人ひとりを見ておられますから感謝です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)◆聖書を開き、聖書に耳を傾け、聖書を学ぶとき、自分に向けられた神の愛を、抽象的ではなく具体的に知ることができます。そして何よりもうれしいことは、神の愛に偽りがないことです。偽りに満ちた人間社会の中に存在している私たちにとって、「真実」は大きな慰めであり、いやしであります。神の真実は、人類との関わり合いの歴史に、明確に証明されています。神は約束を一つも反故なさらず、今もなお真実をもって人類の歴史を導いておられます。聖書を学んでくださればよく理解できます◆ところで十字架にかかられる直前にピラトとの会話の中で、「あなたは王なのですか」と問われて、「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは真理をあかしするために生まれ、このことのために世に来たのです」と答えられました(ヨハネ18:37)。偽りは人を疲れさせます。しかし真理はあらゆる問題から人を解放してくれます(ヨハネ8:32)。真理に出会ってください。 
  • ■08/05/18 (日)

  • 「神権政治を拒んだ民たち」(テーマ[ユダの王たち])
    『この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。』 (Tサムエル8:7) 
    ◆王とは王国と呼ばれる国における男性首長の称号です。さらに、王はヘブル語ではメレクで、「所有者」・「カウンセラー」という意味があります。聖く正しく愛に満ちた王は大歓迎ですが、傍若無人な王は要りません。万物の創造者なる神こそ、人類にとって真の王ですが、エデンの園でサタンが人類の王座を奪ってしまいました。人類はサタンの支配下に入ってしまったのです(「暗やみの圧制」コロ1:13)◆さて今月のテーマは「ユダの王たち」。それは神への信仰を受け継いだ王たちの歩みの中に、神を学び合い、メシヤ(キリスト)を誕生させるという御父のご計画が成就するために要したイスラエルの歴史を紐解くことになります。サウル王からスタートし、メシヤ(キリスト)に至る歴史です◆ところで、聖書全体の中で最初の王はニムロデ(創10:8-12)で、シヌアル(バベル)の地に定住して、れんがとアスファルトを用いてバベルの塔の建築を指示し、その他の多くの町を建てました。彼を通して再び不信仰の人類が広がっていきました◆イスラエルの王は、そんな信仰のない近隣諸国のような王国形態を望んだイスラエルの民の、ヒステリックな声に譲歩されたところからスタートしました。それは神権政治を拒んだ民の身勝手な願いであり、罪の結果でした(Tサム8:7)。しかもこのことはすでに、アブラハムを通し、モーセを通して神の予見が明らかにされていたのです(創17:6、申17:14,15)。 
  • ■08/05/04 (日)

  • 「美しの門」(テーマ[使徒1-7章])
    『「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」』 (3:6) 
    ◆聖霊が下り教会の交わりが誕生したその日、ペテロを通して語られた福音を信じた者たちが多勢いました。そしてバプテスマを受けてキリストの弟子として三千人が加えられました(2:42)。最初は毎日パン裂き礼拝を行なって、主なるイエスさまの十字架の死と復活を覚えていました(2:46、Tコリ11:26)。なんとすばらしいことでしょう◆ある日、午後3時の祈りの時間にペテロとヨハネがエルサレム神殿に上ると、「美しの門」に座って物乞いをしている生まれつき足のきかない男と目が合いました(3章)。何かもらえると思って注目するとペテロが言いました。上記のみことばです◆と、次の瞬間、多くの群衆が見守る中で奇跡が起きました。奇跡とは自然の法則を超えた現象のことです。その男の足に力が入り、立ち、歩き、はね、神を賛美しながら二人と一緒に宮にはいって行ったのです。目を見張っておどろく群集にペテロは言いました。「私たちにいやす力があったのではない。この人が主イエスによる福音を信じ御名を受け入れたので、そのしるしとして完全な体に戻されたのです」(16節)◆おどろいている人々に続けて言いました。「あなたがたも悔い改めて神に立ち返りなさい。万物が改まる時あなたがたが天に迎え入れられるためです。」 悔い改めとは向きを変えることを意味しており、過去の自己中心の生き方には戻りませんという決断を意味しています。新しいあなたがスタートするのです。 
  • ■08/04/20(日)

