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■ バトンタッチ・メッセージ ■

 
★ 全国の諸集会に属しておられる兄弟方にワンポイントメッセージを書いていただきました。 ★ 


    (58)

    担当者:
     KT兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「新しい人」

    『新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。』(コロサイ3:10)

    ■聖・義・愛であられる神は、アダムとエバによって失われた霊的いのちを、罪の支配下に堕ちた人類に回復させるべく、贖いのご計画を立てられました(創3:15)。そしてそのご計画に基づいて天からキリスト・イエス(女の子孫)を遣わされたことにより、彼の身代わりの死と復活によって救いが完成されたのです。
     その救いに与る者たちについては、ヨハネの福音書に『ただ、神によって生まれたのである』(1:13)と書いてある通り、百パーセント神によるものでなければなりません。難行苦行やお布施(お金)や、また人間的熱心や宗教指導者による特別な執り成し、さらには民族的な血統書などによることはありません。それらは何の役にも立たないどころか、逆に邪魔になるだけです。
     ところで「新し人」(コロ3:10)とは、霊的いのちに基づいて救われた人のうちに形造られる「新しい人格」のことです。それが形造られるためには、まず第一に聖書のみことばを学んで、神はどういうお方であるかを知ること。神についての先入観を残していると似て非なる"信仰らしきもの"を自分勝手に作ってしまいますから要注意です。続けて第二に、自分の人生を静かに振り返り、聖書を通して語りかけておられる神の御声に耳を傾け、自分自身を見つめます。
     神は、人の良い行ないを見てその人を赦そうとされる方ではありません。過去を反省し自分のまちがいを認め、神にあわれみを求める者に、キリストによって完成された罪の赦しを与え、罪の支配下から贖ってくださるのです。そして赦された者を一生かけて聖なる義なる愛なる者へと変え続けてくださいます(テトス3:5)。
     真に救われ新し人格が形成されているかどうかは、神のみこころを優先して生活している自分に気付く時(マタ6:33)、実感することができます。


    (57)

    担当者:
     TY兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「石投げ」

    『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。』(エペ6:10-11)

    ■ペリシテ人は神々の名によって(Tサム17:43)イスラエルに戦いを挑んでいた。それはイスラエルの神に対する挑戦であった(同26)。宗教戦争、すなわち聖戦のため多大な損害を生じさせないように、代表戦士を一人ずつ出して戦わせ、勝敗を決めていた(同8-9)。
     羊飼いの少年ダビデはかつて預言者サムエルに油を注がれたとき特別に聖霊を受けていたため(16:13)、それ以降並み外れた力を発揮しており(17:35-36)、この少年がイスラエル側の代表戦士となった。一方ペリシテ人側の代表戦士は巨人ゴリヤテであった。ゴリヤテは青銅のかぶとと、うろことじのよろい、すね当てと投げ槍で身を固めて登場したが、ダビデは羊を守る石投げだけであった(40)。しかし彼は聖霊ゆえに恐れることなく「この戦いは主の戦いである」(47)と公言し、次の瞬間、巨人に勝利したのだ(50)。ここに、人間的な知恵と力に頼らず聖霊に支えられて戦うべき霊的な戦いの見本がある。
     時至って初代教会時代のパウロもまた、キリストのからだなる教会を滅ぼそうとする悪魔の策略を体験した。悪魔は偽りの教えをもって教会を消滅させようとしたのである。現代でも同じ霊的戦いが繰り広げられている(エペ6:12)。霊的な神の武具を身につけ(14-18)、偽りの教えに備えつつ歩みたい(同10-11、Uコリ10:4)。


    (56)

    担当者:
     AK兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「蟻」

    『なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。』(箴6:6-8)

    ■目にもとまらないほど小さな生き物の中に蟻がいる。これこそ知恵者中の知恵者だ(箴30:24-25)。『蟻は力のない種族だが、夏のうちに食糧を確保する』(25)、『なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。』(箴6:6-8)
     人間社会には支配者が存在し、その権力は末端にまで影響を及ぼす。しかし蟻の世界には、首領もつかさも支配者もいない。蟻の生態を観測すると、巣には一つの入り口があり、そこから無数の通路が伸び、その通路の先には食糧倉庫、卵の管理倉庫などの部屋が何層にも重なって作られており、その中を各々の蟻が秩序正しく動き回り、調和が保たれ一致して仕事に従事している。まさしく、知恵者中の知恵者である。いったいこの知恵はどこから来たのだろう。
     天地万物を創造された神である。創造者なる神が、目にもとまらないほど小さな蟻に知恵を与え、この大自然の食物連鎖の一端を担わせておられるのだ。細部に至るまで、完璧に創造なさった神を、私たちはほめたたえずにはおられない。


    (55)

    担当者:
     TY兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ルカ16章19-31節」

    『…私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。…』(ピリピ3:8)

    ■この聖書箇所には「ラザロ」という個人名が出ているので、たとえ話ではなく現実の出来事であったと思われる。さて、富を私物化し快楽のために浪費していた金持ちがいた(ルカ16:19)。彼の前に餓死寸前の貧乏人ラザロが物乞いに来ても、彼はあわれまなかった。富自体は悪ではないが(創13:2他)、それを偶像化し神様のみこころを無視するなら問題である(コロ3:5、ルカ16:13)。神様のみこころは、富める者が貧しい者をあわれみ扶助することだが(申15:9-10、ルカ18:22-23)、金持ちの心は富に囚われていた(ルカ16:13)。
     一方貧乏人ラザロは神様から与えられた人生をひたすら生きていた。盗んだり争ったりせず、ただ裕福な人の門前まで行き、餓死寸前の体を力なく横たえ、邪魔にならぬよう物乞いをして食べ物をひたすら待った。ラザロは神様に人生をゆだね、一切をお任せしなが生きていた。しかしついに力尽き、死後大きな慰めを神様から受けたのであった(同25)。
     使徒パウロはこう言っている。「…私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。…」(ピリピ3:8)。神様に背を向け続けるこの世の中にはない素晴らしい祝福が、神様との交わりの中にある。これを味わいながら生き、天に帰るその日まで神様にいっさいをゆだねお任せする人生を全うしたい。


    (54)

    担当者:
     AK兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ヤコブ1章22節」

    『また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』(ヤコブ1:22)

    ■ヤコブは善行を強調し、パウロは信仰を強調しているというのではない。パウロは「救いは律法の行ないにはよらないこと」を説き、ヤコブは「神から与えられた真の信仰には必ず行なうこと」を教えているのである。
     また、神によって信仰を試みられる聖徒は幸いである、とヤコブは教える(2)。それは、試みられることによって自己満足型の信仰生活(24)から引き戻され、キリスト者として成長させられ(4)、天に引き挙げられるとき信仰の勝利者として迎え入れられるからだ(12)。
     ところで「試練」は神が私たちを「完全な者」(4)とするために与えてくださるものであるが、「誘惑」は聖徒の中に残されいる肉の性質から生じる欲への応答を受身的に表現したものである(14)。その欲をもてあそぶことにより汚れた行動へと発展してしまうのだ(15)。そのような事態に差し掛かったなら、「からだの行ないを殺す」決断が求められ(ロマ8:13)、「みことばを実行する」決断が要求されていることを(22)、思い出さなければならない。
     みことばを感激して聞くだけで終わるのではなく、みことばに隠されてある真理を教えられそれを実行するなら、信仰は成長し、霊的な成人へと帰られていくのだ。


    (53)

    担当者:
     KT兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「Tペテロ1章23節」

    『あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。』(Tペテロ1:23)

    ■罪人が新生の恵みに与り、真のクリスチャンとされたのは、人間的な慰めの言葉や勧めの言葉、すなわち朽ちるものによったのではなく、永遠に朽ちることのない、神の真理のことばに基づいたものであることを確認させています。
     私たちもまた、福音を宣べ伝えて未信者の方を救いへと導く奉仕にあずかる時は、神のことばの説き明かしを後回しにしてはいけません。また人間的な慰めや勧めの言葉を多用することのないように注意しなければなりません。そしてクリスチャンとしての新しい人生を始める方々がいつまでも救いの確信を保つことができるように、『朽ちない種』である神のことばによって導くことを心がけなければなりません。


    (52)

    担当者:
     AK兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「平和」

    『キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。』(コロサイ3:15)

    ■「感謝の心を持つ人」になれるのは、神との交わりが回復してからです。それまでは得体の知れない不安と恐れに包まれて生きています。人生を楽しもうとしても、喜びと感謝に満ちた人生を送ろうとしても、隠している罪がいつかばれるのではないかと不安になり、死後にそれ相当のさばきを受けなければならないのではないかとの恐れが生じます。しかし神は、その不安と恐れから解放される道を、すべての人の前に準備されました。受肉されたキリストの、身代わりの死と復活による、贖いの道です。
     あなたが、自分の罪と過ちを認め、悔い改め、罪の力からの解放されることを願うなら、神はキリストの死によってあなたを永遠に赦し、ご自分との交わりを回復してくださるのです。その瞬間、あなたから不安が消え、死後への恐れもなくなり、どのような逆境の中でも、その背後にあって導いておられる神に感謝できるようになるのです。
     神との平和を体験していないばかりに、不安が広がり、隣人との間に不協和音が生じ、問題が起きるとだれかれに責任転嫁し、敵対関係が芽生え、生きることが苦痛となっていきます。
     神はあなたを、待ち続けておられます。赦されて、神のいのちに与って、神の家族に加えられ、神のいのちを共有する新しい人間関係の中にお入りください。そのとき、あなたは本物の幸せを味わうことができるでしょう。


    (51)

    担当者:
     TY兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「族長ヨセフ」

    『このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。』(マタイ5:16)