  • 「聖霊のバプテスマ」(テーマ[使徒1-7章])
    『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』 (1:5) 
    ◆先週は「父の約束」(1:4)から、約束に焦点を当てました。今回は、その約束の内容についてです。御父が約束の内容とは「聖霊のバプテスマ」の成就です。御父は旧約の預言者を通して繰り返し約束しておられました。ヨエル書2:28,29に、『その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。』と預言されていたのです。さらにエゼキエル書36:27にも『わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。』と言われました◆聖霊、すなわち神の霊の助けなくしてみことばの奥義を教えられることはありません。みことばを自己解釈することは信仰の破滅を意味します。また、聖霊の助けなくして悔い改めも導かれませんから、信仰生活がきよめられることは考えられません。さらに、聖霊の助けなくして敵を赦すこともできませんから、集会の秩序と一致を保つことも不可能です。聖霊は、イエスさまの代わりに助け主としてこの世に来られたのです。『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。』(ヨハネ14:16)◆聖霊のバプテスマは歴史上ただ一度の出来事でした。 
  • ■08/04/13(日)

  • 「約束について」(テーマ[使徒1-7章])
    『彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。』 (使徒1:4) 
    ◆上記のみことばの中で、『約束』ということばをイエスさまは言われました。約束は愛の基盤です。約束を守ることは愛の証であり、愛を育むことであり、愛を保つことです。約束を破いた瞬間、愛の関係は崩壊していきます。ところで、聖書は大きく二つに分けられます。旧約聖書と新約聖書です。両方とも「約」という漢字がありますが、翻訳の訳ではなく、約束の約です。聖書は神から人への、約束に基づいた、ラブレターなのです◆今回は、神が人に与えた約束をひとつだけ確認してみたいと思います。それは、神から人祖アダムへの約束です。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』(創2:16,17) 約束(=ルール)には条件がつきます。交通法規と同じですね。一旦停止の標識のある交差点では、停止線に合わせて車を停止させなければならなりません。この約束を軽んじますと出会いがしらの事故につながります。約束(=ルール)違反は、約束を守るべき相手を無視することと同じです。そこには自己中心の考え方しかありません◆これが罪なのです。神を無視して自己中心に考え行動することが「罪」であり、その結果として人に苦悩を与えることが「咎」です。約束について聖書から学びましょう。 
  • ■08/04/06(日)

  • 「聖書を通してのみ神に出会える」(テーマ[質疑応答])
    『聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。』 (Uテモテ3:16) 
    ◆「主の書物(聖書)を調べなさい」と神が全人類に命じておられます(イザヤ34:16)。なぜかと言うと、似て非なるものが、いつの時代も、人間的な知恵によって書き著されて、創造者なる神を見失わせているからです。原則として人の魂は、自分の両親との心の触れ合いを確認しながら人生に精神的な安らぎを得ています。それと同じように、根本的には、人は創造者なる神に出会い、教えられ戒められ強制されることによってしか、魂に平安を得ることはできないのです◆キリスト教という宗教はあなたを暗闇から救い出すことはできません。あなたを救い出すのは創造者なる神だけです。そしてこのお方は、唯一、聖書を通してのみご自身を明らかにしておられると、宣言しておられるのです◆ある人が「聖書なしでも神は語ってくださるんじゃないのですか」と聞いてきましたが、聖書なしで神が語ること(=啓示)は、預言者という特別な働き人が立てられることによって(アモス2:7)、旧約時代には旧約聖書を書き記させ、新約時代には新約聖書を神が書き記させてくださいました。そして新約聖書の完成をもって、人間に対する神の語りかけは完成したのです(Tコリント13:10)。聖書を調べ学ぶ以外に、神に出会うことは不可能であると、聖書は教えています。もう一度、イザヤ34:16をお読みください◆聖書を通して神に出会えますように。 
  • ■08/03/30(日)

  • 「恵みの時、救いの日」(テーマ[十字架と復活])
    『なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。』 (Uテサロニケ2:3) 
    ◆「十字架」による完全な赦しと「復活」による新生の保障は、無条件の賜物(=恵み)として、「御子」と「御父」によって成就し、「神のことば」(=みことば)と「神の霊」(=聖霊)によって信仰が与えられ(ヨハネ3章前半)、救いが個人的に適用されることになります。これは人間の探究心や努力によるものではなく、ただ「恵み」によるものです(エペソ2:8,9)。キリストの死と復活と、聖霊降臨(=聖霊のバプテスマ)によってスタートした「恵みの時、救いの日」(Uコリ6:2)は、いつも間にか2000年に及びました。イスラエルの父アブラハムからイエス誕生までの2000年間と同じ年月となりました。何を意味しているのでしょうか。わけへだてをなさない神は、イスラエル人に与えたと同じ年月を、異邦人にも与えてくださったのです◆アダムからイエスの誕生までが4000年、イエスからこの恵みの時の終了(=携挙)まで2000年。すなわちアダムから約6000年になります。このあとの1000年間が、7000年目に当たる「千年王国時代」(=安息の1000年間)に当てられるものと思われます。私たちが携挙の目撃者となる時代に生かされているということは、実に感謝すべきことです◆さて、ヨーロッパ合衆国の誕生が近づいていますが、これは患難時代を演出する反キリストによる復興ローマ帝国を指しているでしょう。そしてすでに、ヨーロッパ各国では不信仰が広がっているのです。
  • ■08/03/23(日)

  • 「キリストの受難は通過点」(テーマ[十字架と復活])
    『キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。』 (ルカ24:26)
    ◆御父のご計画の中でイエスは天から遣わされましたが、弟子たち聖書(旧約)が約束しているメシヤを、めいめい自分たちの勝手なイメージを持って待ち望んでいました。そのイメージの中でもっとも一般的なものが、ローマ帝国の支配から解放してくれる政治的な救い主というイメージでした。「罪の永遠のさばきからの贖い主」という御父のご計画とは異なったイメージを、当時のユダヤ人は思い描いていました◆そのため、イエスが「受難告知」をされたとき、ペテロは主をいさめ、主から厳しく叱られたり(マタイ16章)、イエスを大歓迎していた群衆はユダヤ当局から逮捕されたイエスを見て失望し「十字架に付けろ」と叫ぶ側に回ったり、そして弟子たちもまた失望して蜘蛛の子を散らすように逃げていきました。ああ人間とはなんと、無知で鈍感で身勝手なのでしょう。イエスが言われました。『ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。』(ルカ24:25) 本当にその通りです◆この受難と死こそ、イエスがメシヤとしてこの世に来られた第一の使命だったのです。『必ず、そのような苦しみ(=身代わりとしての贖いの死)を受け』なければならなかったのです。そして『それから、彼の栄光にはいる(=天の右の座に着座されること)』ことがご計画されていたのです。人類の救いのために!
  • ■08/03/16(日)

  • 「必ず全部成就する」(テーマ[十字架と復活])
    『わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。』 (ルカ24:44)
    ◆ユダヤの死刑執行の手段は「石打ち」のみでした。『主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。』(レビ24:16) 石は、シナイ山で石の板に刻まれた「神の律法」を意味していました。すなわち、律法に基づいて処刑されることを象徴していたのです。そして主イエスもまた「主の御名の冒涜罪」で死刑が言い渡されていました(ヨハネ19:7)◆当時の大祭司であったカヤパの前で不法な裁判を持ってまでして死刑判決を下したユダヤ当局(サンヘドリン)でしたから、(このことに関してはマタイ26:59前後をお読みください)、私刑として石打ちの刑を適用することも出来たはずですが、生ける御父のご計画を妨げることはだれにもできませんでした。先週学んだように、民数記21:9で預言されていた通り十字架刑にかかられることによって遠大なる神のご計画の確かさを全人類に明らかにされたのです◆『モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。』(ヨハネ3:14)とイエスが言われたとおり、旧約の約束が、大祭司やサンヘドリンの議員たちの汚れた罪が噴出した中にあっても「必ず全部成就した」のです。サタンがどんなに人間をだまし神のご計画を邪魔しようと全力をつくしても無意味なのです。全知全能なる神をほめたたえます。
  • ■08/03/09(日)