    ■族長ヨセフはダニエルと同じように、異教の地にあっても信仰を失わず、「神の国とその義をまず第一」(マタ6:33)にし、「神の御名があがめられる」(同9)ために行動した。彼らが神の栄光を現わすたびに、神は彼らを次の段階へと導かれ、異教の地で豊かに用いてくださった。まさに、地の塩・世の光としての生涯であった。
     ビジネスマンであろうと、国家公務員や地方公務員であろうと、農業や漁業や自営業に携わる者であろうと、政治家や医療業務者や放送に関する働きに携わる者であろうと、学生であろうと主婦であろうと老人であろうと、神のみこころを生きる決断をしている者、を主は用いてご自身の存在を世に現わし、立てておられる救いのご計画を進めて行かれる。
     ヨセフの人生はダニエルと同様、試練の連続であったが、「苦しむときそこにある助け」(詩46:1)を味わった。兄弟たちにねたまれてエジプトに売り飛ばされようと、主人の妻の汚れた誘惑にさらされようと、無実の罪で投獄さられようと、彼はいつも信仰を失うことなく、すべて時にかなって美しく導かれる神の時(伝3:11)に身をゆだね続けたのである。
     彼は神のみこころを生きることを意識した。それこそが神がすべての信者に望んでおられること。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』(マタ16:24) 私は、毎朝仕事に取りかかる前に祈る。一日の業務計画を御手に委ね、神のみこころから外れることのないようにと。


    (50)

    担当者:
     KT兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「エリヤ」

    『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』(マルコ16:15)

    ■エリヤは旧約時代の預言者を代表する人物です。彼は、イスラエルを混乱させていた悪王アハブに神からの刑罰としてのききんを知らせ、ケリテ川では烏に養われ、ツァレファテの町に降りて来てはそこのやもめに養われました。また、偶像礼拝に染まって神への信仰を失っていたイスラエルの民にカルメル山上で悔い改めを迫りました。
     彼は信仰者として神によって訓練され、預言者として神に用いられ、生涯神に仕え神に従いました。現在、罪赦されて神のしもべとされた私たちクリスチャンも、エリヤのように「神の国とその義とをまず第一に求め」ながら(マタイ6:33)、神を知らない世の人々に福音を伝え、生きておられる神を証し、イエス様の十字架の死と復活による永遠の救いへと導こうではありませんか。


    (49)

    担当者:
     AK兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ヨセフ(マリヤの夫)」

    『ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。』(マタイ1:24-25)

    ■福音書におけるヨセフの記録はマリヤと共に極めて少ないが、重要な働きに与っていた。御使いによる受胎告知を受けたマリヤが不妊の親類エリサベツの妊娠を聞いて彼女を訪問し(ルカ1:36-45)、そのまま3ヶ月滞在したあと(同56)妊娠を告げられたヨセフの苦しみはいかばかりだっただろう。御使いによる告知を受けたマリヤとエリサベツには共通の喜びがあったのだろうが、3ヶ月は長すぎたとしか思えない。
     しかしそんなヨセフにも御使いガブリエルが現われて、神の救いのご計画が知らされ、婚約解消の危機から救われている(マタ1:18-25)。この時も、さらにエジプトへの逃避と帰還にあたっても、ヨセフは御使いを通して介入される神の命令に服従した。ヨセフは幼子イエスを養父として守り抜いたのである(マタ2:13-23)。
     このヨセフは大工として生計を立て6〜7人の子を持った一般家庭の父親であり(マタイ13:55-56)、イエス様が十字架に架けられる前に死んでいたと思われる(ヨハネ19:26-27)。


    (48)

    担当者:
     YN兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「Tペテロ1章18-19節」

    『ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金の朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。』(Tペテロ1:18−19)

    ■父祖伝来のむなしい生き方とは、造り主である神の存在に気付きながらも学ぼうとせず(ロマ1:20-21)、人の手で作った偶像を拝んで心の欲望を満たし(同22-24)、人造宗教の中で満足しようとする人間的でむなしい生き方のことです。Tサムエル12:21にもU列王記17:15にも「むなしい」と書いてありますが、これらは偶像礼拝をさしています。
     ダビデの子ソロモンは近隣諸国との平和を考え過ぎて政略結婚を繰り返し、その結果多くの偶像礼拝所をイスラエルに建てさせました。彼は後に自分の愚かさを悔い、伝道者の書に記しました。「神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか」(2:25)と。
     神なしで生きるむなしさから救い出される道はただ一つ、「キリストの尊い血(身代わりの死)」によって永遠に赦されることです。人はみな神に逆らう性質(罪)を持っているため(ロマ7:20-21)、他人の身代わりができません。しかし傷もなく汚れもない御子が人となられてこの世に来られ、罪人の身代わりとなられたのです。それが平和の象徴となった十字架でした。子羊のようなキリストが受肉されて身代わりとなり救いを成し遂げられることは、初めのころから預言されていました。「女の子孫(処女から生まれたイエス)との間に敵意(悪魔に対する新しい命)を置く。彼(イエス)は、おまえ(悪魔)の頭を踏み砕き(完全な勝利)、おまえは、彼のかかとにかみつく(十字架による致命傷)」(創3:15)と書いてあります。おまえの頭を踏み砕きとは、「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださったのです」(ヘブ2:14-15)と真理が明らかにされている通りです。
     私たちはイエス・キリストによる贖いを覚え感謝しなければなりません。むなしい生き方から救われることについて、さらに聖書を学びましょう。


    (47)

    担当者:
     KT兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「モーセ」

    『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』(詩37:5)

    ■エジプトの王女の子として育てられていたモーセは、訳あってエジプトの王パロから逃れて、ミデヤンの地で羊飼いとして暮らしていた。ある日、羊の群れを追って神の山ホレブに来たとき、不思議な光景を見た。燃えているのに柴が燃え尽きないのだ。モーセが近づくと自分の名を呼ぶ神の声が聞こえた。驚くモーセに、「ここは聖なる地である、足のくつを脱げ」とのこと。それは、「あなたの人生のすべてをわたしにに明け渡しなさい」という神の招きであった。神を恐れて顔を伏せるモーセに、神は続けて仰せられた。「エジプトにいて苦しんでいる神の民を救出ために、あなたを用いる。」
     この時の体験を通してモーセは神のしもべとなる決断をし、人生を明け渡して神に従った。エジプトからカナンの地まで、数えきれないほどの民を引率するという、不可能と思える神のご計画に、モーセは信じて与ったのである。
     人は自分のためには努力をし苦労も味わうであろう。しかしモーセは、神に捉えられたとき、自分の思いや考えは捨てて、全知全能であられる神の仰せにすべてをゆだね、従がったのである。ここにこそ、一度しかない人生を神に使っていただく人知を超えた喜びがある。
     神は、あなたにも幸いな人生を計画しておられる。聖書を通して神に出会っていただきたい。


    (46)

    担当者:
     KT兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「Tテサロニケ4:17」

    『次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。』(Tテサ4:17)

    ■聖書で言う救いとは、永遠の滅びに行く以外にない有罪とされている罪人が、救い主を通して無罪とされることである。
     神は、キリスト・イエスの贖いの死によって罪人の罪をさばき、復活によって、キリストによる救いを信じる者を義(無罪)とし、霊的ないのちを回復させてくださるのである。
     そして霊的ないのちを与えられて新しく生まれた者を、空中携挙(聖徒の交わりである教会を天に引き上げる)の時に新しい栄光のからだ(御霊のからだ)に変えてくださるという約束を、確かなものとして準備してくださったのだ。
     その時が来るまで、この世の汚れから聖められ続けなければならないと聖書は教えている(Tテサ4:3)。みことばを学び、みことばを実践し、自己流で生きている部分を気付かされ、矯正されようではないか(Uテモ3:16)。
     救いに与るとは、人間としての本来あるべき姿に戻ることである。


    (45)

    担当者:
     TY兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「高慢」

    『彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。』(ロマ1:21)

    ■高慢とは、「自分がすぐれていると思い人を見下す」との意味があるそうだ。高慢な人は、私たちの周りに必ずいる、そしてできれば自分から遠ざけたいと思ってしまう。ところが、自分もまた気付かぬうちに高慢な態度を取っていることはないか。自分の現状を振り返りたいものである。
     みなさんはご存じだろうか。イエス・キリストというお方は偉大な権威をお持ちの神なるお方なのに、奴隷のように弟子たちの足を洗われたのである(ヨハネ13:1-20)。私たちは、この方のこの模範の前に恥じ入り、こうべを垂れる必要があるのではないだろうか。
     さらに私たちが無視してはならないことがある。絶体絶命の時、神を思わぬ者は一人もいないのだが、にもかかわらず普段は神のことを思わず、自分の好き勝手な生き方をしている現実、これもまた高慢ではなかろうか。神の前に高慢な生き方ではないだろうか。


    (44)

    担当者:
     AK兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「マタイ7:24」

    『だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。』(マタイ7:24)

    ■民衆が「神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか」とイエスに尋ねたとき、イエスは答えて言われた。「神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」(ヨハ6:28)。
     人は天国への道を自分の努力で勝ち取ろうとする。救いに値する何かが自分にあると思い上がっているからだ。しかし何もありはしない。彼らは、神のために働きたいという「ふり」はするが、神の御子とのかかわりを持ちたいとはさらさら思っていない。イエスはそんな彼らの偽善を見抜いて言われた。「神が遣わされた方を信じ受け入れることから始めなさい。」
     神のみこころを行なう第一歩は、主イエスを信じることで、信じるとは、主のことばを聞いてそれを実行することだ。その行為こそが「神のわざ」にほかならない。主とかかわりを持ち、主のご命令を行なう者は、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」であり、雨や風が強く当たっても土台がしっかりしているので倒れることがない。反対に主とのかかわりを持たず、みことばを聞いても実行せず、自分の考えで生きる者は、表面は立派に見えても、嵐が来ると倒れてしまう。
     私たちもその教えの意味を把握しないままでいるなら、後で後悔することは必定(ヒツジョウ)だ。


    (43)

    担当者:
     KT兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ヨブ」

    『私は今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。』(ヨブ42:5-6)