  • 「御父のはかりごと」(テーマ[十字架と復活])
    『肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。』 (ロマ8:3)
    ◆主なるイエスが十字架にかかられたのは、結果としてではなく、目的でした。イエスは十字架にかかるために受肉され世に現われたのです。『いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。』(ヨハネ12:27)と記録されてあるとおりです◆十字架にかけられることは民数記21:9で預言されていました。そのことを明らかにされたイエスのことば。『モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。』(ヨハネ3:14)◆ 神は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらないお方ですから(アモス3:7)、イエスの十字架と復活についても聖書に予告されているのです。『わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。』(ルカ24:44)◆そして「定められた時に」誕生なさったイエスは(ガラテヤ4:4)、定められたとおりに最期を迎えられたのです。『しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』(マタイ26:39)◆罪に汚染されたまま生まれた私たちの(ユダ19)、罪を赦して、このたましいを天に迎え入れてくださるために、御父は御子の「聖い命」を罪の支払う代価として受け入れるというご計画を立てられ、それを成し遂げられたのでした(ロマ8:3)。ただただ、感謝するばかりです。
  • ■08/03/02(日)

  • 「長官たちに謝罪を求めたパウロ」(テーマ[使徒16章])
    『…とんでもない。彼ら自身で出向いて来て、私たちを連れ出すべきです。』(使徒16:37)
    ◆マケドニヤ地方第一の町であるピリピでパウロは、十分な取り調べもないままむち打ちの刑を受けていた。占いの霊につかれた女たちを利用して金儲けをしていた主人が感情的になって引き起こした不当な取り扱いであった(19-23節)。夜が明けて、地震に恐れをなした長官たちが不思議な恐れを感じながらパウロたちを釈放したとき、パウロははじめて自分がローマ市民であることを明らかにすることができた◆すると長官たちはパウロとシラスがローマ市民であるということを聞いて非常な恐れに包まれた。当時ローマ市民権を有する者には特別な法的保護を受ける特権があり、むち打ちなど重い刑罰は免除されなければならなかったからだ。パウロはそのことを明らかにした上で、長官たちに反省を促し、公に謝罪することを要求した◆それは聖霊から受けた知恵であった。ヨーロッパ第一号の教会の聖徒たちがこれから後、ローマ帝国の不当な仕打ちを受けることがないように、この事件を通して公にその保護を受けさせるためであった。確かに神は『すべてのことを働かせて益に変えてくださる』お方である(ローマ8:28)。このようにして福音宣教の働きは、全世界に向けて力強く前進していったのである◆パウロはこのことをもって、ピリピ教会の聖徒たちを励ましてから次の伝道の旅へと進んで行った(40節)。
  • ■08/02/24(日)

  • 「ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの一致」(テーマ[使徒16章])
    『こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して往った。』 (使徒16:5)
    ◆諸教会が成長していった理由が、前節に記されてある。エルサレム会議での決定事項を異邦人教会に伝え、地方に誕生したそれぞれの教会の互いの交わりに、一致が生じたことである。エルサレム会議については前章1-21に記されてある。コルネリオの回心を通して無割礼の異邦人でも救われることを主から学んだペテロによって、エルサレム教会はそのことを承認していたが、一部のユダヤ主義キリスト者たちが異邦人でも割礼を受けてユダヤ教に改宗しなければ救われないと主張したために教会内に混乱が生じた。そこで会議が開かれ、イエスの弟であるヤコブ(当時のエルサレム教会の指導者/使徒15:13)によって教会はダビデの子であるイエスによって復興された霊のイスラエルであり、アモス書9:11-12の預言の成就であって、異邦人も加えられるとことは主のみこころであると明言した◆そして律法を知らない異邦人クリスチャンにを律法厳守と言う悩みを強制してはならないと語ったのである(使徒15:19)。ただ3つのことだけを異邦人クリスチャンに提案した。@偶像礼拝に使われた物は食さないこと、A不品行を避けること B放血していない家畜の肉を食べないこと。これは同じ教会内に存在するユダヤ人と異邦人の交わりが平和的に解決するための方策であった◆『平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。』(エペソ4:3)
  • ■08/02/17(日)