    ■  神はヨブのことを、「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている」(ヨブ1:8)と評価しました。ヨブが、サタンによって支配されているこの世(ルカ4:5-6、Tヨハ5:19)にあっても、神との関係を第1にしていたことが判ります。神に敵対するサタンは、人間が神の元に帰らないように、あらゆる手段を講じて、世に縛り付けようとしているのですが、神を恐れるヨブは、世の悪から遠ざかっていたのです。
     そんなヨブのことを、サタンは神に訴えました。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか」、言い換えると「利益もないのに神を敬うでしょうか」となるように、損失や逆境の中ではヨブだって信仰を失うに違いありませんよ、と神に挑戦状を突きつけたのです。
     しかしヨブは、全ての持ち物を失い、子ども全員を一瞬の内に失ってさえも、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と祈り、さらに自分自身も死に直面するほどの悪性の腫物で打たれても、「私は幸いを受けているのだから、わざわいをも甘受すべきである」と、罪を犯す言葉を口にすることはありませんでした。ヨブは神を愛することによって、世に勝利したのです。
     神は、苦難を通してヨブを訓練され、ヨブの中からさらなる信仰を引き出され、「私は今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」(ヨブ42:5-6)と告白するまでに、ヨブを謙遜な者へと引き上げてくださったのでした。
     ヨブは神の本質を知り、悔改めをもって日々神にふさわしい者へと変えられ続けたのです。


    (42)

    担当者:
     AK兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「謙遜」

    『神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。』 (ローマ9:24)

    ■謙遜とは「へりくだり」のことである。神に対して何の功績も価値もなく、義を追い求めようとはせず、逆に罪を追い求め、自分勝手に生きて来た異邦人が義とされて、御国の住人という立場に与る者とされたのです。
     律法の前に立つならば、滅ぼされるしかない者たちを、神は豊かなご寛容と非常な忍耐をもって、全く新しい人生へと救い出してくださったのです。語ることがはばかられるような凄まじい過去の罪を、神はキリストを通してすべて赦して下さったのです。
     神が望んでおられたのは、律法を学んで自分の罪を認め、全知全能であられる神の御前にへりくだり、砕かれた悔いた心となってあわれみを乞う、そんな姿だったのですが、選民イスラエルは、その神の望まれる道ではなく、どうにかこうにか律法を守って、自分の行ないの義を人の前に誇る高慢な道を、そのような道を走り続けていたのです。
     神の御前にへりくだり続けようではありませんか。自分を誇る者ではなく、神に一切を委ねる者でなければなりません。『彼(主)に信頼する者は、失望させられることがない。』(ロマ9:33)


    (41)

    担当者:
     KT兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「結婚」

    『それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。』(2:24)

    ■現代社会において、結婚観がおかしくなってきています。同性間の結婚が認められたり、同棲の流行や、安易な離婚と再婚など、結婚観が軽薄になって来ているように思われます。そこで、聖書の結婚観についてみて行きたいと思います。
     聖書には人類史上最初の結婚が記されています。神様がアダムを『土地のちりで形造り、その鼻にいのちの息(神の霊)を吹き込まれ』(創2:7)ることによって、彼は神様と交わることのできる特別な存在になりましたが、ひとりだけでしたら、「愛」を学ぶことができませんでした。そこで神様は、彼の必要を満たす人格的存在としての『助け手』(18)を造られました。アダムのわき腹から女(エバ)を造り、彼の妻とされたのです。
     『それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。』(2:24)、これが聖書の結婚観です。
     「父母を離れ」とは、精神的にも経済的にも両親から独立することを教えています。
     「妻と結び合い」とは、夫婦が精神的にも経済的にも相互依存の関係に入ることを意味しています。
     「一体となる」とは、神が導かれる結婚という結びつきにおいて、全人格的に結合することを意味しています。
     イエス様は言われました。『もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。』(マタ19:6) マラキを通してこう教えておられます。『「わたしは、離婚を憎む。」とイスラエルの神、主は仰せられる。』(マラ2:16)


    (40)

    担当者:
     AK兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ノア」

    『ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。』(創世記6:22)

    ■神はご計画通り、洪水をもって当時の世界を滅ぼされた。その時ノアは600歳であった。500歳の時に神の声を聞き、あまりにも大きな箱の建造だったため100年を要したのであった。箱をつくるノアを通して神は『みことばを宣べられ…忍耐して待っておられた』(Tペテ3:19-20)のに、『人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりして…洪水が来てすべての物をさらってしまうまで』(マタ24:38-39)、神の警告を無視し、悔い改めを拒み続けていたのであった。ノアの家族だけが、神のことばを信じ、悔い改めて神に従っていたのであった。『(神の)ことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人』のようであるとイエスが言われたように、神のことばに従う決心をしたノアたち8人は、洪水の害を受けることはなかったのである。
     洪水によって神を無視した人間は一掃されたが、人の中に住みついた罪はいキリストの十字架による贖いのわざが成就するまでは、人を悩まし続けたのであった。農夫となったノアの醜態である(創9:21)。
     『神が御子においてあらかじめお立てになったご計画』(エペ1:9)が成就する三千年前の出来事であった。


    (39)

    担当者:
     TY兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「預言者」

    『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(Uコリント5:17)

    ■預言者とは「神の言(ことば)を預かる者」という意味であり、人間的な任命によってその働きに与ることはできませんでした。彼らは神によって直接選ばれ、召されなければならなかったのです。そして彼らは、神から命じられたことを、ことごとく民に告げなければなりませんでした(申18:18)。
     神は、ご自分の立てたご計画を預言者たちを通して明らかにしないまま、事を進めことはなさいませんでした(アモ3:7)。そのため、神が命じていないことを告げたり、偶像の神々の名を使って告げたりする者が現われた時は、その偽預言者は殺されなければならなかったほど(申18:19-20)、神のみことばを取り扱うことはいい加減ではありませんでした。
     旧約時代は、旧約の預言者たちを通して明らかにされた神のことばが、旧約聖書として1冊にまとめられ、新約時代は受肉された御子によって弟子たちに啓示されたことがらが(ヘブ1:1-2)、新約の預言者たちを通して1冊にまとめられ新約聖書とされたのです。こうして神のことばはやっと「完全なもの」(Tコリ13:10)となり、全世界の人々に届けられています。
     神を知り、信じ、従う者とされるために、あなたもお近くの教会に行かれ、聖書を具体的に学んでください。


    (38)

    担当者:
     KT兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「預言者」

    『まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。』(アモス3:7)

    ■預言者とは「神の言(ことば)を預かる者」という意味であり、人間的な任命によってその働きに与ることはできませんでした。彼らは神によって直接選ばれ、召されなければならなかったのです。そして彼らは、神から命じられたことを、ことごとく民に告げなければなりませんでした(申18:18)。
     神は、ご自分の立てたご計画を預言者たちを通して明らかにしないまま、事を進めことはなさいませんでした(アモ3:7)。そのため、神が命じていないことを告げたり、偶像の神々の名を使って告げたりする者が現われた時は、その偽預言者は殺されなければならなかったほど(申18:19-20)、神のみことばを取り扱うことはいい加減ではありませんでした。
     旧約時代は、旧約の預言者たちを通して明らかにされた神のことばが、旧約聖書として1冊にまとめられ、新約時代は受肉された御子によって弟子たちに啓示されたことがらが(ヘブ1:1-2)、新約の預言者たちを通して1冊にまとめられ新約聖書とされたのです。こうして神のことばはやっと「完全なもの」(Tコリ13:10)となり、全世界の人々に届けられています。
     神を知り、信じ、従う者とされるために、あなたもお近くの教会に行かれ、聖書を具体的に学んでください。


    (37)

    担当者:
     KT兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「詩篇119篇105節」

    『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』(詩篇119:105)

    ■詩篇には神への祈りが記録されています。神といっても、日本人が考えている八百万の神ではなく、天地万物を創造された神です(創1:1)。この神が、罪に墜ちた人類を救うための計画を立てられ、そのご計画を進めるためにユダヤ人を選び分けれられ、預言者を通してご自身を現わされましたが、このユダヤ人たちが神に応答し、神にささげた祈りが集められたのが詩篇です。
     今回の聖句に注目してください。「神のことばに目を向けなければ、私の人生は闇に包まれ、どこに向かって生きているかわかりません。神よ、あなたのみことばこそ、私が知るべき真理であり、私を導く道しるべであり、私の今を明るく照らしてくださる光です」、と感謝しているのです。
     私自身も人生に行き詰まり、先へ進めなくなった時、神のみことばによって教えられ、気付かされ、軌道修正させていただき、平安をいただいたことが幾度となくありました。あなたも聖書を通して神に出会われ、みことばを学ばれることをお勧めいたします。


    (36)

    担当者:
     AK兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「忍耐」

    『それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。』(ローマ2:4)

    ■忍耐について聖書を調べる時、あわれみに基づいた「神の忍耐」と、主とのくびきを負い続けようと決断した者に要求される「キリスト者の忍耐」の二つがあることに気付く。その中から今回は、神の忍耐について共に学び合いたいと思う。
     上記の聖句は、異邦人クリスチャンに律法を無理強いさせようとするユダヤ人クリスチャンに警告し、厳しく悔い改めを要求しているパウロの言葉である。ユダヤ人クリスチャンたちは初代教会時代に現われた偽教師の代表であった。
     律法はすでにキリストの十字架のみわざによって成就し(マタ5:17)、新しい契約としての福音が与えられているにもかかわらず、福音を信じるだけでは不十分と言わんばかりに、異邦人クリスチャンたちにユダヤ教への回心を迫っていたのである。
     そんな彼らに、パウロは語っていたのである。今は恵みの時、救いの日なのだから(Uコリ6:1-2)、神の忍耐を無視することなく、すなおに自分の愚かさを認めて悔い改めよと迫っているのだ。
     今もなお神に憐れみを乞うことの出来る時代が続いている。ひとりでも多くの罪人が、神の忍耐を信じて、救いを受けることができるように。


    (35)

    担当者:
     YN兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「創造者なる神」

    『神はお造りになったすべてにものを見られた。見よ、それは非常によかった。』(創世記1:31)