  • 「テモテ」(テーマ[使徒16章])
    『パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。』 (使徒16:3)
    ◆16章はパウロの第2回伝道旅行の最初の出来事が記録されている箇所です。パウロはシラスを伴ってルステラにある教会に行きます。そこでテモテという青年に出会いますが、ルステラはかつてパウロが石打ちにされて瀕死の重傷を負った町でしたので(14:19)、パウロの命がけの信仰を目撃したクリスチャンの中にテモテもいたと思われます。このテモテは近隣教会で良い評判を得ていましたので、パウロは彼に伝道旅行の同行を勧めます◆ところがテモテはハーフでした。ユダヤ人の母とギリシャ人の父の間に生まれたのです。そこでパウロは各地のユダヤ人たちからテモテをユダヤ人として受け入れてもらえるように彼に割礼を受けさせました。その後、町々に建てられていた教会を巡回し、エルサレム会議での決定事項(15:28,29)を伝えました◆それは神の家族に加えられた聖徒たちが、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を保つためだったのです(エペソ4:3)。神の秩序を無視した士師時代のようになってはならないのです(士師21:25)。『こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った』(使途16:5)と書かれてありますが、初代教会の礎は、教会同士の横のつながりを、知識(=聖書教理)の一致によって(エペソ4:13)強めることを通して築き上げられていったものだったのです。
  • ■08/02/10(日)

  • ―「召天式メッセージ」
    『ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。』 (伝道者12:7)
    ◆人の生命は時にもろさを露呈します。地震で崩れる家屋を見つめるように、なす術もなく臨終に立ち会うしかありません。「何時何分、だれだれ様がご臨終なさいました。」 出先から救急車で運ばれた実兄を担当してくださった総合病院の若い女医さんが死を告げてくださいました。「人の子よ、帰れ」と神が仰せられると、人は何一つ抵抗することができないまま「神に帰らなければならない」と言う現実を目の当たりにするのです。そして、いつか自分の番も来る、と実感します◆兄の死の報告会であり、遺族を慰める集いであり、兄の魂を天に送る記念会であるこの召天式に集ってくださった皆さま、今、兄は棺に納められていますが、2年前にはこの斎場にいて自分の妻を見送りました。またその1年前には母をここで見送りました。そのとき泣き崩れながら見送る側にいた兄が、今は棺の中にあって見送られる側にあります。同じように私たちの活動を終えた身体もいつか、棺に納められる日が来るのです。その日が来ることを思い、神の前にへり下さりなさいと聖書によって神が語っておられます(伝道者7:2)◆皆さん。人の魂は一人漏れることなく神のもとに帰ります。その時、神に恐怖を覚えることなく恥を感じることなく両手を広げて平安を持って帰る方法を神が啓示しておられます。@知ってください、A信じてください、B従ってください。聖書を調べ学ぶことなくして信じることは不可能です。お近くの教会に行って、ぜひ聖書を学んでください。
  • ■08/02/03(日)

  • テーマ【祭司とレビ人】 ―「十分すぎる恵み」
    『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』 (エペソ1:23)
    ◆イエスがたとえでお話しをされた。ユダヤ人の一人が山の上にあるエルサレムからふもとのエリコに下る道中で山賊に暴行を受け、持ち物すべてを強奪され、半死半生で路上に放置された。ちょうどそこに祭司が一人で通りかかったが、傷ついた同胞を助けることをしないで、道路の反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人もその場所にを通りかかったが、傷ついている同胞を見ると、反対側を通り過ぎて行った◆ところが、いつもユダヤ人から非難され侮辱され苦しめられていたサマリヤ人が旅の途中そこに来合わせ、彼を見るとかわいそうに思い、傷の手当てをし、宿屋にまで連れて行って介抱してやった。しかも翌日、宿屋の主人にデナリ二つを手渡して「足りなかったらもう一度帰って来たとき清算しますから」と言った◆「サマリヤ人」とは、ユダヤの宗教的指導者たちから敵対視されていたイエスを指しているでしょう。「デナリ二つ」とは2日分の賃金であり、これはすぐに戻ってくることの約束であると同時に、有り余るほどの費用を準備されたことを意味しているでしょう。すなわち「宿屋=教会」で、「デナり二つ=みことばと聖霊」を意味するでしょう。さらに「帰りに払う=再臨時に完済する」という意味でしょう。◆キリストを通して御父が与えてくださった十分過ぎる恵みと祝福に感謝する以外にない。しかもこれが教会の交わりの中に準備されているのである(エペソ1:23)。
  • ■08/01/27(日)