    ■私たち日本人は義務教育で進化論を学びます。しかしこれは科学的に証明された理論ではなく、仮説にすぎません。進化論の提唱者ダーウィンをはじめヘッケルやノーマンなどの進化論支持者たち自身が、この理論は捏造であったと告白しています。進化論には誕生の目的も生きる目的も、子どもの育て方も命の取り扱い方も漠然としていて、明確な考え方がありません。そのため進化論の教えそのものが、人を犯罪や自殺に走らせているのではないかとさえ思われるのです。
     一方聖書は、人間は創造者なる神によって人間として創造されたと教えます。気が遠くなるほどの長い時間をかけて作られた偶然の産物ではなく、神によって造られたのだと教えます(創世記1:27)。神によって造られた人間は、神に目を向けて生きる責任があります。イザヤ43章4節にある、私たちを親として愛しておられる神の愛を知り体験することによって、人は神を愛し隣人を愛する者へと変えらるのです。
     すべての人は神の最高の作品であり不要な人は一人も存在しないのに、神を見失ったまま生きるため、自殺や犯罪などの滅びに向かってしまうのです。ヨハネ3章16節には、だれも滅んでほしくないとの神の御思いが記されてあります。そのため神はご自分の御子を遣わされ、失格者であるすべての人の身代わりとされたので、罪を悔い改めて御子を救い主と信じる者は誰でも、滅びから免れ、永遠のいのちをいただき、新しい人生を始めさせていただけるのです。


    (34)

    担当者:
     YN兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ナアマン」

    『みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』(ヤコブ1:22)

    ■アラムの将軍ナアマンは、その主君から重んじられるほどの勇士であったが、ツァラト(らい病)に冒されていた。名誉ある軍服の下は重い皮膚病であった。心の底に罪が沈殿している罪人のようである。
     ナアマンの家にイスラエル人の若い女奴隷がいた。彼女が、「サマリアにいる預言者を通してツァラトを直していただけるでしょうに」と言ったので、ナアマンは王に書いてもらった手紙を持って預言者エリシャを訪ねた。彼はエリシャが出て来て手をかざし神の名を唱えて治してくれるに違いないと思い込んでいたのだが、実際には、エリシャは使いをやって「ヨルダン川へ行って7回あなたの身を洗いなさい」とだけ言わせた。神はエリシャを通して、力あるご自身のことばをナアマンに体験させようとされたのであったが、ナアマンは失望し、怒って帰国しようとした。
     その時、ナアマンのしもべたちが、「もしも、難しいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに身を洗ってきよくなりなさい、と言っただけではありませんか」と諭したため、ナアマンは行って神のことばに従ってヨルダン川に7回身を浸した。すると奇跡が起き、彼のからだは幼な子のからだのようになった。
     この出来事によってナアマンは、イスラエルのうちにまことの神がおられることを知った。大漁の奇跡の時のペテロのように半信半疑ではあったが、神のことばに従ったことにより神の力を目の当たりにしたのである。日常生活の中で、みことばを実行する歩みはどんなに幸いなことだろう。


    (33)

    担当者:
     KT兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「バプテスマのヨハネ」

    『悔い改めにふさわしい実を結びなさい。…良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。』(ルカ3:8、9)

    ■旧約最後の預言者マラキ以降イスラエルに神のことばは届かず、霊的暗黒時代となった。そんな中、前30年にギリシャ帝国が滅んで、ローマ帝国時代が始まる。その初代皇帝アウグストが税対策のための人口調査を命じたため、マリヤとヨセフはベツレヘムに上り、そのことによってミカの預言が成就してキリストはベツレヘムで誕生した。キリスト誕生より半年前に生まれていたバプテスマのヨハネは、救い主へと民を導く先導者としての使命に与った。彼は荒野で叫んだ。「イスラエルを救う神の約束が成就してメシヤが来られる。悔い改めてメシヤを迎えよ。」 彼こそ、イザヤを通して預言されていた『荒野に呼ばわる者の声』であった(40:3)。
     ぞくぞくと自分のもとへ集まってくる民衆に、ヨハネは厳しく教え、真の悔い改めを命じた。「悔い改めの実を結ばない者はみな切り倒される」(ルカ3:9)。ヨハネは、口先だけのいい加減な悔い改めを戒めたのである(ルカ3:7-14)。
     悔い改めとは、神に背を向けていた歩みから、神に向かって生きる歩みへと向きを変えることを意味しているが、それはパフォーマンスではなく、もう二度と同じ過ちは犯さない、と言う決断に基づいたものでなければならない。ここが曖昧なまま次の段階に進む者は、砂の上に建てた家(マタ7:26-27)と同じようになる。


    (32)

    担当者:
     TY兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ダニエル」

    『このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。』 (マタイ5:16)

    ■救われる以前の私たちは、自分に敵意を抱いている人に対して、良くしてあげることはできなかった。むしろ仕返しをしたくなった。罪が赦されていなかったからだ。バビロニヤ帝国に捕囚民として拉致されたダニエル少年も同じであった。彼はユダ部族の青年貴族の一人であったが、南ユダ王国に下った神のさばきにより、遠くバビロニヤ帝国に連れて行かれたのである。
     しかし、異教の地で辱めを受けながらも、神に対する彼の信仰は弱らなかった。彼は偶像に汚された食事やぶどう酒で身を汚すことを拒み、律法に基づいた食事で訓練期間を過ごすことを願い求め、許可された。神は、ご自分に忠実なこのダニエルを異教の地で用いられた。
     夢にうなされていたネブカデネザル王の前に彼を導き、王の見た夢を解き明かさせたのだ。国中の知者にできなかった夢の解き明かしを目の当たりにした王はひれ伏してダニエルに礼をし、そして言った。「あなたがこの秘密をあらわすことができたからには、まことにあなたの神は、神々の神、王たちの主、また秘密をあらわす方だ。」そして、王はダニエルを高い位につけて、バビロニヤ帝国の首都であるバビロン州全体を治めさせたのである。
     旧約の時代にダニエルを通してご自分の存在を現わされた神は、新約の時代においては、罪赦されたクリスチャンを通してご自身の存在を現わしておられる。聖く正しい行ないを輝かせて、世の人々に神の栄光を現わし続けようではないか。


    (31)

    担当者:
     YN兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「感謝」

    『すべてのことについて、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』 (Tテサロニケ5:18)

    ■感謝するって、だれに? 自分に良くしてくれた人がいたらその人には当然感謝しますが、正直言って神様に感謝するということは分かりませんでした。神様それ自体が分からなかったからです。でも、聖書を通して神様の存在を知り、神様がすべてをご存知であって、すべてを正しく導いてくださり、すべてを働かせて益に変えてくださると言うことを知り、信じることができるようになってからは、文字通りすべてのことについて感謝するという意味が、分かるようになりました。
     ローマ1:17に、『その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」』と書いてあります。「義」とは神との正しい関係のことです。神との正しい関係は、救い主に対する信仰が必要であるというのです。救い主を無視して自分の力と努力で神様との正しい関係を成立させるということは不可能だと言うのです。今はそのことが良く分かります。なぜなら私はどうしようもない罪人だからです。そんな罪にまみれ、自分勝手に生きていた私を救い出すために、天から来られたイエス様は、十字架の身代わりの死と復活を通して、罪人を救う福音を成就してくださった。このことを、日曜学校や福音集会やパン裂き礼拝や学び会などで、少しずつ教えられ理解できるようになりました。
     ローマ14:6には『なぜなら、神に感謝しているからです』とありますが、神様を信じていないなら自分に都合の良いことしか感謝できないでしょう。でも『キリストの平和』(コロ3:15) すなわちキリストにある平安を実感できるなら。『あらゆる場合に』(ピリ4:6-7)とパウロが言うように、自分にとって都合が悪くても神に感謝することができるようになるのです。
     『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。』(Tテサ5:16-18) このように日々を生きる者へと変えられること、それが救いです。


    (30)

    担当者:
     KT兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「聖別」

    『神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。』(Tテサロニケ4:3-7)

     聖別とは、神の聖なる働きに与るために、神を拒絶している世の汚れから引き離されることを言います(レビ11:45)。すべての被造物は、創造者なる神によって造られ、人が管理するように定められたのですが(創1:28)、人の初めであるアダムとエバがサタンの支配下に入ったことにより、被造物すなわち世もまたサタンの手に任されることになりました(ルカ4:6)。
     サタンに汚されているこの世から完全に分離しておられる神は、人間が罪から贖われて聖くされ、神との交わりの中で、さらに罪との関係を断ち切り、具体的に聖なる存在となることを願っておられます(Tテサ4:3)。それは、救われてクリスチャンとされても、慣れ親しんできた世の影響は強く、汚れた言葉使いや行動が出てくるからです。
     世に未練を残していると、サタンの誘惑に負けて罪を犯してしまいます。だからこそ私たちは、聖められ続けなければならないのです。


    (29)

    担当者:
     AK兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ダビデ」

    『神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。』(詩篇51:17)

    ■ダビデの家系を通して、神の祝福は全世界に注がれると聖書に啓示されていました(Uサム7:12-13)。そして時が満ち、御使いガブリエルがガリラヤのナザレに遣わされ、ダビデの血を引く処女マリヤに受胎告知をしましたが、このマリヤを通して生まれたイエスにおいて、ダビデに与えられた約束は成就したのです。
     ところで、サウルが死んで後、30歳で王位についたダビデは首都をエルサレムに移しますが、自分のための王宮はあっても、神の箱が天幕の中にあることを悲しみ、神殿を建設する計画を立てます。しかし、神のご計画により、神殿建設の働きはその子ソロモンにゆだねることになります。
     さて、ダビデの生涯において消し去ることの出来ない最大の汚点が歴史に刻まれました。人妻バテ・シェバとの姦淫とそれを隠すための謀殺が行なわれたことです。預言者を通して罪を暴露されたダビデは、心から悔い改めて神の赦しは得ますが、彼の罪の結果は他の人の上に置かれることが示されました(Uサム12:10-12)。詩篇32篇と51篇は、この時の自身の罪による苦しい経験から生まれたものです。
     ダビデの生涯を振り返ると、彼は心を込めて神の道に歩み、偶像宗教の諸国に囲まれる中で、信仰に堅く立とうとしました。どのような場合にも祈り感謝し賛美して、神に真っ直ぐに進んで行きました。彼の2つの偉大な功業は、王国の確立と詩篇の編集と言えるでしょう。


    (28)

    担当者:
     KT兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ニコデモ」

    『あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。』(ヨハネ3:7)

    ■パリサイ派の教師でユダヤ人指導者の一人でもあったニコデモは、自分が死後に神の国に行けるという確信がなかったため、神の国について民衆に話しておられたイエス様に尋ねようと思った。しかし、ユダヤ人の目を恐れていたので、夜こっそりとイエス様の宿泊所のほうに出かけて行った。
     イエス様に挨拶をしていると、すでに彼の心を見抜いておられたイエスは、「真実を言います。人は、新しく生まれなければ神の国に入ることはできません。」と教えられた。よく理解できなかったニコデモに、イエス様は続けて教えてくださった。「人は、水(神のことば)と御霊(の取り扱い)によって新しく生まれなければ、神の国に入ることはできません。生まれたままの状態(Tコリ2:14)では御国に入ることは不可能なのです。」
     ニコデモは、この夜の語らい以降イエス様の弟子となった。しかしユダヤ人を恐れていたので、そのことをずっと隠し続けていたが、イエス様の逮捕から十字架の死に至るまでを目撃したした彼は、自分が主の弟子であることを公にして、イエス様の埋葬の時、その働きにあずかったのであった。
     私たちもニコデモのように、初めのうちは人間的にしかイエス様を理解できないかもしれないが、集会で聖書を学び続けるなら、少しずつその霊的な意味が分かるようになり、新しく生まれるという体験が導かれるはずである。集会に来られて聖書を学んでください。


    (27)

    担当者:
     TY兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ゆだねる」

    『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』(詩篇55:22)

    ■幼い子どもは親に頼りきりだ。親に依存しなければ生きていけないのだから当然のことだ。ところがこの幼児期に親から正しくしつけられ訓練されることがどれほど重要かを、深く認識している親がどれほどいるだろうか。親から愛情を持って訓練される子どもは、幸いである。
     幼児期から少年期、青年期へと成長し、いずれ親離れして社会人となると、想定外の様々な問題と対峙しなければならなくなる。日本では毎年3万人を超える自殺者が出ているが、その原因や動機も様々で、健康問題や経済問題、家庭や職場や学校での人間関係などがあるが、同じような状況に追い込まれた時、はたして私たちは大丈夫だろうか。
     「天にいます私たちの父よ。」(マタイ6:9)、と呼びかけて祈り始めなさいとイエスは言われた。天地万物を創造された神のことを、親しみを込めて「父よ」と呼ぶことのできるすばらしい関係の中に、私たちは招かれている。そのために救い主として世に来られたお方がイエスである。
     人生の中で様々な問題に押し潰されそうになる時、「天の父」から教えられ、助けられ、軌道修正させていただける新しい人生がすでに準備されているのだ。あなたも聖書を通して、あなたのたましいの父であられる神を知ることができ、人生を新しくされますように。


    (26)

    担当者:
     KT兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「アブラハム」

    『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』(詩篇119:105)

    ■福音集会で、アブラハムについて聞かれたことがおありのことと思います。創世記11〜25章に記されてあります。ところで、私には疑問に思う個所がありました。アブラ(ハ)ムが神から、「わたしが示す地へ行きなさい」(創12:1)と命じられた時、どうして疑うことなく、すぐに出かけることができたのかという点です。
     答えは「信仰」でした。でも、私はクリスチャンになる前、信仰について何も知りませんでした。そのためアブラハムの行動が理解できなかったのです。集会に集って、聖書から教えられ、学び続けるうちに、神とはどんなお方か、罪とは何か、救いとは何か、信仰とは何かなど、それまで知らなかったことを少しずつ知るようになりました。今は、アブラハムがすぐに出かけた理由が良く理解できます。
     ところでアブラハムに命じられた神は、この前にノアにも命じておられました。ノアの箱舟の出来事です。ノアが神との正しい関係を保っていたので(創6:8)、神はノアに語られたのです。同じようにアブラハムも、信仰によって神との正しい関係を保っていたので、神から語りかけられ、彼は神に応答することができたのです。
     実は、創世記12章1節で命じられる前にも命じられていました(使7:2)。それは「メソポタミヤ(偶像礼拝の発祥地)から出ること」でした。その次の段階として、「父の家から出ること」(創12:1)が命じられているのです。
     信仰とは、神の語りかけに応答し、一切をお任せして神のご命令に従うことです。みなさんも聖書を学ばれて、神の語りかけを、まず知ることができますように。



    (25)

    担当者:
     YN兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ヨナ」

    『わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。』(ヨナ4:11)

    ■ヨナは神様の命令に逆らいました。臆病だったからではありません。イスラエルを救いたいと言う間違った愛国心によるものでした。ヨナが神様から与えられた命令は、大敵アッシリヤ帝国の首都ニネベの住民に悔い改めのメッセージを伝えることでした。しかし、ヨナはニネベなんか滅んだらいいと思っていたのです。一方、あわれみ深い神様は、暴虐に満ちたニネベの滅びを悲しまれ、滅びから救われるチャンスを与えようとされたのです。
     ヨナが乗り込んだ船にストップをかけるように、神様は嵐を起こされました。船が沈みそうになったため船の乗組員が、ヨナの信じる神様にあわれみを乞いながら、ヨナを海に投げ込んだその瞬間、嵐が止んだので、目撃した乗船者はみな、ヨナの信じる神様を恐れました。
     海底に沈んでいく恐怖の真っただ中で、ヨナが心から神様に悔い改めると(2:2-5)、神様は大きな魚を備えてヨナを救ってくださいました。3日後に大きな魚の口から陸に吐き出されたヨナは、ニネベに行き神様のことばを取り次ぎました。ヨナのうわさが広まっていたニネベの住民は、神様を信じ心から悔い改めました。すると神様は下すと言っておられたわざわいを思い直されたのです。ヨナはしばらく不満でしたが、ニネベの人々をあわれまれた神様のお心をヨナは教えられたのです。
     ひとりでも多くの方が、ニネベの人々のように心から悔い改めて、神に立ち返られますように。


    (24)

    担当者:
     YN兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ローマ5章8節」

    『しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私に対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(ローマ5:8)

    ■罪人とは罪を犯してなるのではなく、罪ある者として母の胎内に宿り、罪ある者として世に生まれ、罪ある者として世を生きているすべての人のことなのです。言い換えると、罪人でない人はだれひとり存在しないと言うことです。
     罪とは、神を無視して自分の好きなように生きようとする悪の力であり、その罪の始まりは人祖アダムにまでさかのぼります。「ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が全人類に広がった」(ロマ5:12)と書かれていますが、ひとりの人、すなわち人祖アダムです。アダムがエバとともに神との約束を破いた瞬間罪が入り、罪によって死(神との断絶)が全人類に広がったのです。罪に汚染された人類はエデンの園を追放されましたが、神は人類を永遠に追放されたのではありませんでした。エデンの園から追放する直前に、神は永遠の救いの計画を明らかにされたのです(創3:15)。
     「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちのために生まれる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」(イザ9:6)と預言されていますが、ひとりのみどりごとはメシヤとして誕生される主イエスのことです。ここにある4つの名はいずれも神ご自身であることを示しています。イエス・キリストは受肉された神ですから、このお方には罪がありません。このお方が世に来られたのは、私たち全人類の罪を負い、私たちの身代わりとなって罪の刑罰を受け、信じる者のために救いの道を備えるためでした。「ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです」(ロマ5:19)とありますが、ひとりの従順とは主イエス・キリストの十字架のみわざ(ピリピ2:8、Tペテ2:22-24)のことです。
     このことにより、自分の罪を認め悔い改めへと導かれた私の罪も、永遠に赦されたのです。何という、驚くばかりの恵みでしょう。罪に完全支配されていた罪人の私に対し、神はご自身の愛をこれほどまでに明らかにしてくださったのです。
     「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハ3:16)。栄光のからだに変えられるための永遠のいのちが、私に与えられていることを覚えて、心より感謝いたします。


    (23)

    担当者:
     TY兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「イエスの母マリヤ」

    『それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。』(ルカ2:51)

    ■イエスの母マリヤほど、母親としての特異な経験を持った人は他にはいない。その経験はマリヤしか味わうことができなかったものだ。なぜなら、人となられた神の誕生から死までの全てを見届けたのだから。
     マリヤは、ナザレという田舎で生まれ育った。ある日マリヤに御使いが現われ、神によってあなたは身ごもると告げられた。そして翌年、約束通りマリヤはみごもり、イエスを生んだ(ルカ1:30-33、ルカ2:7)。彼女はイエスの成長を見守り(ルカ2:51)、成人されたイエスと行動をともにし、多くの弟子や群衆に語るイエスの教えを聞き、水をぶどう酒に変えたり、病人をいやすなどの多くの奇蹟を、マリヤも近くで目撃したのである。
     イエスが十字架にかけられ処刑される場にマリヤは立ち会ったが(ヨハネ19:25)、親が自分の子の壮絶な死を見届けるということがどれほどのものか、私には量り知ることができない。
     マリヤはイエスの全生涯を見て何を思っただろう。普通、親は子の長所も短所も、良い面も悪い面も知るものだが、マリヤがイエスの生涯に見たものは、罪も汚れもなく、愛に満ちた聖い生涯ではなかっただろうか。このイエスこそ、人の姿をとってこの世に来られた、まことの神、救い主であった。


    (22)

    担当者:
     YN兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ステパノ」

    『こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」』(使徒7:59)