  • テーマ【祭司とレビ人】 ―「大祭司の死により自由の身となる」
    『…彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。』 (民数記35:25)
    ◆祭司とレビ人にはカナンの地に所有地がないことを先週学び合いました。そして、彼らの生活基盤は神によって定められた"のがれの町"内にあることも先週学び合いました。さらにこの逃れの町には、過失の罪であるにもかかわらず被害者家族から命を狙われているイスラエル人がかくまってもらえる町であり、それゆえこの名が付けられたことも知りました。それはちょうど、イエスさまの十字架以前に生きていた旧約の聖徒たちのたましいが留まっていた"アブラハムのふところ"(ルカ16:22)を指していました◆逃れの町に避難した過失による加害者は、自分が逃げ込んだ逃れの町にいる大祭司が死ぬまでそこにいなければなりませんでした(民35:25)。なぜなら大祭司が死ぬと彼の罪は公に赦されて自由の身となり、自分の所有地に帰ることができたからでした(同28)。この大祭司の死こそ、イエスさまの十字架を暗示するものでした(ヘブル7:27)◆ところで私たちは逃れの町に避難した者について知らなければなりません。彼は故意の罪を犯したのではなく、過失の罪を犯した者でした。この者たちへの救済方法を神が定めておられたのでした。ところがイエスさまは十字架の上でこう祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」 すなわち、今まさに自分を殺そうとしている者たちの故意の罪を、過失の罪として、御父にとりなしてくださったのです。神の深いあわれみに感謝するばかりです。
  • ■08/01/20(日)

  • テーマ【祭司とレビ人】 ―「聖所に仕えた祭司とレビ人」
    『レビ人は、その手を雄牛の頭の上に置き、レビ人の罪を贖うために、一頭を罪のためのいけにえとし、一頭を全焼のいけにえとして主にささげなければならない。』 (民数記8:12)
    ◆祭司とレビ人はともにレビ部族です。レビ(「結ぶ」の意)はヤコブの12人の男の子のうちの3男で、ヤコブのふたりの妻のうちレアの子ですが、妹ディナ事件(創34章)で兄シメオンと一緒になって現地のシェケム人に対して残虐行為を行ったとして父ヤコブから厳しく注意されました(創34:30)。ところが後に彼の子孫であるレビ人はシナイの荒野で起きた金の子牛事件の後モーセに従ったために(出32:26‐29)、祝福を受ける存在になりました。レビ人はイスラエル全体の初子として神にささげられ(民8:18)、次には「アロンとその子ら」(=祭司)に仕える者として神から聖別されて祭司にあてがわれました(同3:6,8:19)◆聖所に仕える者となった祭司とレビ人は、その奉仕に専念するために、地上に相続地を持つことは許されず、それゆえレビ族の地はどこにもありませんでした。聖書巻末の"12部族に分割されたカナン"の地図のどこを見てもレビの名がありません。彼らはどこで生活したのでしょうか。彼らのために各部族の土地に「のがれの町」が制定されました(民35:6)◆土地を持たず、農耕を許されなかった祭司やレビ人の生活費はどうなっていたのでしょうか。彼らには、イスラエル人全体から集める10分の1が生活費と豊かに与えられていました(民18:21)ので、彼らは十分に聖所に仕えることが可能だったのです◆私たちクリスチャンもまた、神ご自身に仕えるために、豊かな恵みをいただいていることを感謝しようではありませんか。


  • 管理人; 2008-01-28更新;
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    お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。 (エペソ4:32)