    ■ステパノは、初代教会時代最初の殉教者です。彼は12使徒を助けるために選ばれた、信仰と聖霊と神の知恵に満ちた評判の良い兄弟たち7人の筆頭に挙げられている人物です(使6:1-5)。
     熱心に福音を宣べ伝える彼に対し、リベルテンの会堂に属するユダヤ人たちがやって来て議論しましたが、知恵と御霊によって語る彼に対抗することはできませんでした。そこで、多くの人を扇動してステパノを逮捕させ、偽証人まで立てて最高議会の場で糾弾したその時(使6:13‐14)、大祭司から弁明の場を与えられた彼は、アブラハムから初代教会に至るまでのユダヤ人の歴史をたどりながら説教しました。
     その中で、神に対するユダヤ人の反逆(使7:39-41)と神殿第一主義の間違いを指摘し(使7:44-50)、律法主義に固執することによって、預言されていた救い主イエスを裏切り殺す者となったと語ると(52)、人々は激怒し、大声で叫びながらステパノに殺到し、町の外に追い出して、彼を石で打ち殺したのです。
     ステパノは死ぬ直前、「主イエスよ。私の霊をお受けください」と祈り、大声で「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と叫びました。このステパノの説教と祈りをまぢかで聞いていた人物がいました。サウロ(後のパウロ)です。彼は律法主義者グループのパリサイ派に属し、その中心人物でしたが、この時のステパノの説教の内容と祈りの言葉が彼の心に響いたのではないかと思います。
     この後サウロは顕現されたイエス様に会い、「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」(使26:24)という言葉を聞きます。神のみこころに逆らうことは自分を傷つけることに他ならない、と悟らされたのです。サウロは罪を認めて悔い改め、主イエスを信じる信仰へと導かれましたが、ステパノのメッセージと祈りが、パウロの心を開かせたに違いありません。
     私もステパノのように、神に栄光を帰す人生を歩ませられたいと強く思っています。


    (21)

    担当者:
     AK兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「悔い改め」

    『神は…今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。』(使徒17:30)

    ■悔い改めを抜きにした信仰はあり得ない、と聖書は語っているが、この悔い改めの重要性が、今日軽んじられているのが現実である。伝道者は未信者に向かって、彼らが失われており救い主を必要とする者であることをあまり示そうとしない。ただキリストを受け入れて信じるようにと、安易な呼びかけを繰り返すだけだ。悔い改めこそが、旧約の預言者たちが伝えた使信であり(申30:10、エゼ18:32)、バプテスマのヨハネの説教の中心であり(マタイ3:2)、五旬節の日のペテロの説教の主要点であった。どの時代にあっても、悔い改めが、常にメッセージの中心であった。  なぜなら、悔い改めこそが人間に求められている救いの絶対条件だからである。『罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』(ルカ24:47)と、昇天直前にイエス様が教えられた通りである。すなわち救われてから悔い改めるのではなく、悔い改めることによって救われるのである。  真の悔い改めは神に対する信仰の中で導かれ、神からの賜物として与えられるものである(使11:18)


    (20)

    担当者:
     KT兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「Tペテロ 5章7節」

    『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです』(Tペテロ5:7)

    ■ペテロがこの手紙を書き送ったころ、初代教会に対するローマ帝国の迫害は激しさを増していました。
     ペテロは書きました。「神はあなたがたの苦しみ悩みのすべてをご存知なのですから、あなたがたは感情に支配されることなく、いっさいを神にゆだねなければなりません」と。
     では、神にゆだねるとはどういうことでしょう。それは何より、敵に仕返しをしないということです。すなわち争わないことです。そして同時に神に対しては、「あなたのご計画を進めてください」と祈ることなのです。仕返しは、争いの悪循環をエスカレートさせるだけで、何の解決にもなりません。
     かつてペテロも、敵に対して剣を振り回した時、イエス様から「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」と注意されことがありました(マタイ26:52)。
     神はすべてを働かせて益としてくださる方ですから(ロマ8:28)、そのことを信じてゆだねるのです。あなたも聖書を通して、このすばらしい神がおられることを知ってください。


    (19)

    担当者:
     YN兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ローマ6章23節」

    『罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』(ロマ6:23)

    ■「死」とは、神との断絶のことです。『自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至る』(ロマ6:16)とあるように、神を無視し続けて罪の支配下に留まるなら、地上で創造者であられる神に出会えないばかりか、死後も永遠に会えない闇世に行かなければならないのです。神を拒んで自分を誇り、欲望の奴隷となって生き続けるなら、『自分の罪の中で死』ぬ(ヨハ8:21)のです。
     この世の者である私たちが、イエス様がおられる天に帰る道はただ一つ。自分の罪を認めて悔い改め、イエス様こそ約束されていた救い主であると信じることです。それを知る正しい知識は、聖書の中にしかありません。
     ところで、ローマ6:6にある『罪の奴隷でなくなる』とは、罪を楽しめなくなるという意味です。これが自覚できたとき、「従順の奴隷」としての歩みがすでに始まっている証拠なのです。ローマ6:11に書かれてある『神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者』となっているのであり、『神のくださる賜物』である『永遠のいのち』が与えられていることを知るのです。


    (18)

    担当者:
     TY兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「詩篇23章1節」

    『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。』(詩篇23:1)

    ■ヘブル人の衣食住は、多くの点で羊に依存していました。羊の毛・皮・角・乳・肉など、生きるために必要な多くのものを羊から受けていたのです。羊はまさに最高の財産でした。そのため、聖書には羊についての記事が多く記されています。
     羊には、敵と戦う角も牙も爪もないため、生きていくためには羊飼いの庇護が不可欠です。しかも、山羊のように嗅覚の発達している動物ではないため迷子になりやすく、羊飼いに先導してもらわなければなりません。
     イエス様はご自分のことを「良い牧者です」(ヨハネ10:11)と言われました。自分の欲のために羊を利用するだけの悪い羊飼いもたくさんいたのです。それに比べてイエス様は、羊のように弱く迷いやすい人間を、命がけで愛し守り、養い導いてくださる、優しく力強い誠実な羊飼いです。
     そんなイエス様に人生を導かれる者は幸いです。自分がどこにいるのか分らない迷子の羊のような状態から救い出され、悪へと誘惑する悪魔からねらわれている危険から守られ、確信のない不安定な歩みから引き離され、必要以上を求めようとする貪欲な思いから解放される者は幸いです。
     ひとりよがりな人生の中で傷つき続けるような悪循環の歩みに終止符を打ち、まことの牧者であられるイエス様に助けを求めてください。このお方は、あなたの人生を新しく変え、あなたにとって真の必要を満たしてくださるお方なのです。


    (17)

    担当者:
     YN兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「罪」

    『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』(ヘブル12:2)

    ■罪とは犯罪を犯すことだと思っていましたが、聖書が言う罪とは、創造主なる神を無視して生きることだと教えられました。罪の原語ハマルティアは「的を外す」と言う意味です。神を見失ったまま生きること、それが罪なのです。
     神との愛の交わりのために創造された人間は罪のない状態でしたが、堕落天使である悪魔が、神のようになろうとエデンの園に忍び込み、最初に造られたアダムとその脇腹から造られたエバを誘惑したのです。目的は、二人を自分の支配下に置くことにより、自分が神の権威の上に立つことでした。
     悪魔にそそのかされたエバが最初に神との約束を破り、アダムにも約束を破るように勧め、二人とも第1にすべき神を裏切り、的を外してしまったのです。エバは神の約束の言葉をしっかり覚えていなかったことにより、約束をじかに聞いていたアダムはエバを制止することを怠ったことにより、二人とも神のことばを捨てて悪魔の言葉に従ってしまったのです。この瞬間から、人間の中に罪が入り、全人類に広がったのです。
     しかし神は、ピレモンへの手紙15節に記されているように、完全な救いを与えて(創3:15)、人類をご自分のもとへ迎え入れるすばらしいご計画を立ててくださったのです。
     人は罪を犯して罪人になるのではなく、罪人だから罪を犯すのです(ロマ7:20-21)。私も自分が罪人であることをはっきりと自覚することができました。信仰告白が導かれて救いを体験したにもかかわらず、神様を無視すると、高慢になり、自分を自慢し、自己中心の思いとなって、色々な欲に負けてしまいます。ローマ7:17-19に書かれてある通りだと実感しました。
     私の内に住み着いている罪。ここから誰が救い出してくれるのでしょう。罪のない神の御子イエス・キリストです。このお方から目を離してはならないことを、私は繰り返し教えられています。


    (16)

    担当者:
     KT兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ヨハネ3章3節」

    『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』(ヨハネ3:3)

    ■老齢のニコデモは、神の国に入るにはどうしたらよいのかイエス様から教えていただくために、人目を避けて、夜こっそりイエス様のもとへやって来た。するとイエス様は、「そのためには新しく生まれなければなりません」と教えてくださったが、ニコデモにはその意味がよく解らなかった。イエス様はニコデモに、人間の側の条件ではなく、神が求めておられる条件があることを示されたのである。
     神の国に入るには、新しく生まれなければならないとイエス様は教えられた。どんなに一生懸命に求道し、神の教えを聞き、聖書を学んで知識を蓄え、聖書が要求する善行を行なう努力をしたとしても、自分の罪に気付かず、心から罪を悔い改めることができなければ、新しく生まれることも、神の国を見ることもできないのだ。
     聖書のみことばに隠されている真理を教えられ、みことばによってあなたの心の中を照らされ、神に対する自分の罪深さに気付かされ、神の御前に心から自分の罪を悔い改めることが導かれる時、あなたの罪はイエス・キリストの十字架の死のゆえに永遠に赦され、無罪とされ、永遠のいのちが与えられ、神の国に入る者へと変えられるのである。


    (15)

    担当者:
     TY兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ヨナ書」

    『わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。―神である主の御告げ― だから、悔い改めて、生きよ。』(エゼキエル18:32)

    ■預言者ヨナは、敵国アッシリヤの首都ニネベの人々に悔い改めのメッセージを伝える使命を神様から託された時、あんな暴虐に満ちた国は滅んだほうがましだとばかり、反対方向のタルシシュ行きの貿易船に乗り込み、神様から逃げて行った。そんなヨナに、すべての人間を愛される神の愛を教えるため、神様は嵐を起こされ、ヨナの行く手を阻まれたのであった。
     すると転覆の危機から回避しようと必死になった船の乗組員によってくじが準備され、嵐の原因となる人物を探し出すとそのくじはヨナに当たった。人々が申し訳なさそうにヨナをかかえて海に投げ込むとその瞬間、なんと嵐がピタッと止み、人々はヨナの信じる神を恐れた。
     海に投げ込まれ海ぞこに沈んで行く死の恐怖の中で、ヨナは自分のわがままを認め、心から神様に悔い改めた。すると神様は大きな魚を備えてヨナを飲み込ませ、救助されたのである。ヨナはそれから3日後に陸地に吐き出され、再び同じ使命を託された時、すなおに神に従いニネベに向かった。
     死んだものと思われた預言者ヨナがニネベに現われた時、人々は恐れおののいて、ヨナの語るメッセージをすなおに受け入れ、心から悔い改めた。そのことが王様の耳にはいると、王様は布告を出し、国を挙げて熱心に悔い改めさせたのである。このようにして国を挙げて悔い改めたニネベを、神様は赦してくださった。  神様はヨナに言われた。「わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。右も左もわきまえない12万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(4:11)
     ご自分の民イスラエルの敵であり、律法を知らない異邦の民であっても、神様が造られた一人一人である。彼らにも悔い改めのチャンスを与えたいと、神様はいつも思っておられたのだ。


    (14)

    担当者:
     YN兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「パウロ」

    『私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。』(Tテモテ1:13)

    ■キリキアのタルソ生まれのパウロはきっすいのユダヤ人で(ピリ3:5)、パリサイ派の厳格な教育を受け、「律法による義についてならば非難されるところのない者」と呼ばれるほど律法に熱心な者でしたので(同6)、律法を軽んじるように見えるイエスの弟子たちに対しては激しく憎悪し(使9:1)、彼らを徹底して滅ぼそうとしたのでした。
     ところがある時、信者を罰するためにダマスコ近くまで来た彼は(使26:11)、天からの強い光に照らされて地に倒れ、自分の名を呼ぶ声を聞きます。「あなたはどなたですか」と彼が尋ねると、「あなたが迫害しているイエスである」とのお答え。光で目が見えなくなったパウロは、その声に導かれるままダマスコに入り、主の弟子アナニヤと出会うと再び目が見えるようになりました。彼は立ち上がってバプテスマを受け、数日間ダマスコの弟子たちと交わりの時を持ちました。それから3年間、誰もいないアラビヤ地方でひとり神と交わり(ガラ1:17)、それから立ち上がってユダヤ人にも異邦人にも御子を宣べ伝え始めたのでした(使26:20)。
     主に出会う前のパウロはパリサイ派の教えに全力投球していましたが、復活の主に出会い(Tコリ15:8)、悔い改めて救われ、主から教えられて、「律法の行ないによっては誰も義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によってのみ義と認められる」(ガラ2:16)、という真実を知ってからは、文字通り命がけで福音を語りました。彼はやっと、主のあわれみのうちに、真理に会えたのです。


    (13)

    担当者:
     YN兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「種蒔きのたとえ(マタイ13:1-13)」

    『別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。』(マタイ13:8)

    ■種蒔きのたとえが、3つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に書かれていることに驚きました。これは、忘れてほしくない大切なことが書かれているからではないかと思いました。
     たとえで話されたあと、イエス様は弟子たちにそのたとえを説き明かされました。種はみことばで、種蒔きは福音宣教のことで、種が蒔かれた場所は、4箇所に分けられるということでした。
     1つ目の道ばたに落ちた種は、鳥が来てすぐに食べられます。みことばが話されてもサタンが邪魔をして、そのみことばを心から取り除くのです。
     2つ目の岩地に落ちた種は、すぐに芽を出すのですが日に焼けて枯れます。みことばに興味を持つだけで、信仰がないため、みことばのための困難や迫害が起こるとつまづいてしまうのです。
     3つ目のいばらの中に落ちた種は、いばらに塞がれて枯れてしまうのです。古い肉の性質によって実を結ぶに至らないのです。
     4つ目の良い地に落ちた種は、百倍、六十倍、三十倍の実を結びます。石が取り除かれ、いばらの影響もないので、みことばに基づいた良い実が豊かに結ばれるのです。
     ところでイエス様は「耳のある者は」と注意を喚起しました。これは信仰の耳のことです。イエス様は信仰を持って聞きなさい。そうすればさらにみことばが与えられますが、信仰を持たずに聞く者は与えられていたみことばさえも失ってしまう、と教えられたのです。
     最後にイエス様はたとえで話す理由を話されました。それは信仰を持って聞いているかどうかを自分で吟味するためです。
     このたとえは私にとって耳が痛い話です。自分の信仰の薄さを痛感したからです。さらに信仰を強められ、求め続け捜し続け叩き続けて、悔いるだけではなく、改める段階へと引き上げられなければならないと教えられました。


    (12)

    担当者:
     AK兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「マタイの福音書11章28節」

    『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』(マタイ11:28)

    ■私たち人間には、犯した過去の過ちを正す力はありません。十字架によって一方的に赦される以外に、たましいに休息を得る方法はないのです。だからこそイエス様は、全世界の人々に招待状を送って言われるのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」と。
     罪の恐ろしさを本当に知った者は、十字架を仰ぎ、切に赦しを求めます。そして、神のみこころに従って生きる真の幸いを認めることができるのです。
     イエス様が「わたしのところに来なさい」と言われたのは、信条や著名な聖職者のところにではなく、生きておられるこのお方の元にです。
     自分に罪があることを認めた者はイエス様の元に急ぎ、イエス様から休息を与えられ、深く癒しがたい傷を癒していただきます。そして、悔い改めて無罪とされた者は、神から再び問われることはないのです。


    (11)

    担当者:
     KT兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ノア」

    『そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。』(創世記6:13)

    ■地上に人が増えていくと、信仰が回復されていたエノシュの子孫が、不信仰なままのカインの子孫と混ざり合うようになった。雑婚により、神の子らと呼ばれていたエノシュの子孫から信仰が消え、人類全体がひとかたまりとなって自滅に向かい始めた。
     そこで神は、全人類が地上から消滅することがないように、さばきを下すご計画を立てられた。
     そのために選ばれたのが、神への信仰を保っていたノアであった。神のご計画を知ったノアは、神から命じられたとおりに行動し、100年かけて箱舟を造り、人びとに神からの警告を証した。
     罪に汚染された世が、神の介入なしに回復することはありえない。罪ある私たちもまた、神の介入を受け入れなければ、自滅するしかなかった一人ひとりである。神の御声を聞き、神のご計画を学び、神から与えられる使命の道を、ノアのように忠実に生きる者でありたい。


    (10)

    担当者:
     AK兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「ペテロ」

    『イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」』(マタイ16:23)

    ■私は、剣の道「居合道」を学ぶにあたって岐路に立たされたことがありました。ペテロを戒められた主イエスのことばに戸惑いを感じたからです。『剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。』(マタイ26:52)ということばです。しかし剣を武器として用い、人を殺傷することを目的としたものではなく、日本刀を用いて抜刀から納刀までの諸作法をスポーツとして自己修練するものであるので、これを学ぶことに恥じることはないと思い、その道に入りました。
     さて、偶像礼拝の盛んなピリポ・カイザリヤ地方で、イエス様から「人々はわたしのことを預言者のように言っているが、あなたがたはどう思いますか」と弟子たちが尋ねられたとき、その代表として最年長者ペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです」と答えたことがマタイ16章13-20節に記されてあります。そのときイエス様は、「その信仰告白は人間の知恵によるものではなく、神からの啓示によるものです」と教えられて、イエス様との交わりを通して聖霊が取り扱ってくださった結果であることを明らかにされました。さらに続けて、「その信仰告白を土台として、わたしは教会を誕生させます」と教えてくださいました。
     そころで信仰を言い表したとき、「あなたは幸いです」とイエス様からほめられたペテロでしたが、すぐその後で大失態をさらしてしまいました。受難予告をされたイエス様をたしなめたのです。
     ほめられたときは、高慢の罠にはまらぬように最善の注意をする必要があることを、この失敗をしたペテロから教えられます。


    (9)

    担当者:
     YN兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「マタイの福音書6章33節」

    『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさいそうすれば、それに加えて、それらのものはすべて与えられます。』(マタイ6:33)

    ■「だから」とあります。前節の「天の父はそれがみなあなたがたに必要であることを知っておられる」という理由によるもので、「野の草にさえこれほどまでに装ってくださる神様が、どうしてあなたがたによくしてくださらないわけがありましょう」、という事実に目を向けさせています。
     さらに、「神の国を求める」とは神様のご支配の中で生きることで、「神の義を求める」とは神様の正しいさばきにお任せすること、「第一に求める」とはそれを最優先するということです。
     ところが私の中には、神様よりも自分が一番になりたいという思いがまだ残っており、一切を委ねることができない時があります。でも感謝なことに、ヤコブ1:5に「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます」という約束がありますので、このことを信じ、神様に期待して前進していこうと思います。


    (8)

    担当者:
     KT兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「放蕩息子」

    『こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。 』(ルカ15:20)

    ■父から財産を受け取るとすぐにお金に換え、自分のことを知らない遠い国に出かけて行って、そこですべてを使い果たしてしまった息子のお話しが、聖書に記されています。
     無一文になり、だれからも助けてもらえず、まさに飢え死にしそうになったその時、彼はやっと我に返り、反省します。「ああ、私は天に対して罪を犯し、父に対しても罪を犯してしまったんだなあ」。
     彼が恥をしのんで父のもとに帰り、雇い人の一人でもいいからあなたのそばにおらせてください、と言葉を準備してきたのですが、父はボロボロになって帰ってきた息子を見つけると、不憫に思い、走り寄ってすぐに彼を抱きしめます。どんなに哀れな姿になろうと、お前はわたしの子に変わりはないのだと、反省して、自分を頼って帰って来た息子を、父は有無を言わさず受け入れたのです。
     多くの方が、この話を聞いて共感しています。自分がこの息子と重なるからでしょう。聖書を通して、神の存在と神の愛を知ってください。そして神があなたに望んでおられる人間関係のあり方を、聖書から学んで残りの人生を歩んでください。


    (7)

    担当者:
     TY兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「迷子の羊」

    『あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。』(ルカ15:4)

    ■デパートや遊園地で迷子のアナウンスが流れることがあります。不安な子どもと心配な親。そんな2人が再会したとき、親子の間に愛があふれる瞬間です。
     イエス様が迷子の羊のお話しをなさったことがありました。100匹の羊のうち1匹が迷子になったお話しです。羊飼いは必死で捜すのですが見つかりません。99匹は雇い人に任せて、羊飼いは見つけるまで捜す覚悟です。99匹も残っているのだから1匹ぐらい居なくなってもいいじゃないかとは思いません。どの1匹もかけがえのない愛の対象だからです。しばらくして、やっとの思いで捜し出したとき、羊飼いと羊の間に愛があふれる瞬間です。
     「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」とイエス様が言っておられます(ヨハネ10:11)。イエス様は、私たち一人ひとりをかけがえのない愛の対象としてご覧になっておられるお方です。しかし私たちはイエス様のことを知りませんでした。イエス様を遣わしてくださった神様のこともわかりません。そのため得体の知れない不安を感じながら私たちは生きています。人生に確信がないため人間関係で傷つき、心の中から血を流すこともあります。私たちは迷子の羊なのです。
     そんな私たちを、イエス様はずっと捜し続けておられます。私たちを叱るためではありません。私たちをその状態から救い出すためです。あなたが、迷子である自分に気づくなら、あなたにもイエス様の愛の声が聞こえるはずです。そしてあなたは、イエス様を通してあなたのたましいの父であられる方のもとに帰ることができるのです。その時こそ、神さまとあなたとの間に愛があふれる瞬間です。


    (6)

    担当者:
     YN兄

    所属集会:
     鹿児島キリスト集会


    「山上の説教」

    『この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。』(マタイ5:1-2)

    ■イエス様は群衆を見ると山に登られました。山は騒がしい人里から離れているため、神を思い、静かに主と交わることができる最適な場所でした。イエス様はそこで、天の御国に召された者はどう生きるべきかを教えてくださいました。
     5:3-12には八福の教えが語られ、神の祝福が約束されています。「心の貧しい者」とは、自分に絶望し神なしでは生きていけないと実感している謙遜な者のことで、神との交わりをいつも切望しています。「悲しむ者」とは、自分のうちに罪の性質があることをすなおに認め悲しむ者のことで、そのような者を神は深くあわれみ慰めてくださいます。「柔和な者」とは、自己主張をせずに従順に神に従う者のことで、主とのくびきを求めるので御国を相続させていただけるのです。「義に飢え渇く者」とは、神の正しいさばきを求める者のことで、神の義について豊かに学ばせられます。「あわれみ深い者」とは、悔い改める者を心から赦せる者のことで、主のあわれみをさらに味わいます。「心のきよい者」とは、二心がなく金銭欲を捨てた者のことで、神を第一に考えて行動します。「平和をつくる者」とは敵に対して仕返しをしない者のことで、イエス様が歩まれたように歩みます。「義のために迫害されている者」とは、神に従うゆえに迫害される者のことで、神との苦しの共有を喜んでいます。この世で御国の交わりを味わっているゆえの喜びです。


    5

    担当:
     浜内 諭兄

    所属:
     静岡県
     三島キリスト福音集会


    「行列のできる集会」

    『私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。』(Uコリント4:7)

    ■今年の6月、東京・銀座に長蛇の列が出現。銀座に店舗を構えるフランスの老舗ジュエリーブランド「モーブッサン」が、先着5千人限定で0.1カラットのダイヤモンド(5千円相当)の無料配布を始めたためでした■最前列にいた会社員は前日の夜7時から並んでおり、無料配布開始直前には約1,500人が並び、開始後も人の列は延び続けたそうです。「無料でダイヤモンドがもらえる」という前代未聞のイベントに多くの人が反応したのです■この話を聞いて、私は何とも言えない違和感を覚えました。永遠の命という比類なき宝が無料で与えられているのに、どうして集会の前に行列ができないのか?■聖書の中に「この宝を土の器(私たち)の中に入れている」(Uコリ4:7)とあり、「そのつぼを割りイエスの頭に注いだ」(マコ14:3)後、「家は香油のかおりでいっぱいになった」(ヨハ12:3)と書かれている個所から、大切な指針を学ぶことができそうです■すなわちイエスに対する献身によって「土の器」が砕かれ、宝が周囲の人たちにも明らかにされるということです。「行列のできる集会形成」は、私たち一人一人の献身にかかっていると言っても過言ではないと思います。


    4

    担当:
     浜内康之兄

    所属:
     福岡県
     行橋キリスト集会


    「苦難の意味」

    『苦しみにあったことは私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』(詩編119:71)

    ■ヨブ記3章以降に見る、激しさを増していくヨブの苦しみは、苦しみそのものよりも、苦しみの原因が分からないゆえのものでした。彼は、自分には何らやましいことはないと言い得るほど、潔白な人生を生きてきたからです。ヨブの友人たちは、ヨブの罪が原因だと責めるのですが、ヨブにはどうしても納得できません。ヨブと友人たちは押し問答を繰り返しますが、平行線をたどるばかりで何の解決にもなりませんでした■最後に神が直接ヨブに現われ、ご自身の全知全能の力と偉大さを証しされたとき、ヨブは「ああ私はつまらない者です」と神の前に一切の自己主張を捨てて悔い改めました。ヨブは苦難を通して「あなたのうわさを耳で聞いていましたが、今はこの目であなたを見ました」と、知識ではなく体験的に神を知ることができたことを感謝しました■私たちも、より深く神を知るために与えられた特別なものとして苦難を受け取るなら、苦難もまた恵みとなるのです。


    3

    担当:
     林 道太兄

    所属:
     福岡県
     行橋キリスト集会


    「証人の列に」

    『地の果てにまで、わたしの証人となります。』(使徒1:8)

    主イエス様は天に戻られる直前の地上最後の教えで、私たち聖徒の立場を示されました。つまり「証人」ということです。聖書には様々な証人が記録されています■120年かけて箱船を造り家族を救った家長、失った子供が他国で立派になって晩年に平安を得た父親、海を二つに分けて多くの同胞を救う働きに与った指導者、手を取り合って信仰を固守した嫁と姑、実の子供から追われ泣きながら山を登った詩篇作者、敵国の民の命を軽んじたが大魚によって命を得た伝道者、「たといそうでなくても」と告白し火の迫害に立ち向かった若者たち、今日も守られると信じて神に全財産のレプタ銅貨二枚を捧げたやもめ、主の十字架を前にして議員の地位もユダヤ人指導者の地位も捨てて主を葬った二人、わずか数年の信仰生活ながら旧約聖書全体から主イエスを説いて石で打たれた殉教執事■主イエス様を信じて従った一人ひとりが証人でした。そしてあなたも私も、その証人の列に加えられているのです。


    2

    担当:
     吉井 元兄

    所属:
     福岡県
     城野キリスト集会


    「敬虔な歩み」

    『幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。』(詩篇1:1)

    ■神様に従った聖徒たちが人生で経験した様々なできごとを通して、心のままを正直に吐露して歌ったのが詩篇である。悲しみ・苦悩・喜び・賛美、いずれも真実な魂の叫びだ。冒頭に掲げたみことばは、その詩篇の最初のことばである■長い歴史の中で、数え切れぬほど多くの信仰者が味わい、人生経験の果てに導かれた結論、それがこの詩篇のことばとなって表現されたのではなかろうか。救いを受けて天の御国を受け継ぐことは何にも優る祝福ではあるが、信仰者の地上生涯の歩みもまた、豊かに祝福されたものでありたい■このみことばに続く3節には、『その人は、何をしても栄える』と記されている。聖霊は、この信仰者の歌を神のことばとして、詩篇の最初の章の中に置いてくださった。多くの信仰者が苦悩に満ちた人生の真っ只中においても、満ちあふれる恵みと祝福を味わうことができたのは、このみことばが示す「敬虔な歩み」の故であることを悟らせるために。


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    担当:
     福原秀憲兄

    所属:
     福岡県
     井尻キリスト集会


    「イエス・キリストの証人」

    『聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』(使徒1:8)

    ■イエスの逮捕と処刑を目の当たりにした弟子たちは、ユダヤ人を恐れて引きこもりました。しかし、よみがえられたイエスが彼らに現れ40日に亘ってご自分が生きておられることを示してくださり、さらに約束通り来られた聖霊の内住によって、弟子たちは死をも恐れぬ証し人と変えられたのでした■初代教会誕生時のあの激しい迫害のまっただ中にあっても、「人に従うより神に従うべきです」(使徒5:29)と弟子たちは大胆に語りました。その、キリストの証人としての使命は、地域や時代を越えて今世紀の日本に生きる私たちにまで届けられています。イエスは、私たちのような無きに等しい者たちをも、ご自身の証人としての務めに与らせてくださいました■いつの時代にあっても、福音宣教の困難さは信者の前に立ちはだかっていますが、集会の真理に導かれた私たちに渡されたイエスの証人としてのバトンを、みことばによる信仰の交わりの中で次の方へとバトンタッチできることを深く感謝いたします。「イエス・キリストの証人とされた私たち」が互いに交わりを保ち、主に栄光を帰すことができれば、これに勝る喜びはありません。


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